名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 133 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   1/6初聖日礼拝:「再生はあり得るのか?」 イザヤ40:1〜8
1/6初聖日礼拝:「再生はあり得るのか?」 イザヤ40:1〜8

☆お知らせ

●今年度の教会総会は、27日(第4聖日)礼拝に続いて行います。当日の礼拝は、通常より30分早く10時から始まります。

●インマヌエル松江教会から高津へ移っていらっしゃった田村兄は、宇都宮に引っ越されます。田村兄より短いご挨拶がありました。(***録音を忘れましたが***こちらへいらして半年でお父様にがんが見つかり、お父様のために祈って来られ、天に送られた今、救われたと信じているという、感動的な証しを感謝します。)

●娘さんと一緒に礼拝に出席されたGさんのご紹介がありました。Gさんは「歳を取りまして、仙台は寒いから」、春まで娘さんのところに滞在なさっている由。Gさんは(娘さんの方に尋ねられて、)世田谷のお住まいですね。「あの、二子玉川です」。はい、有難うございます。私のところは息子家族が仙台に転勤になりましたので、もう頭の中は高津と仙台しかない(大笑)。その天気だけは毎日チェックしている(笑)。よくおいでくださいました。

☆始めのお祈り

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
(この日の交読詩篇1篇より2〜3節)

恵み深い天の父なる神さま、新年初めての聖日、この詩篇をもって一年を始めることのできる恵みを心から感謝いたします。

私たちは松江の教会からお迎えしていた兄弟を宇都宮に送り出します。そして今日、新しく紹介することができた姉妹もいらっしゃいました。新しい環境、また新しい教会生活、さまざまな意味でストレスを抱え、難しさもあるに違いありません。
しかし、私たちが自分自身を水路のそばに植えている限り、必ず時が来ると実がなり、その葉は枯れない。あなたの祝福が約束されていることを覚えて心から感謝いたします。

私たちは弱い者です。肉体の弱さを抱え、また精神的な弱さを抱え、しかしあなたは病める者を憐れみ、祈る者を助けてくださる方です。
今日もこの日、病の床に伏せっていたり、また罹っておられる兄弟姉妹、あなたの御手を伸べて、その薬の効果が最大限に発揮され、この寒い時期悪い風邪から守られ、なおかつ、いかなる医学をもっても為し得ない、あなたの復活の力による癒しを、お一人お一人に与えてください。癒してください。助けてください。守ってください。そして力に満たしめて、早春を、春を迎えることができるようにあなたが助けてください。

寒い風が吹く宇都宮に田村兄が移って行かれますけれども、引っ越しその他でとても忙しく慌ただしい週だと思いますが、あなたがいつもともにいてくださり、兄弟の信仰を祝福してください。
お父様のことを少し証ししてくださいました。あなたは信仰を持てる者の家族を憐れんでくださいます。必死に家族の救いのために祈っている者の、その祈りに答えてくださいます。なかなかそれが目に見える形で現れない時もあるかもしれませんが、やがてその家族とお父さまが天の御国で再会されることを私たちは心から信じています。あなたはそのようにして、家族の救いのために祈っている者を憐れんでくださり、また家族の救いのことを忘れない私たちでありますように導いてください。

新しい年に入り、もうすぐ受験だというお一人お一人に届いてくださり、インフルエンザやノロウィルスやいろんなものから守ってくださり、持てるもののすべてを、いやそれ以上を出すことができるように、あなたが力を与えてくださり、受験生の家族を守ってくださらんことを、よろしくお願いいたします。

インドネシアに聖書同盟の関係で行って来られた下村姉、また妹さんを無事に戻してくださいましたことを感謝いたします。私たちの教会にそのようにして、世界に目の開かれている多くの兄弟姉妹を与えてくださる恵みを感謝いたします。それらの方々の証しを通して、私たちもまた世界が一つであり、またあなたが世界を愛しておられること、そして世界は病んでいることを覚えることができるように導いてください。

しばらくみことばに耳を傾けます。どうか、私たちの心を砕いてみことばに集中することができますようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆お知らせの追加

