名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


162 1114 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   fujimoto
Subject   人としてこの世に来られた(アドベント2)
アドベント2――人としてこの世に来られ

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)

 ヘブル1:1に、神は、旧約聖書の昔から、神はさまざまな方法で人間に語られたと記されています。時に嵐や大風を通して、時にあの海を二つに分けて、時に天から硫黄を降らせて、時に石の板に十戒を刻むことによって、歴史を通して、聖書を通して。
 そして、終わりの時に、神はそれらを通しではなく、神の最終的な語りかけは、御子キリストによってなされたというのです。それは、クリスマスに始まる、神が人となられてこの世に来られた、イエス・キリストを通してです。
 そして、ヘブル人への手紙は、キリストの偉大さを歌います。
 3節「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」。
  4節「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました」。
 このようにして、キリストの神々しい様を描くヘブル人への手紙なのですが、しかし同時に、人としてこの世界に来られたキリストも強調されているのがこの書です。

 そして、今朝は「人としてこの世に来られた」主に、心を集中してみましょう。

                               ●「人として、この世に来られ」


 5:7の「人として」、とはどういうことでしょうか。
 人としてこの世に来られたキリストにはイエスという名前が付けられました。その名を付けるように母マリヤに指示したのは、天の使いです。神の救いという意味ですから、まさに救い主キリストにふさわしい名前でした。しかし、特別な名前ではありません。聖書の中では、パウロの友人ユストの名前は、イエス・ユストです。あの十字架の場面で、「バラバを釈放するかキリストと呼ばれているイエスを釈放するが良いか」ピラトが群衆に尋ねているところがあります。ある聖書の写本では、イエス・バラバを釈放するが良いか、メシアと呼ばれているイエスを釈放するが良いか、となっています。つまり、バラバの名前は、イエス・バラバであったと。それだけ、イエスという名は、一般の人として付けられた名前だと言うことです。
 私たちは思い出します。旧約聖書でモーセが神に尋ねました。「あなたの名前はなんですか」。唯一、神の御名が固有名詞で尋ねられているところです。神さまはモーセに不思議な答えをされました。「わたしは、ありてある者である」へーっ、なにその名前?と思わず返答してしまうように、おおよそふつうの名前ではありません。わたしの友人の牧師に、二神一人という先生がいます。おおよそふつうの名前ではありません。・・・しかし、普通の人です。しかし神の御名は、なんと不思議でしょう。「わたしは、ありてある者である」。それほど神は、人の世界から遠い存在であったと言えましょう。
 人としてこの世に来られたキリストを、ヨハネはなんと表現しましたか。Tヨハネ1:1「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手で触ったもの」。まさにそうだったのです。じっと見、手で触ることの出来た御方、それが人として世に来られた神の御子でした。

                                   ●「大きな叫びと涙」

 人としてこの世に来られた主は、七節にありますように、「大きな叫びと涙」をもって生きた方です。大きな叫び――人の世界で、私たちはどのような叫びを見ることができるのでしょうか。いや、聖書の世界にしましょう。聖書の世界のふつうの人々が、信仰をいだいて神を仰ぎながらも、どんな叫び声を上げたのでしょうか。
 ペテロです。あれほど尊敬し、愛し、信頼して従ってきた主イエスとの関わりを、大祭司の庭で問われたとき、彼は恐れて、主を知らない、あんなやつは知らないと、大声で宣言しました。その直後、裁判を終えて官邸から出てこられたイエスさまと目を合わせたペテロは、大声で泣きました。情けなくて、申し訳なくて、どうしようもなくて泣きました。それがこの世における、人の涙です。
 ダビデです。誘惑に落ちて、自分の部下の妻を寝取って、子どもをもうけてしまい、そのことが明るみ出て、彼は自分の罪深さに苦しみます。そして、生まれてきた子どもが死にそうになったとき、ダビデは灰をかぶって涙を流して断食します。大きな叫び声と涙をもって祈ります。それは、罪に深く入り組んでしまった自分の人生の結末です。その中で、幼いいのちを失わなければならない情けなさ。これが、この世における、人の叫びと涙です。
 しかも、このヘブル人への手紙では、イエスさまの叫びと涙が、さらに私たちの叫びと涙と同じであることを強調しています。
 七節「死から救うことの出来る方に向かって、祈った。そして、その敬虔の故に聞き入れられた」
  聞き入れられたのでしょうか?イエスさまは、叫びました。十字架を前にして「父よ、あなたにおできにならないことはありません。この杯を取り去ってください」と祈りましたが、これが聞き入れられたのでしょうか? いいえ。
 主は全身で十字架を背負われ、むち打たれ、辱めを受け、そのいのちの最後の一滴に至るまで注ぎだされました。では、何が聞き入れられたのでしょうか?それは、この試練を背負う力が与えられた
 8節「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び……」――それは、忍耐をもって従順を学ぶ力が与えられたということです。
 9節「完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり……」――それは、私たちの罪を贖い、再び私たちが神の御前に近づくことが出来るように、十字架という杯を飲む力が与えられたということです。
 大きな叫びと涙とをもって祈り、一気に問題が解決されたのではなく、問題はそのまま、しかしその問題を乗り越える力が与えられたのです。往々にして、私たちの叫びと涙がそうです。主は、この世に生きる私たちと同じような叫びと涙を流され、そして私たちと同じような祈りの回答を得られた。簡単な道ではなかったのです。

