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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   主の御霊があなたとともに行くために・モーセの祈り4(祈りのシリーズ15)
ペンテコステ 「わたし自身があなたとともに」(モーセの祈り4)

「すると主は仰せられた。『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』それでモーセは申し上げた。『もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください』」(出エジプト三三・一四〜一五)

 モーセは、担いきれない重荷を背負って、苦しんでいました。彼がシナイ山で十戒を受けている間、イスラエルの民の信仰は、既に迷いはじめていました。モーセは、四〇日も山から帰ってきません。人々は、モーセを死んだ者とみなして、自分たちで金の子牛を造り、それを拝んで踊っていました。民の信仰があまりにも浅薄で、コロコロ変わるのです。
 自分たちの都合でしか神のことが考えられないような、身勝手な民をどうやったら引き連れて、神様の約束の地へと導くことができるのでしょう。モーセにとって、それは絶望的な仕事でした。
 神は、モーセの重荷を理解して提案されました。
「わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし……」(二節)
 しかし、名前も知らない、会ったこともない「ひとりの使い」では、モーセは安心できません。そのモーセの気持ちが、一二節の背景にあります。
「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません」
 ひとりの使いでは、なんとも心許ないというモーセの心境を察知して、このとき神はおっしゃいました。それが一四節の「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」という臨在の約束です。この平安に満ちた言葉は、心配で心配で、胸のつまるモーセに与えられた神の約束でした。民の中にモーセの理解者は、一人もいません。孤独に悩み、だれも味方のいない彼に、「わたし自身がいっしょに行ってあげよう」と神は約束されたのです。私と共にいてくださる、共に行ってくださる神の臨在――これこそ聖霊です。

            ●わたし自身が……

 「わたし自身が」というのは、英語では、「I myself」です。新共同訳では「わたしが自ら同行し」と訳されています。天から眺めながらあなたを指示しよう、というのではありません。わたしが一歩一歩いっしょに、どこまでもいっしょに行って、あなたをを導き、支え、力づけよう、という約束です。
 「わたし自身」を文字どおり訳すと、わたしの「顔」がいっしょに行こう、となります。そして神の顔の特色は何でしょう。それは「輝き」です。旧約聖書の礼拝で、祭司は民を祝福して言いました(民数記六・二四〜二六)。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」
 御顔は背けられることがあっても、歪んだり曇ったりすることはありません。それが聖書で表現されている神の顔です。神の御顔は常に輝きに満ちているのです。それが私たちに向けられている限り、私たちがどのような状況にいようとも、私たちを恵みと平安で包むことができます。
 神の輝いた顔、それはモーセのふさぎ込んだ、暗い気持ちに活力を与えました。自分は一人でこれをしなければいけない、と落ち込んでいましたモーセにとって、どんなにか大きな励ましだったことでしょう。

            ●あなたを休ませよう

 休みには、二種類あると考えられます。一つは、一日の労働の後で、疲れた身体を横たえて休む、休息をとるという安息です。そこにあるのは、やっと終わったという安堵感です。苦しい山道を登っていて、頂上まで到達したときの安息です。「はーっ、ようやく終わった」という慰めです。
 第二は、苦悩の中にあって、それでも主の御顔の輝きに励まされて、たましいに与えられる平安。試練の最中に、「大丈夫、神さまがついておられる」と思ったとき、心の内側に満ちていく平安です。聖霊の与える安息は、こちらの方です。
 聖霊は、「慰め主」と呼ばれています。慰め主――英語のcomforterです。慰めといったとき、落ち込んでいる人を慰める、悲しみにある人を慰める――そのように考えてしまいます。しかし分解すると、この言葉は、接頭語のcom(いっしょに)、forte(力)から成り立っているのですから、本来の意味は、そばにいて力を与える、となります。慰めとは、そもそも、戦いが終わった後に慰めるとか、負けた人を優しくいたわる、という意味ではなく、戦いの最中に、戦いのために力を与える、という意味です。パウロがローマの暴君ネロの裁判にかけられていくとき、ひとり、またひとりと、彼に味方する者は去っていきます。だれひとり自分を弁護してくれる者がいない状況の中で、「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」(Uテモテ六・一七)と記しています。
 聖霊は、「見よ。世の終わりまで、わたしはあなたとともにいます」とおっしゃったイエス・キリストの霊です。この方こそ、私たちのうちに住み、私たちと共に行ってくださり、私たちを力づけてくださいます。

             ●この約束はだれに?

