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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/3転会式と説教:神の人モーセ(31)遠く離れて立つ私たち
2/3転会式と説教:神の人モーセ(31)遠く離れて立つ私たち

☆転会式       岡林鈴代姉      

●賛美        福230「確かなもとい ただ主に置き」
今日は転会式がございますので、ご一緒に賛美を歌い、そして今日転入される岡林鈴代姉を前にお迎えしたいと思います。讃美歌は福230から3節まで歌います。3節歌いましたら岡林さん前の方にお進みください。

●岡林姉のご紹介
本日私たちは、神さまの尊い摂理のうちに所定の手続きを経て、高津教会に入会し共に教会生活を送りたいと願っておられる、岡林姉を私たちの教会にお迎えしようとしています。姉妹はすでに洗礼を受け神の国の相続にあずかっています。姉妹は神戸の日本イエス・キリスト教団聖三一コミュニティー教会のご出身で、ちょっとお手紙をお読みします。

「当教会員である岡林鈴代姉の転出の件、ご報告させていただきます。
岡林姉は当教会のメンバーとして長く忠実に教会生活を送り、また教会責任役員としても10年以上共に主に仕えてくださいました。その間、当教会の危機的な状況に置いても、主を愛し、牧師を助け、主の栄光が崇められるために、祈りをもって苦しみを共にしてくださったお方です。」

引っ越しに伴い、移られた――こういう方が教会から引っ越しに伴い、他所の教会に行くということは、これがもし高津教会だったとしても、どこの教会だったとしても、とても痛い損失であります。でも神さまは、そのようにして送り出した教会を、また違う人物を立てて成長させ大きくしてくださると思いますし、そのような方が新しく教会に来られたならば、高津教会もまた豊かになり、私たちもまた他所の地方の教会に同じようにして、愛する姉妹を送り出すことになろうと思います。このようにしてこそ、教会は一つになります。

この地上にある教会は様々でありますけれども、共に労することも一つとなるきっかけになりますし、時に大切な教会員を送り出し、送り迎えることによって、私たちは聖三一コミュニティー教会と一つであるその恵みを心から感謝しながら、姉妹を私たちの教会員としてお受入れしたいと思います。

●みことばとお祈り
ヨハネの福音書17章20節〜22節
20わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
21それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

恵み深い天の父なる神さま、あなたは摂理のうちに岡林姉を高津教会のそばにお送りくださり、あなたご自身がこの教会に導いてくださいました恵みを心から感謝いたします。(姉妹は)約一年間の間、夏の聖会、朝の祈祷会、礼拝、さまざまな集会に出席され、私たちに素晴らしい影響を与えてくださいました。

しかし今、神戸の教会のこの手紙を見ますと、姉妹を送り出したことの痛手がどれほど大きかったか、この姉妹はまさに教会の大変な時期に牧師と一つになって、キリストの苦しみをともに負われた姉妹でありました。今日この日、聖三一コミュニティー教会をあなたが祝福し、姉妹を送り出した欠けを、あなたが豊かに報いてください。

そして今日のこの日、正式に姉妹を私たちの兄弟姉妹としてお迎えいたしました。どうか、姉妹と共にあなたにあって成長する教会でありますように、どうかよろしく導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

●岡林姉のご挨拶
岡林さん、一言……。以前フェローシップでお証しをくださいましたことがありますけれども、その時いらっしゃらない方もおられますので、是非今回ここでお話していただければと思います。(――という藤本先生に促されて――)

岡林鈴代です(拍手)。すごくうれしいです。(感激の涙と震えた声で)ほんとにここにいる方々とも、随分信仰の友として親しくお交わりさせていただき、また母教会を持っていることの素晴らしさも今体験しています。
70歳になりました。神さまのご用ができることは少ないかもしれませんが、ともに皆さんと歩んで行き、また皆さんの足を引っ張らないように、そして神さま第一が身につきますようにと願っています。(大きな拍手)

