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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   エリヤの祈り――情熱と忍耐
エリヤの祈り――情熱と忍耐

 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」
 そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。
 それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」
 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。
                              (U列王一八・四一〜四五)

●エリヤの秘訣

 聖書のどこを調べても、エリヤほど超人的な預言者に出会うことができるでしょうか。たったひとりで、荒野に身を潜め、偶像崇拝に染まった当時のイスラエルに対して預言をします。中でも勇壮なのは、一八章に記録されている、バアルの預言者との対決シーンです。バアルの預言者数百名を相手にたったひとりで対決を挑みます。どちらの神が、どちらが天から火を下すことができるか、祈りの勝負です。
 ヤコブは後に、この超人的な預言者エリヤを引き合いに出して、こんなことを言います。
 「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして再び祈ると、天は雨を降らせ、地はそ の実を実らせました」(五・一七)。
  ヤコブはここで、エリヤを引き合いに出すときに、まず彼が「私たちと同じような人」であったことを思い起こさせてくれます。天から火を呼び、雨を呼ぶエリヤであるが、まさに彼は私たちと同じような普通の人であったというのです。その上で、ヤコブは、エリヤの力の秘訣が祈りにあったことを強調します。祈りこそ、私たちもまたエリヤに倣って命がけで実践すべきことだというのです。一人でイゼベルとアハブに立ち向かったエリヤの真似をすることは難しいかもしれません。また彼の秀でた風貌を真似してみても、意味のないことでしょう。しかし、祈りという、エリヤが持っていた最大の武器が私たちにも与えられているのです。
 エリヤの祈りはさまざまな場面で描かれていますが、今朝は、その中で最もエリヤに特徴的だと思う記事を見ていただきます。

1)祈りを全うする

 カルメル山での対決が終了したとき、エリヤは王アハブに宣言します。
 「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから」。
 雨をとどめるエリヤの祈りから始まって、三年六ヶ月の間、イスラエルに飢饉がありました。地割れした川底、一面褐色の大地、倉に残ったわずかな食料、死んでいく老人や子どもたち、この大飢饉が終わるというのです。
 「大雨の音がする」――その朗報で、民は三々五々家路につきます。王も民も、残り少ない食糧を飲み食いしようと帰って行くのです。ところが、エリヤは、再びカルメル山の頂上へとひとり登っていきます。四二節の「アハブは、飲み食いするために(サマリヤへ)上って行き、エリヤはカルメル山の頂上へ登り」という描写は、実に対照的です。方向が逆なのです。アハブとイスラエルの民は、ひと安心して、神の聖名を賛美して帰っていきます。しかし、この流れとは逆に、エリヤは再び山に登り、地にひざまずいて、自分の顔を膝の間にうずめ祈ります。また祈るのです。雨が降るまで、エリヤの祈りは完結しないのです。
 私たちは、ホッと一段落ついたときに、早々と祈りの手を下ろしてしまいます。求道者を追い求めながらも、信仰が芽生えた段階でひと安心して、祈りをやめてしまいます。いやしのために祈りつつも、快方の兆しが現れると祈りの熱が冷めてしまうのです。つまり、周りの人々が飲み食いしようと家路につくと、自分もまた一緒に歩いていくのです。ああ、私に欠けているのは、エリヤのように、最後ひとり残って祈りを全うするような責任感だと、つくづく反省させられます。
  いや、責任感だけでなく、信仰です。エリヤは激しい大雨の音を聞いていました。祝福が押し寄せてくるのを彼は、聞いていたのです。その信仰に支えられて、祈りを全うするのです。

2)祈りの苦闘

 地面にしゃがんで、膝の間に顔を埋めるエリヤの祈りは、苦闘でした。それは、かならずしも彼の姿勢に現れているわけではありません。エリヤは「山頂」と呼ばれる所にいたようですが、そこから海は見えません。お付きの者に、地中海の方向を見渡し、雨の兆しを確認するように命じます。走って確認し、返ってきた答えが、「何もありません」でした。真っ青な空が見渡す限り広がっています。どこを見ても、雲はありません。降水確率0%です、という答えが返ってきたのです。
 エリヤは、彼を励まします。「七たび繰り返しなさい」。それは自分に対する挑戦でもあります。そのたびに答えは同じ報告を携えて戻ってきます。「まだだめです。まただめでした……」。とうとう七度目に「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上ってきます」という報告に変わりました。
 「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい」(エペソ六・一八)。
 「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」(コロサイ四・二)。
 「どんなときにも」とか「たゆみなく」とは、こういうことではないでしょうか。それは、「何の変化もありません。相変わらず。まただめでした。まだだめです」――その現実に負けない情熱と忍耐です。