●教会のロビーのところに箱がありまして、森廣姉が書写してくださいました今年のみことば、それをしおりに渡辺兄姉が労苦をして作ってくださいました。200部用意してあります。失くしたら困るのでバックアップということで2枚も3枚も持って行かれるのはちょっと困ります(笑)。是非一人1枚にしていただいて、その1枚を大切にしていただきたいと思います。

●インターネットで田中姉がもう元旦の日に原稿を載せていただいていますので、元旦の日に出なくても、来られなかった方もいらっしゃいますでしょうし、(読むことができますが、)私ちょっと忙しくて先週できませんでしたが、来週には元旦礼拝の説教のCDを、皆さんに持っていっていただけるように用意したいと思っております。是非新年最初にいただいたみことばでありますから、心に留めていただきたいと思います。

☆聖書個所       イザヤ40:1〜8

1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と
  あなたがたの神は仰せられる。
2 「エルサレムに優しく語りかけよ。
  これに呼びかけよ。
  その労苦は終わり、その咎は償われた。
  そのすべての罪に引き替え、
  二倍のものを主の手から受けたと。」
3  荒野に呼ばわる者の声がする。
   「主の道を整えよ。
   荒地で、私たちの神のために、
   大路を平らにせよ。
4  すべての谷は埋め立てられ、
   すべての山や丘は低くなる。
   盛り上がった地は平地に、
   険しい地は平野となる。
5  このようにして、主の栄光が現されると、
  すべての者が共にこれを見る。
  主の御口が語られたからだ。」

6  「呼ばわれ」と言う者の声がする。
   私は、
   「何と呼ばわりましょう」と答えた。
    「すべての人は草、
   その栄光は、みな野の花のようだ。
7  主のいぶきがその上に吹くと、
   草は枯れ、花はしぼむ。
   まことに、民は草だ。
8  草は枯れ、花はしぼむ。
   だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

☆説教     再生はあり得るのか?

今日はイザヤ書から引きました。最終的には私なりに今年考えている課題がありまして、また新年のみことばに従いまして少しお話しますので、しばらくお聞きいただきたいと思います。

昨日壮年会のメールがありました。壮年会はメーリング・リストがありますが、姫路教会の小島先生が発信してくださっていまして、小島先生はクリスマス・イブのキャンドルサービスに来られて、久しぶりに高津教会一信徒として恵みを受けたということで、元旦礼拝の前にNHK朝七時のニュースを見た。そうしたら、糸井羊司兄がニュースを読まれて、そしてとっても爽やかで気持ちよく元旦礼拝に臨むことができたというメールだったのです。

私は糸井君に今日、「ニュースで何を言ったの?」(大笑)と訊きますと、普通のニュースですから、最初の何か五分は原稿が無かったので、適当に話してくれと言われたからいろいろ話したと言っていましたけれども。

まぁ不思議なものですね。ニュースの中身は普通だと思うのです。だけど、自分がよく知っている信仰の友が、テレビの画面に出ている、そのニュースを読んでいるアナウンサーだったということで、とっても清々しい元旦を迎えられたと。

これはまぁ、ひとつ、小島先生からのメッセージで、今日から始まります大河ドラマの「八重の桜」ですけれども、あれは日本で牧師夫人の第一号である、新島襄の奥さん、新島八重の話ですよね。それで、小島先生にとりましては、北大時代の剣道部の一年先輩の山本むつみさんが、あの脚本を書いているとか。それですごくこだわって、皆さんにもみてほしいということでありました。

私は今、八重さんの本を何冊か読んでいまして、いずれ礼拝の中で新島八重のことを紹介しながら、いろんな当時のキリスト教会のことを話に入れて説教を立ててみたいと思っています。

元旦に、もう一つメールをいただきました。いわきの金成(かなり)先生から。それは、クリスマスのバロック・スコラーズのコンサートのチャリティー募金が15万円となり、それをお送りしますという連絡への返事として、メールをいただきました。とてもいいメールで考えさせられましたので、長くなりますけどゆっくり読みますので、ちょっと聞いてください。まぁ、みなさんも解っていることだとは思いますが――