●藤本先生より
岡林姉は、この教会にいらっしゃってからしばらくしてから、「ここがすっかり気に入りました、ここが自分の母教会のような気がいたしました」という風に仰っておられました。先日神戸に帰られて、ご自分の出身の母教会に行った時に、「やっぱりここが母教会だ」(笑)と、こういう感覚がいいです。
やっぱり自分が洗礼を受けて長年奉仕した教会は、絶対自分の実家として忘れないように。かと言って引っ越してしまった教会でいつまでもお客さんではないように。改めてここが自分の家だと、思っていただきたい。
そのようにして、転勤族の方々は沢山の(笑)お家を持たれる事がベストなのであって、私たちも機会がありましたら、いろんな教会を訪れることは良いことだと思います。

☆お知らせ

●先日教会総会がありました。資料はありますので、どうぞご遠慮なくお持ちください。

●来週の日曜日は献堂記念の聖日。どういう聖日かと言いますと、今から30数年前この教会堂が建ちました。たとえば皆さんご覧になっている正面はそのままです。その後、今から16〜17年位前にニ階のギャラリーをつけ、男子トイレを前に出し、ロビーをつけ、床暖(房)を敷くという大工事をしました。でもここの教会の土台そのものはもうすでに30数年経過している訳ですが、その献堂式が2月のいわゆる建国記念日にありました。それでその時以来、2月の第2の聖日に献堂記念の聖日を持っています。

今年は、私のお友達であり、とっても尊敬しています説教者の、藤原導夫先生をお迎えします。とっても素晴らしい説教者です。私はうっとり聴いてしまいます(笑い)。ぜひ楽しみにお出でいただきたいと思います。午後には、先生の教会に対する様々な証しをしてくださいますが、この先生もいくつもの教会を牧会して来られたので、その苦労の味わいも格別です。

玄関のところに1979年のポスターが貼ってあります。帰りに見ていってください。来週皆さんいらっしゃいましたならば、その壁、こちらの壁、そして玄関、今まで渡辺兄が特伝の度に作って来られたポスターで一杯になります。少し高津教会の伝道の歴史を振り返りながら、フェローシップには一緒にそのポスターを作ってくださった長尾兄からお証しをいただきたいと思っています。長尾さん、ごめんなさい、今初めて(お話しするの)ですが(大笑)。長尾さんならいいだろうと思って……。

今そういうことはしていないのですが、以前は渡辺兄がポスターを刷り、長尾兄と一緒にベニヤ板に貼って、100枚位この近くにザーと全部配るのですね。今それができなくなってからポスター作りはしてなくて、チラシだけです。昔はこういう風にしてポスターを作ったのだという、私たちの教会の伝道の足跡を皆さんに見ていただきたいと思います。私は昨日見ながら、本当に感慨深い思いをいたしました。いつでも伝道に励む教会として、来週は改めて自覚したいと思います。

●先週の週報にも入れましたけれども、エバーグリーンの子ども・ゴスペル。これは500円です。ちょっと時間を見ていただきますと、開場が1時半、開演が2時です。若干時間があるということは、恐らく溝の口から二子玉川まで足を延ばしても、昼食を食べて帰って来れます(笑)。なにも、高津駅そばの○○で我慢しなくても(笑)、もう少し贅沢をしようと思っても戻って来れます。ですから是非行っていらしてください。
そしてこれは(入場料が)500円ですけれども、もう彼らが私たちの教会に来るということはないと思います。皆さんがこのようにして、子どものゴスペルを聴くということも多分ないと思います。こんなに絶好の機会を逃さないようにお気をつけください。これは2月の17日のことです。

●教会では受験生のために祈っております。なかなか大変ですけど、頑張ってくださいとお祈りだけはしっかりしています。是非お祈りいただきたいと思います。なにしろ、インフルエンザがピークですね。

●2月から例会の活動が始まります(***8月・12月・1月はお休み)が、今年は、――教会総会で決まりました――なるべく自分自身を教会内の小さなグループに位置づけ、壮年会であったり、祈祷会であったり、朝の祈祷会であったり、是非それに出席してください、ということでありますので是非覚えていただきたいと思います。

