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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/20 あるものとないもの 使徒3:1〜10
1/20 あるものとないもの 使徒3:1〜10

☆お知らせ

●来週の日曜日は教会総会です。その関係でいつもより30分繰り上げて10時から始まります。だいたい11時半ごろには終わって、少し休んで総会を始めたいと思います。私たちの教会は宗教法人ですので、一年に一回開くことが義務付けられています。様々な会計報告もなされますし、教会員でありますと一応出席義務がありますので、委任状が用意してあります。来週出席可能でない方は委任状を提出してください。
また私たちの教会員ではなくても教会総会に是非ご出席ください。出席される事によって、私たちの教会の普段目に見えないところが見えてくると思いますし、いろんな方針や今年の計画も話し合われますので、ぜひ出席いただきたいと思います。
なお当日の教会学校はお休みとなります。

●教団の四献金に是非参加してください。教団には、国内宣証献金、世界宣教献金、神学院サポート献金、厚生資金献金(があります)。これは直接教団の局に捧げられる献金ですので、是非こうした献金にもお加わりいただき、宣教師を支え、神学校を支え、また国内の地方の教会を支えていただきたいと思います。

●エバーグリーン・クワイアーのコンサートが、2/17日曜日の午後に開かれます。
こういう感じですね。――キリスト教の保育園がゴスペルを始めた。それがとっても豊かに祝福され、やがて保育園の卒業生たちも加わり、キリスト教の保育園ですけれども今では上は小学校の高学年、下は幼稚園までゴスペル・クワイアーをいろんな所で公演しています。一度高津でもさせていただきたいと、小柳姉と一緒に福島のボランティアのコンサートをなさいました伊藤兄という方がいらっしゃるのですが、その方が話を持って来てくださいました。
来週の週報にはチラシとチケットを挟みます。当日は入場料は500円になりますけれども、子どもたちのゴスペルはちょっと珍しいので、是非お残りいただきたいと思います。

●昨日今日とセンター試験ですね。受験シーズンがいよいよ始まりましたので、おひとりおひとり、またそれぞれのご家庭のために祈っております。

●私(藤本満牧師)は先々週の土曜日に電子書籍を出版しました。「乱気流を飛ぶ:旧約聖書ダニエル」の講解13篇なのですが、アマゾンで500円ですぐに買えます。
ただ、電子書籍ですので端末がないと見られない。紙の本ではないですし、パソコンでも無理です。でもスマートフォンですとかタブレット端末という板のようなものですね、それですと、自由に読むことができますので、ぜひ読んでみてください。
とっても今の時代、キリスト者に、特に青年にはいいと思います。読みやすいと思いますので、よろしくお願いいたします。その時、iPadやその他の端末をどういう風に見るかは、またご自分で調べたりしていただきたいと思います。

☆始めのお祈り

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
(この日の交読個所イザヤ43章18〜25節より18〜19節と21節)

恵み深い天の父なる神さま、早いもので元旦を迎え、そしてもう1月の後半に踏み出そうとしています。あなたがこの聖日を祝福してくださり、特別に今日私たちの教会家族で、センター試験に臨んでいます兄弟姉妹に力を与えて上げてください。
午前中一生懸命頭を使い、集中して取り組んでおられる事でしょうが、忘れていたことがあれば思い出し、考えられないことがありましたならば、あなたがヒントを与え、ベストを尽くして帰って来ることができるよう、あなたが励ましてください。

いよいよ中学受験から大学受験に至るまで受験が始まって行きますが、お一人お一人の健康を守ってくださり、また同時に家族の健康を支えてくださり、皆が乗り切ることができるように励ましてください。特別にあなたに信頼する信仰の力を授けてください。
寒い時期であり、どうか、一人ひとりの健康を、特別にご高齢の方々や小さな子どもたちの健康をお守りください。