被災地いわきの支援状況は、「収束に向かって」とか「自立のための」という状況にならずにいます。いわき市への原発事故避難者の流入は後を絶たず、いわき市民にとっては「よそ者」が4万人を超えようとしています。

仮設住宅避難者も、借上げ住宅避難者も、国と東電とそれぞれの地方自治体からの、「補償」「復興イメージ」がいまだに明確に提示されず、焦りといらだちと怒りとあきらめと無気力感が蔓延しています。

仮設・借上げの被災者だけでなく、それらを迎えるいわき市民も、自分たちも被災しており、同じように原発事故による汚染とそれに伴う様々な弊害を受けていますが、その事に対しては手つかずの状態で、その中に他の町の避難者が流れ込んで、いわき市民とそれらの避難者との間に軋轢が増しています。

このような状況の中で、けれども確実に各支援団体・ボランティア団体などが撤退・縮小しつつあって、いわきではますます「取り残され、忘れ去られていく」ような寂しさを覚えています。

2013年は、イエス様は、このいわき市をどうなさるおつもりなのだろうか?
このいわきで私は何ができるでしょうか?
イエス様は、私に何を期待しておられるでしょうか?
そんなことを元旦にあたり祈っています。

もちろんメールの中には、窪倉兄姉が、また小柳姉や高津教会の皆さんが、応援に行ったという話もいろいろ出て来ますが、たしかに、確実に見えない、そして確実にボランティアの支援の撤退が始まって行く。その中で、彼の表現では、焦り、いらだち、怒り、諦め、無力感――私はよく表現してくれたと思います――が蔓延していく。

今朝、私は具体的に復興の対策を考える、そのことを話す資格もありません。もちろん、今年もできる限り、高津教会としての支援を続けたいという決意は、私たちも新たにしたいと思いますが。

今朝、開いていただいた聖書の箇所は、しばらく昨年秋の祈祷会からずーっと学んで来たイザヤ書40章からであります。
(旧約聖書)イザヤ書40章からのテーマというのは、実は一つしかなくて、それは「復興」です。
これを、社会全体の問題だけでなく、私の人生の課題として、聖書から改めて考えてみたいと思いまして、祈祷会で学んできました。
ですから礼拝の交読個所はここしばらく、詩篇ではなくてイザヤ書になっていたはずです。

被災地の町々を見ても、また原発問題の難しさを考えてみても、そして私たちの人生に降りかかる痛々しい出来事を思い巡らしてみても、いつも人生にはついて回る質問があります。――それは、復興はあり得るのか?ということです。

ヨブ記に有名な問いかけがあります。
「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」(ヨブ14:14)
その前に、ヨブはこんなことを言っていますね。
「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。……しかし、人間は死ぬと倒れたきりだ。」(同14:7〜10)
                
すると、木の方が望みが大きいのではないかと。
私は、このヨブの問いかけというのは、必ずしも人の復活を問うているのではないと思います。
ヨブが問うているのは、自分ほどのダメージを受けた人生というのは、果たして復興していくのだろうかという問いかけです。

犯罪被害者となり、私たち全体が被害者となり、自分は病で打たれるという、人生によくありはしないかもしれない、でもだれもが通りかかるところのさまざまな痛々しい出来事を通過した後、そしてこれでもかというほど打ちのめされてしまった人生に、果たして再出発などということはあるのだろうか?
果たして私は、彼らは、町は、立ち上がれるのだろうか。――このテーマ、つまり再生、復興というのが、イザヤ書の最大のテーマです。

以前、大江健三郎さんが、ご自分の文学のテーマについて話したことを聞いたことがあります。大江健三郎さんはそれ以降、何度も自分の文学のテーマについて話しておられますけれども、ひとことで言いますと、
「原水爆のような恐ろしいものの後に、再生があり得るのかどうか、それが私の文学のテーマです」と。
そしてスタンスが少し変わったでしょうね。原発事故やあるいはあれほどの災害の後に、果たして再生があり得るかどうか――これは実は日本社会全体のテーマです。