●今日は「天の窓」を作ってくださいました。かなり編集の責任が田中兄に移っておりますが、でも分担して原稿を手配し、分担して相談しながら作っていく。どんなにいいものを作っても読まなければ意味がありませんし、読まなければ恵みはない。是非読んでいただきたいと思います。

☆始めのお祈り

イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
(この日の交読個所イザヤ書44: 21〜23節より21節後半〜22節前半)

恵み深い天の父なる神さま、晴れたこの日曜日、愛する兄弟姉妹とともに礼拝をささげる恵みを心から感謝いたします。しかし、雪国では雪深いでしょうし、またこの教会においても、病める方は病の床でしょうし、M姉のお母様が、実家の岐阜県の揖斐で、くも膜下出血で倒れたというニュースが金曜日入ってまいりました。昨日無事に手術は成功し、岐阜県に出張であったM兄が手術に立ち会ったとのことでありました。

まだまだ回復までは時間がかかるでしょう。いくつもの扉を抜けていかなければなりませんでしょう。時にそのいくつかの扉はなかなかドアが開かないでしょう。でもイエスさま、あなたは必ず私たちを、より高い平原へと連れて行ってくださいます。緑の牧場に、憩いの水際に伴ってくださる羊飼いである主(詩篇23:1〜2)よ、どうかM姉のお母さんの上に手を置き、あなたが癒しの目を注いでください。

そのようにして、あなたの癒しを求めている兄弟姉妹が沢山います。どうか触れてあげてください。あなたの優しき御手を額の上に置いて上げてください。痛みやまた先のことの不安で、自分では祈ることもできないような時もあるでしょう。でも私たちは祈っています。ですから主よ。私たちの信仰を嘉して(よみして)それらの方々に触れてあげてください。

もし今日受験の方がいらっしゃいましたなら、あるいは今週受験の方がいらっしゃいましたなら、特別にお腹の病気や悪い風邪から守ってくださり、もしあなたが守ってくださるならば、きっとその方はあなたの力によって、全力を尽くすことができるに違いありません。どうかこの受験という体験を通して、あなたの偉大さ、あなたの真実の確かさを実感することができるように導いてください。

しばらくみことばに耳を傾けます。わずかな時間でありますから、集中力を与え、聴く力を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖書個所       出エジプト20:18〜26

  18民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。
19彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」
20それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」
21そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。
 22【主】はモーセに仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。
 あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。
23あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。
24わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。
25あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。
26あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。

☆説教     神の人モーセ(31) 遠く離れて立つ私たち

出エジプト記に戻ってまいりましたが、久しぶりのことであります。2011年の秋から「モーセの生涯」と題して学びを始め、数え方が間違っていなければ今日は31回目になります。ところどころ抜けていまして、最後にお学びしましたのは、20章の十戒の10番目、あなたがたはむさぼってはならない、でありました。

20:17あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

(つまり17節は十戒の10番目で)むさぼってはならないですね。それで十戒の学びを10回したわけですから、夏ぐらいから昨年秋位までしまして、アドベントに入りました。大分お忘れの部分もあると思います。

今日は少しその後の部分をやりながら、私は「モーセの生涯」の最後までやり遂げたいと思います。恐らく今年半分ぐらいまでかかると思いますけれども、そこまでやり遂げたいと思います。

十戒を学ぶ前に、十戒の意味づけということをお話ししました。その時、私は十戒の論理ということをお話ししました。
十戒というのは、「神の民となった」「神の民とされた」イスラエルのために与えられた、今後の心と生活の指針のようなものです。
「神の民となった」「神の民とされた」ということを、聖書は「契約」と呼びます。ですからイスラエルの人々は契約の民となった。
神さまの側が、すでにイスラエルの民を奴隷のエジプトから救い出してくださいました。
ここに、先に救いの事実があって、――すなわち、奴隷の状態、私たちで言うなれば、この世界で私たちの心を縛る罪深さ、不安、恐れ、思い煩い、罪の責め苦、やがて私たちを究極的に縛る死から、神さまは救い出してくださいました――という救いの事実がある。
その救いの事実の証しが洗礼でありますけれども。                

