1/27教会総会聖日:「へりくだった主にならう」Tコリント1:10〜17
☆お知らせ
●今日は教会総会ですので、出来るだけ多くの方にお残りいただきたいと思います。
●(週報とともに配られたものの中で)一番目立つのが、エバーグリーンのクワイアーのチラシです。(HP上でも掲載しておりますので、ご覧ください。) 裏側を見ますと、この高津教会の地図は一番最近の地図で、とってもわかりやすいので、お子さんにお願いして(高津教会が)この地図をもらおうかと(笑)それぐらい分かりやすいですね。これだけの子ども全員が来れるかどうかはわかりませんけれどもある程度揃っています。アルバムも出していますし……。
本来ですと、このクワイアーを私たちは招くのですね。是非来てくださいと。ところが今回はあちらから、是非ここで(演奏会を)やらせてくださいという話になって、こんなにありがたい事はないです。是非私たちのところでやってくださいという話でしたら、これはチラシから何から、相当な一年分の伝道費用がかかるのですが、向こうから来てくださる。神さまは忙しい私たちを憐れんで、このような贈り物をしてくださったと思うのですが、私は是非皆さんに聴いてほしいと思っています。
券はございません。できる限り2/17の午後お残りくださって、是非お誘いあわせの上お越しいただきたい。彼らが歌っているところは錚々たる場所で、……是非この会堂が彼らの声で鳴り響くと同時に、私たちの心が喜びで一杯になりますように、この寒い時期、是非沢山のチラシがまだ後ろに積んでありますので、紹介してお持ちいただければと思います。
●2/10が私たちの教会の献堂記念聖日で、藤原導夫先生をお招きします。藤原先生は良い先生です。私(藤本牧師)はインマヌエル以外では、この先生と一番付き合いが長いのですけれども、日本の福音派では説教を勉強しているというセッティングで、この先生の右に出る人はいないです。とても説教が暖かくてうまいです。
(藤原先生は)もともとナザレンの牧師の子どもで、アメリカの大学・神学校に献身をして、でもナザレンを離れる。バプテスト教会連合で今の市川北教会に。
その間、北海道に3つの教会を開拓した。数年前奥さまと一緒にいらっしゃって、その3つとも閉鎖になったことをとても痛みを覚えつつも、また日本の宣教のことを考え、そして北海道の地域のそのことを考え、先生が来たというので皆さんで写真を撮ったという話が出ていましたけれども、いろいろと地方の教会の現状、あるいは教会の中の痛み苦しみ、そうしたことを深〜く捉えて説教をしてくださる先生です。とても面白いですから、是非楽しみにお出でください。
午後はフェローシップをいたしますが、藤原先生にはせっかくですから20分ぐらいの証しをいただきたいと思って、お願いしております。
☆始めのお祈り
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。 わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。 (この日の交読イザヤ44章1〜8節より3節と6節)
恵み深い天の父なる神さま、……(始めのお祈りがここまで少し録音が遅れてしまいました。ごめんなさいT・Y)かわき切ってしまいます。そこにこそ、わたしの霊を注ぐとおっしゃったイエスさま、あなたは私たちに注いでくださるばかりか、あなたのすえに、あなたの子孫に注ごう(同3節)と、未来のこと、来たるべきこと、私たちには到底分らない10年、20年、30年、50年先、いや100年先の高津教会をあなたは知っておいでになり、祝福を約束してくださる恵みを感謝いたします。
当面の祈りの課題はいつも私たちの心の中にあります。病んでおられる方を元気にしてください。受験に臨む家族を祝福してください。今日はO姉は大宮教会で手話通訳をしておられますが、そのようにしてあなたの愛を届ける一人ひとりをあなたが用いてくださらんことをお願いいたします。
私たちも新しい一週間を踏み出そうとしておりますが、疲れから解き放たれ、無気力から解放され、いつもあなたの力、いつもあなたの優しいまなざしを心に受けながら、弱り疲れてしまうことがありませんように助けてください。 「わたしは初めであり、わたしは終わりである」とおっしゃるあなた、「わたしのほかに神はない」と言われるあなた(同6節)が、私のそばに立っておられるのですから、どうか立っておられるあなたのことを覚えることができますように、私たちにわずかな信仰を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖書個所 Tコリント1:10〜17
10さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。 11実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、 12あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。 13キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。 14私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。 15それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。 16私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。 17キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣ベ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
☆説教 へりくだった主にならう
今朝は第Tコリントの1章から、お話を短くさせていただくように導かれています。パウロの手紙というのは――コリント(人への手紙第一)もそうですが――新約聖書に沢山収められています。 そのほとんどが、教会に宛てられた手紙で、そしてそのほとんどの教会に宛てられた手紙の中に、「教会の一致」ということが取り上げられています。
10さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。
この訴えこそがいつもパウロの頭にありました。 例えば、ローマ人への手紙(14章)では信仰の弱い人と信仰の強い人。信仰の強い人は信仰の弱い人を配慮しなさいと。あなたがたは一つです。 エペソ(人へ)の手紙(4章)では、教会というからだは一つ、聖霊は一つ、召しの望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、神はひとりと一体で、あなたがたの一致を熱心にこいねがいなさい。 キリストの十字架によって、隔ての壁が破られた(同2:14)。 私たちはみな一つであり、愛に結ばれて一つとなって成長しなさいと、延々と「一致」ということばが出て来ます。
1)いきなり「一致して同じ心、同じ判断を完全に保ちなさい」と願うパウロ
このコリントの教会に宛てられた手紙でも、本論に入って先ず最初に出てくることばは10節です。「さて、兄弟たち……お願いします」と、手紙の序文を終えて、本文に入っていきなり出て来るのは、パウロからのお願いですね。 一致して、同じ心、同じ判断を「完全に保ちなさい」――ということは、すでに一致はあるのですね。失わないようにしなさい。 それは私たちが創り出した一致ではなく、神によって与えられた教会の一致です。
しかし、どこかで人間的な歯車が狂い始めます。どこかで私たちが一致を乱す、一致を妨げる要因になってしまう。それはコリントの教会を見るとよくわかります。
コリントの教会はバウロの伝道の後に建てられた教会でありました。そのあとに、有能な若い説教者アポロが来て、教会が割れます。 パウロが1代目、アポロが2代目、その間にも何人もの先生方がコリントの教会を通って、そしてその講壇で説教をします。 そういう経緯の中で、教会の中には、いつの間にか――12節、これは有名なことばです――ご一緒に読んでみましょう。
12あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
こういうパウロ派、アポロ派、ケパというのはペテロですね、ペテロ派、そして当然のごとくにキリスト派という派閥ができてしまうという奇妙な現象(がコリント教会に見られました)。
今私たちの教団が、教団として討議しなければならない問題が持ち上がっているのです。 それは、引退した牧師がその教会から離れるべきか、という問題です。 割と、例えば日本キリスト教団などでは、引退した牧師は席を譲って他の教会に出席しなければいけないと、でなければ後任の先生はとっても難しいと(しているようです)。
ところが私たちのような小さな教団で、親族が献身しておりますと、まぁ子どもを戻すという、まぁ世襲という意味ではないですけれども、出身教会のその先生のお子さんの牧師をもう一回戻して、その方が教会の交替がスムーズであったり、メリットがあるのですね。
たとえば、親の面倒を看るというわけではないですけれども、何かあったときに近くにいてもらうようにしているというセッティングを一生懸命様々考えてみたのですが、依然として強いのは、当然の意見で、「きれいさっぱり出席教会を離れてください。そうでないと後任の牧師はとてもやりにくい」という話が出ています。
日本キリスト教団のようにきれいさっぱり出て行くという決定をするならば、例外なくきれいさっぱりに対して、牧師は以前牧会した教会を離れなさいと言わなければ、私は父親に言わなければいけませんから(笑)、そんなこと言えるかなぁと(思案顔で笑)……。
友だちは、いつもそんな話が出ると、高津の例を取って、「いやそんなことはないよ。全然問題じゃない。いてもいいじゃない。片方は老いていくし、でもその間いろんな意味でクッション材になって、教会を助けてくださるし、教会はぎくしゃくしないし……」と、こう反論した時に、ある先生がなるほどというコメントをくださいました。
「先生のところ(高津)が上手にいっている理由は、先生方の力量にあるのではない。思い切って、(つまり親牧師の)栄造(先生)・幸子(先生)が教会から遠くに住んだ、この要因は絶対的に大きい。」