 最後に考えてみましょう。この約束は、だれに与えられているのでしょうか。神と顔と顔を合わせて友のように語るモーセだけに与えられた特権だったのでしょうか。いいえ、そうではありません。この約束を信じて、ハドソン・テイラーは中国の奥地へ宣教に出かけました。この約束に力を得て、ウィリアム・カーレーは、インドへ宣教に行きました。この約束を自分のものとして、C.T.スタッドは、アフリカの奥地へ宣教に行きました。
 では、著名な宣教師にだけ、当てはまる御言葉なのでしょうか。いいえ。聖霊は、すべてイエスを信じるものに与えられると約束されています。あのペンテコステの日、ペテロは、旧約聖書のヨエル書の預言が成就したと叫びました。
 「神は言われる。
  終わりに日に、私の霊をすべての人に注ぐ。
  息子にも、娘にも、青年にも、老人にも、しもべにも、  はしためにも」
 この約束は、私にも、そして、キリストを信じるものすべてに当てはまるのです。
 しかし、一つ条件があるのでしょう。それは、私たちもまたモーセのように求めることです。モーセの真実な祈りです。
 「もし、あなた御自身が一緒においでにならないなら、私たちをここからのぼらせないでください」
  どういう祈りでしょうか? 言い換えると、こういうことです。乳と密の流れる約束の地、カナン――そこがどんなにすばらしい豊かな地であったとしても、あなたがごいっしょでなければ、かえって災いです。
  カナンというのは、いわば私たちが求める成功であり、祝福でしょう。日常的な考えで言えば、安定した生活です。子どもが順調に育って、仕事が成功して、健康で幸せな家庭を楽しみ、そして安心の老後が待っている、というような状況です。こうした祝福を求めて、私たちは一生懸命に生きています。
 モーセの祈りは、こうした祝福を受けて、勝ち取っても、あなたがごいっしょでなければ、何の意味もない、かえって災いです、ということなのです。
 私たちは、多くの場合、逆の発想で行動します。自分の幸せを掴むために、いつのまにか神さまを忘れます。そんなときに、主は悲しい顔をして言われるのです。
 「そうか、そんなに上っていきたければ、行きなさい。でも、わたしはいっしょには上っていかないよ」
 そして人は、神さまがいっしょにいてくださるかどうか、そんなことは考えもしないです。幸せさえ手にすれば、それで満足です。
 モーセは逆でした。どんな祝福も楽しみも、そこにあなたがおられないなら、災いです。私は、まず第一にあなたを求めます。あなたが私とともにおられることを、すべての幸せにまさって、まず第一に求めます。なぜなら、あなたが私とともに行ってくださること、それが私の人生にとって最も貴いことだからです。モーセはそう祈ることができました。

 デニス・キンロー先生の「キリストの心で」から引用して終わりにします。先生がある学校の理事会に出席され、帰る途中、理事会の仲間がたまたま空港のゲートが近くで、ロビーで次のような会話が始まったというのです。

 「デニス。ちょっと個人的な話を聞いてくれないか。ぼくは青年の頃にイエスさまを信じて、もう十代で説教をしていたんだ。大学と神学校を卒業して、すぐに教会で牧会した。神さまは祝してくださったよ。教会は大きくなって、次の教会に転任しても、そこもまた成長しはじめた。でも、教会で説教し、牧会すればするほど、心の奥底に虚しさを感じはじめていたんだ。ある日、書斎に入って戸を閉めると、床に額をつけるようにして祈った。「主よ。もしも、こんなものなら、続けていく価値があるのでしょうか。もっと私があなたのためにできることはないのですか。もっと力と喜びを感じて、意味あるクリスチャン生涯を送る秘訣はないのでしょうか」
 「デニス。その時、ぼくに何が起こったのかうまく説明できないんだけれど、ぼくはまるでひとつの鞄のようだった。神さまがそれを取り上げて、ひっくり返して、上下左右に揺すぶられはじめた。すると、内側からいろんなものが出てきたんだ。不純な思い、プライド、傲慢、不信仰、心の内にあった肉の思いが全部外に出てきた。主は、空っぽになるまで揺すぶられた。そこで主は揺するのを止めて、きちんと私を置くと、ご自身をぼくの内に注いでくださった。ご自身の熱く燃える聖なる臨在が、ぼくの存在の隅から隅までを満たしてくださった」

 教会を牧会する、教会が成長する――それは、神の祝福でした。それは牧師としての成功でした。しかし、いつの間にか、彼が求めていたのが、祝福や成功であって、神御自身とその栄光でなかったのです。成功すればするほど、「わたし自身があなたといっしょにいって、あなたを休ませる」という神の臨在を失っていく自分に、彼は気がついたのです。
 ペンテコステの朝の私たちの祈りです。

 主よ、私はただの鞄です。あなたの御前におかれています。私を取り上げて、引っ返して、上下左右に揺すってください。からっぽになるまで、不純な思いやプライドや、傲慢な気持ちや不信仰を全部、揺すって出してください。
 それから、きちんと私を置いて、主よ、あなたの霊を、あなたの臨在を私のうちに注いでください。

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DATE: 2003.06.12 - 22:08

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深川幸人 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 219.107.180.129
メッセージを耳で聞き目で読みながら、ぐっと心を打つ先生の書き言葉と話し言葉の双方に接し不思議な感じです。有難うございました。愚生のどんな時にも主のご聖霊が共にいてくださいますように祈っています。
2003.06.23 - 00:00 
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