神さまは、私たちを罪と死の危険から救い出すことだけで、よしとされたのではない。神さまは、私たちと契約を結ぶことを願っておられます。
救い出したイスラエルを、救い出した私たちを、ご自身の宝とするために、わたしのものとなりなさい、わたしの民となりなさい、と招いてくださいます。
宝となるという時に、宝物のように尊く、わたしはあなたを大切に扱う、という神さまの祝福があるのですね。

そして今、もしその特権にあずかることを願うならば、このように生きてほしい、このようにあってほしい、と神さまが願っておられるのが、出エジプト記に記されている戒め、十戒です。これが十戒の論理ですね。

この招きを受けた時に、神の民はみな喜び勇むように応答しました。それが、ちょっとページを戻していただいて、19章の8節。ちょっとご一緒に読んでみたいと思います。
 
19:8すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。
      
二つ返事で応えますね。しかし、神との契約を結ぶという、この荘厳な現実を、実はイスラエルの民はそんなに簡単に受け入れることはできない訳です。
実際は受け入れられない。
いよいよ、神さまがシナイ山に降りて来られた時、神さまはモーセにおっしゃいました。19章の12節ちょっと見てください。私読んでいきますので。
契約を結ぶために、実際神さまは山に降りて来られます。

19:12あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
  
契約を結ぶ。そのために神が降りて来られるということの恐ろしさを、身に沁みて感じるのです。これが自分の契約しようとしている相手なのだ。つまり、生ける聖なる神さまと契約を結ぶことの、畏れ多さです。
実際に16節ですね。3日経って契約の日になるのですが。

19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

という状態で十戒が始まります。
すると私たちはあらためてわかります。
十戒をもって神との契約を結ぶということの、畏れ多さを。「そんなんだったら、結ばない方がいい」という人も中にはいたのではないでしょうか。
不平不満に満ちている民が、果たしてこの十戒を生きることができるのか。そもそも、私たちのような不忠実な者が、そもそも神の民となることができるのか。――私たちが洗礼の恵みにあずかるときに必ず躊躇するのはそういうことでしょう。

何やっても3日坊主で長続きしない自分が、今まで宗教にあって何か一貫してやってきたことのない自分が、知識のない自分が、果たして生涯イエス・キリストについて行くことができるのだろうか。
ましてやキリストにふさわしく生きることができるのであろうか。

モーセが神さまから受けた十戒を民に語った時、民の震えるさまが描かれています。
 
20:18民はみな、雷といなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。
  
単に圧倒されているのではありません。心の底から、聖なる神を前にして、恐れをいだいて震えたのです。
自分たちと契約を結び、自分たちを宝のように大切にしてくださる神さまが、どれほど自分たちとはかけ離れた存在であるのか、ということを実感してしまったのです。
その御前に自分たちは滅び行く以外にない、自分たちの有様を見て震えた。

簡単に3つお話します。

1)遠く離れて立った――20章の18節の表現――

契約を結ぼうと恵みの手を伸べてくださる神が、生ける聖なる方であると感じた時に、私たちは遠く離れて立つ以外にないです。
ここで言われている、たじろぐ、恐れる、遠く離れて立つ、というのはいったいどういう感覚なのか?

