名前検索
メール送る

名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 3133 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   fujimoto
Subject   聖餐式――神は世を愛され
聖餐式 神は世を愛され

ヨハネ三・一六
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
 
 聖書の中で、最も有名な一節です。福音のすべてがここにある、キリスト教のすべてがここにあると言ってもいいでしょう。
            
             ●神
 
 初めの言葉は「神」です。神は……と始まります。聖書の宣言は神がおられる大前提で始まります。逆に言えば、神を見失ったことにすべての混乱があると聖書は教えます。神は……と始まる世界を、私たちは考えてきませんでした。この世界で一般的には考えないことです。私たちが買い物に行って、テレビを見て、ニュースを聞いて、会社に行って、そうした状況の中で、「神は……」という言葉は出てきません。私たちが誕生から死に至る道のりを考えるとき、生きるとは、死ぬとは、愛するとは、幸せとは、と論じますが、それらの会話の主語は、みな自分です。自分の考えを論じているのです。
 聖書が魅力的なのは、主語が神さまだからです。「神は」から始まる人生があります。「それは人にはできないことです。しかし、神にはそうではありません。どんなことでも神にはできるのです」とイエスはおっしゃいました。主語が「人」から「神」に変わります。
 今朝は、洗礼式がありましたが、洗礼を受けると、私たちは主語が変わる世界に住むことになります。教会に来て、聖書に触れると、だんだん自分の会話の主語が変わっていくのを意識するするようになります。主が、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」とおっしゃったように、主が導き、主が主導権をとって導いてくださる世界があるのです。
 日本で長く伝道されている羽鳥明先生は一六歳の時洗礼を受けました。その日、老齢の牧師先生がおっしゃいました。「おめでとう、羽鳥君。でも、羽鳥君が神をつかんだ、救いを手に入れたと思っていると大間違いですよ。私たちの信仰なんて弱いですからね。必ずと言っていいほど手が疲れて神を放してしまうときがきます。神が掴んでくださった。神の手は疲れることがありませんからね。」
 私の決断ではない。私の信仰ではない。私の力量ではないのです。聖書が示す世界では、主語は神です。神の導き、神の助け、神の御心、神の祝福です。ですから、一六節はまず「神は」で始まります。

              ●世

 次に考えたいのは、「世を愛された」の「世」です。
 デンマークの女流作家ディネーセンの作品で、「アフリカの日々」という映画があります。彼女自身のアフリカ体験の話にしました。アフリカに長い間住んでいる彼女の友人が「神がご覧になるとおりの世界を見せて上げるよ」と言って、二人でセスナに乗り込むシーンで映画は始まります。滑走路は、山の上になって、セスナが飛び立つと、すぐ下が絶壁になっていて、ケニアのリフトバレーが広がります。地面ががくっと落ち込んで、大地こうたいに輝く大草原が広がります。それはそれは美しい世界です。神がご覧になるとおりの世界なのです。
 しかし、神がご覧になるのは、それだけではありません。聖書には、神が人類の歴史の初めから世界をご覧になっていることが記されています。ノアの箱船の物語で、神はあるがままの世界をご覧になりました。「地上に人の悪が増大し、その心にはかることがみな、いつも悪いことだけに傾くのを、神はご覧になった」と。神は……ご覧になりました。ソドムとゴモラの町が天から降ってきた硫黄で焼き尽くされる前も、神は「降りていって、彼らがやっていることを見てみよう」という箇所があります。
 すさまじい世界です。私は金曜日、浅草橋の神学校の授業が終わって、蒸し暑いなかを浅草橋の駅に向かいました。東京三菱銀行の交差点に来たところで、赤信号をビルの陰でしのいで、青になってたらたらと交差点をわたりました。そのときです。私の数メートル後ろを、二−三人の陰がものすごい勢いで動きました。だれかが走って逃げていく、その後を数名が追いかけていきます。その後ろで、一〇名ぐらいの男性が折り重なるように、だれかを押さえつけていました。
 何だ、何だ、と後ろを振り返りながら、わたりきった向こう側で、様子を見ていました。しばらくすると、黒山の人だかりです。どうやら銀行強盗でした。銀行員が黒い棒をもってなんとか取り押さえたところをパトカーが駆けつけました。
 その話を帰って来て妻に話したところ、「あなた、惜しいことをしたわね。もう一秒、交差点をわたる瞬間が遅ければ、銀行強盗を捕まえることができたかも……」。そうなんです。ほんと一秒違いで鉢合わせをするところでした。そして思いました。ぼーっと歩いている人間が、全職力で逃げている人を捕まえられるわけがありません。事態の把握もできないのです。何が起こっているのか、銀行のガードマンの方もうろうろしているだけでした。
 ああ、こういう風にして、人は強盗に会い、ひったくられ、通り魔に襲われ、事故に遭うのだと。すさまじい世界です。先週のニュースで、どれほど「世」のすさまじさ、罪深さ、おそろしさがみなさんを圧倒したのでしょうか。一家殺害事件。トラックに巻き込まれて大破した車の数々。
 この世に、悪の力がうごめいています。それは私たちの心の中をも混乱におとしめ、虜にしてしまいます。