私たちの教会も、2013年教会総会を越えて新しい歩みをしようとしていますが、今年の教会の歩みをあなたが祝福してください。今日初めていらっしゃった方にも、また久しぶりにいらっしゃった方にも、遠くの方にも近くの方にも、同じ恵みがありますように。また特別にお仕事の関係で今日いらっしゃることのできない方がおられましたら、一週間礼拝を守った私たちと同じように祝福を与えてください。

ひとたび心をみことばに傾けて、あなたの声を聴きたいと願っています。どうか私たちの鈍き硬い心を砕いてくださり、あなたのメッセージを一人ひとりがすっと吸い取ることができるよう、これからのひとときを祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖書個所        使徒の働き3:1〜10      (新改訳第3版)

1ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
4ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
5男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
6すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
7彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
9人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
10そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

☆説教      あるものとないもの

今日は使徒の働きの3章ですね。開いていただきました。ちょっとご覧いただいて、こういう風に始まるというところを見ていただきたいと思います。
1節にペテロとヨハネはイエスの弟子です。「午後3時の祈りの時間に宮に」というのは、当時のユダヤ教の神殿ですが、上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。(***そのあと、7節「立たせた」まで読んでいかれる。)

先週の日曜日はザークル先生をお招き致しましたので、説教を一回お休みいたしました。元旦の1月1日から一応一つの方向性をもって、説教を語って来たつもりです。(***ということから、先ずは元旦にさかのぼって、2回分の説教要旨を説明して思い出させてくださる。)

元旦は、ダニエル書から学びました。
ダニエルという人物は、自分の信仰や価値観を全く理解してないバビロンという国に    あって、彼は神を恐れ信頼することを、青年時代 に心に定めました。
それから先の彼の人生は、まさに波瀾万丈で、神によって与えられた賜物故に、人にねたまれたり、あるいは罠にかけられることもありました。
勇敢なダニエルでも、気落ちして、顔の輝きがなくなってしまうこともありました。
          
でもそんな時に、主イエス・キリストは、彼に触れてくださりおっしゃいます。「神に愛されている人、ダニエルよ。あなたの祈りは、あなたが心を定めて神を恐れ、神に従おうとした、その初めの日から聞かれている」と。
そういう「初めの日」というのを私たちは誰でも持っているものです。また新たにその「初めの日」を持つことがあります。
初めて教会の門をくぐった日。初めて自分の罪を自覚した日。初めてキリストの御名において神に祈った日。
初めの日に、神を恐れ、神の御声に耳を傾けようと心に定める人を、神はず〜っと愛してくださるというお話をしました。

それを超えて(新年の)第一の聖日には、イザヤ書の復興のメッセージに触れました。
人の目には、バビロン捕囚で70年を費やしたイスラエルに、復興の可能性はありませんでした。
それは、私たちがみなこの年体験する人生の荒野でも同じだろうと思います。
私たちの目に、恐らく辛い、厳しい出来事だと思えるような出来事が待っています。

でもそこには、荒野であっても「呼ばわる声」がする。必ず「神の声」があります。
それは励ましと優しさに富んだ神の声で、その声に耳を傾けることに心を定めようというお話をしました。

見えるところは一面荒野でも、人間的な疑いと無気力の中に沈み込むのではなく、荒野に必ず川を設けてくださるとおっしゃる神さまの声に、自分の人生の土台を置くことを心に定めよう、それが信仰というものだということをお話しました。
どんな荒野でも、どんな荒れ地でも、そこに必ず川を開いてくださり、木々を植えてくださる神さまに、とことん信頼する。

私は、今年、高津教会は一人ひとりの信仰を深めることが求められているように思っています。
教会が教会である以上、独りよがりの信仰は歪んでしまいます。
自分の体験、自分の信仰のとらえ方、それ以上に、聖書のことば、教会の理解、時に教会の伝統にしっかりと理解を深めていく必要があります。