例えば、壮大な自然というものがあります。大きな滝、そびゆる山々、底知れぬ海、そういうものを私たちは眺めますよね。そして後ずさりするのかもしれません。
でもどこか知れず、私たちは大自然を前に喜びに満ちています。何とも言えない、深い恐ろしい海、切り立った山なのですけれども、どこか自分もまた大自然の中にいるという、つまり大自然の中で癒されるほど、大自然に包まれるという味わいを私たちは誰でも知っていますよね。
聖書を読みますと、その感覚はなぜかと言えば、私たちもまた大自然と同じ神の被造物だからですね。ですから私たちは、大自然におびえるのと、聖なる神の前におびえるのとは、ちょっと話が違う。

「鰯の頭も信心から」という日本人の神々の前で、私たちはたじろぎ、恐れ、遠く離れて立つということはないです。
仮に祀られているものが恐ろしい魔物であるということが解れば、その神社には近づかないかもしれませんけれども。
でも、ここで言われている、遠く離れて立っているイスラエルの民は、ちょっと違うのです。19節を見てください。(彼らはモーセに言いました。)。
  
20:19「どうか、私たちに話してください。……しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死 ぬといけませんから。」
    
神が私たちに話されると私たちは死んでしまう。――こういう感覚っていうのは、忘れてはいけないなぁと思うのです。
私たちは礼拝の前に奏楽が鳴りましたら、心を静めましょう。そして礼拝の最後に、後奏と共にもう一度心を静めましょう(というのが暗黙の了解です)。
それは生ける神が話されたら、罪深い私たちは生きていけないほどの、神の語りかけをこの心に受けようとしている、受けたのだということを捉える習慣が欲しい――それなしに、賛美を歌って、頌栄(しょうえい)、(祝祷・しゅくとう)を受けて、電車に車に乗って帰っていく私たちであってはいけないという自覚が礼拝にはあるのですね。

●ペテロはイエスさまに言いました。「どうか私から離れてください。私は罪深い者ですから」(***ルカ5:8)
イエスさまの(起こされた大漁の奇跡を見て、)神々しさを見た途端、「どうか私から離れてください。私は罪深い者ですから」(とイエスの足もとにひれ伏したペテロでした)。

●預言者イザヤは、ウジヤ王の死んだ年に、高くそびゆる神さまの座しておられる天の御座を見た。そして天使たちが「聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」と、賛美しているそのさまを見た時に、彼は歓喜に酔いしれたとは書いてないでしょう。
「わざわいなるかな。われ、滅びなん」(***文語訳 イザヤ6:5)
とイザヤは、(思わず)言ったのです。
     
聖なる神を見た時に、歓喜とともに、こんな素晴らしい幻を見た、ではなく、聖なる神の素晴らしい現実に立ち得ない自分の現実に深〜くうなだれて、「わざわいなるかな、われ、滅びなん」(***文語訳)と言った。「(ああ、私はもうだめだ。)私はくちびるの汚れた者で、……」(***新改訳)
私たちは、礼拝の中で主にまみえて喜びに溢れますが、しかし、思わず自分の汚れたさまを感じて身を引くということは多々ある。特に、聖さんの恵みの時には多々ありますね。

2)祭壇がある

そんな私たちに対して、神さまは橋を架けてくださいました。20章の24節をご一緒に読んでみましょう。

24わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

24節に「わたしのために土の祭壇を造る」のは、イスラエルの民です。でもこういう風に祭壇を造りなさいと、「祭壇を設けておられる」のは、神さまです。
つまり神さまが、罪深い私たちに向かって、橋をかけてくださった。どういう橋なのか?
この橋は、「モーセの生涯」に神の民イスラエルを語る時に外すことができない。二つ橋があるのです。

@一つの橋は、神さまの側から民にかけられているというか、まぁどちらからでもいいのですが、神さまが私たちにアプローチする橋です。
その橋は十戒です。――私はあなたをとこしえまでも大切にする。宝のように大切にする。だからあなたはこういう風に生きてほしい。わたしにふさわしく生きてほしい――という神さまの教えが一つの橋です。契約の太い橋です。
Aでももう一つの橋は、罪深い私たちが神さまの所に立つことができるようにかけられている橋です。
それがいけにえに関わる、レビ記にびっしり書いてあるもう一つの律法です。

