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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   花婿を迎える十人の娘たち
花婿を迎える十人の娘たち
    マタイ25:1−13

 イエスさまは、このたとえを地上での働きの最後に語られました。しばらくしたら、十字架にかかり、復活後、天に昇られます。それから再び地上に来る、その終わりの時まで、主を信じる私たちがどのように生きるべきか、そのことを教えるために、話されたたとえです。
 この教えについて、特にマタイの福音書は充実しています。24章でこの世に終わりが来ることを話されます。ところが、その日がいつであるかは、隠されていることを明確にされます。これは、大切な真理です。この世の終わりも、私たちの人生の終わりも、それがいつ来るのかは、隠されているということをイエスさまは、繰り返し強調されました。 
 37節には、終わりの日は、「ノアの日」のようにやってくると言います。前の日まで、人々は飲んだり食べたり、普通の生活をしているのですが、洪水は突然やってきてすべての人をさらってしまう、というのです。あるいは、終わりの日は、夜に泥棒がやってくるように不意をついてやってくるというのが、43節からのたとえです。そして、45節からは、主人がしもべに全財産をあずけて旅に出る、ところがしもべは、48節「主人はまだまだ帰るまい」と思って、仲間を呼んで大騒ぎをしているところに、主人が帰ってきて大変なことになる、というたとえです。
 イエスさまは、一貫してひとつのことをおしえておられます。
 42節「だから、目を覚ましていなさい」
 44節「だから、あなたがたも用心していなさい」
 25:13「だから、目を覚ましていなさい」

            ●たとえの全体像

 さて、このたとえを見てみましょう。1節「天の御国は、それぞれがともしびをもって花婿を出迎える十人の娘のようです」。当時のユダヤの結婚式は、夕方に始まります。花嫁の家が婚礼の宴を主宰して、そこに花婿が到着して、結婚式とお祝いが始まります。夕暮れ時の結婚式――映画の「屋根の上のバイオリン弾き」がそうでしたね。先日、司式しました高橋望君の結婚式をしたときがそうでした。式が夕暮れ時の屋外です。空が紺色に染まって、だんだん建物のあかりやスポットライトの幻想的な味わいが増していく、とてもロマンチックな雰囲気でした。十人の娘たちが、それぞれにともしびをたいて、花婿の到着を待っているのです。
 ところが、到着が遅れ、五節「みな、うとうとして眠りはじめた」。花婿がやってのは、真夜中でした。「そら、花婿だ。出迎えよ」という叫び声とともに、娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えました。ところが、愚かな娘たちは、油を切らしてしまいました。慌てて、愚かな娘たちは、油を買いに行きますが、その間に花婿が入ってきて、彼女たちは閉め出されてしまいます。

           ●油は分けてあげられない

 さて、この現実の厳しさを3つの点から整理しておきましょう。第一に、最後の瞬間、油はわけてあげられないのです。愚かな娘は頼んでいます。8節「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです」。それなのに、賢い娘は応えます。「いいえ、それはできません」。うして、こんなに厳しい事を言い放つのでしょうか。
 それは、非常に大切な霊の世界の原則に触れているのです。イエスさまは、私たち一人一人がかけがえもなく貴い存在であることを教えてくださいました。社会的な立場がどうであれ、人間的な資質がどうであれ、過去や現在がどうであれ、私たちはみな、一人一人かけがえのない大切な存在です。かけがえのない、ということは、他の者によって取って代わることができないということです。だれそれではない、その人を神が愛してくださるとしたら、同じ原理で、誰それではない、その人の生き方を神は問われるのです。
 私たちはできる限り互いを助け、とりなし、祈り、共に生きています。しかし、一人一人がかけがえのない存在であるというのなら、だれも代用がきかないことを認めなければなりません。どんなに仲良しであれ、夫婦であれ、兄弟であれ、親子であれ、私たちがかけがえのない「個の存在」を持っているなら、最後に私たちは一人一人が問われることになります。だから、ある意味できびしいのです。

              ●「戸が閉められた」

 花婿と賢い娘たちが婚礼の入ると、10節「戸が閉められた」とあります。これで終わりだということです。昔、ギリシャ圏の教会で、礼拝があり、その最後に聖餐式がありました。礼拝には、すべての人が出席できます。しかし、聖餐式の前に「戸を閉めよ」と宣言します。なかなか厳しいなと思いますが、サクラメント(秘蹟)を守るためですね。それが厳しいとしたら、終わりの日に戸が閉められるのは、はるかに厳しいです。なぜなら、戸は二度と開かないからです。
 R.C.Sproulという神学者が、この世に愚かしい思いこみが2つあるといっています。一つは、自分は、罪人ではない、と考えることです。でも、この愚かな思い込みは、数からいえば、大したことはない、というのです。もっと危険な、もっと広範囲に広がっている思いこみは、第二のものです。それは、神様は憐れみ深く、慈悲深い御方であろうから、何とかなるだろう、ということです。これくらい誰でもやっているし、教会にいったこともあるし、ある程度まじめだし、一生懸命に生きているし、まあ何とかなるだろう。
 いえ、憐れみ深い主は、そうはおっしゃいませんでした。戸が閉ざされたら、もう開かれないのです。そこから閉め出されたら、その時もう中には入れないのです。