イザヤは同じことを考えているわけです。
イスラエルの民が、預言者の警告にもかかわらず、罪を犯し続け、最後はアッシリヤ帝国によって、次にはバビロニア帝国によって滅ぼされ、北の(イスラエルは)アッシリア(によって)無くなってしまいます。南のユダはバビロンに捕囚に捕られて70年が経過する。

彼らは、多くの同胞が悲惨な死を遂げることを目の当たりにして来るのですね。
捕囚に引かれていく途中で死んでしまった家族を後にして、離れて行く訳です。
そして捕囚の地では、その借り住まいにエルサレムからニュースが届きます。
神殿は壊され、あの町の一帯は全部焼かれた。城壁は壊された。そして、他の国民が今や私たちの町や村に住みついている。

そういうニュースが次から次に届く中、金成先生ではないですが、70年間彼らは、焦り、いらだち、怒り、諦め、無力感が染み付いて行く、そういう世界でイザヤは語るのです。
民族の再生はあり得るのか?エルサレムの復興というのは、果たしてダビデの王国の復興というのは、あり得るのだろうか?ということを、イザヤは問い続ける。

40章を見ていただきましたが、そのイザヤ書にとって、よく出て来ることば――それは「荒野」です。
ちょっと3節を見てください。3節は大切な節ですので、一緒に読んでみたいと思います。

3 荒野に呼ばわる者の声がする。
  「主の道を整えよ。
   荒地で、私たちの神のために、
   大路を平らにせよ。

「荒野」ということばが出て来ますでしょう。それから「荒地」ということばが出て来ますでしょう。
ページをめくっていただいて、41章の18節、ここにもいくつかあるのですが――

18 わたしは、裸の丘に川を開き、
    平地に泉をわかせる。
    荒野を水のある沢とし、
    砂漠の地を水の源とする。
19 わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、
    ミルトス、オリーブの木を植え、

「裸の丘」「荒野」「砂漠の地」――こういうことばが、延々と出て来ます。
つまりイザヤもイスラエルの民も、自分たちは荒野に立っている。裸の丘に暮らしている。あるいはこれから、70年の捕囚を終えてそこに帰らなければいけない自分たちはいったい何者なのだろうかということを考え始めるのです。

順番はこうですね。
@自分たちは荒野に立っているという状況を先ず把握しますよね。
Aその状況の中に置かれている自分たちはいったい何者なのかと、次にそれを考えますよね――荒野を行く自分はたくましいのか、再生の力がまだ自分の内側に残っているのか。  

イザヤ書は明確な答えを出して来ます。それがちょっと前後しますが、40章の6節を見ていただきますと、明確にこの答えが出て来るわけです。40章の6節に――

6 「呼ばわれ」という者の声がする。
  私は、
  「何と呼ばわりましょう」と答えた。
  「すべての人は草、
  その栄光は、みな野の花のようだ。
  主のいぶきがその上に吹くと、
  草は枯れ、花はしぼむ。
  まことに、民は草だ。」

つまり、荒野に、裸の丘に立たなきゃいけない自分という者は、何のたくましさも備えていない。すべての人はみな野の草のようだ。草は枯れ、花はしぼむ。

すると、ちょっと順番で言いますと、3番目に、
B野の草のような私たちの心を圧倒するのは諦めです。それがたとえば40章の27節にこういう風に出てくる。独特な諦め方をする。お読みします。
    
40:27  ヤコブよ。なぜ言うのか。
      イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
      「私の道は主に隠れ、
      私の正しい訴えは、
      私の神に見過ごしにされている」と。

神さまは私を振り返らない。顧みない。私は神さまから見放されているという、こういう信仰的な諦めが、実は私たちクリスチャンの心の中にも入ってくるのです。
つまりそれは責められることではなくて、私たちは現実的に、野の草のよう、野の花のようであれば、それは簡単にしぼむのです。簡単に枯れてしまう。
そして、やりきれない沈滞ムードが私たちを覆う。その『あきらめ』という心の砂漠が、じわーっと私たちの中に、教会の中に、民全体に、社会に浸透していく。いつの間にか、その諦めに呑み込まれていくのです。