今回の学びでレビ記まで学ぶことはできませんが、旧約聖書のこの宗教というのは、あるいは聖書の宗教というのは、この二つの柱(橋?)は必ず持っているのです。

@一つは神さまが私たちを救い出された時に、私たちをどのようにして生かしたいか、神のみこころがある。
Aでも、そのみこころをきちっと生き切ることができない、愚かな、乏しい、そんな私たちが神の御前に立つことができる、十字架という、あるいは聖さんという、神の御前の憐れみの祭壇がある。

片方を預言者、律法の学者が説き明かし、片方を祭司が私たちを導いて神のところに連れていくのです。
十戒が与えられて、その十戒の通りに生きることができるのであれば、別にこの祭壇は要らないのです。
でもイスラエルの人々はそうではないということを、神さまはよくご存じで、欠けだらけで律法に適わない私たちのために、神さまはその罪が贖われる方法(この祭壇)を設けてくださいました。

旧約聖書の規定によれば、このようにして築かれる祭壇で動物のいけにえが捧げられます。
24節の後半で、「わたしの名を覚えさせるすべての所(***すべての祭壇)で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう」(とは、)わたしはあなたを受け入れようということですね。

やがて、新約聖書でこの祭壇は、キリストの十字架になります。新約聖書のへブル人への手紙10章の19節をちょっと見てください。
新約聖書でこの祭壇は造らされたのではなく、捧げられるいけにえは動物の生け贄ではなく、イエス・キリストの十字架であるということが(書いてあるのが、)へブル人への手紙10章の19節です。私が19節を私が読みますから、20節を皆さんが読んでください。

ヘブル10:19こういうわけですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

19節をもう一回見ていただきますと、「私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」。
「まことの聖所」とは神さまの臨在のあるところです。「イエスの血」というのは、十字架の祭壇。十字架の祭壇を通して、私たちは神の聖所に入れるのです。

20節で「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して」というのは、これこそが十字架です。この新しい生ける道を「設けてくださった」というのは、旧約聖書も新約聖書も同じです。祭壇は神さまが設けてくださる。

十戒は神さまによって与えられ、しかしその十戒を十戒通りに生きることができない私たちのために、その私たちの罪を贖うために、イエスさまは十戒だけではない、贖いの道を神さまの方で設けてくださった。
それが旧約聖書ではレビ記のいけにえの儀式であり、新約聖書ではイエス・キリストの十字架である。
  
3番目に、祭壇があるだけではない。祭壇のあるところに、仲介者がいる。キリスト教では一般的に仲保者(ちゅうほしゃ)といいます。“ちゅう”というのは、仲が良いの仲ですが、“ほ”は保つという字です。両者を保つ者。

3)仲保者がいる

つまり、遠く離れて立っている私たちが、大胆に神さまの所に近づくことができるために、仲介的な、とりなし手が要る。
英語ではthe Mediator(***theを付けて大文字Mでキリスト、神と人間との仲介者)、日本語では仲保者と一般的に言いますが。

つまり、神さまが用意してくださったのは祭壇だけではないのです。
神と私たちの間をとりなす、とりもつ、仲立ちをしてくださる存在を、神さまは用意してくださる。
ちょっと長いのですが、私が読みますので、付き合っていただきたいと思います。申命記の5章の23節です。
これは先に出エジプト記に戻っていただいて、出エジプト記の少し先に申命記という所があって、たとえば、申命記の5章の20節と21節を見てください。これは十戒の最後です。

十戒が終わった後です。ちょっと長いのですが、5章23節から、私の方で読んで行きますので、彼ら(民)の心の思いを、見てください。

23 あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。
24そして言った。「私たちの神、【主】は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。
25今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、【主】の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。
26いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。
27 あなたが近づいて行き、私たちの神、【主】が仰せになることをみな聞き、私たちの神、【主】があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行います。」

つまり自分たちはいけないと。自分たちは行かないと。モーセ先生、先生が代表者となって、神の声を全部聞いて、そして私たちに語ってくださいと。
それほど民は、自分と神とはかけ離れている、ということを理解したのです。――自分たちは神さまから遠く立っているものだ、というこの自覚。
この自覚を、時には思い出した方がいいです(苦笑)。というのは、私たちは神さまに対してあまりにも馴れ馴れしい。時には思い出した方がいい。

