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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   モーセの祝祷(シリーズ14) 
モーセの祈り(3)モーセの祝祷 
        
これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである(申命記三三・一)。


 モーセの死は突然やって来ました。四〇年間、イスラエルの民の先頭に立ち、荒野を旅し、そしてそもそも約束の地カナンに民を導き上るために召されたモーセですが、神はモーセがカナンに入ることを許されませんでした。カナンを目の前にして、モーセは天に召されます。この場で、この地で果てるとは想像もしていなかったでしょう。
 三四・七に「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」と記されています。にもかかわらず、彼はカナンに入ることが許されませんでした。神はモーセをヨルダン川の対岸のネボ山に登らせ、はるか彼方に約束の地を見させなさいます。
 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ」(三二・四九)。
 どんな思いで見渡したのでしょう。無念だったでしょうか? その無念さも主にゆだねたのでしょうか? 使命の途中で、戦線を離れなければいけないような、なんともやるせない、気がかりな思いで生涯を閉じるのでしょうか。死というのは、いつでもそういうものかもしれません。まだまだやり残したことがたくさんあるような、なにか自分の人生が中途半端であるかのような、無念さです。

                  ●死を前に
 
 では、自分では入ることができない、自分はここで生涯を閉じなければいけない、モーセがそのとき何をしたのでしょうか? それは、祈りでした。荒野を彷徨うこと四〇年。日常の戦いの最中で、日常の重荷を背負いながらも、日常とほんの少しの距離を置いて、神と会見するために、会見の天幕を立てていたモーセ。祈りの人モーセ。神の方で、モーセとはわたしは友のように顔と顔を合わせて親しく語ったおっしゃるほど、彼は祈りの人でした。そのモーセの生涯最後の仕事も、やはり祈りでした。
 でも、少し違うのです。それは、三三・一にあるように祝祷でした。イスラエルの部族一つ一つを祝福する祈りでした。モーセは祝祷をもって、自分の生涯最後の言葉としたのです。モーセは他を祝福する祈りをもって、自分の生涯最後の仕事としたのです。夢にまで見た、約束の地カナンを目の前にしていながら、自分は入ることはできないのです。しかし、何の苦々しい思いはなく、彼はさわやかにイスラエルの部族一つ一つのために祝福の祈りを捧げて、それを一二〇年にわたる生涯の最後の仕事とします。
 今年で九二歳になる聖路加病院の名誉院長日野原重明先生の書物はあまりに有名です。特に九〇歳で執筆された『生き方上手』はベストセラーになりました。牧師の家庭に育ったお医者さんです。日野原先生は、この本の中で、医者として九〇歳を超えて現役になって、これまでゆうに四千人以上を超える患者さんを看取ってきたと記しています。四千人というさまざまな死です。その結論として、「死は各人各様の『生の最後のパフォーマンス』であると、つくづく感じます」(ユーリーグ、一七〇頁)というのです。
死に至る背景も原因も、死を囲む状況もみな違います。それは人がそれぞれに違うように、様々だというのです。しかし、その死はみんなに共通してやってくる出来事で、しかも死というものは、すべての人に「生の最後のパーフォーマンス」として意義があるというのです。
 この「生の最後のパーフォーマンス」にふさわしいのは、ありがとうという言葉だあると先生は記しています。
 「納得して死ねるか、さらに言えば、最後に『ありがとう』と言って死ねるかどうかだと、私は理解しています。地位や名誉は死ねばなくなる。財産も残したところで争いの種をまくだけですが、『ありがとう』のひと言は、残される者の心をも救う、何よりの遺産です」。
  「ありがとう」のひと言が、何よりも自分の人生を閉じるのにふさわしく、この言葉こそが、残された者にとって最大の遺産になる――本当のそうですね。感謝をもって自分の生涯を閉じ、またそれを超えて、残していく者たちの上に、神の祝福という遺産を残して、天に帰る。クリスチャンである日野原先生には、そういう思いがあるのではないでしょうか。
 子どもたちに神の祝福を祈りつつ生涯を閉じたのは、モーセだけではありません。イサクがそうです。年をとって、もう目もよく見えなくなってしまったときに、彼はエソウに言います。
  「神の御名によって、おまえを祝福しよう。死ぬ前にそれをしよう」
  イサクの子どもヤコブも、子どもを祝福して、その生涯を閉じています。いやヤコブは、まず孫を祝福し、それから一二人の息子に祝福の祈りをそれぞれ捧げます。イエスも最後、手を挙げて弟子たちを祝福しながら昇って行かれました。私たちもこんな最後を迎えることができたら、どんなに幸いでしょう。