                                      ●主の方が近づく

 人としてこの世に来られた御方は、私たちが名前を呼ぶ方となり、私たちが近づいて、見て、触ることの出来る御方となり、私たちと同じように涙を流し、叫び声を上げられたのです。ですから、三番目に、この方は4:15「私たちの弱さに同情できる」のです。私たちの弱さとは、身体の、精神の、たましいの弱さです。私たちが普段、すべてに言い訳をつけるような弱さです。主は、その弱さに同情してくださいます。
 先日、「牧会ジャーナル」という牧師向けの雑誌に、興味深い記事がありました。私たちクリスチャンは、時にそうでない人々に助けられるということなのですが、あるクリスチャンの女性がお母さんを失いました。夫もクリスチャンで、その悲しみを話しても、「信仰をもって天国に凱旋したのだから」とあまり慰めにはなりません。しばらくしたある日、近所の奥さんが突然尋ねてきたそうです。彼女も最近、お母さんが亡くなったそうです。たわいもない話しから始まって、最後の病状や看取ったこと、また葬儀に至るまで互いに話しているうちに癒されていった、という話しでした。同情すると言うとき、基本的に同じ体験を共有することが前提になっています。
 私はこの話しを非常に興味深く読みました。同じ体験をした人物の方から近づいて、その悲しみの交わりの中で、クリスチャンの女性は癒されたということです。
 マザー・テレサがニューヨークにいたときのことが、本に書かれています。マザーたちの施設にいる一人の若いエイズ患者がマザーを呼び止めました。
 「マザー。あなたはぼくの友達だから打ち明けます。ぼくは、頭痛がしてたまらない時(エイズの特徴の一つはひどい頭痛だそうです)、茨の冠をかぶせられた時のイエスさまの苦しみを思うんです。痛みが背中に移動した時には、兵士たちがむち打った時のイエスさまの痛み、そして私の手に痛みが走るときには、十字架に釘付けられた時のイエスさまの痛みを思うことにしています。」
 彼は自分が治る見込みがないことを知っていました。そしてそれを勇気を持って受け入れていたと、マザーは言っています。そしてその勇気を、彼は、自分の苦しみをイエスさまと分かち合う悲しみの交わりの中に見いだしたというのです。苦しみもがくイエスさまと、苦しみもがく自分。悲しみの交わりです。そして、その交わりの中で、イエスさまが彼を慰めてくださいました。悲しみの人と呼ばれた、愛と力にあふれた主が、彼を慰めてくださいました。
 この話しを読んでいて、方向性は両方だったのではないかと思ったのです。つまり、病に苦しむ男性は、十字架の主に近づきました。自分の頭痛といばらの冠をかぶらせられた主の痛み。自分の手の痛みと十字架に釘付けにされた主の手の痛みと。それは、彼の方で同じように痛める主に近づいていったのです。
 しかし、その逆も真実ではないでしょうか。すなわち、すでに十字架の痛みを味わった主は、同じような痛みと闘っている彼に近づいて行かれたのです。かつて同じような痛みを、辱めを、苦悩を、悲しみを味わった主だからこそ、いま痛みの中にある人、いま悲しみの中にある人、いま孤独の中にある人のところに近づいて行かれるのです。それが主の「同情」ではないでしょうか。先にお母さんを亡くされた女性が、今その苦悩を味わっている人を慰め励まそうと、その女性のお宅の扉を叩いたように、先に苦悩を味わわれた主は、今どん底の中にいる人を慰め、励まそうと、主の方から心の扉を叩き、主の方から近づいてきてくださるのです。
 そして私たちが心の扉を開けるとき、主は御自身の悲しみの交わりをもって、私たち癒してくださいます。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.12.08 - 18:20

221.114.25.29 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)

Name   E-Mail   Password

 前文 取り乱すヘロデと一途な博士(アドベント3...
 次文 佐伯恒子姉・告別式説教
文章投稿 *^^*削除修正返答を書く検索目録を見る。... *^^*

チェックされた全文書を見る
42Simple view *^^*取り乱すヘロデと一途な博士(アドベント3... [3] fujimoto 2003.12.17 46000
41現在参照中の文章です...人としてこの世に来られた(アドベント2) fujimoto 2003.12.08 7659
40Simple view *^^*佐伯恒子姉・告別式説教 [368] fujimoto 2003.12.02 27479
39Simple view *^^*「主の熱い愛に触れて」――アドベント(... fujimoto 2003.12.02 5986
38Simple view *^^*待てないサウル fujimoto 2003.11.24 6218
37Simple view *^^*主よ、あなたが裁き人となってください [1] fujimoto 2003.10.02 7062
36Simple view *^^*「この子どもたちを祝福してください」(... fujimoto 2003.10.02 6075
35Simple view *^^*罪を取り除いて祈るサムエル fujimoto 2003.08.18 10468
34Simple view *^^*神を担ぎ出す愚かな大人と少年サムエル [1] fujimoto 2003.08.14 8769
33Simple view *^^*心を注ぎ出すハンナの祈り [1] fujimoto 2003.08.01 8965
32Simple view *^^*「この一時でも」――サムソンの祈り(シ... fujimoto 2003.07.14 7148
31Simple view *^^*聖餐式――神は世を愛され [1] fujimoto 2003.07.07 8983
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 11  12  13  14 次へ進む
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*