個人的な信仰体験に比重をかけますと、教会がある特定の人物の信仰に振り回されてしまいます。
私は私なりの信仰の捉え方がありますし、高津教会あるいはインマヌエルという教会は、それはある人物によって育てられていきます。
でもそういう人物の考え方、信仰の捉え方だけに比重を傾けますと、教会はその人物に振り回されてしまいます。

そのような問題意識もあって、私はここ5年、7年、高津教会の目標を「礼拝への集中」として来ました――共に賛美し、共に祈り、共に告白し、共にみことばに聞く。
そういう中で、もちろん私も皆さんも、インマヌエルも、あるいは高津教会も個性を持っています。
でも共に礼拝を守り、礼拝に集中するということで、いつも公同の教会――世界に本当は一つしかないキリストの教会全体を指しますけれども――そういう公同の教会の考え方、理解に自分たちをなじませるという努力をして来たつもりです。

しかし今年は、それらを大切にしながらも、今ひとたび、個人の信仰経験を掘りさげることを共に意識したいと願っています。
私たち誰にとっても、自らの信仰を新たにするような「初めの日」がありますし、自分自身で心に定めたことがありますでしょう。
それはおそらく礼拝だけではカバーできない。私たちが日々みことばに親しみ、日々信仰の書物を読むということもまた求められています。

玄関のロビーのところに、「新しい朝に」という分厚い365日のディボーションの本が出ています。既にお持ちの方もおられますし、まだそういう書物を読んだことがないという方、いらっしゃいましたならば、10冊ほど用意してありますので、是非お買いお求めください。

私は「乱気流を飛ぶ」ということを電子書籍で出版しました。今年一月で、日々のディボーションの「エマオの道で」を電子書籍にしようと進めています。なかなか分厚い本を忙しい中、読むのは難しいです。ちょっとスマートフォンは小さすぎるかなと思いますが、でも通勤の途中で、今日に必要なみことばをさっと開くことができたなら、それがどれほど便利かと思います。

様々なタブレット端末と言われているものが、1万円台に値段が下がって来ました。皆さんすごい便利ですよ。字の大きさは自分で変えられるし、アンダーラインが引けるし、メモもつけることができるし、途中まで読んだところを、違うスマートフォンで開いたら、そのまんま途中から読んだところから開けますし、是非新しい書籍の媒体にチャレンジしたいと思います。
 
そして今朝は、そういう話の流れの延長で、使徒の働きの3章を開いていただきました。もう一回ちょっと説明します。【***ごめんなさい、あのインフルエンザとかひどい流感ではないのですが、(先週の)雪かきで鼻がやられた(大笑)。そんなに雪かきしてないのですが(大笑)……】

エルサレムの神殿には、いくつもの門がありましたが、その一つ「美しの門」での出来事です。とっても美しいから「美しの門」なのですが、今残っていません。 
当時の歴史家が伝えるには、神殿の東側に位置していた青銅の門で、高さ23メートル、扉だけでも18メートルあった、6階建てぐらいの高さ、その美しい門に一人の乞食が座っていた。生まれながらに足が不自由で、とっても粗末な身分でした。

今でもそうですが、世界中、人の多く集まる有名な場所には、物乞いの人々も集まります。
この男性は、来る日も来る日も、2節にあるように運ばれて来ました。他の人が暇なときに、お願いして運んでもらう。人の同情だけを頼りにして生きて来た。

ある日、そこにペテロとヨハネが通ります。
なにげに(***実際という意味でしょうか?)彼は、二人に施しを求めます。
すると、4節、ペテロとヨハネは、共にこの男性を見つめて言います。「私たちを見なさい。」
そんなことを言っているのは、聖書の中でここだけです。
他にこのような表現が存在するとすれば、イエスさまの口から発せられる(***ヨハネ20:19〜31)。
相手をじっと見つめ、自分に視線を向けさせる。
なんと、7節を見ますと、ペテロはイエスさまのように、「彼の右手を取って立たせ」ています。

