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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   岩の上に家を建てる私たち
たとえの最後:岩の上に家を建てる私たち
         マタイ7:21−27

 以前、知り合いの牧師から、ブライダルの仕事を誘われたときがありました。土曜日や祭日にホテルと契約をして結婚式を司式して、その前に結婚カウンセリングの時を持つことで伝道の機会とするわけです。私には時間的に許されませんでしたが,お断りいたしまし。たいへん貴いお仕事だと思っています。その先生から、資料が送られてきたときに、ホテルで結婚式を司式されるとき、どんな説教をしたらいいのか、あるいはどんな説教は望ましくないのか、という研修会の資料が同封されていました。
  その中に、思わず吹き出し、思わず納得することが記されていました。最近のホテルで式を挙げる場合、説教の箇所として、愚かな人は砂の上に家を建て、賢い人は岩の上に家を建てた、という、このイエスさまのたとえを使ってはいけない、というのです。なぜなら、最近のはやりのホテルは、横浜も千葉も、東京湾のフロントに立っていますでしょう。つまり、ホテル自体が埋め立て地の上に立っているということは、岩の上には立っていないのですから、この話を持ち出すと、ホテル側がいやがる、というのです。いや、なかなか勉強になりますね。
 私は、結婚式で、このたとえからお話をしたことはないのですが、実際かなりの牧師がこのたとえを用いるようです。たとえを読んでみると、なるほど、という理由があます。それは、ここでイエスさまは人生を「家を建てる」ということにたとえているからです。結婚する二人は、これからいっしょに家を建てるのです。それは共同作業で、それは時間のかかる作業、しかし報いの大きな作業、その家は、どんな風雪にも試練にも耐えなければなりません。やがて二人で振り返って、一緒に建ててきた家という夫婦の人生を眺めるときが来るのです。
 結婚式の時に、夫婦に向かって牧師がこのたとえから説教したとしたら、そこには強い願いと励ましが込められているでしょう。人生のどんな雨風にも耐える、しっかりした家を二人で築いていってほしい、と。
 その意図は、たとえばなしのイエスさまの意図にかなっています。このたとえ話は、この山上の説教の最後に出てきます。5章から始まって、長い教えが続きます。そして最後の箇所に、主の願いが込められていると思うのです。わたしの教えに耳を傾け、わたしの救いにあずかるあなたがたは、しっかりした家を造ってもらいたい。信仰生涯とは、クリスチャン人生とは、家を建てるようなものだよ。時間も労力もかかる。でも、一生かけて、人生のすべてをそこにつぎ込んで、しっかりした家を建てほしい。そのようなイエスさまの暖かい思いが込められているように感じます。
 今朝は、2つのポイントで、イエスさまの暖かい願いを受け止めようではありませんか。

           ●大いなる勘違い
 それは、21節に出てきます。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく……」。この人物は、確かにイエスさまに対するあこがれや親しい思いを持っていました。それが、この「主よ、主よ」という呼びかけに表されています。1回ではなく、2回呼びかける方が、親密さ・暖かさが込められている、と言われています。
 聖書ではそうです。神は芝の中からモーセを何と呼ばれました? 「モーセ、モーセ」・・・2回です。イエスさまが、ダマスコの途上のパウロを何と呼ばれました? 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」・・・やはり、2回です。
 神がモーセを呼ばれたように、よみがえりの主がサウロを呼ばれたように、暖かく、親密な情愛を込めて、私たちは「主よ、主よ」と呼ぶのです。しかし、呼びかけるだけで、そう祈るだけで、実際、イエスさまが教えてくださったことを全く実行しないとしたら、それは感傷的な信仰にすぎないのです。どんなに慕わしい声で呼びかけても、神の御心から遠く離れたところを生きているとしたら、あれほど熱心な「主よ、主よ」とは何だったのか? そうイエスさまは首をかしげておられるのです。
 いや、感傷的な信仰だけでなく、この人物は、「イエスの名」、すなわち主の権威を借りて、キリスト教的な活動に奔走していたのです。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか」(22節)。預言をする、悪霊を追い出す、奇跡を行う、それほどまでに宗教的で霊的な活動をしていながら、パウロは後にコリントの教会の人々に言ったではないですか、「もしあなたの心に愛がないのなら、何の値うちもありません」――それは、大いなる勘違いだ。
 立派に教会生活、信仰生活をやり遂げているような錯覚に陥ってはなりません。いつまでも残るのは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。キリストのみことばを実践するということは、何よりも愛を実践することです。

