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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   神の愛の気前よさ
神の愛の気前よさ(たとえ3)   
       マタイ20:1−21

 新年に入ってから、主のたとえを学んでいます。一回目、2回目とルカの福音書15章から失われた私たちを捜し出す神の愛を見ていただきました。失われた一匹の羊を諦めずに、見つけるまで捜し歩くと決意された主にも、出て行った息子をじっと待ちつつ、悔いて戻ってくる息子の第一歩に対して、道の向こうから走ってきて、首を抱き抱えて子どもとして迎えてくださる父の姿にも、愛があふれていました。
 今日、もう一度、神の愛をテーマに話された、主のたと えを見ていただきます――「神の愛の気前よさ」です。このたとえでは、イエスさまがブドウ園で働く人々の雇い主、そして私たちは雇われてブドウ園に出かけていく労働者、という設定です。広大な葡萄園でしたら、収穫の時には、普段の労働力では間に合わないのです。田植えや、お米の収穫も同じです。学校が休みになる場合もあるとききます。アメリカでは、コンバインを運転できる人は、農家に雇われます。この時期に一年分を稼ぐそうです。 
 事情は、このたとえに登場する葡萄園でも同じでした。朝、人手を集めに、主人は町へ出かけていきます。そこでたむろしている、失業中の人々。いや、この時期は、仕事を期待して、特に多くの人々が朝早くから集まっていました。朝6時に出かけて、労働者を雇ってきます。一日、一デナリという約束です。それは、家族を養うのに足りる、お金の単位でした。一万円ぐらいと考えてください。
 ところが、それでもまだ、労働力が足りないと主人は判断しました。そこで朝9時、昼12時、午後3時と、3時間単位で雇いに行きます。最後は、なんと仕事が終わる1時間前の夕方5時にも、主人は人を雇いに出かけます。朝から換算すると、11時間目です。
 さて、一日が終わりました。それぞれが日当を受け取るときになりました。後から働きに来た人々から先に、賃金を受け取ります。夕方5時にきて、一時間しか働いていない人の手の中に、デナリ銀貨1枚が置かれます。午後3時に雇われて3時間しか働いていない人の手の中にも、手の中に、デナリ銀貨1枚。昼12時から6時間働いた人の手の中にも、朝9時から9時間はたらい人の手の中にも、そしてなんと朝6時からまる一日12時間働いた人の手の中にも、1デナリでした。

                ●不公平

 これには、驚いてしまいました。夕方5時に来て、1時間しか働いていない人は、もうけたと思ったかもしれません。しかし朝6時に来て、12時間も働いた人は、たとえ約束されたのは1デナリだとしても、なんという不当な待遇だと、激怒したことでしょう。
  たとえ当初の契約が、1デナリだとしても、不公平は不公平です。6時から来た人は、12時間の労働で、しかも炎天下の暑さです。夕方の5時に来た人は、わずかの労働、しかも涼しい時間帯です。
 学生時代、私はいろいろなバイトをした経験があります。アメリカの神学校時代に、ピザハットではたらきました。これはしんどかったですね。何でも食べても良いよ、と言われるのですが、まかないは毎日、ピザしかありません。夜の11時に閉店で、それから店の椅子を全部机の上に上げて、店の絨毯の上にこぼれているピザのトッピングを掃除機で吸い取るのです。店を出るのは夜中の1時を過ぎていました。働いているのは高校生ぐらいが多いんですが、彼らは早番で、この一番辛い時間帯をシフトからはずします。自給はいつの時間帯も同じなのですが、時間帯によって労働が2倍にも3倍にもなります。しかもお客さんが帰った後は、チップが付きませんから、ウェイターのすごく安い時給だけです。
 私は異例の早さ、なんと2ヶ月でやめました。それはあまりにも辛かったです。待遇の矛盾が辛かったのです。イエスさまのたとえにはあまりにも無理があります。それが契約でしょう、ではすまないでしょう。そもそも朝6時に1デナリで雇われた人たちは、まさかその主人が夕方5時に入ってきた人も1デナリで雇っているとは、夢にも思わないではないですか。労働にあって、公平というのは基本。
  では、その無理な話を通してでも、イエスさまは何をおっしゃりたかったのでしょか。神さまについて、何を言おうとされたのでしょうか。ごいっしょに考えてみたいと思います。二つあります。