あ、なるほどそうかと思いますね。出席教会は前任の教会でもいい。でも住まいがすぐ目と鼻の先というのは、歩いて五分のところにマンションを見つけたとしたら、何かにつけてすべての集会に顔を出し――いいことですけれどもね(大笑)――そして何かにつけて信徒の方と挨拶を交わし、昔話に花を咲かせ、何かにつけて親しい新派が当然できてしまう。
だから教会は同じでもいいけれども、最低でも45分、1時間離れた所に住んだらどうかということを、そんなことを教団が指導したりあるいは決めることはできない。 それはあくまでも、個々の判断に任せられるところでありますけれども、私はこの問題は大きいなと思います。
仮にですよ、私がこの教会から転任するとして、それが地理的に近いとどうなるか。林間聖会で顔を合わせ、新年聖会で顔を合わせ、何かにつけて、私はやはり高津が気になる。 そしてその先生が新しい展開をなさいますと、「先生、新しい伝道形態を思いつかれてよかったですね。でも昔は昔なりで理由がありました」という風に、昔の正当付けと言いますか、昔やっていたことの理由付けをきっと私は延々と話すと思うのです。 そうした中で信徒の方が前任者に相談に行けば当然、教会の中が割れていきますよね。
ですからコリントの現状というのは、特異な現状ではなく、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」「いや私はそうではない、ペテロにおく」さらに大御所に話を持って行きます。 そしてそんな中にも、――一番尤もなことですけれども「私はイエスにつく」――これは尤もなのですけれども、パウロはこの4つを同じように並べています。 「この中で『私はイエスにつく』という人が一番尊いのです」とは書いていない。この4つは同じなのです。
私(藤本牧師)はそれは理由があると思いまして、ギリシャ語を見ますと、この部分がとても簡単にできています。それは「エゴー パウロ」「エゴー アポロス」「エゴー ケパ」「エゴー イエス」――この2文字でできるのです。 私パウロ、私アポロ、私ケパ、私イエス、とこの4つの並列した文章に共通しているのは、実は「エゴー」です。文法上「エゴー」という主語は必要です。エゴーというのは「私は」(という意味)です。 私はパウロ、私はアポロ、私はケパ、私はイエス――とっても大切な、なければいけない「私」なのですけれども、いつの間にか、パウロ、アポロ、ペテロ、イエスというよりも、問題が「私」なのです。 エゴー、エゴーと言っているだけで、出て来るのは実はパウロでもアポロでもイエスさまでもなく、自分というものが声を張り上げて「私は」と(言っているだけ)。 これは私たちはよくわかります。なぜなら、私たちはみなそういう所があるからです。
2)互いに自分の主張を張り合っている私たちに対して、パウロはこう言います
(Tコリント)12章の21節を見てください。21節と22節を一緒に読んでみましょう。
21そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。 22それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
却ってなくてはならないもの、皆なくてはならない存在で、皆が一つになったときに身体ができ上がるという同労者のことをパウロは持ち出すのです。目が手に向かって、「おまえなんか要らない」と言うか?頭が足に向かって「おまえなんか要らない」と言うか?み〜んな必要で、そればかりではなく、実は劣っていると見える器官が実はなくてはならないのだ。
コリントの教会というのは、実は大きな教会です。新約聖書でパウロが開拓していった小アジア、ギリシャの教会の中では、エペソの教会、そしてコリントの教会がずば抜けて大きくなった。そして、私たちは後に12章で見ますけれども、さまざまな賜物を持った人がひしめき合っている。 病を癒す人もいれば、預言をする人もいれば、教えることに長けている人もいれば、もう礼拝の奉仕をできる賜物だけでも、ひしめき合っている。 そして、コリントは大都会ですから、その他の社会的な地位のある方々もいっぱい集まっている訳です。 本来豊かな教会ですが、ところがその豊かさを「エゴー、エゴー」という主張が切り裂いていくのです。
『スヌーピーと仲間たち』という漫画がありますが、こういうのがあります。甘えん坊のライナス――いつも毛布を手で握って、親指をしゃぶっているライナスですね――ソファに座ってテレビを観ていますと、お姉ちゃんの、すごいきついルーシーが部屋に入って来て、いきなり言うのです。 「あんた、チャネルを変えなさい」と。 ライナスはこっそり言います。 「お姉ちゃん、おかしくないか。いきなり部屋に入って来て、僕が観ているテレビのチャネルを変えろと言っても、そんなことを僕がするとでも思うか!?」 お姉ちゃんは自信満々で、 「大丈夫、あなたはチャネルを変えるわ。これをよ〜くごらんなさい。(右手で高く上げゲンコツを見せて、笑)これはね、5本の指なのよ。一本一本はとっても弱い。大して何にもできない。でもこの5本の指がこうして組み合わさると(大笑)、ものすごい力になるのよ(笑)。あなたもよく知っているでしょう」 ライナスはさっと立ち上がって、悔しそうに部屋を出て行くのですね(笑)。 そしてライナスが言うには、 「僕の5本の指はどうしてあんな風にまとまらないのだろう?」
