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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   何が祈りの力を奪うか(ヨシュアの祈り1・シリーズ16)
ヨシュアの祈り1「何が力を奪うのか」
   ヨシュア記7:1ー13

 ヨシュアが聖書に一番はじめに出てくるのは、出エジプト一七章のイスラエルがアマレクと戦う場面です。モーセはヨシュアに言いました。あなたが戦士を率いて、アマレクと戦いなさい。私は戦場には行かない。しかし、私は神の杖を手に持って、丘の頂に立って、あなたがたのために祈ると。
 戦いは、日が沈むまで続きます。その間、モーセは手を挙げて祈ることをやめませんでした。しかしその手が疲れてくると、下がります。下がるとイスラエルが劣勢になります。そこで、アロンとフルが重たくなってきたモーセの手を両側から支えるのです。
 あのとき、丘の下で軍隊の指揮を執っていたのがヨシュアでした。自分たちが優勢になったときは、力強く祈られているときで、逆に劣勢になったときは、祈りの力が衰えていたときだった、と後になって聞かされるのがヨシュアでした。
 あのとき以来、ヨシュアはいつもモーセのそばにいました。ヨシュア一・一で、ヨシュアは「モーセの従者」と呼ばれていますが、これが一番ふさわしい呼ばれ方だったのでしょう。ヨシュアは、いつもモーセの右腕でした。モーセの会見の天幕を夜の間、守っていたのがヨシュアです。モーセのそばにいつもついて、その祈りを見てきました。モーセが背負った苦悩も勝利も、フラストレーションも嘆きも、モーセが神の御前にすべて注ぎだしていたのを、ヨシュアはそばにいてその目で見てきました。
 神は、ヨシュアをモーセの後継者として選ばれ、モーセとともいたように、ヨシュアとともにいてくださり、勝利を約束してくださいます。そこからヨシュア記が始まります。
  
              ●勝利の後の敗北

 征服する一番はじめの突破口でありました、堅固なエリコの城を劇的に陥落させたのが、六章でした。その最後の二七節にはいかのように報告されています。
 「主がヨシュアとともにおられたので、そのうわさは知にあまねく広まった」。
 その噂とは、勝利の噂です。劇的な勝利の噂は、一気に広まっていきます。そして、次ぎなる町がアイです。二節にはアイの町は「ベテルの東」にあったと記されています。しかし、彼らを待っていたのは完全な敗北でした。堅固なエリコの町を完璧な勝利をもって陥落させ、しかし隣町のアイにおいては、完全な敗北で意気消沈する――それがまた、私たちの人生だといっても過言ではありません。
 意気揚々とした勝利の気分は、一気に「民の心がしなえ、水のようになった」(五節)とあります。この文学的な表現は、すでにヨシュア記には二回出てきます(二・一一、五・一)。いずれも、力強く攻め上ってくるイスラエルを見て、カナンの住民がおびえる姿を描いているのです。ところが、今度はこちらが恐怖のどん底にたたき込まれていく、それが七章の出来事です。勝利と敗北の狭間に右往左往している民とヨシュアです。
 こちら側の犠牲者は、三六人という決して大きな数ではありません。しかし「今となっては」(八節)、もう終わったに等しいのです。敵に背を向けて敗北したいまとなっては、かつて勝利の噂が一気に周辺地域に広がったように、彼らの惨めな姿は近隣諸国に知られてしまうのです。
 ヨシュアは嘆きの祈りを捧げます。
 七・六「ヨシュアは、着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶりました」
 これは、ヘブル人特有の悲しみと失望の現れです。
 ヨシュアの祈りを聞いてください。
 「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか」
 この戦いにあって、指揮官ヨシュアは神に信頼していなかったのでしょうか。いいえ、ヨシュアは変わらずに神に祈ってきました。ヨシュアは、アイの町の攻略のために、勝利のために、変わらずに祈ってきたはず。変わらずに神さまのみを信頼してきたという事が、この祈りの中によく出ています。だとしたら、何が原因で敗北したのでしょう。いや、私たちの問いは、何が祈りの力を奪うのでしょう。答えは二つ記されています。

                 ●油断

 第一に、油断です。
   三節「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください」
 偵察隊の報告でした。ヨシュアは、アイの町を攻め落とすに際して、偵察隊を送り、下調べをさせます。その調査報告の中に、彼らの油断、あなどり、高ぶった様子が出ています。兵士の数は、まあ二、三千人ぐらいでいいんじゃないですか。いいですか、後で、もう一度攻め直すとき、三万人、しかも精鋭部隊を送っているのです。それが、どうしてこのときは、二、三千人でいいと報告してきたのでしょうか。人間とは、慣れるもの、慣れると油断するものだ、ということがよくわかります。
 二、三千人で良いと言ったのは、信仰ではないのです。神が戦ってくださるのですから、私たちは三千人で良いという信仰ではなくて、これくらいこの人数で十分ですという、事態をあなどった油断なのです。マルコの福音書に、おしの霊につかれた息子を助けてくれと弟子たちのところにやってきた父親の話が出てきます。弟子たちはかつて、悪霊を追い出すことができたのに、そのときはできませんでした。それは弟子たちの霊的な油断です。弟子たちの横柄なあなどりがかつてもっていた霊的な力を奪ってしまいました。
 ヨシュアは、軍隊を率いていきません。かつて自分が軍隊を率いてアマレクと戦ったとき、モーセは山の上で祈りました。そのようにして、今度はヨシュアが残って祈っていたことでしょう。しかしヨシュアがどんなに祈っても、その祈りの力を吸い取ってしまう――それが人々の油断でした。どんなに背後で祈ったとしても、戦っている人々が油断していたのでは、祈りの力は発揮されません。祈ってくださいと、だれかに頼んだとき、現場の自分の責任が放棄されたのではないのです。戦いに直面している自分自身が油断せず、慎重に戦うかが大切なのです。
   