イスラエルの人々は、モーセという、神と人との間に立って、その関係を保ってくれる人物が必要でした。
そして、先ほど開いていただいたヘブル人への手紙には、新しいキリストにあっての契約では、キリストご自身が祭壇となり、のみならず、キリストご自身が仲保者となって、大祭司となって、私たちを大胆に神さまの御前に立たせることができると記されています。

開きませんが、4章15節には、
          
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

遠く離れていた私たちが大胆に恵みの御座に近づくことができるのは、イエス・キリストという十字架の祭壇。
そしてイエス・キリストという仲立ちをしてくれる大祭司がいるから、私たちはキリストのもとに、神のもとに行くことができるのです。
イエス・キリストは今日も私たちを招く――さぁ、いらっしゃい。遠くに遠くに立っているあなたもまた、いらっしゃい。生ける聖なる神のみもとにわたしが連れて行ってあげる。

遊ぶことが大好きな少年がいました。そう簡単に学校から家には帰って来ない。学校から夜真っ暗になって初めて家に帰ってくる。
少年の両親はある日、学校への出がけに厳しくそのことを注意しました。
「おまえ一日ぐらい、まっすぐ帰って来い」と。
それでもやっぱり、遅くに帰って来たのです。

お母さんはドアのところで彼を迎えて、一言も口をききませんでした。
お父さんは、リビングで彼と顔を合わせても、一言もありません。

晩ご飯の時です、少年が食卓について自分の皿を見ると、そこにあったのは、一切れのパンとコップに水、それだけです。
お父さんの皿には、おかずがてんこ盛り(笑)になっています。それでも、お父さんは一言も彼に声をかけません。

少年は下を向いてしまって、悲しそうに下を向いたままです。涙をポロリポロリ。でもなんて言って良いのかわかりません。
お父さんは、その時を待っていました。そして、自分の皿を息子に前に差し出して、にっこり笑って、
「さあ食べなさい」

少年が大人になったら、言うに違いない。
「イエスさまが、ぼくの人生にしてくださったことは、あの晩、お父さんがしてくれたこととおんなじだ」と。

私たちはおおよそ神のいうことを聞かずに、神から遠く離れ、何度言われても同じ間違いをし、そのうち十戒が何だかもわからなくなり、十戒がただの規則ごとのように感じる。
自分自身が神の宝であり、宝物のように大切にされていることもわからずに、遊び呆けて、家に帰るとある日、なるほど一言も口を聞いてくれない。そして座ってみたら、一切れのパンとコップの水があるだけです。――そのようにしたのは、全部自分のせいなのです。

でも私たちは覚えておかなければならない。私たちの前に座っておられるこの方は、私たちが祈るこの方は、主イエス・キリスト。
この方の十字架が私たちにとって祭壇であり、この方が私たちの罪を荷い、のみならず、この方は私たちと神の間の大祭司として、私たちのために取りなしてくださる。
こんないいわけを何一つ持っていない、何回言われても愚かな私たちのために、主イエス・キリストは、私たちを執り成してくださる。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、十戒の最後、あなたの憐れみを深く学ぶことができましたことを感謝いたします。

どこまでも遠くに離れて立たなければいけなかったような、あなたの民をあなたは近づけられました。
祭壇という場所を設け、モーセという人物を立て、そして今あなたは、さらに優れたイエス・キリストの十字架という祭壇を、私たちのために用意してくださり、イエスさま、あなたは私たちを招いていてくださることを感謝します。

時には父の厳しさを教えてください。でもその父の厳しさの中で、決して絶望し埋もれてしまうのではなく、イエスさま、あなたを通して私たちに伝えられる、豊かな恵みと赦しをこの心に受けることができるよう、私たちに祝福を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2013.02.04 - 18:52
LAST UPDATE: 2013.02.05 - 01:16

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