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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   仲間を赦さないしもべのたとえ
仲間を赦さないしもべのたとえ      
マタイ18:21−35


 金曜日、土曜日と裁判の関係で、テレビは9年前の地下鉄サリン事件の映像を至るところで流していました。死者12人、重軽傷者約5500人。そのうちの多くが今なお後遺症に苦しめられています。以前からテロが東京であるとしたら地下鉄だと言われていたそうですが、私たちが普段使っている地下鉄です。朝8時の混雑です。ニューヨークの同時多発テロのような恐怖と隣り合わせに生きていることをあらためて実感しました。
 地震や災害や事故で愛する者のいのちを失うこともあるでしょう。しかし、犯罪で家族のいのちを失うことは、さらに苦しいのではないでしょうか。なぜなら、そこには加害者に対する理不尽な思いと憤りがついて回るからです。その意味で、傷は二重三重に深いのではないでしょうか。テレビの報道の中に、中川智正死刑囚のお母さんのインタビューがありました。東京拘置所に月に一回面会に行く姿でした。「息子の死には正当な理由があっても、息子が殺した多くの方々の死には正当な理由がない」。ぼそりとおっしゃっていました。私は、その言葉に、死をもってさえも償えない罪に対する、母親としての謝罪の思いを感じました。
 こういう話を聞く度に、事件を見るたびに、自分だったら、どのようなその傷を乗り越えていくのだろうと、漠然と思い巡らします。それはそれは辛い経験に違いありません。真実を知りたいと思うでしょう。きっと相手に対する憤り、憎しみを抱くでしょう。いつのまにかその憎しみに縛られていきているかもしれません。罪深い世界です。罪に傷ついて、罪を作り出す、複雑な世界です。
 なにも犯罪だけではありません。テロだけでも戦争だけでもありません。小さな事件、小さな人間関係、ごく日常的な世界で、私たちは赦す・赦さないという大きな問題と格闘して生きているのです。生きている限り、何らかのかたちで私たちは傷つけられます。その時、一瞬にして、赦す赦さないが、心の大問題になります。不安というものが、一瞬にして心を闇の中におとしめるように、憤りの感情は私たちの心の大問題となります。その時私たちが抱く怒りの感情は、あらためて「やられたら、やり返せ」「憎しみに対して憎しみを」という方向にあるに違いありません。自分を傷つけた相手を、無視する、嫌がらせをする、その倍を返す、という勢いに駆られるに違いありません。

                                       ●1万タラントの恵み

 相手を赦すことの難しさ――それが今日のテーマです。たとえの中では、兄弟を赦すという設定になっていますが、新約聖書の敵を赦すという教えと重ねるならば、このたとえ話は兄弟姉妹間のいざこざだけでなく、一般的に意味での他者に話しを普遍することができるでしょう。
 21節のペテロの質問を見てください。
 「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 7回まででしょうか、といったペテロはがんばりました。「仏の顔も三度まで」と言われるくらいですから、ペテロは精いっぱいの限界でがんばりました。ところが、イエスさまの答えは驚きでした。7度を70倍するまで赦しなさいとは、無限に赦しなさい、ということです。
 そんなに赦せるのか?――憐れみにとんだ神さまは、赦されても、被害者である私が、そんなふうに赦せるのか、とんでもない! それは、とんでもなく難しいことではないでしょうか。
 そこでイエスさまは、非常に興味深いたとえ話しをなさいました。
 「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた」(23−24節)。
 決算の時期がきて、王は、財政を任せていたしもべを呼んで、決算報告をさせました。その中で、大きなごまかしが発覚しました。不正額は1万タラントというとてつもない数字です。1デナリが、1日分の給料で1万円とします。1タラントは6000デナリですから、1万タラントとなりますと、普通の電卓では桁が足りなくなってしまいます。なんと、6千億円です。
 当時のユダ、サマリヤ、ガリラヤ、パレスチナ一体の税金の総計が、現代の日本円で、約1億ですから、考えられないような数字です。たとえにしても、少々、非現実的ではないでしょうか。
 実は、この数字が、たとえのポイントではないでしょうか。私たちはマタイの主の祈りを用いて、「我らの負い目を赦したまえ」と何の気なしに祈ります。しかし、「負い目」と言われている、私たちが神に借りている額、すなわち私たちが罪を犯すことによって、神に借りることになる額は、生涯かけて働いても、返せるような額ではないということです。返す方法があるとすれば、罪の支払う値は死である、とあるように、死以外にありません。
 王は、これほどの額を使い込んで、借りをつくってきた彼にそれなりの覚悟をつきつけます。「自分も、妻子も、持ち物全部売って、返済せよ」。返済できなくても、そうして償わなければならないと。
 この時、しもべは、自分が取り返しのつかない罪を犯したことを少しは自覚して申し述べました。
 「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」(26節)。
 彼は、ここで、特殊な哀れみをこうているのです。それは、「猶予」です。「時間をください。そうすれば、何とか6千億を都合つけます」。しもべは、時間さえあれば、努力さえあれば、どうにかなると錯覚していたのです。6千億円という自分の過ちの大きさ、深刻さに気がついていないのです。人間的な頭で考える憐れみとは、「猶予を」という程度のことなのでしょう。
 そのとき神が考えておられた憐れみは、そんなものではありませんでした。27節「主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」。主人は、彼を赦したのです。
 人を赦す、赦される、という問題の以前に、イエスさまは、この問題に目を向けるように促されました。あなたは、神によって赦されたものだ。とうてい返すことのできない負債を、帳消しにしてもらった、その負債の重さを考えたことがあるか? あなたには、あなたの受けた恵みの重さがわかるか?