よく考えてみますと、自分の前に課題がある。例えば病気が治らないとか、仕事の先が見えて来ないとか、自分の将来像が全く見えて来ない、という状況に立ちますと、途端に考えますのは、状況のことではない、自分の事を考えます。
自分はできない。自分には力が無い。自分はむなしい。あの人と比べて自分はこんなに劣っている、と自分を考える。そしてしばらくしますと、自分に諦める。
やがて神の愛にも諦めをつけるのです。そうすると、周りの砂漠が今度は心の中に広がって行くのです。

そういう中で、今日は3節の「荒野に呼ばわる者の声がする」――この呼ばわる者の声を聴きに、私たちは礼拝の場に来るのです。
それで、2点、一緒に見ていただきたいと思います。

1)その声は、思いのほか、優しく慰めに満ちていた

(イザヤ40章の)1節をご覧ください。

1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と
  あなたがたの神は仰せられる。
2 「エルサレムに優しく語りかけよ。

じ〜んわりと絶望が染みわたっている世界で、神さまの語りかけは決して叱咤激励するものではなく、裁くものでもなかった。優しく慰めに満ちていた。

皆さん、震災の後にキリスト教会で大問題になった事がありました。それは海外から怪しげな宣教団体がやって来て、そして一生懸命に日本の教会を回るのですね。
「証しさせてほしい」と言って、断る人はいませんから、教会の礼拝の終わった後に、皆さんの前で証しをすると、なんとその証しは「日本を襲った震災は、大変な神の裁きで、罪深い日本人に対する神の裁きだ」(というもの)。

一番迷惑をしたのは、被災地にある教会であったと言われています。私たちの教会には来ませんでした。相手にもされていないのかなと(大笑)、来るなら来いよ(笑)とそういう思いでいましたけれども、最後まで来ませんでした。とんでもない輩だと思いました。

それはいいとして、それから一年して、またキリスト教会全体で問題になったことがあったのですね。それは、被災を伝道の機会として捉えて、伝道していいのかどうか。
もちろん、仮設住宅を回りながら伝道するというのは、全くあちらの方も受け付けません。
私たちの金成先生を通した支援というのは、震災を伝道の機会とはしないと(いうものでした)。ものの言い方は悪いですけれども、震災につけこんで伝道するということはしない――私はその金成先生の姿勢にとても共感しています。

(これは別に)キリスト教だけの問題ではないです。
被災地支援の名の下に布教をするという様々な宗教団体がいて、そのことはいったいどうなのだろうか、という疑問が新聞の中でも取り上げられて来ました。
もちろん人は誰でも、自分をはるかに越えた大きな力に打たれたり、問題課題に圧倒されるときに、神を求めます。霊的なことに飢え渇きます。 

ですから、こうしたことが伝道の機会になることは事実です。
事実、規模は小さくても個人的に言えば、病気で打たれたとき、仕事が失敗したとき、試練で圧倒されるとき、それは霊的に渇く機会となります。
ですからそんなときに、ともに祈り、聖書のみことばを開き、伝道するというのは当然のことです。
でも、ここぞとばかり、伝道意欲をぎらぎらさせて、病室に乗り込んで行くということは、私たちは絶対にしないです。そんな失礼なことは。

仙台で昨年、大きな大会がありました。
アメリカが主導で、あの大会で東北の教会が二つに割れました。
片や、仮設住宅から沢山のバスをチャーターして、人々を会場に連れて来て、そして最初は賛美やいろんなことで楽しませて、最後にアメリカの方が説教をされて、そして(イエスさまを受け入れる決心への)招きをされたのです。

そして本国に対しては、これだけ祝されて、被災された土地でこれだけの決心者が与えられたという報告が、もうHPに次の日には載って行くのです。
それは何か伝道の機会に利用されたという印象で、東北の諸教会は、あの伝道大会に賛成する教会と反対する教会に割れました。私は反対する側です。