「私たちを見なさい」――非常に威厳あるものの言い方で、自信にあふれたものの言い方ですね。
ペテロもヨハネも、「主イエスを(仰ぎ)見なさい」とは何度も言っていますが、「私たちを見なさい」とは、滅多なことでは言いません。
今朝は、少しこのことばにこだわって、2つのポイントで見ていただきたいと思います。

1)「私たちを見なさい」と言ったこの二人は、4:13では「無学な、ただの人たち」と批判されています。

4:13彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。

後に神殿の宗教家が、指導者たちが、ペテロとヨハネを調べるのです。「またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが」というのは、別に「学歴を述べてみよ」と言ったわけではない。話し方で分かる。あるいは身なりで分かるのだろうと思います。

ペテロとヨハネ――「私たちを見なさい」と自信ありげに言ったペテロとヨハネは、実にささやかな、漁師上がりのキリストの弟子たちでした。
足は自由に動くでしょうが、でもそれを除いたら、ここに座っている物乞いと大差ない、ただの人たちであった。
「私たちを見なさい」と胸を張って言えるようなペテロとヨハネではありません。
二人は、――もう一回3章の6節に戻っていただきますと――「金銀は私たちにない」と言いますが、なかったのは金銀だけではない。学もない、見栄えもない、社会的な立場もない。

人間が産み出した「美しの門」は確かに華やかです。
しかし、そのわきに座っている物乞いは、対照的にみじめです。
そして、ある意味で、同じようにペテロとヨハネも自分たちの小ささを知っている。
彼らだって暗い顔をして悩むことがあります。
彼らも疲れるし、失望するし、惰性に流されることもあるでしょう。
欠点だらけの弱さを抱えた、ただの人です。

「金銀は私にはない」――金銀だけでなく、ないものが沢山あるのが私たちの姿ですね。そうですよね。そしてないものは、人によって様々でしょう。
この方は賜物があるけれども、体力がない。この方は立派なことを言うけれども、おおよそセンスがない(笑)とかね、ないものは沢山あるでしょうね。
この方は財はあるけれども、時間と余裕がないとか。この方は家族がない。――私たちはみな様々です。
しかもあったと思えるものも実は失っていくのです。
若い頃はあんなに元気で活発だったのに、一つの病気で私たちは持っているものを全部を失ってしまうほどに、ただの人であり、沢山のハンディを抱えて生きているのが私たちです。

教会というのはそういう所で、私たちは互いの会話の中で、世の中における立場とか、世の中における教育というものを口にすることがないです。
20年30年教会に来てる人でも――あの人いったいどこに勤めているのだろう(笑)とか――全然解らないです。

この前お正月に、奥西姉が久しぶりに帰って来ました。実家が大阪から東京の大田区に移ったというので、彼らはここにいた人間が今名古屋にいるんですけれども、奥さんが里帰りする時に高津教会に来れるようになった。
「ご主人いかがですか」って訊いたら、「相変わらず無口です。特に教会では無口です」と(言われた)。
奥西兄は信仰の家庭に生まれ、弟さんは〇○のCLCの店長ですし、もう信仰は一途なのですね。ところが仕事で名古屋から東京に来られ、私たちの教会に通うようになって四年間、だ〜れも奥西さんのこと知らない(笑)のですね。

(礼拝の後)抜けるように、一番最初に帰って行かれるので、声をかけることもできなくて、私一度奥西さんを捕まえて、
「奥西さん、お仕事いかがですか?」と尋ねたら
「まぁ、ぼちぼちです」(笑)とおっしゃいますので、
「奥西さんって、どういうお仕事していらっしゃるんですか?」って訊いたら、
奥西さんが
「あの、まともな仕事です」(大笑)。
いや別にまともでない仕事だとは思っていないんだけど(笑)と思いながらも、一言も言わないんですね。
確かにものすごく強面の顔をしているので(笑)、もしかしたら(そういう仕事の方?)ということもあるので(大笑)「まともな仕事です」っておっしゃったのだろうと思いますけれども、それほど知らないです。それほど聞かないのです。

