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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   婚礼のたとえ
婚礼のたとえ
マタイ22:1−14

 今朝のたとえは、「天の御国は……とたとえることができます」と始まっています。「天の御国は」ときたら、私たちはなにを想像するでしょうか。1998年、プリンストン大学のリー・シルヴァー教授は、一冊の書物で世界を揺り動かし、大学の教室は学生であふれた。その書物の中で彼は、遺伝子操作やクローン技術によって、病が克服され、長寿が約束され、生命の誕生の可能性が大幅に広がり、世界が変わると宣言しました。
 興味を惹いたのは、内容よりも書物の題名、『Remaking of Eden』でした。罪を犯して「死」に定められた人間の生命のあり方を、最新医療が逆転させることができる。したがって、「エデンの再生」です。ある意味で、これがシルヴァー教授が考えた天の御国です。病がない、別れがない、悲しみもない幸福な世界です。
 戦争もない、テロもない、いじめもない、差別もない理想郷として、天の御国を考える人もいるでしょう。私たちもそういう世界を夢描きます。しかし、イエスさまは実にシンプルに天の御国をたとえられました。
  
1)神は招かれる

 2節「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王に王にたとえることが出来ます。」
 天の御国は、人間社会の進歩とも、科学や医学の進歩とも関係がないのです。天の御国は、一人の方を中心にしています。それは、神ご自身です。神が、宴会を準備して、私たちを宴会に招く――それが天の御国だ、というのです。聖書は、天の御国への招待状です。
 神は、招かれる神です。神は、アダムとエバを招いて、召して、ふたりを結び合わせました。神は、動物たちをノアの箱船の中に招かれました。ダビデを王に招かれます。漁師であったペテロに、「私についてきなさい」と招かれます。「教会(エクレシア)」とは、呼び出された人々という意味です。私たちは神によって招かれた人々です。
 聖書の中で、この神さまの招きを最も象徴することばは、「来なさい」(come)です。
     
「さあ、来たれ。論じ合おうと主は仰せられる。たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ1:18)

「ああ。渇いているものはみな、水を求めて出てこい。」(イザヤ55:1)

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませて上げます」(マタイ11:28)

 イエスさまは、十字架にかかる前の週、イエスさまは、ご自身の働きを総括するかのようにこのたとえを話された。
 4節「さあ、食事の用意が出来ました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。」
 そして、招きの声が発せられます。
 「どうぞ、宴会におでかけください。」

2)「気にもかけない人」(1)

 さて、これからがたとえ話の本番です。招かれた人々の反応を見てください。
 5節「彼らは、気にもかけないで、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き……」
 ルカの福音書にはさらに詳しく描かれています。
14:18f「ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』」
 どれを取っても、純粋な、日常的な言い訳です。私たちがだれかを教会に誘うと、よく聞く答えです。誘われた人々は、普段の生活で、その手にあることを掴んで言いました。仕事の約束があるから、接待があるから、久々の休暇ができて旅行に行くから、駄目。いずれまた。そういって、永遠につながる喜びの招待に前に、様々な日常の必要を並べ始めたのです。
 これは、私たちクリスチャンも心得ておくべきことです。多くの人が天の御国にはいれないのは、彼らが極悪人で、犯罪人だからではないのです。まったく害のない、日常の問題が、いつのまにか天への道をふさいでいるのです。招待状は、日常生活のど真ん中にとどきます。ある人にとって、人生の真っ盛り、仕事の最盛期、もっとも忙しいとき、子供の教育のことも、家族の将来のことも、悩みも頭の中にびっしりと詰まっているとき。今この時に、神様のことなど、神様が私をどう思っているかなど、考える余裕もないときです。

 先週、カレブ会のメールによる交わりの中で十時兄の証しを読ませていただきました。私たち教会員も、彼が九州にしょっちゅう出張して、むずかしい仕事に取り組んでいることを知って、祈っています。そのまま引用します。

  今朝、ホテルの窓を開けたら目の前に大きなカトリック教会がありました。いつも泊まっているのに今日まで気がつかなかったなんて何を見ていたのでしょう。その教会は現代風の建物で壁面にパウロの壁画がなければ気がつかなかったと思います。十字架はどこかと探したら、ホテルの窓よりもはるか上の高いところにあり、しかもホテルの窓からでは真横から見ることになるので避雷針のようにしか見えませんでした。これじゃ気がつかないわけだと納得しながら、新しい発見に気分を良くしてしまいました。
 教会の十字架がはるかに高いところにあり、また、見る角度によっては十字架であることにも気づかないように、人間の目線で物事を見ていたら、神様の働きに気付くことはできないのでしょうね。今回の仕事のことでもいろいろ考えさせられましたが、うつむいてばかりでなく「上を向いて歩こう」と思った次第です。
 