                ●待ちこがれていたのに……

 この愚かな娘たちは、華やかな、幸せに満ちた、婚礼に自分も出席するはずだったのです。ここが一番悔しいて悲しい現実でしょう。最初から、喜びの宴にあずかる予定がなければ、それはそれで仕方がないことです。そうではなく、ともしびをつけて待っていたのです。この日を待ちこがれていたのです。このたとえは、クリスチャンのためにあるのです。世の人ではありません。
 せっかく準備してきたのに、べてがフイになります。なぜでしょう? 目を覚まして、油の用意をしていなかったからです。
 問われているのは、準備すべき油が何であるのか、ということではありません。それは主を向かえるのにふさわしい信仰、主の召しにふさわしい愛にあふれた生き方、心の聖さ。それらは、ある意味で準備しても準備しきれないほど、私たちの能力を超えたことです。
 最後の晩餐の席で、主が「この中の一人がわたしを裏切る」と言われたとき、このマタイの福音書の記述によれば、弟子たちはみな代わる代わる、「まさかわたしのことではないでしょう?」と尋ねています。まさか、私のことですか? 人事ではなかったのです――そこには、みなの自信のなさが現れていました。私たちの油はいつも不十分な質のものです。
 ところが晩餐の終わりで、ペテロは自信に満ちて言います。「私は、たとえみんながつまずいても、私はつまずきません」、彼は力を込めて言い張ったのです。自己過信が油断を生み出し、この心の隙間が致命的になります。このたとえで、問われているのは、「油断」です。まさに油が切れること、つまり「大丈夫だろう」という心の隙間です。主は、まだ来ないだろう。私の人生はまだ終わらない。私は大丈夫、この心の隙間にサタンがつけいるのです。まさに油断大敵です。

 救世軍に山室軍平という名説教者・伝道者がいました。彼がこんなたとえを話しています。
 ある時、クリスチャンでない一人の主人が、熱心なクリスチャンのしもべを連れて、狩りに出かけました。その途中で、主人は、しもべの信仰を馬鹿にしてこういいます。
 「おまえは、クリスチャンなどと言っているくせに、年中、悪魔に試みられるとか、誘惑におそわれるとか、言っておる。いかにも、意気地のない奴だ。おれなんかは、神さまとキリスト様も信じていないが、それでもいっこうに悪魔に苦しめられると言うことはない。」
 しもべは、平気な顔をして、答えました。
 「それは、どうですかね、旦那。これから狩りに行った先で、散弾で鳥をお打ちになりますね。その弾に当たった鳥の中で、どいつを一番先におさまえますか。弾が急所に当たって、死んだ奴ですか。それとも、かすり傷ぐらいで、すぐにも逃げそうな奴をおさまえますか。 
 もちろん、かすり傷の方でしょう。逃げそうな奴を先に押さえて、弾が急所に当たった鳥は後回しにしますでしょう。 旦那様。おおこりにならないでくださいましよ。神さまもキリスト様も信じないで、したい放題している旦那様は、悪魔から見れば、急所に弾が当たった鳥です。ほっといても、逃げる心配なんかないんですから、誘惑しませんよ。 
 ところがわたしの方は、多少かすり傷ぐらい受けていますが、いのちの方は大丈夫ですから、放っておいては大変。悪魔は、旦那様の方はそのままにしておいて、もっぱらわたしをいじめに来るんです。

 なかなか面白い話しです。最近、信仰の腰がどっかり据えられた、弱さも感じない、健康的にも、経済的にも絶好調――もしかしたら、弾が急所にすでに当たっているのかもしれません。大丈夫なとき、順調なときが一番危ないのです。なぜなら、そういうときに私たちは油断するからです。
 主は私たちにさまざまな試練や課題をくださいます。それは、それらの中に埋もれて失望するためではなく、そこから目を主に注いで、信仰を生かすためです。

 イエスさまは、目を覚まして祈り続けなさい、とおっしゃいました。その祈りを最後にご一緒に祈りましょう。

詩篇139篇23−24節「私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」。

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DATE: 2004.04.26 - 09:09

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