被災地の牧師たちは身を低くして、どんなにか優しく慰めのことばを語ろうか努力している。決して上からの目線で、神の福音を語ることはしない。
それは、荒れ地で、裸の丘で、疲れ切って、もう諦めと絶望で、心の底まで染みわたっているような世界で、やれ私たちの罪だとか、やれ私たちの祈りだとか、そういう問題ではないだろうと思います。
一番必要なものを、一番低い姿勢で、しもべとなって届けるべきではないだろうかと。

イエスさまがもしおられたら、共に座って共に涙してくださるお方でしょう。じっと私たちの嘆きに耳を傾けてくださる、優しいキリストが立っておられるはずですね。
その方は、2節でこんなことをおっしゃいます――あなたの労苦は償われる。贖われる、償われている。そして、あなたは祝福される――今の現状からは想像もできないような、夢物語のような希望を語ってくださるのです。
私たちは絶望がにじんでいるのですから、心を閉ざしています。慰めを拒むほど、苦しいのです。

そこに大々的な伝道集会を一度企画されても、そこは動かないです。
金成先生は最近教会の方々から、「先生、あまり支援ばかりしないで(笑)、もう少し教会のことをしてください」と言われるようになったと、そんなことをうちに来ておっしゃっておられましたね。身体は一つしかありませんからね。でも金成先生は本当に頑張っておられます。

ひたすら主の慰めと主の優しさを携えて、山本さんのところ(デ―・サービス経営)からは、マッサージ・チームが行くし、小柳さんの賛美は会場に響くし――(高津教会の思いを、主が小さな奉仕の出来事の中で、被災地の方々へ届けて慰めを与えてくださいますように祈っています、ということでしょうか?T・Y)

まず第一番目に心を留めていただきたかったのは、荒野に呼ばわる者の声は優しいということ。


2)でも、どんなに優しくても、それは確かに「呼ばわる声」です。
 
皆さん、年末の選挙を見ましたでしょう。民主党が大敗していく訳ですけれども、寒い中街頭に立って、なんか雪柱のように(笑)樹氷のように立って演説をしている姿とか、見たわけじゃないですか。高津駅前でも、今日は何時に何々議員がやって来ますとか、だからと言って、ひとりとして集まる人はいませんでした。みんな、こんなところでうるさい(笑)という顔をしてすりぬけて行く訳です。
改めてああいうニュースを見ていると、正直、名前だけ連呼されても、うるさいとしか、思えないですよ。でも、名前の連呼ぐらいしか方策がなかったということも事実だろうな、議員の方々も大変だったのだろうなと思いますが――。

イザヤを通して神さまが語られた呼ばわる声というのは、実に興味深い。ちょっと3節をもう一回みて見たいと思います。

3 「主の道を整えよ。
  荒れ地で、私たちの神のために、
  大路を平らにせよ。

と始まるのです。〜せよと始まるのです。これって、神さまを迎えるために必死の努力を重ねることなのか、私たちの人生を襲った嵐から立ち直るために、必死で自分たちで復興していくのか。

いや、そうじゃないということが、4節から解ります。ちょっと読んで行きます。

4 すべての谷は埋め立てられ、 
   すべての山や丘は低くなる。
     盛り上がった地は平地に、
   険しい地は平野となる。
5  このようにして、主の栄光が現されると、

というのは、全部神さまがなさる。「主の道を整えよ」と始まるのですけれども、実際平らにするのも、低くするのも、平野にするのも、神さまご自身がなさる。
例えば10節を見てください。

10 見よ。神である主は力をもって来られ、
   その御腕で統べ治める。

やって来られるのは神さまで、この方が群れを導くのですが、41章の4節

41:4  だれが、これを成し遂げたのか。
      初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
      わたし、主こそ初めであり、
      また終わりとともにある。わたしがそれだ。

「だれが、これを成し遂げたのか」というのは――その荒れ地を平らにする、だれがこれをするのか――わたし(主であると言われる神さま)だと(いうのです)。

さらに決定的です。15節から20節までもう一気に交読をしてみます。だれがするのかというのが明確ですので、ちょっと長いですが、交読します。41章。

15 見よ。わたしはあなたを
   鋭い、新しいもろ刃の脱穀機とする。
   あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。  
   丘をもみがらのようにする。
16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、
   暴風がそれをまき散らす。
   あなたは主によって喜び、
   イスラエルの聖なる者によって誇る。