そういう悔しさですね。皆同じように5本の指はあるのですよ。教会は、どんな教会にも5本の指はあるのです。 私は様々な教会を伺うことがありますけれども、うちの教会の方が賜物が豊かだと思ったことはないです。どの教会も行ってみますと、お祈りの賜物に長けた方がいらっしゃるし、また社会的に地位のある方々もいらっしゃるし、おばあちゃんもいれば、小さな子どもたちもいます。 どうしてあの5本の指がああいう風にまとまらないのだろうか、力を発揮できないのだろうか?というような現象は多々見ることができます。
パウロはこうしてエゴーを主張する私たちに、十字架を見上げるように言います。 (Tコリント)1章に戻っていただいて、18節を見てください。
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
十字架のことばはその「エゴー パウロス」「エゴー アポロス」「エゴー ケパ」「エゴー イエスス」と、エゴー、エゴーを並べている人たちには、十字架のことばは滅びに至る人には、愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。
十字架というのはローマ帝国の極刑、死刑なのです。それは無残な辱しめを受ける刑です。辱しめの中で引き回され、そして吊るされ、見世物になって死んでいく。人々はそれを馬鹿にし顔をそむけた。まさに十字架にかかったイエス・キリストというのは、ユダヤ人の目から見ても、 「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(ガラテヤ3:13) 「木につるされた者はのろわれた者」(申命記21:23)であると(言えます)。
今の私たちの時代でも、十字架にかかったイエス・キリストは人生の失敗者だと、国に革命を起こそうとして、最終的に皆にそっぽを向かれて、十字架にかかったと理解する日本人も多いでしょう。 しかしイエスさまは、ご自身の罪のためではなく、ご自身の恥のためではなく、私たちの罪を、私たちの病を、私たちの恥を代わりに荷い、私たちの辱しめを荷って、十字架におかかりになりました。
十字架のことばが語るメッセージは、――主はご自身のために、つまり栄光のために生きたのではなく、私たちを救うために、栄光の御座を捨て、自ら罪の裁きを受けてくださった――その遜った愛のお姿が十字架のことばです。 その遜った愛の姿は、世にあっては愚かしく見えるかもしれない。しかし、教会にあっては、神の力です。 この十字架のイエスこそが、私たちの砕こうと思っても砕けない「エゴー」を砕く。
3)コリントの教会はこうした「エゴー」が聖餐式にも表れていました。
11章の20節をご覧ください。私の方で読んで行きます。
20しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。 21食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。 22飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。 23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、 24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後」(23〜24節)というのは、当時既に存在していた聖餐式の式文だと言われています。 当時の礼拝で、すでに聖餐式の時にはこういう表現で文章が読まれていて、「すなわち」と言って、パウロはそれを引用しているのです。
ですから聖餐式の式文には、それ以来、必ず一番の先頭に「主イエスは、渡される夜」(と来ます)。そして、渡される夜、主は、「エゴー」に凝り固まっていた弟子たちの前にひざまずいて、その足を洗われました。主の晩餐の一番最初で、その足を洗ってくださいました。
主が渡される夜、弟子たちは過ぎ越しの食事に集まりながら、そのテーブルで、だれが一番偉いのかという議論がとうとうと展開されます。 だれが一番偉いのか、というのは、私たちなりに言いますと、だれが一番正しいのか、だれが一番まっとうなことを言っているのか、だれが一番言うところの権利を持っているのか、だれが一番賢いのか、多くの意見の中で、結局だれかの意見が採用される場合もあるでしょうし、結局のところ多くの意見の中でこれが一番の正論だと考えられる場合もあるでしょう。しかし、その論議の前に「エゴー」が必ずあるのです。
教会の中にはオピニオン・リーダー的な存在がいます――その方が意見をしてくださいますと、教会員の皆さんは納得してくださる。その方が一つ提言をしてくださると、教会員が皆そちらの方向を向く――そういう方がいらっしゃることは教会にとってプラスです。 そういう方がおられないと、牧師が変わった時に教会はばらっばらに散って行きます。