                  ●罪

 さて、祈りの力を奪うものの二つ目。それは言うまでもなく、罪です。神の命令に対する不服従です。神に対する侮りです。イスラエルの三千人の幣紙の中で一人、アカンという人物がいました。全部焼いて聖絶せよ、と言われたにもかかわらず、欲を出してとって持って帰ってきました。
 彼の告白は、二一節に記されています。
 「シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります」
 三千人の兵士の中で、アカン一人が欲を出して、これらのものをテントに隠し持っていたのです。ここで大切なことを心に留めなければなりません。神を侮って罪を犯したのは、アカン一人でした。しかし一一節を見ますと、「イスラエルは罪を犯した」と非難されています。イスラエル全体を一つの身体のようにみなされているわけです。一つの身体であるときに、手が罪を犯したとき、足はそれを知らないとは言えないのです。この手が悪い、私には関係ないとは言えません。アカンの罪は、身体全体に影響しました。
  これは、キリストの身体である教会にも当てはまるでしょう。アカンの罪は身体全体に影響を及ぼすのです。勿論、後を見ればわかりますように、この罪の裁きを受けるのはアカンです。しかし彼の罪は、身体全体に大きくひびきました。私たち一人一人がキリストの身体を形成するとき、この記事ほど身の引き締まる思いがする聖書の箇所はない。私一人の罪は、私一人のものではなく、身体全体に影響を及ぼす。
 ヨシュアの祈りは、主よ、あなたは御心を変えられたのですか、どうしたのですか、という祈りです。エリコを完璧に落としたのに、こんなに惨めな敗北を期するとは、どうしてしまったのですか? しかし、神の答えはストレートでした。あなたの信仰と祈りが足りなかったのではない。敗北は、わたしが与えた試練でもない。わたしの心は、あなたがたにアイの町を与えることだ。それは変わっていない。祈りが答えられないのは、罪の故だ。
 これは、私たちにも当てはめて考えなければならない点です。私たちが祈って、それが答えられないとき、どのような反応をするでしょうか。おそらく、ほとんどは、それが神の御心ではなかったとか、神さまは違うものを用意してくださるとか、信仰的に解釈してしまうものです。そういう場合もあるでしょう。祈って答えられなかったのは、神さまが他の計画を用意しておられたからだと。しかしこの場合、それは当てはまりません。神さまはアイを与えようと願っておられます。その意志、その御心は、変わらないのです。ただ、神の侮る罪の故に、祈りが力を発揮することができないのです。
 この箇所を読んで、一番心に通う聖句はイザヤ五九・一〜二ではないでしょうか。
  「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」
 罪が私たちと神との間の仕切となっているということです。この仕切を取り除かない限り、神の祝福は恵みの管を通って下ってこない、というのです。

                 ●「立って……」
 
 熱心に祈るヨシュアに対して、神はなんと言われたでしょうか。
 一〇節「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した」
  一三節「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、明日のために身をきよめなさい」   
 「立て」という言葉が、二回出てきます。「立て」というのは、もちろんヨシュアはひれ伏して祈っているのですから、立って行動を起こせという意味を含んでいるでしょう。しかし、この場面ではさらに深い意味があるのではないでしょうか。立てというのは、勇気を力を奮い起こして前進せよ、と普通は捉えます。敗北したのであれば、もう一度戦いに出てゆけと聞こえてきます。しかしこの箇所においてはそうではありません。立って前進せよ、とは神はおっしゃっていません。立って、崩れている部分を立て直せ、歪んでいる部分をまっすぐにせよ、とおっしゃっているのです。
 転びますと、なるべく早く立ち上がることを私たちは考えます。しかし大切なのは、転んですぐに次の行動に移るために立ち上がるのではなく、なぜ転んだのだろうかと考える必要があります。それは前進するにまさって、勇気が必要です。自分が転んだのは、油断があったのではないだろうか。祈りが足りなかったのではないだろうか。いや祈っていたけれども、罪があって、それが故に私と神との間に仕切があって、祝福がいただけなかったのではないだろうか、と思い巡らすことが大切です。
 神はヨシュアに、立ってそのことをよく考えてみなさいとおっしゃっているのです。たしかに神はモーセと共にいたように、ヨシュアと共にいると約束してくださいました。恐れてはならない、おののいてはならない、勇気をもって敵に向かっていけとおっしゃいました。だとしたら、一度や二度の失敗はものともせずに立ち上がらなければならないのです。しかし、このときの「立って」は、そういう意味ではありませんでした。
 あなたに必要なことは、勇気をもって戦いに出ていくことではなく、立って、わたしの前に自分の姿をよく見つめ直し、仕切り直して、崩れている部分を立て直しなさい。そう神はおっしゃっているのです。失敗したときに、私たちは立ち上がって、もう一度神の御前に自分の姿を見つめ直してみることです。崩れている部分を立て直して、神への侮りを悔い改めて、仕切となっている罪を取りのぞいてでなければ、何度立ち上がって戦いに挑んでも、結果はわかっています。
 ヨシュアとイスラエルの民のすばらしかったことは、彼らは主の御前に点検して、悔い改めて、それから前進しました。悔い改めなくして、クリスチャンに前進はないのです。


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DATE: 2003.06.24 - 16:32

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深川幸人 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 210.151.206.249
 油断、侮り、隠れている罪の悔い改め立て直しが愚生の小さい歩みにもびしびし響きます。感謝です。
 誠に恐縮ですが、メッセージを聞き読んでいる時に流れている音楽は軽く低くければさらに良いと思います。
2003.06.29 - 00:00 
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