1)神の国は、公平という原理の上に成り立っているのではない、ということです。実は、この労働者の話は、ユダヤ教にもあります。「あるところに王様がいて、たくさんの労働者を雇った」。後は同じです。みんな同じ賃金です。一日中働いた人は、文句を言いました。「私どもは、一日中汗水たらして働いたのに、たった2時間働いた人も、同じ賃金と言うのは、不公平です。」
 ここまでは同じ。でも、最後が決定的に違います。王様は言います。「この2時間働いた者は、おまえたちが一日中働いたのよりも更に大きな働きをした。」これが、ユダヤ教の
教えです。人が救われるのは、それ相応の働きによるのです。永遠のいのちは、一生懸命働いて稼ぐものです。イエスさまは、そのたとえを知っておられたかもしれません。それであえて、このたとえをなさったのではないでしょうか。ユダヤ教のあり方を否定され、拒否されたのです。
 葡萄園の労働者は、公平さという原理を基準に恵みをもらったのではない。神は、私たち罪人を、公平さという原理で測られるのではない。そんなことをしたら、誰も天国にはいることはできない。恵みは、ふさわしくない者に注がれるのです。私たちは誰もが恵みに価しません。しかし、神は、失業して、希望を失い、道ばたでうろうろしているような私たちを、家族を憐れんで、「さあ、来なさい」と招いてくださっています。主は道に出るたびに、朝6時だろうが、夕方5時だろうが、いつでも、「さあ、葡萄園に来なさい」と招いておられるのです。
 さてもう一つのポイントに目を留めたいと思います。私は、こちらの方が重要と考えます。

2)神の愛は、等しく、惜しまず、あるだけ全部与えられる、ということです。
 デナリというローマの銀貨が登場します。円は10進法でなりなっていますが、ローマの単位は12進法です。ですから、デナリの下に、ポンディオンという単位があります。デナリの12分の1、つまり12ポンディオンで1デナリになります。
 1デナリが日給に使われたのに対して、1ポンディオンは、時給に使われていました。考えてみてください。夕方の5時に入った人に、葡萄園の主人は1ポンディオンあげればちょうどよかったのです。逆算して、午後3時なら3ポンディオン、昼12時なら6ポンディオン、朝9時は9ポンディオン、そして朝6時に雇われた人には、12ポンディオン=1デナリです。計算して、わり算すれば、それでぴったりと公平なのです。
 しかし、主人は、1デナリをお与えになりました。神の愛とは、まさにそのようなものではないでしょうか。デナリでしたら、12分の1という単位があります。しかし、神の愛に、12分の1というのはないのです。愛は、あるだけすべて、あなたの上に注がれます。神さまは、私たちを中途半端な愛し方で、あなたはこれだけのことをしましたから、3分の1。あなたには教会に10年来ているから、5分の1。あなたは教会で奉仕をしているから、4分の1――そんなことは、絶対にないのです。
 これこそ、イエスさまが伝えようとしておられる神の愛です。第11時に入ってきた、ふさわしくなく、何も働きもせず、何も差し出すものがない私にも「良く来た、待って  いたよ」、そう言って迎えてくださる、それが神の愛です。

              ●第11時に入った人の気持ち

 ピーター・グリーブというハンセン病についてさまざまな記録を書いているイギリス人がいます。彼はインドに滞在中にハンセン病にかかり、視力を半分失い、身体が麻痺した状態でイギリスに戻ります。英国国教会のシスターのグループが運営する施設に暮らします。働くことができず、社会から見捨てられ、どん底にいた彼は、自殺を考え、施設を去ることも考え、無気力に暮らしていました。
 ある日彼は、朝早く起きて庭をぶらぶらしていました。ぶつぶつと何かを唱えるような声が聞こえたので、彼はその声を追いかけてチャペルに行きます。そこでシスターたちは、壁に書かれていた、患者の名前を挙げて祈っていました。そして、その中に自分の名前があるのが見えました。
 その途端、彼の心に電撃のように神の愛が走りました。その時始めて彼は感じたといいます。自分は嫌われているのではない、望まれているのだ。自分は呪われているのではない、恵みを受けているのだ、と。
 私はこの気持ちが、夕方の5時に入ってきた人ではないでしょうか。彼は、12/12の神の愛を受けて、ラッキーと思ったでしょうか? いやいや。賃金を配られたとき、彼の心にあったのは申し訳なさでした。立派に働いてきた人と比べて、自分は申し訳ない、ふさわしくない、肩身が狭い、と思ったに違いありません。
 しかしイエスさまは、「あなたにも、同じだけ与える。なぜなら、わたしはあなたを同じだけ愛している」とおっしゃったのです。彼はそのとき、自分は、他の人々と同じように受け入れられ、愛され、同じ恵みを受けたことに気が付くのです。
 私も祈られている。私の名前もそこにある。私も愛されているのだと。その感謝が、グリーブの人生を変えました。世から突き放され、恵まれない、呪われたような自分を、神は名前を挙げて呼び出し、同じ愛を、100%の愛を、ヨハネに与えたように、ダビデに与えたように、変わらずに私に注いでいてくださる――その思いが私たちを感動させ、私たちの生き方を変えていきます。 

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DATE: 2004.01.19 - 11:15

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