                ●モーセの祝祷

 さて、人生最後の仕事として、神の家族イスラエルに祝福を祈るモーセを見ていきましょう。モーセは神の民、荒野を旅してきた大きな家族を構成する一つ一つの部族にふさわしい祈りを捧げます。それを、私たちの教会における主にある家族に重ねることができたら幸いです。教会の中には、イスラエルの部族のようにさまざまな兄弟姉妹がいます。モーセの祈りすべてを学ぶことはできませんが、そのいくつかを拾い読みして、私たちに当てはめて考えていきます。
 まず、ルベンについては、非常に短く祈られています。
 六節「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても」

                ●ルベン

 ルベンは、一二人兄弟の長男でした。しかし、その長男の祝福は、昔、ヤコブの祈りの中で、差し止められています(創世記四九・三〜四)。それは、ルベンが、父ヤコブのそばめのビルハと姦淫を犯したことに過去の罪が尾を引いているのです。しかしモーセは祈りの中で、その祖先の呪いを解いています。短い祈りですが、ルベンの部族を縛ってきた過去の負い目を、モーセはここで解くのです。
 過去の負い目を、失敗を私たちはみな抱えて生きてきています。ルベンの犯した過ちは、消えてなくなるものではありません。私たちも同じように失敗し、罪を犯し、恥をかくのです。取り返しのつかない問題もあるでしょう。しかし、モーセは、過去の縄目を断ち切って、明日に向かう祝福を祈りました。罪は罪として、失敗は失敗として認めながらも、それをもってして神の祝福を差し止めることにないように、かえってその縄目を解くような暖かみのある祈りをするのです。
 
                ●レビ

 八節からのレビ族のためには、長く祈られています。特に九節にはこうあります。
  「彼(レビ族)は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました」。
 かつて出エジプト三二章で、モーセの怒りが金の子牛を囲んで踊って戯れている人々に対して怒りが燃え上がったとき、レビ族がモーセの側について人々を裁いています。兄弟や親子という人間的な関係をも超えて、まず神に忠実であろうと務めた彼らに、神の祝福が約束されます。
 「主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください」(一一節)。
 神に熱心であり、神に忠実であるがために、時に私たちは家族や兄弟との関係を犠牲にすることもあるのです。人間関係が犠牲になるというのは残念なことですし、そこに痛みが生じます。兄弟を顧みず、自分の子どもさえも無視して、神の裁きを下す役割を果たしたレビ族の背負った責めは決して小さくなかったはずです。そのこと自体を振り返ってみて、彼らは心を痛めることもあったでしょう。しかし、モーセはそれを超えて神の祝福が豊かに注がれることを約束しているのです。神を優先して間違えではなかったということを、神御自身が祝福をもって証明してくださると、語っているのです。

                             ●ベニヤミン

 一二部族で一番小さなベニヤミンのために、モーセはこう祈っています。
 「ベニヤミンについて言った。『「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。』」(一二節)
 最も小さい者は、かばわれて育つのです。主の「肩の間 に住まうかのように」主に背負われて育つのです。イスラエルという神の家族は、小さな者を、最も小さな者たちを大切にしてきました。