私たちはみな事情があり、ハンディがあり、そういうことは一切問わないのが教会です。そして教会とはどういうところかと聞いたら、聖人君子が集まっているところではなく、ただの人が集まっているところですね。
私たちは本当につまらない「ただの人」です。
しかも「ただの人」が集まっていろいろやりますので、教会とはいえ、いろんなことがあります。
教会にもこんな人がいるのか、いや、そういうあんたもそういう人です(大笑)。
それくらいのところが教会だと思っていても不思議ではない。ある部分は整っていても、ある部分は全然整っていないです。

2)にもかかわらず、ペテロとヨハネが「私たちを見なさい」と胸を張る――これはいったい何なのだろうか?

(二人は)自信を持って胸を張って「私たちを見なさい」と言っています。
それは、彼らがあるものを持っていたから
6節に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」
その「あるもの」とは、イエス・キリストの恵みですよ。キリストを信じて生きている自分です。
「キリストを信じて生きている自分を見なさい」と(言っているのです)。――その自分はキリストを裏切り、しかし罪赦されて、神の子どもとされて、神の愛に生かされて、キリストの愛によって守られて生きている自分を見てくださいと。
                      
この故に、二人は「私たちを見なさい」と言ったのです。
まぁ仕事が祝されていればまさにそうです。――キリストを信じてここまで祝されている――「私を見てください」と(言うのです)。
病気が癒されて少し元気になったら、――主の恵みに守られてここまで回復した――「私を見てください」と。

マルチン・ルターという人が(書いた)、彼の書物で一番有名な「キリスト者の自由」。これは岩波文庫から出ていますね、560円ぐらいでしょうか。こんなことばを述べています。
「私たちは冷たい、錆だらけの固い鉄の棒に過ぎない人間です。どんなにこすっても、磨いても、ぼろ鉄が暖かい光など発することはありません。しかしその鉄の棒でも、イエスさまという灼熱の炎の中に投げ入れられるなら、見よ、鉄も真っ赤に燃えて炎となり、光を放つのです。」

私たちは冷たい錆だらけの硬い鉄の棒で、どんなにこすっても磨いてもですよ、ぼろ鉄が暖かい光を発することはないのです。でもそれをイエスさまという真っ赤に燃える炎の中に投げ入れるなら、こんな鉄でも光をいただいて炎を発することができる――これがペテロとヨハネの「私を見なさい」です。

これは、教会全体としてではないです。これは信仰者個人の問題なのです。教会がそういう光を放つとしたならば、そこに集う信仰者一人ひとりが、そのようにキリストの炎の中に入れられて、一人ひとりが輝いているから、教会が輝くのです。
どんなに教会の伝統に親しみながら、どんなに教会として形が造られていても、そこに集う一人ひとりが輝かない限り、実は教会というのは輝きを発しないのです。

もちろん私たちだってへこたれることはありますし、でもへこたれている私たちが、「天の窓」にとっても心癒される証しが載りますとね、励まされて自分もまた光を発するのですね。
なるほど、試練にあって錆ついた私がもう一回輝けるとしたら、こういう考え方をするのかと(、自分の信仰を励ますわけです)。
 

熱い思いを込めて、ペテロが「私の持っているもの」(***6節「私にあるもの」)と言ったのは、まさにそういうことで、イエス・キリストの名によって与えられている恵みです。
11節をちょっと見てください。この出来事で非常な噂が持ち上がります。
          
11この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
12ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
          
今度は「見つめないでください」と言っているのです(笑)。そんな風に、私たちを見つめないでくださいと。
(さっきは、足の不自由な物乞いに)「私を見つめよ」と言って、人々の驚きの視線が集まって来たら、今度は(人々に)「私を見つめないでください」と。
つまり私たちの力とか、信仰の深さとか、そういうことではない、単純にキリストの力だと、ペテロは自分に注がれた視線を、今度はイエスさまに向けます。