でもどんなにオピニオン・リーダー的な存在がおられたとしても、あるいは役員さんというグループがしっかりしておられたとしても、パウロは、「エゴー」を取り除くには、一つしかない(と言うのです)。 主が渡されるその前の晩、主は弟子たちの一人ひとりの足もとにひざまずいて彼らの足を洗い、仕えることを教えてくださった。 私たちはこの十字架の主を見上げて、自らの愚かしさをこらえていただき、主の愛の確かさ、その愛の素晴らしさを心に受け止めて初めて、教会はキリストのからだであると言うことができる。それ以外の方法はないですね。
十字架のことばは神の力だと言ったときに、私は十字架のことばは教会を一つにすることばだと思います。 その十字架の主の遜ったお姿なしに、教会は1本ずつの5本指を一つにまとめて、あることを突き破っていく力はないです。
この教会というのは、昔、実のなる大きな木が沢山ありました。二階建のはるか上を行くザクロの木や、いちじくの木が5本ぐらいあったでしょうか。 それから桃の木。私は子どもの時代、その桃の木を切る前の年まで、それが桃の木だと解らなかった。なぜなら一度も実をつけたことが無かったから(大笑)。それがその年実をつけたのですよ。私たちは喜んでそこに袋をかけました。桃の木があった。 それから大きな梅の木がありまして、梅のシーズンになりますと、やがて実が落ちる。その梅の香り。香りだけでも素晴らしかったです。
そして夏ミカンの木があって、それはちょうどそのバルコニーの下あたりで、バルコニーを作るときに、その夏ミカンの木を切ったらもう大変でした。 最後、加藤兄が造園業者からクレーン車を持って来て、深〜く穴を掘って、そして電気のこぎりでずたずたに根を切って、クレーンで夏ミカンの木を持ちあげてとったのです。
これは工事の期間を遅らせるほどでした。本来ならば一日でやるところを、一週間もかかってしまったのです。 私はその時、夏ミカンの木のように、教会は信仰の根を張らないと簡単に切られてしまう。いざサタンのわなにかかって、切られるようなことがあるなら、サタンが最も手ごわい教会だというぐらいの、芯のある根の張り方をしないと難しいですねという話をしました。
いま、当時のもので唯一残っているものは、秋田ひばですか。その角にある、ちょっと松だかひばだかわからないものですが。その木が、教会を見て皆さんが来ますと、とってもみっともないのです(大笑)。 それはなぜかと言いますと、ちょっとこのところ造園業の方が切りに来ませんので、こういう風に斜めに立っている。ああいう常緑樹は、真っ直ぐに立ってこそ意味がある。それが御辞儀をしているかのように、建物から離れて斜めに立っている。その斜めの部分を切ってしまえば、一応形は真っ直ぐにはなるのですが、中心部分はいつまで経っても斜めなのです。 あの木は実は他のところに生えていました。でも会堂の増改築をした時に、これはもったいない。木として優秀な木だからということで、一番目立つところに植えたその木が斜めに立っている。 なぜならば、南が向こうだから(頷き)。木は自然に南の方を向いて立つのです。どんなにまっすぐに立っていても、南の方を向いて立つ。私たちにとってその南の方というのはイエスさまです。
高津教会が整った真っ直ぐに立った立派な教会だとはだれも思っていない。私はこの教会も歪んだ教会だと思います。でもその中で一番歪んでいるのは、イエス・キリストに対する愛ゆえの傾きですねと言えたら、私たちは主からおほめをいただいていると思ったらいいでしょう。
どんな喜びの日も試練の日も、変わらずに私たちを愛してくださるイエスさまに、身体ごとみ〜んな傾いている。これほど異なる私たち一人ひとりが、み〜んなイエス・キリストに向かって傾いて生えて、この教会に植わっている、そんな教会でありたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、私はパウロにつく、私はアポロに、私はケパに、私はキリストに、私は私は……。だれでもがその私を持っています。時にそれで傷つき、時にそれで人を傷つけ、下手をすれば教会は人間関係は疲れ果て、人は教会から去っていきます。どうか私たち一人ひとりを取り扱ってください。私たち一人ひとりを刈り込んでください。
のみならず、私たち一人ひとりに、他を思い遣るキリストの愛を注いでください。だれが一番正しいか、だれが一番偉いか、だれが一番正当かそんなことではなく、ひたすらこの世にあって、主の御顔の光に自分の顔を向け、ひたすら主の愛と平安を心いっぱい受けて、その愛をこの世にあって生きる。
そして教会は弱々しい一人ひとりが一つの塊りとなって、厚い壁を貫くほどの力を結集できるような教会とさせてください。心からの祈りに満ちている教会を、あなたはいつも憐れんでくださることを心から感謝いたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2013.01.28 - 19:44 |
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