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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   待っておられる神の愛(たとえ2)
「待っておられる神の愛」(たとえ2)
ルカ15:11−24

 おそらく、イエス・キリストが語られたたとえ話の中で、もっと有名なものでしょう。「放蕩息子」と呼ばれる話です。ある人に息子が、二人いました。裕福な家庭でした。しかし、息子は感謝もせず、父親の愛も当然と考え、毎日漫然と気ままに生きていました。
 私の子どもの頃からの癖で、よく母親に叱れたものがあります。用もないのに、冷蔵庫をあけて、暫く覗いて、また閉めるのです。この癖は、未だに直らず、結婚しては家内に叱れます。扉を開ければ、「何が欲しいの? 何が食べたいの?」と聞かれ、そのたびに私の答えは、「別に」なのです。本当に何が欲しいのか分かりません。なんとなく物足りなくて生きている、というところでしょうか。
 ここに登場する息子は、自分は本当は何が欲しいのか分からなまま、冷蔵庫の扉を開けては、閉めて、一度しかない人生を通り過ぎていくという状況にあったのでしょうか。彼は、ある日決心をします。捜しにいこう。自分の生活に最も大切なものを捜しに。でも、所詮自分では何もできません。彼は父の財産の前借りしました。そして、いく日もしないううちに、それをお金に換えて旅立っていきます。
 しばらくして、彼は自分の生活力・気力・体力を使い果たしてしまいました−−どん底です。それから、まだ底の底があった。大飢饉です。途方に暮れた彼は、15a「その国のある人のところに身を寄せた」のです。当然、友達のつもりで、助けを求めて身を寄せましたが、15b[その人は、彼を畑にやって、豚の世話をさせた」。彼は孤独でした。父の愛を裏切り、家の名前を汚した愚か者です。

●捜さない?

 先回、ルカの福音書のたとえ話で、はじめの2つを見ました。タイトルは「見つけるまで捜す神」です。イエスさまによる3つのたとえは、すべて神と人間のことを語っています。羊が行方不明のとき、羊飼いは迷いでた羊を見つけるまで、岩の間を崖っぷちを、歩き続けます。銀貨が行方不明のとき、灯をつけ、家をはいて、念入りに、同じように見つけ出すまで捜します。この話に込められていたのは、神の決意でした。一匹の羊を、一枚の銀塊の価値を見ておられる神は、あなたを諦めずに、見つけ出すまで私は歩き続ける、探し続ける、という神の決意です。
 ところが、この二つのたとえ話と、今日の放蕩息子のたとえ話と、決定的に違う点は、父親は、家でした息子を捜しには行かない、ということでしょう。父親は家にいます。捜さなかったとは書いてありません。しかし、むしろ、ここに描かれているのは、待っている父親の愛です。20節を見ますと、息子が家に帰るとき、遠くにいた息子は父親は見つけます。ということは、来る日も来る日も、地平線を眺めて、息子の帰郷を待っていたことをうかがい知ることはできます。
  失われた羊、失われた銀貨のためには、見つけ出すまでは歩いて歩いて、掃いて掃いて、捜している神が、どうしてここでは、待っておられるのでしょう。それは、この物語で失われた対象は、羊ではない、銀貨でもない、人間だからです。今上映中の「ブルース・オールマイティ」という映画があります。さえないテレビのリポーターが主人公で、彼は自分の人生がうまくいかないのは神の怠慢のせいと悪態をつきま。すると、ブルースの前に本当の神が登場して、神の仕事を肩代わりすることになった彼は、全能のパワーを駆使して数々のスクープをものにする……。この映画、良く内容はわかりませんが、一つ宣伝のことばに的を得ていると思ったところがありました。それは、それは主人公は神の力を手にしますが、神さまから言い渡されます。「何でもできる。しかし、人の心はおまえの自由になるものではない」。
 神と人間を結んでいる話しの中心にあるのは、愛です。神は愛です。私は聖書の神を描くとき、最もふさわしいのは支配者や主権者ではなく、ここに描かれている愛する父ではないかと思うのです。愛というのは、二つの人格を行き巡るものです。その意味において、愛は強要できません。愛は、相手の愛を強要できません。
 愛というものは、2つの人格の間をめぐるものです。それを強制したときに、愛は最も醜いものに変わります。聖書の中に、悲劇的な恋愛もでてきます。ダビデの息子アムノンは、母親違いのタマルを愛しました。恋しました。しかしタマルはアムノンに振り向くことはしませんでした。アムノンは怒ります、焦ります、イライラします、そしてタマルにその愛を無理強いします。世界でもっとも美しい愛が、世界で最も醜いものへとすがたを変えた瞬間です。
 この放蕩息子の話を見てみると、分かります。神様は、強制でなくして、無理強いでなくして、自分の意志で、神様のところに帰ってくるのを待っておられる。その愛は、待っている愛です。