                            ●恵みの重さがわからないしもべ


 このしもべには、その重さがわかりませんでした。彼は、外へ出て行きます。向こうから、仲間がやってきました。その顔を見たら、ピンときたものがありました。「そうだ、あいつには金を貸している」。しもべは、仲間を「つかまえて、首を絞めて、金を返せ」と叫びます。自分が赦されたことを忘れて、小さな借金にめくじらを立てて、飛びついて行きます。
 私たちの多くが、こうではないでしょうか。7を70倍までして赦す赦さないという問題ではなく、また大きな犯罪に巻き込まれて相手を赦す赦さないではなくして、そもそも神が私たちを赦してくださったという重みを受け止めていないのです。だから、小さなことでも人を赦せないというのです。これが私たちの姿です。

 星野富弘さんの詩にこういうのがあります。

体のどこかが人の不幸を笑っている
人の幸せがにがにがしく
「あいつも俺みたいに動けなくなればいい」と思ったりする
身体の不自由から生じたひがみだろうか
次第にふくらんできたような気がする
自分が正しくもないのに
人を許せない苦しみは 手足の動かない苦しみをはるかに上回ってしまった。
 ただ花を見て、白い紙に向かっている時だけ
 その苦しみを忘れる

 もし、冒頭に述べたような事件が、我が身に降りかかったとき、じゃあ、といって赦せるのでしょうか? そんなことができるわけがないと思えます。いや、すべてのことで、そう簡単にできるものではありません。小さな嫌がらせに対しても、私たちはいきり立つでしょう。
 ただ大切なことは、自分も赦されるべき人間、自分も罪人であり、そして自分は赦されている、神によって赦された、ということを思い起こすことではないでしょうか。自分が下ろした重荷の重さ、受けた恵みの重さを、少しでも思い出すことができますように。

 ブラジルに宣教師だったある先生から、こんな話がを聞いたことがあります。先生の友人にダニエルという男性がいました彼は、ボディービルの選手で、彼の家には、様々な大会で筋肉粒々の彼がポーズをしている写真が飾ってありました。彼は、ボディービルのトレーニングジムに通っていて、将来は自分の事務を経営することを目標に、がんばって働いてきました。銀行の融資を受ける段階で、契約書にサインする人が彼の他にもう一人いれば、融資をするというのです。弟が、喜んで協力してくれることになりました。
 銀行から連絡を受けた日、彼は融資の小切手を受け取りに銀行に行きますと、融資担当の銀行員は、彼の顔を見て、何かご用ですかと怪訝そうな顔で応対しました。「いや、お約束の小切手を受け取りに」。
 「それは変ですね。先ほど弟さんがやってきて、あなたの代わりにもって行かれましたよ。そういう話ではなかったのですか?」
 弟は、その小切手を家の借金の返済につぎ込みました。
 ダニエルは、激怒します。まさか自分の弟に、そのようなかたちで欺かれるとは、裏切られるとは夢にも思っていません。急いで弟の家に行ってみると、彼は小さな娘をだっこして出てきた。にらみ合ったあとで、弟がダニエルに言いました。
 「まさか、俺を殴ったりしないよな」
 ダニエルは殴りたくても殴れませんでした。小さな娘を腕にした父親を殴るわけにはいきません。彼は家に帰って、悔し涙を流しました。
 数ヶ月あとに、ダニエルはアメリカからやってきた宣教師に出会い、イエス・キリストを信じて、クリスチャンになります。夫婦で熱心なクリスチャンになりました。彼は人を赦す愛を学びますが、しかし、あの弟だけは赦すことができません。あまりにもその傷は、深すぎたのです。2年間、弟とは顔を合わせませんでした。弟は兄を避け、兄も弟を避け、しかしいずれあわせることになる。
 ダニエルはある日、街角で弟が向こうから歩いてくるのに気がつきました。距離が近づくに連れ、ものすごい怒りが内側からこみ上げてきました。そしてすれ違いざまに、ダニエルは弟の首を掴んで、ふるえる剣幕で、弟の顔をじっと見た瞬間、彼は、弟を殴ることができなくなってしまいました。弟の顔の中に、お父さんの顔が映し出されてきた。弟とお父さんは顔が似ていたいのです。
 何度殴っても気が済まないと思っていた弟の顔に、自分の愛するお父さんの顔を見てしまったダニエルは、殴れませんでした。弟のゆがんだ顔が、その目が、父親の顔と目と二重写しになったのです。殴られるのを覚悟で、身をすくめる弟を、ダニエルは抱きしめました。しばらく道の真ん中で、抱き合いました。そういう証しです。
 敵の顔の中に、十字架の主の御顔が映し出されたら、私たちもまた動けなくなるでしょう。私たちの祈りは、「主よ助けてください。私が怒りに燃え、憤りを感じている相手の顔の中に、主よ、あなたの顔を映しだしてください。あなたは、その人のためにも十字架にかかられ、その人をも愛されているのですから。その人のうちにおられるあなたの顔を映し出してください」
 私たちは実に複雑な世界に生きています。そしてイエスさまのたとえは、いつも単純です。これが私たちの生き方をまっすぐにさせます。世界が複雑であればあるほど、私たちが赦されている現実をまっすぐに見ることができますように。

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DATE: 2004.03.03 - 23:13

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