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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   心を注ぎ出すハンナの祈り
心を注ぎ出すハンナの祈り 

 Tサムエル1:1−18

 ハンナの夫はエルカナです。彼には、もうひとりの妻ペニンナがいた、と物語は始まっていきます。エルカナとペニンナの間には、子どもが数人、しかしハンナとの間には、子どもができないのです。
 ハンナの感情が手に取るようにわかります。六節、七節、とペニンナがハンナをいびっている様子が書かれています。
六節「彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした」
七節「毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった」
 泣いて、食事をしようともしない、それほど惨めな、情けない思いをハンナは味わいました。五節に「エルカナはハンナを愛していた」と記されています。夫の愛情不足が問題なのではありません。ハンナは、夫の愛情を十分に感じていました。泣いているハンナを見て、夫は言います。
 「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
 そんなに泣くな。おまえは、私にとっては、十人の息子以上の存在なんだ。子どもができたからとできないからとか、そんなことではない。私はおまえを愛していると。
 そう言われても、ハンナの心は安らぐわけではありませんでした。男であるエルカナに、このハンナの気持ちは分からないのです。慰めはありがたいです。しかし、エルカナにハンナの気持ちはとうていわかりません。夫婦で支え合っても、手の届かない領域があることがよくわかります。ハンナはひとりでした。こういう状況でだれに相談するのでしょうか。神殿に行ったら、神殿の祭司に話すのでしょうか。いや、話す勇気はありません。彼女はひとり・・・そこから、祈りへ行きます。
 一〇節「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」
 今朝は、この箇所から、祈りについて三つのことを学びましょう。

              ●心を注ぎ出す

 まず、一五節の最後にある「心を注ぎ出す」という表現です。「いいえ、祭司さま。……私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです」。
 実にイメージ豊かな表現です。詩篇四二・一は「鹿が谷川の流れをしたいあえぐように、神よ、私の魂はあなたをしたいあえぎます」と始まって、 四節「私は、御前に、私の心を注ぎ出しています」と続きます。六二・八「民よ、どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、我らの避けどころである」という祈りのすすめがあります。
 「心」――ヘブル語でネフェシュ(たましい)です。もともとは、熱い息という意味です。のどから吐き出される息、寒くなると白くなる息、運動すると、激しくなる息です。それは生きて活動している人間の状態、生きている人間のいのちを指します。それがネフェシュです。ハンナは、そのいのちを神の御前に注ぎ出していました。
 もう一つ興味深いのは、この「注ぎ出す」という動詞です。旧約聖書では、様々に訳されます。身ぐるみはぐ、肌を露わにするという訳もあります。創世記二四・二〇では「水瓶の水をすっからかんにあける」という意味で使われています。注ぎ出すとは、からっぽにする、全部を与えるという意味です。
 この動詞が、実に味わい深い箇所で使われています。それがイザヤ五三・一二です。
 「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
 イエス・キリストがご自分のいのちを死に明け渡す、ということは、そのいのちを私たちのためにすっからかんに与え尽くすという意味です。イエスさまは私たちのために、全生涯を、いのちを、与え尽くされた方です。
 私たちは、この主の御前に、自分のたましいを注ぎ出すのです。これが祈りの本質ではないでしょうか。私のために与え尽くされた御方の前だから、自分の苦しみや悲しみを注ぎ出すことができるのです。私たちはいったいだれの前なら、自分の悩みや苦しみを注ぎ出すのでしょうか。人の前でそれができるでしょうか。神の御前でさえ、祈っていたとしても、自分の悩み悲しみをすべて注ぎ出すことには至らないという、祈りの浅さを感じます。
 Y姉が、以前、務めておられる会社が協賛してもたれた医療研究会の報告の文章を、「先生、こんなものがあったよ」と見せてくれました。ノンフィクション作家の柳田邦男さんが対談の中心にいて、「聞く」ということを語っている下りがあるのです。テーマは、患者さんの心を聞き出すということです。
 神戸で末期医療に取り組んでおられる河野博臣先生のエピソードが紹介されていました。この先生のところに、末期がんのおばあさんが入院されました。がんが進行して、お腹がぱんぱんにふくらんでしまい、苦しんでおられるのですが、病のために鬱状態になって、何も話さず、お医者さんにも看護婦さんにも口を開きません。そんなおばあさんに、見習いの看護婦さんがつくことになりました。見習いの看護婦さんは、何をして良いか分からず、ただひたすら手を握り、そして痛いと言えばそこをさすり、辛いと言えば背中をさすりました。
  やがて、おばあさんは、この看護学生だけに口をきくようになります。「あなたは本当に良くしてくれる。私にもあなたくらいの時代があったんだ」という言葉から始まり、日を追うごとに自分の人生を語り始めたというのです。自分が生まれ育った頃、結婚をして身ごもった喜び、子育ての苦労、子ども他大きくなって遠くへ行ってしまい、帰って来ないこと、夫はとっくに死に別れているので、今一人でさびしいこと。
 そういうような話しを延々と何日もされました。そして人生の話が進むにつれ、痛み、苦しみの訴えがなくなっていき、お腹の中のがんは、おばあさんの若かりし日の赤ん坊となり、「今日はお腹の赤ちゃんが動いた」「足を突っ張った」などと、とても和やかに話したそうです。そして、痛み苦しみを訴えることもなく、静かに旅立ってゆかれた、という話しです。
 見習いの看護婦さんは、ひたすら聞いた。痛いと言えばそこをさすり、辛いといえば背中をさすり、おばあさんに寄り添い、おばあさんのために自分を与えました。そのようにして自分につきそう若い女性に、おばあさんは心を打ち明け、人生の苦労を注ぎだし、そして癒されるように和やかになっていったのです。
 わたしはこの話を読んで改めて思いました。人は、そう簡単に自分を人前に注ぎだしはしない。そう簡単に自分の心の中にあるものをさらけ出すことはないと。たとえ、神という存在に対しても、そう簡単に心の奥を明かさないのではないでしょうか。
 しかし、私たちが心を注ぎだして祈るのは、十字架の主イエス・キリストの御前なのです。私のためにいのちをすっからかんになるまで与え尽くされた方の御前で、私のすべてを受け止めてくださる主の御前で、私の悩みを、私の痛みを注ぎ出すのです。痛いと言えば私の背中をさすり、辛いと言えば私に寄り添ってくださるお方の御前だから、注ぎ出せるのです。