17 悩んでいる者や貧しい者が水を求めても、
   水はなく、
   その舌は渇きで干からびるが、
   わたし、主は、彼らに答え、
   イスラエルの神は、彼らを見捨てない。
18 わたしは、裸の丘に川を開き、
   平地に泉をわかせる。
   荒野を水のある沢とし、
   砂漠の地を水の源とする。
19 わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、
   ミルトス、オリーブの木を植え、
   荒地にもみの木、
  すずかけ、檜も共に植える。
20 主の手がこのことをし、
   イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、
   彼らが見て知り、
   心に留めて、共に悟るためである。

20節に出て来ます「主の手がこのことをし」――何をするのか?18節「裸の丘に川を開く、荒野を水のある沢とする。砂漠の地を水の源とする」そして(19節)「荒野の中に杉や、ミルトスやオリーブの木を植える」――全〜部主の手がこれをするのです。

すると、「主の道を整えよ」(イザヤ40:3)というのは、どういう意味なのか?
それは『信仰』ですよ。
わたしを信頼しなさい。わたしがやってくる。わたしを信頼しなさいと、「呼ばわる者の声」(同40:3)は、ひたすらこの方を信じるように、この方が初めであり終わりであり、創造者であり、完結者であり、そしてこの方の真実には誤りが無い、ということをあなたは信じ続けなさいと呼ばわり続けている。

それがイザヤ書で、イザヤは砂漠の原に座る者を励ましているのではない。イザヤは砂漠の原に座る者の『信仰』を励ましている。  
神は必ず、荒野に泉の川を開いてくださるから、この神さまに信頼を持つときに、この神以外に再生の望みはない、という信仰をどこまでも捨てないようにと。

宗教改革者のカルヴァンは、信仰は、feeling(***感覚・気分・感情などの意味)ではなくして、信仰というのは決意(decision to trust)だと言いました。つまり、信仰というのは、信頼することを決意することだと。
どういうことか?
見えるところは一面荒野でも、自分自身は野の草のような存在であったとしても、自分は実際しぼんでしまって、無気力に沈むような者だったとしても、再生してくださるのは神さまだ。力を与えて、私を「新しい(もろ刃の)脱穀機」(同41:15)としてくださるというこの神さまの約束を、どこまでも信頼すると決断する、(それが信仰)ということです。

元旦礼拝では、ダニエルは「心を定めた」を、一緒に学びました。
自分の哀れさと、情けなさと、虚しさに沈んでいくのではなく、とこしえに立つ神のことばを信じ、その上に自分の生涯を立てるのだということを心に定めること、それが信仰だと。

どんな荒野でも、どんな荒れ地でも、そこに川を開き、木々を植えてくださる神さまに、とことん信頼することを決めた。私はそうしようと決める(それがカルヴァンの言うところの、信仰というのは決意decision to trustということ)。

最近、気に入った本がありますので、それを紹介してもう終わりにします。
カナダの神学者で、私も時々引用しますが、ユージン・ピーターソンという人物がいます。最近本を出して、内容もさることながら、私は本のタイトルが好きなんです。

タイトルは“A Long Obedience in the Same Direction”同じ方向へ長〜く従って行け――信仰生涯というのは、どこまでも同じ方向を、根気よく、忍耐をもって、ずーっとイエスさまだけを信頼してついていく、というタイトルなのです。

私たちがそうなのですけれども、彼が言っていることは、私たち誰もが感じていることで、今の時代、興味や関心は長続きしない。
しょっちゅう、コンテンツを入れ替え、新鮮味を出す。お客を飽きさせることなく引きつける。それがいつも問われています。ほんとに問われます。