●3つのことば

 父の愛を裏切って、出て行った息子が、ある日「我に返った」。心に留めていただきたい言葉が、3つあります。

1)その初めが、この「我に返った」です。
 どういうことでしょうか。我に返る――それは本当の自分、本来の自分のあるべき姿に帰る、ということです。スピルバーグの「太陽の帝国」という映画があります。大戦中、上海を日本が占領する時代です。統治していたイギリスの裕福な人々が逃げるわけですが、その途中で、11才の少年が両親とはぐれます。そして、大人といっしょの収容所に入れられます。最初は零戦にあこがれるような子どもが、孤独と戦い、大人とつきあい、感情を外に出さず……。2時間ものの、長い映画です。何のためにこんな映画を作ったのかと考えさせられます。反戦の映画ではありません。そのクライマックス。戦争が終わって、母親は、施設を訪ね歩いて自分の息子を捜します。とうとう見つけて、部屋のコーナーにいる息子と目が合い、かけよって、抱きしめます。カメラは最初少年の顔を映します。ただ呆然と立ちつくし、抱きしめられるだけの少年の顔。それからカメラは180度回って、母親の顔を映します。感激、感動、涙。そして最後にもう180度回ると、なんと表情のなかった少年の顔に、あどけない、母の胸に抱かれている表情が戻るのです。
 この映画には、メッセージが込められているのでしょう。家庭が崩壊して、母親らしさ、父親らしさ、子どもらしさ、夫らしさ、妻らしさを失ってしまった社会へのメッセージが。
 夫としてのあるべき姿、父親として、母親としてあるべきすがたがあります。そして、同じように「人間として」、神の御前にあるべき姿があるのです。神の像に創造され、神の愛を存分に受けてこの世界を生きるように造られた人間としてあるべき姿があるのです。これに気がつくこと――それが「我に返る」です。

2)「立ち上がって」――このことばは2回出てきます。「立って、父のところに行ってこう言おう……こうして彼は立ち上がって」と。
 息子は、意を決して立ち上がったのです。何か特別な功績を立てたわけではありませんが、父のところにかえるためには、彼は立ち上がって、という具体的な行動を取る必要があります。それは、一歩を踏み出す勇気です。最初の「立って、こう言おう」というのは、彼が豚の世話をしながら、「私は天に対して、父に対して罪を犯した」真剣に悔いたのです。しかし、このことばを豚小屋で彼が何万回繰り返したとしても、事態は変わりません。どこかで彼は、「そうだ、立って、家に帰ろう。お父さんに、こう言おう」と思ったことを実行した日がありました。彼が実際に「立ち上がった」のは、特別なことでないにしても、彼の人生にとって勇気をもって踏み出した大きな第一歩でした。

3)「ところが」――このことばも2回出てきます。最初の「ところが」を見てみましょう。息子は、心を痛めてとぼとぼと帰途につきます。彼が思い浮かべたのは、父の厳しい怒りの顔だったでしょう。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ……」。この「ところが」は、息子の予想に反して与えられた父の愛を表しています。息子はぼろぼろになって家に帰ろうとしているだけです。しかし、父親はそんな息子の第一歩を祝福するかのように、走ってきて迎えてくださるのです。
 これが、神と人間です。父は待っておられます。無理矢理、その愛を強要されることはない。神は私たちが帰るのを待っておられる。しかし、本当に小さな一歩、たった一歩でも、信仰をもって神に近づくとき、神は何百歩と走ってきて、私たちを迎えてくださいます。
 二番目の「ところが」は興味深い用いられ方をします。父の前で、息子は、悔い改めの言葉を述べます。このことばは、物語の中でセットとなって2回繰り返されています。ところが、注意深く、最初息子が心の中で思った謝罪のことばと、実際に父の前で述べている謝罪のことばを比べますと、2回目には1回目の最後の一文「雇い人の一人にしてください」が抜けています。つまり、最後の1文を言う前に、「もういい。もういい。おまえが戻ってきただけでいいんだ」と言わんばかりに、父は息子のことばを遮っているのです。
 そして、『急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせなさい」。この「ところが」は、私たちの予想に反して、圧倒的に注がれる神の憐れみを指しています。

 神の愛は、失われた私たちを見つけるまで捜しつづける、決意にあふれています。しかし同時に、主は愛に満ちて待っておられるのです。私たちが我に返るのを、勇気をもって第一歩を踏み出すのを。諦めずに捜し歩くと決意された主にも、じっと待ちつつ、私たちの第一歩に対して、道の向こうから走ってきて、首を抱き抱えて子どもとして迎えてくださる神の姿にも、愛があふれている。その愛が、私の心に注がれるのです。

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DATE: 2004.01.19 - 11:14

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