               ●「渡す」

 もう一つ、この物語から祈りの本質について学ぶことができます。ハンナは、この祈りの中で誓いを立てました。
 一一節「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません」
 信仰深い母親の祈りでした。しかし、多くの犠牲を伴った祈りです。後にハンナは、この誓いを立てたことを少なからず後悔したのではないでしょうか。サムエルが乳離れしたころに、神殿に連れて行きます。子供の世話を考えると、おそらく三才ぐらいでしょう。一番かわいい時期でしょう。そこで、神殿の祭司と、次のようなやりとりを交わしています。
二六〜二八節「ハンナは言った。『おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、主に祈った女でございます。この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。』こうして彼らはそこで主を礼拝した」
 二七節に、「私がお願いした」「私の願い」と、「願い」という言葉が二回でてきます。二八節では、「主にお渡しいたします」「主に渡された」と、「渡す」という言葉が二回でてきます。「渡す」という語は、新共同訳「主におゆだねした」と訳されています。
 実は、二七節に二回繰り返される「願う」という言葉と、二八節に二回でてくる「渡す」「ゆだねる」という言葉は、ヘブル語では同じです。ハンナは、心を注ぎだし、必死になって祈りました。それは願いです。しかし、そもそも願うということは、すべてを主に捧げる、主にゆだねる、主にお渡しする、という信仰姿勢であることがわかります。

                           ●「顔つきが変わる」

一八節「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」
 祈りにおいて、私たちが、この人生の寂しさ、苦しさ、痛み、悲しみ、悩み、心配、それらを主にゆだね、捧げ、お渡ししていくとき、主は私たちの顔を変えてくださるのです。ハンナは、心に悩みをいっぱい持って神殿に来ました。そして長く祈っているハンナを、祭司エリは、酔っているのではないかと見間違いほど、一心不乱に泣きながら、体を揺らして祈ったのです。
 先ほどの河野先生のエピソードの中で、おばあさんは徐々に慈雨分の人生を物語始めます。自分の人生を若い見習いの看護婦さんに全部注ぎ出すことによって、自分の人生の苦悩を受け止め、和やかになっていきます。やがてお腹の中のがんを、自分の子どもとして受け止めていきます。私たちは、祈りの中で主に願うとき、注ぎ出すとき、様々な痛み、悲しみ、苦しみを、主にお渡しすることで、それらの問題を受け止める、時に受け入れるようになるのではないでしょか。
 祈ったから、その問題がなくなるわけではありません。おばあさんは話したからお腹の中のがんがなくなったのではありません。でも私たちが注ぎだして祈って、それを主にゆだねていくときに、その問題を受け入れることができるようになるのではないでしょうか。その問題がどう解決されていくのか、どう転じていくのか、主にゆだねたのですから、その顛末がいかなるものであれ、それを受け止め、自分の人生として受け取ることができるようになれば、そのとき私たちの顔つきが変わっていくのではないでしょうか。
 祈ることですべてが解決されるわけではありません。でもお母さんがお腹の子どもと一緒に成長するように、私たちが自分が抱えている試練とともに成長することができたら、それもまた解決されたにまさる喜びが与えられることでしょう。主に注ぎ出すことで、悩みを抱えたまま、私たちの顔つきが変えられていくのなら、祈りの真髄に届いたことになるのではないでしょうか。
 私たちが反省材料として考えなければならないのは、日頃、自分の心を人に注ぎ出さない姿勢に慣れてしまって、なかなか神にさえそれを注ぎ出すことはしないということです。大声でハンナのように祈っている人がいたら、「私はあそこまではできない」と冷ややかに見てしまうのです。しかし、それは祈りの姿勢ではありません。私たちは、まずハンナのように注ぎだして、自分の心をいのちを主の御前に注ぎ出すことから学んでいこうではありませんか。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.08.01 - 20:43
LAST UPDATE: 2003.08.09 - 21:24

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深川幸人 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 219.107.252.27
祈りの本質について習い感謝です。愚生は今、聖書通読やみことばに示される聖書の神と祈りについて学びながら、祈りで主との交わりの大切さを痛感しています。
2003.08.02 - 00:00 
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