「金銀は私にはない。しかし私の持っているもの」――それは、クリスチャンの信仰原則ですね。
私たちには、「ないもの」と「あるもの」の区別が明確です。「ないもの」に関してはあまり頓着しないのです。
例えば、健康が損なわれたら、そこにあまり頓着しない。――健康が損なわれた自分に深〜く落ち込んで行く、そういうことはしない。
また教育がない。(そうだとしたら)――今からでも教育に専念するということは素晴らしいことですね。

この前、年末のバックストン聖会で(基督)兄弟団の工藤先生のお話を聞きました。その先生は70を超えて放送大学を卒業し、そして今年、神学校の修士号をアメリカの神学校からもらうのです。すごいなぁと思います。すごい。

前にこの先生の話をしたことがあるのですが、この先生の自慢は、自分は人生で一度しか教会を休んだことがない。それだけ健康が守られたのでしょうね。礼拝を休んだのは一度しかない。しかもその一度は伊勢湾台風で教会がやっていなかった時だったと。でもそんな時でさえ、自分は泳いで(えーっ!)教会の屋根の上でお祈りしていたと(大笑)。そんな時ぐらい休んだらいいのに(大笑)……。

でもそういう先生が、身体を動かす農作業が大好きで、この先生が(基督)兄弟団の羽鳥にある神学校の校長になった時、「私は教えることができないが、広大な土地のその営膳は何でもできる」と、全部きれいにしちゃったわけです。
でもその先生が70超えて放送大学、――「自分は中学校しか出ていない。昔でいうもうちょっと下ですか、何にも教育がなかった」――この先生は学問に頓着したから、放送大学に行ったのではないですよ。もっと学んでみたいという思いがあったから、行ったのでしょう。

もっと学んでみたいという思いがあれば、あれもやりたい、これもやりたいという思いがあればいくらでもやればいい。
でも、「ないもの」にこだわって嘆いて生きているのではないです。資格が取りたければ取ればいいです。でも資格がないということにこだわっているのではないです。
私たちは「ないもの」はないのです。まぁそれに開き直るのもどうか、問題もあるのかもしれませんが。

しかし、「あるもの」はある。そしてその「あるもの」に関しては、絶対に手放さない。いつも明確に持っているということにこだわる。
そしてそれは一人ひとりがこだわらない限り、教会はこだわれない。

それで、3章の6節の「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」という、このことばにまつわる有名な逸話があります。
それは、中世の神学者トマス・アクイナスと、当時のローマ法王イノンケンチウス二世の会話ですね。

当時のローマ法王は、もう山と積まれた金貨を数えていた、その部屋にトマス・アクイナスは入っていくのですね。そして教皇は言います。
「トマス、見てご覧。もう、『金銀は私たちにはない』という時代は終わったよ」
すると、トマスは答えた。
「教皇、確かにそうです。しかし、教会は、『キリストの名によって歩きなさい』という力をも失ってしまいました」
              
「『金銀は私たちにはない』という時代は終わった」と言って、冨を蓄えた時に、「キリストの名によって歩きなさい」という力も失ってしまった。
金銀を蓄えることは悪い事ではない。でも、「キリストの名によって歩きなさい」という力を失うことは、これはいのちに関わることです。

私たちは「私たちを見なさい」と胸を張って言えるように、キリストの恵みをいかにしっかりと日々握るか――これは日曜日だけのことではない――日々握るかということ(が大切です)。

時折、祈祷会や例会の案内が週報に挟まっていますが、祈祷会は毎週水曜日の夜7時からありますし、また第一と第三の木曜日の朝(10時半から)には、ご婦人たちの祈祷会があります。第二には婦人会(同)がありますし、是非お越しいただきたいと思います。

私たちはこの年、失うものは沢山あると思います。持っていないという状況も沢山あると思います。
でも、これだけは手放さない――それこそが私たちを輝かせる――それが神さまからいただいている宝物です。それを手放してガラクタに目を奪われたら、信仰者の人生は崩れていきます。