          ●みことばを土台とする人生

 元旦礼拝から、主のたとえのシリーズを始めて、一番最 初の説教をおぼえていらっしゃいますか? 最初は、種まきのたとえで始まりました。神の国は、神の国の祝福は、収穫ではない、種まきから始まるということを強調しました。しかしもその種というのは、主のことばです。主はみことばの種を私たちの心にまいてくださり、それがどう成長するのかを楽しみに育ててくださるのです。ですから、もし私たちの成し遂げたことで、さかのぼったときそれがみことばに行き着かないとしたら、なんと残念なことでしょう。神の国のすべての祝福は、みことばの種に行き着くものだということを心に刻んでおきましょう。
 そうして始まったたとえのシリーズですが、ここ最後で、もう一度その原点に戻らなければなりません。それは、私たちの人生の土台は、みことばです。自分の人生、家族、仕事、それらに心血を注ぐことは、家を建てることです。愚かな人も、賢い人も、一生懸命に家を建てていました。家を建てるという点では、二人とも同じように真剣であったはずです。しかし、神の目から見たときに、その結末は、正反対でした。やがて雨が降って洪水が押し寄せるというのは、最後の審判でしょう。いやそれだけでなく、度重なる人生の試練でしょう。そのとき、倒されることなく、試練も最後の審判にも耐え行く人生は、感傷的な信仰ではなく、口だけの信仰ではなく、ただ忙しいだけの信仰ではなく、主がこの心に蒔いてくださるみことばという土台の上に立っていたのです。蒔いてくださったみことば、そしてそのみことばを育てていくことこそが、私の人生の土台だ、ということができますように。
 アメリカで活躍している、ラビ・ゼカライアスというインド人の有名な説教者がいます。彼はある日、オハイオ州立大学の講演に招かれたそうです。空港から会場へと車にのって移動しているとき、キャンパスの中にある有名な、ウェクスナー・アート・センターという建物が目の前に広がりました。大学が誇る、芸術的な建造物です。大きな柱は、何かを支えているわけではなく、階段はどこかに行き着くわけでもなく。建物の構造は、外から見ると規則性がないのです。何かを目指すわけでもなく、どこかに行き着くわけでもなく、秩序を失ったこの世界を象徴するような建物だというのです。
 私は、この話を読んでインターネットで確認しましたが、まさにそういう意味では現代的な表現に芸術的な建造物でした。ゼカライアス先生は、運転をしてくださっている大学の方に尋ねたそうです。
 「あの建物は、土台の部分もあんな感じなんですか?」
 そうしたら、その方は、笑って答えたそうです
 「そんなはずないじゃないですか。土台は古典的ですよ」
 それを聞いて、ゼカライアス先生は、なるほどと思ったというのです。私たちの人生の家の部分は、人それぞれに違いがあり、時にあらぬ方向に発展して、階段を上がったつもりがどこにも行き着かず……。私たちは誰一人として、整然と秩序だった人生を送ってはいないのです。迷うこともあり、傷つくこともあり、病むこともあり、行き詰まることもあります。いや、それだけでなく、私が建ててきた家に、雨が降って、洪水が押し寄せて、風が吹いて、激しく家が揺らされます。人が見たら、奇妙な建物だと思えるほど、私の家は、信仰生涯は混乱しているかもしれません。
 しかしそんな私ですが、土台はしっかりしています。私の信仰生涯の土台は古典的です。私の心に蒔かれる主のみことばの種、それをきちんと、そして素直に心に受け止め、心を込めて忍耐をもって育てていくことを、私の信仰の真髄としています。私が心から願うことは、みことばを生きることです。私は、家の部分に必死です。仕事に家庭に奔走し、過去を振り切ろうと、将来を保証しようと、賢明です。しかし、主よ私は決して土台を忘れていません。だから礼拝を大切にし、神のことばを信仰をもって受け止め、みことば生きることができるように、主の力を真実に求めます。土台の部分をおろそかにすると、人生が傾いていくのを私は知っているからです。家を建てるという私の人生で、最も大切なのが土台であることを私は知っているからです。

 1174年、イタリアの建築家ボナーノ・ピサーノが、彼の生涯で最も有名な建造物に着手しました。ピサという町の大聖堂に隣接して、鐘の棟を建てることです。これが有名なピサの斜塔です。もちろん着工時には垂直でした。しかし徐々に明らかになります。地盤の堅さが不均等で、それに対して土台が小さすぎたと。
 傾斜が始まり、それをさけるために、傾いた反対側重量を重くして積み上げ、完成まで176年かかります。しかし、どんなに上層部分でバランスをとろうとしても、土台の部分はどうすることもできませんでした。
 人生という建物が傾き始めたら、上層部分でバランスをとろうなどと小手先のことでごまかすことはできません。土台です。みことばを聞いて実行するという土台に人生の勢力を注ごうではありませんか。
     

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DATE: 2004.05.17 - 11:37

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福井 透 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 220.110.236.73
感傷的になり熱心であっても愛のない信仰に落ち入りやすい自分に反省させられました。
2004.05.17 - 00:00 
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 前文 賛美に伴われた祈り
 次文 母の日:  愛を背負って主のもとに
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