3)勝利の矢を渡されて

  やがてエリヤは、祈りの秘訣をエリシャに伝授します。そしてエリシャは、その秘訣をイスラエルの王ヨアシュに伝授しようとします。聖書の箇所はU列王記一三章に飛びますが、私はここに結論を導きたいので、ご一緒に見ていただきます。 一四節にこう始まります。
 「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、『わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。』と叫んだ」。
  イスラエルの王ヨアシュは、エリシャの臨終の知らせを聞きつけ、何はさておき駆けつけました。これまでヨアシュは、内政外政の両面で神の人エリシャにすべてを頼ってきたのです。ヨアシュにとっては、エリシャは、「イスラエルの戦車と騎兵たち」に匹敵する存在でした。そのエリシャを失う時が来たのです。
 臨終の床に駆けつけてきた王に、エリシャは最後の力を振り絞って、祈りの秘訣を伝授しようとします。泣き崩れているヨアシュに、エリシャは一五節で「弓と矢を取りなさい」、そして一六節で「弓に手をかけなさい」と命じます。エリシャは力を振り絞って、床から起き、弓に手をかけたヨアシュの手に自分の手を重ねました。こうするんだ、こうやるんだ、といわんばかりに彼は自分の手を重ねてみせました。手を重ねることによって自分の持っているものをヨアシュに受け継がせようとしていのです。
 彼が持っているものは何でしょうか。それは、「主の勝利の矢」です。
 「エリシャは言った。『主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす』」(一七節)。
 エリシャが、手を重ねて王に与えたのは、前進する勇気と、神を信頼する信仰でした。それは、「祈りの矢」と言うこともできるでしょう。神は、エリシャを取り去ります。しかし、祈りという勝利の矢まで取り去るのではありません。
 エリシャの目は輝いていました。勝利の矢を伝授しようと燃えていました。ついで彼は、王に「矢を取りなさい」と言い、「それで地面を打ちなさい」と命じます。ここで興味深い展開が記されています。
 「すると彼は三回打ったが、それで止めた。神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう』」(一八〜一九節)。
 何が言いたいのでしょうか? 回数の問題なのでしょうか。いいえ。問題は、勝利の矢に対する情熱です。祈りに対する真剣なこだわりです。ヨアシュは、半信半疑で、勝利の矢をポンポンポンと三回、何気なく打って止めてしまいました。勝利の矢をせっかく手渡されたのに、せっかく教えてもらったのに、情熱をもって真剣に取り組むことをしませんでした。
 私たちヨアシュは、反省しなければなりません。それは多くの信仰の先輩が、手を添えるようにして、主の勝利の矢である祈りを教えてくださいました。そのような先輩が私たちのもとから取り去られても、主の勝利の矢は、そこにあるのです。私たちはこの手に勝利の矢を握っているのです。さて、それにどれほどの情熱とこだわりを込めて、使っているのか、それが問題です。

 私は昨日、妻に促されて、久しぶりにO姉に電話をいたしましました。姉妹は、腫瘍が次々にできていく難病と闘っておられることは、皆さんの知るところで、教会でもいつも祈っています。最近、お目にかかることなく、すっかり順調ではないかと私は勝手に想像していました。
 しかし、現実は、あれからすでに二回手術され、もう一つ大きな手術を八月に控え、それを受けるか受けまいか迷っておられるご様子を伺いました。姉妹の方からは、行き先不透明で、次々腫瘍が発見される中、なかなか報告の機会がつかめなかった、どう説明したらいいか、どこから話したらいいのか、ホームページでメッセージを読み、礼拝を守りながら、なかなか連絡は取れなかったとおっしゃっていました。その気持ちがよくわかります。
 神さまが、優秀な医者を次々に備え、それぞれの専門を持って、なし得る限りを尽くして、大西姉の難病と取り組んでおられることが、大きな励みになっていることが、電話から伝わってきました。「途方にくれていますが、行きづまることはありません」というパウロの積極的な気迫を姉妹から感じました。
 しかし、大きな反省が残りました。それは、医者が医者として手を尽くして、なし得る限りをもってこの問題に取り組んでいるとしたら、牧師は牧師として、できる限りのことを尽くしているのだろうか、という反省です。牧師としての私に、常に、究極的に反省があるとしたら、この一点につきるのではないかと思います。この手に握った「祈りの矢」を用いることに、どれほどの労を尽くしているのだろうか。どれほどのこだわりと、どれほどの情熱をもって、勝利の矢である祈りに心を尽くしているのだろうか。これほど大きな反省はなく、またこれほど有意義な反省もないのです。その反省を得ただけでも感謝しなくてはなりません。主よ、私たちを祈りの人としてください。

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DATE: 2004.07.27 - 22:35

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