少し話をして終わりにします。

1960年代、ケンブリッジを卒業したヘレン・ローズベレーという女性が――伝説の女性宣教師ですが――コンゴ(今のザイール)に大学卒業してすぐに医療宣教師として赴きます。彼女はコンゴの町をいろいろ調べて、医者の全くいない地域を見つけて、そこに住みます。            
 
彼女の働きが進むに連れて、病院を建設したいという思いに駆られます。ヘレンは、母親に手紙を書いて、病院の建て方について説明した本を送ってくれと頼みます。
お母さんは一生懸命探すのですが、そんな本はありませんでした。お母さんは代わりに、煉瓦の作り方の本を送ります。

ヘレンはコンゴの人々と、その本に従って、かまどで煉瓦を焼く方法を一生懸命勉強しました。
ある日、いっしょにやっていて、気がつきますと、自分の指が濡れていた。煉瓦で爪が割れて、そこから血が出ていた。――それはそれは、大変な仕事だったに違いありません。

ヘレンは思いました。
「私は、煉瓦を焼くためにコンゴまで来たんじゃない。私は、外科医として来た。建物を建てるなら、それ相応の人がイギリスから来ればいいじゃないか」

そう考える内に、自分のやっていることがすべて哀れに思えて来た。
「コンゴなんかに来てしまって、足りないもの、無いものばかりだ。こんなところで、自分はどうやって医療なんかやっていけるのだろうか」

呆然と立ちつくしているところに、診療所から人がやって来て、
「先生、急患です。すぐに手術をお願いします」 
彼女は、診療所に戻って、手術の準備をしながら、割れた爪をブラシでこすって、汚れを落として、アルコールで消毒して、激痛が走るのです。それが彼女にとっては限界だったのです。
「もう止めて帰ろうか……」

でも、数週間後に、かまどで働いていた現地の人たちが、こんなことを彼女に言うのですね。
「先生、先生が診療所にいらっしゃるときには、神さまのようで、近寄りがたいほど真剣で、みんな先生のことを恐れています。
でも、こうしてかまどで私たちといっしょに働いて、指から血を流しているあなたは、私たちの姉妹(兄弟姉妹の姉妹)です」
            
このことばで、彼女は気がつくのですね。
「自分は別に外科医としてコンゴに派遣されたんじゃない。外科医として派遣されたのなら、ないものがあり過ぎる。
自分はキリストの愛を運ぶために、一人のクリスチャンとして、この地に派遣されたのだ。だとしたら、ないものは沢山あるかもしれないけれども、私にあるものを上げよう――それはキリストの愛」
そう思って、ヘレンはもう一度宣教師として胸を張った。
        
「あるもの」を大事にしたい教会です。一人ひとりが。
「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが」――と、礼拝の最後にいつも祝祷を受けるなり――「今より後、とこしえまでもあなたがたにあるように」――それを一人ひとりが胸にしまって、1週間を過ごす。
私たちは、健康であれ、賜物であれ、財であれ、「ないもの」には頓着しない。
しかし信仰だけは、できるだけ明確に握って、できるだけ鮮明にこれを生かして、生きていきたいと願うのが私たちですね。

☆お祈り

すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。
(使徒3:6〜7前半)

「金銀は私にはない」と言ったペテロは、学もなければ、立場もない、ただの人でありました。イエスさま、私たちも同じです。
そんな私たちが、「私たちを見てください」ということができるとしたならば、私たちを生かしている――ただの人を励まし、支え、神の子どもとさせている――キリストの恵みを見てくださいというこの思いを、絶対に私たちが放すことがありませんように、私たちの信仰をお守りください。

そして教会に来ることで、この教会というキリストのからだに自分は連なっているのだという意識とともに、自分は自分にあるものを見せることができるほど、鮮明な明確な信仰を抱いた、輝けるキリストという灼熱の炎の中に入れられた、輝ける鉄の棒なのだという自覚を明確に持つことができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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