 日常生活のただ中に、主の招きがやって来ます。わたしのところに来なさいという招きが。ですから、それに「気にも留めない」ほど、私たちは日常生活に埋もれてはいけません。

3)気にも留めない人(2)

 王は先に招待していた人を諦めて、通りにしもべを遣わして、出会った者みんな宴会に招きます。
  9−10節「だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
 良い人も悪い人も、貧しい人も、体の不自由な人も集まってきて、宴会場は一杯です。これが私たちですね。招かれる資格のない者が、王のしもべに出会って、招きに応答したというだけで、それだけの理由で、宴会にやってきたのです。
 さて、そこに婚礼の礼服を着ていないものが一人いました。気にも留めない人パートUです。
 教会の歴史の中で、特にプロテスタントの世界で、この「婚礼の礼服」が何を意味するのかという論争があります。カルヴァン派は、それはキリストの義であり、それを信仰によってきちんとまとうことだと主張します。それに対して、ウェスレーは、それはキリストの恵みによって私たちが自分自身の礼服を整えること、つまり、恵みにふさわしく生活していくことだと主張します。
 そうした議論にはそれなりの意味はあるのですが、おそらくそれでは、このたとえ話はわからないでしょう。たとえ話のポイントはどこにあるのでしょうか? この追い出された男は、招待を当然かのように、王からの招待が軽々しいことかのように、彼は自分の姿を気にもかけずに、やってきた、ということなのです。
 私たちも、お呼ばれに行くときは、呼ばれた先をよく考   えておかないと、とんだ恥をかくことがあります。私は、礼拝の後に、糸井羊司兄と美代子姉の結婚式に伺いますが、何を着るかと言うことではなく、教会を代表して、祝いの席にはべる責任を感じます。
 王宮の婚礼の席に、この男は、乞食の運動会でも行くように出かけていったのです。それは、彼が来ていた洋服を言っているのではないでしょう。先に招待を受けていた人々が、その招待を軽々しく考えて断わってしまったように、この男も、天の御国へはいることを軽々しく、考えていました。感謝もなく、驚きもなく、「ただ飯の絶好の機会」ぐらいにしか考えていなかったのです。

 ドリューの大学院に年に一度のパーティーがありました。格調高いパーティーで、タキシードを着ていく人もいました。主催者は学監、場所は彼の豪邸です。彼が大金持ちなのではなく、奥様がそういう家系でした。門があってドライブウェイがあって、門から玄関まで車でしばらく走ります。
 私は最初の年はよくわかりませんでした。招待状はMr. and Mrs.でしたが,直樹が小さかったので、圭子は留守番させました。どうせ肩の凝るようなところにいっても……。洋服に気を付けなければなりません。別に気取ることはないですが、ジーパンなら恥をかきます。それは、他人の目を気にして、恥とかいう問題ではありません。
 ホストである、deanが、家の玄関で、一人一人握手をして、挨拶をしてくださいます。「よくおいでくださいました」と歓迎してくれるからです。彼は正装をしてます。しかもタキシードでは、そういう服を着てこなかった人が引け目を感じるから、わざと一段落としたスーツで、しかし礼儀を尽くして歓迎してくれるのです。一年の、勉強の苦労を拭うように、暖かく個人的に迎えてくれます。
 「今日は、奥様はごいっしょではないのですか」。
 「子どもが小さいものですから……」
 「それは残念です。お待ちしておりましたのに。お子さんを連れていらっしゃっても、問題ないのですよ。みなさん喜びますよ」
 私は、こんなに個人的に暖かく迎えられるパーティーとは、まったく想像もしていませんでした。そこに招かれたことの喜びを一人でかみしめ、感謝しました。
  
 服装のことではないのです。神さまが祝宴を設けて、さあ来なさい、わたしがあなたを祝福しようとおっしゃっているところに、面倒くさい、つまんない、早く終わればよい、何の得があるのか、そして他に日常的なことを頭に思い浮かべているのなら、と言っているのでは、来たとしても、断った者と同じだというのがこのたとえの意味なのです。
 婚礼の礼服は服装のことではなく、感謝のことであり、礼拝を特権として受け止めるところの神に対する崇敬です。
  みなさんが礼拝に来るたびに、イエス・キリストが一人一人を迎えて、「今日はよく来た。忙しい中、良く来た」とおっしゃってくださいます。その招きを感謝と恐れをもって、襟を正して礼拝に出ることができますように。
 

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DATE: 2004.03.23 - 22:52

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