              ●ゼブルンとイサッカル

 一八節では、ゼブルン・イサッカルの部族のことが祈られています。
  「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて」
 この二人は、レアの最後の息子でした。「外に出て」――商業・貿易でこの部族が生計を立てていくことを預言しています。イサッカルの「天幕の中」とは、彼らが牧畜に関わることを示しているのでしょう。イスラエルの部族は、割り当てられた土地に従って、さまざまな専業に就いていきます。こうした地上の生活の祝福も、霊の世界の祝福同様、貴いものです。なぜなら、モーセは、彼らは、「海の富と、砂に隠されている宝とを吸い取る」(一九節)と言っているからです。地上の職で得るところのその富と宝は、神のものです。そして、職業を通して生きる喜びを見いだす、あるいは豊かになるということは、単に世の中で活躍するということではなく、神が隠された宝を富を、仕事を通して海から砂から掘り出すようなものだ、とモーセは励ましているます。
 教会の構成員である私たちはさまざまです。ある人はルベンのように過去の重荷を引きずります。ある人はベニヤミンのように小さく、他に背負われるような存在です。またある人はゼブルンやイサッカルのように、仕事を広げていきます。しかし、それぞれに神の祝福があります。それぞれがおかれた立場にあって、神が埋められた宝や富を掘り出していくのです。

               ●アシェルの部族のために

 すこしとばして最後のアシェルの部族を見てみましょう。
 「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように」(二四〜二五節)
 どういう意味でしょうか? アシェルに割り当てられた土地は、地中海沿岸沿いに北の方に延びている山岳地方でした。荒い、硬い、岩の上の生活です。ですから、その傷ついた足を癒し、赤く腫れ上がった足の痛みを取るために、足を油に浸すのです。「かんぬき」というのは、「サンダル」「靴」と訳すこともできる言葉です。私は、後者の訳を好みます。おまえたちの行く道は、険しい。そこを進み行くには、特別の靴が必要だ。これから進み行く道は、険しいぞ。しかし、神はその試練を踏み越える力を与えてくださる、と祝福されているのです。

 日野原先生は、『生き方上手』という本の最後で、自分の人生を決定づけた三つの出来事をしるしておられます。一つは、難関校の京大の医学部に合格していながら、その一年生の時に患った結核です。一年間絶対安静を強いられ、その病床で病と闘いながら挫折を味わわれました。しかし後に、医者になってから、「あの一年は失ったんじゃない、いや、神の恩寵だ」と思うようになったとおっしゃっています。自分が病んで御手はじめて、病む人の心がわかるようになった。これこそが医学部の学びの中で最も貴重な学びだったとおっしゃるのです。
 二番目は、年齢遅くして三九歳で、アメリカのエモリーというメソジスト大学の医学部に留学されたことでした。三九歳という遅いチャレンジと再出発であったと説明されています。たしかに、その年齢で自分に新たな境遇と課題を課して、再出発をはかるということは、重くのしかかるチャレンジであったに違いありません。
 そして、三番目が、ハイジャックされたあの「よど号」に乗り合わせて、四日間機内で拘禁され、死の恐怖を味わったことだとおっしゃいます。
 「そのとき」にはわからないけれど、「後」になると、なるほどあれが私をつくったんだ、と思えるというのです。まさにこれが神の恵み、神が与えてくださるチャレンジ、そして試練ではないでしょうか。
 
 人生、そういうものだとするならば、岩地で傷ついた足を油に浸して癒してください、山地を踏み越える靴を与えてください、というのがモーセの祈りです。踏み越えたとき、失ったときもマイナスと思える体験も、それなくしては今の自分はつくられなかったのだ、とあらためて神の恩寵に感謝することができずはずです。
 私たちは、時にルベンであり、レビであり、時にベニヤミンであり、時にゼブルンとイサッカルです。そして、いつもアシェルなのではないでしょうか。
 互いにそのことを知りながら、互いのために祈ることができますように。モーセの祝祷のような祈りをもって、自分のことだけでなく、他のことを顧みて祈ることができますように。そして、教会の年長者は、モーセのように、自分の生涯に与えられた最後の仕事として、子どもたちのために祈ることができますように。 

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.06.03 - 23:52
LAST UPDATE: 2003.06.05 - 20:26

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深川幸人 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 219.107.180.175
波乱の人生経験(75才)などで染み込んでいる意思・感情・感覚が神を恐れ、主の愛と知恵により拭われ生かされますようにと更に祈る思いを深めています。
2003.06.07 - 00:00 
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