お茶ノ水の本部の隣に、○○という山崎パンのレストランがあるのですが、月曜日から土曜日まで毎週ランチ(メニュー)が変わるのです。でも私は火曜日しか行かないのですから(笑)。なるべくもうちょっと変えて、飽きちゃう(大笑)と言わざるを得ない。お店は毎日変えているのですよ。でも私は火曜日しか行かないのです(笑)。そんな世界に住んでいる。
  
教会に行きますとね、毎週同じ形態の礼拝で、そして時には音楽礼拝があったり、子ども礼拝があったり、クリスマス礼拝があったり、でも概ね同じです。
コンテンツを変えろって言われても、確かにキリスト教の中にもいろんな流れもあり、ブームもあり、また気づきもあります。
もちろん私にとっても、いま信仰的にはこれがマイブームです、というのがあって然りですね。なくなってしまったら、信仰の成長もありませんから。

でも、ピーターソンが言うのは、信仰というのは、同じ方向、それは神のみに信頼するという同じ信仰を、とことんやり抜く(ということ)。
荒地に川を開き、再生を可能にしてくださる神さまをとことん信頼すると決めて、人生同じ方向に向かって歩いて行くことだ。
時に忍耐は必要であり、我慢強く、地道に、しかし力強く、自分を訓練しながらその方向に従って行くことだ――これこそがホーリネスだ。これこそがきよめだと、ピーターソンは言います。
そういう年でありたいなぁと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、私たちはこれまでに、同じ方向に向かって長い間歩んでまいりました。その恵みを心から感謝いたします。
これまでも様々な試練や、問題課題があっても、信仰を捨てることはありませんでした。
ですから改めて決意いたします。自分には復興も再生もない。でもあなたにはある。

あなたは私を新しい脱穀機(イザヤ1:15)としてくださり、あなたは荒れ地に川を開いてくださり(同41:18)、あなたは私の人生に様々な木々を植えて(同41:19)くださり、豊かにしてくださる。

だれがそれを成したかを、諸国の民が知るように、だれがそれを成したかを、よく考えて見よ。まさにあなたであり(同41:20)、ですから単に状況によって流されるのではなく、どこまでもあなたに信頼してついて行くような信仰者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2013.01.07 - 20:00
LAST UPDATE: 2013.01.08 - 10:00

175.133.12.55 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; Trident/5.0; SLCC1; .NET CLR 2.0.50727; InfoPath.2; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; .NET4.0C; OfficeLiveConnector.1.5; OfficeLivePatch.1.3; BRI/2; BOIE9;JAJP)

Name   E-Mail   Password

 前文 1/20 あるものとないもの 使徒3:1〜1...
 次文 説教音声ファイルがダウンロードできます
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
394Simple view *^^*2/24神の人モーセ(32)契約の血 出... T・Y 2013.02.26 9452
393Simple view *^^*2/17 選ばれた人生を行く 創世記13:... T・Y 2013.02.18 7443
392Simple view *^^*2/3転会式と説教:神の人モーセ(31)... T・Y 2013.02.04 7390
391Simple view *^^*1/27教会総会聖日:「へりくだった主に... T・Y 2013.01.28 9531
390evergreen.pdf [1.2 MB] ダウンロードSimple view *^^* エバーグリーン・子どもゴスペルコンサ... [371] T・Y 2013.01.28 43499
389Simple view *^^*1/20 あるものとないもの 使徒3:1〜1... [1] T・Y 2013.01.21 6660
388現在参照中の文章です...1/6初聖日礼拝:「再生はあり得るのか?... T・Y 2013.01.07 787
387Simple view *^^*説教音声ファイルがダウンロードできます 牧師 2013.01.03 5758
386Simple view *^^*1/1元旦礼拝・聖さん式:「初めの日から... [1] T・Y 2013.01.03 13915
385関東新年聖会.jpg [663 KB] ダウンロードSimple view *^^*関東新年聖会のお知らせ T・Y 2013.01.02 7355
384Simple view *^^*12/30 年末礼拝:「救いを腕に抱き」... T・Y 2013.01.01 5382
383Simple view *^^*キャンドル・サービスの説教:「救い主は... T・Y 2012.12.25 5754
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前の頁はありません 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*