               ●愛し

 「神は」と始まって、「世」とくれば、考えられるのは、裁きです。それ以外にないのではないでしょうか。しかし、神はこの世を愛しておられる、いや、私を、あなたを愛しておられるのです。これこそが、新約聖書の驚きです。私たちはそれを主イエスの説教に見て取ることができます。イエスが来られる前、その先駆的な働きとして、道を備えるためにバプテスマのヨハネが説教をします。彼は、神とこの世界の間に立ちました。神がおられて、この世界が、闇の世界が広がっているのです。バプテスマのヨハネの第一声は、「まむしの末たち」でした。厳しく、当時の宗教家を弾劾し、制度に安逸している人々を激しく目覚めさせる、裁きのメッセージでした。神は、斧をすでに木の根元に置かれている。もうしばらくすれば、罪人を、一撃のもとに切り倒されるというのです。
 その後に来られた主イエスのことばに、人々は注目したはずです。いや、来られたこと自体、裁きの始まりと理解したかもしれません。もう斧が振りかざされていることを予想したことでしょう。ところが、イエスの第一声はなんでしたでしょうか。「幸いなるかな、心の貧しき者。展の御国はその人のものだからです。幸いなるかな、悲しめる者」。
 貧しき私たち、悲しめる私たち、罪深き私たち、神の御前に、おおよそ肩身の狭い私たちを、両手を広げて迎えてくださったのです。聞いていた人々の間に、平安が広がっていきます。私たちは、神の国から閉め出されてなかったのです。
 愛は、どのようにして現されたのでしょうか。それは、「与える」ことで示されました。

Tヨハネ4:9〜10
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
 
 私たちの心の内にある、また私たちの犯したどろどろとした罪を償うために、御子イエスは、十字架にかかり、御自身のいのちをお捨てになりました――ここに神の愛があります。十字架は私のためにあるのです。だれのためにでもない、私が救われるためにあるのです。
 与えられたものをどうすればいいのでしょうか?与えられたものに対して、どういう態度をとれるのでしょうか?三つに分かれます。拒むか、受け取るか、そして受け取ってそれを捨てるか、です。
 三・一六の「御子を信じる者が……永遠のいのちを持つ」というとき、この福音書を記したヨハネにとって、「信じる」とは「受け入れる」ということを意味します。有名な一・一二節には「この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。信じるとは、受け入れること、受け取ることです。自分には差し出す物が何もない、乞食のように、子どものように素直に、ありがたく受け取ろうではありませんか。それが聖餐式にのぞむ私たちの信仰です。
 そして主に祈るのです。主よ、どうか私の信仰を増し加え、堅くし、いただいた憐れみを無にすることがありませんように、私の心と生活をお守りください。心いっぱいの感謝とともに、あずかる恵みを決して汚すことがありませんように、私をさらに支え助けてください。 アーメン

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.07.07 - 10:10

221.114.25.29 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)

深川幸人 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 219.107.254.78
ヨハネ3:16及びヨハネ第一4:9〜10のみことばをさらに新たに深く読み、お聞きすることができました。有難うございます。
2003.07.09 - 00:00 
Name   E-Mail   Password

 前文 「この一時でも」――サムソンの祈り(シ...
 次文 ギデオン――祈りの中から生まれる勇士
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
34Simple view *^^*神を担ぎ出す愚かな大人と少年サムエル [1] fujimoto 2003.08.14 8770
33Simple view *^^*心を注ぎ出すハンナの祈り [1] fujimoto 2003.08.01 8967
32Simple view *^^*「この一時でも」――サムソンの祈り(シ... fujimoto 2003.07.14 7149
31現在参照中の文章です...聖餐式――神は世を愛され [1] fujimoto 2003.07.07 8985
30Simple view *^^*ギデオン――祈りの中から生まれる勇士 fujimoto 2003.07.03 9525
29Simple view *^^*何が祈りの力を奪うか(ヨシュアの祈り1・... [1] fujimoto 2003.06.24 19057
28Simple view *^^*主の御霊があなたとともに行くために・モー... [1] fujimoto 2003.06.12 8803
27Simple view *^^*モーセの祝祷(シリーズ14)  [1] fujimoto 2003.06.03 8490
26Simple view *^^*心は不思議に燃え fujimoto 2003.05.29 7660
25Simple view *^^*モーセの祈り(2)――とりなしの祈り(シリ... [1] fujimoto 2003.05.08 9671
24Simple view *^^*モーセの会見の天幕(祈りのシリーズ12) [1] fujimoto 2003.04.27 7867
23Simple view *^^*イースター「復活の主はあなたに出会う」 fujimoto 2003.04.23 8854
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 31  32  33 次へ進む
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*