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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   エリシャの祈り――いのちを重ねて
エリシャの祈り――いのちを重ねて


 「エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。
 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
 それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた」(U列王四・三三〜三五)。

 U列王記四章は、シュネムの女の物語を描いています。話はこう始まります。
 「ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった」(八節)。
 しばらくすると、この女性はエリシャが神の人であることがわかるようになり、彼のために部屋を用意し、そこに寝台と机と椅子と燭台をおきました。いつでも彼がこの部屋を利用できるように整えます。この女性の親切が神によって報われ、この女性に子どもが与えられます。
 しかし、しばらくして、この男の子が病に倒れます。お父さんと一緒に借り入れの手伝いをしていたところ、突然「頭が、頭が」と言って、頭を抱えて倒れてしまいます。現代でしたら、すぐに救急車で救急救命センターに運ばれ、MRIによる脳の診断、適切な手術となるでしょう。少年はしばらく母の胸に抱かれ、母は痛みでゆがむ息子の顔をなで、やさしく語りかけていました。しかし少年は母に抱かれ、その膝の上で引きを引き取ってしまいます。あっと言う間の悲劇でした。
 お母さんは家の屋上にある、かつてエリシャを泊めていた部屋に息子を運び、エリシャが使っていたベッドに寝かせます。お母さんの頭の中は、パニックです。何が起こったのかわかりません。病状を把握できない、突発的な事態です。なおかつ、この死が理解できません。もともと自分が望んで与えられた子どもではなく、神の方で、天から身を乗り出して授けてくださった祝福です。それを、神が突然取り去ってしまわれるとは! どんなにか複雑な感情が彼女の心を乱したでしょう。私たちにも、この母親の気持ちがわかります。
 しかし、彼女は何の迷いもなく、エリシャのもとに一直線に向かいます。
 「彼女は夫に呼びかけて言った。『どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐ戻って来ますから』」(二二節)。
 子どもの様態には一言も触れず、まして息を引き取ったことは夫にも告げていません。「どうしてこんな時期に」エリシャのところへ出かけるのかという夫の問いにも、答えをあいまいに振り切るように家を出ます。
 カルメル山にたどり着いて、彼女を最初に出迎えたのはエリシャに仕えていたゲハジでした。ゲハジは「あなたは無事ですか。ご主人も息子さんも無事ですか」という尋ねますが、なんと彼女はあっさりと「無事です」と言い切っています。ともかくエリシャのところへ一直線です。ゲハジを信用していないかのように、ゲハジには一言も打ち明けません。振り向きもしません。そうしてシュネムの女はエリシャのもとに泣き崩れました。
 ここから始まる物語の描写に今日は心を止めたいと思うのです。そして物語は、エリシャと若い者ゲハジを実に対照的に描いています。子どもを失った女性に同じように向き合っている二人が、そしてそのために祈る二人が、こうも違うのか、ということに目を留めたいのです。

●心の悩みに配慮できるか

 「それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ」(二七節)。
 エリシャの足にすがりつくこの女性を、何故ゲハジは追い払おうとしたのでしょうか。その答えは、エリシャの対応に出ています。エリシャはゲハジに言いました。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから」。ゲハジは、シュネムの女の心の悩みに気がついていませんでした。人の心がわからなかったのです。ゲハジは「お元気ですか」という挨拶をしました。しかし、いかにもそれは形式的な挨拶で、彼はシュネムの女の困惑した、不安に満ちた心を読んでいないのです。
 私はアメリカに行きましたときに、病気になって医者に行きますと、尋ねられます「How are you?」。すると、日本の英会話教育で教えられてきたとおりの答えが思わずでてしまいます。
 「ハウ・アー・ユー?」
 「ファイン。サンキュー。アンド・ユー?」と。
 すると先生は、「アンド・ユー?ではないでしょう。あなた、具合が悪いから病院に来たんでしょう?」
 シュネムの女も、ゲハジの「お元気ですか」の質問に、「ええ、家族はみんな無事です」と答えたのでは、仕方がないではないではないですか? しかし、聖書が伝えているのはそんなことではないと思うのです。それは私たちの日常会話で、当たり前の挨拶を当たり前のように交わします。しかし、その背後に、どんな思いがあるのでしょう。元気だといえば、元気ですんでしまうのでしょうか。
 私たち夫婦は、礼拝が終わった後に、玄関でなるべく多くの人とご挨拶を交わしたいと思っています。こんな暑い夏の日に、良く来てくださいました。そこで、「どうしていらっしゃいますか?」と尋ねて、「まあまあです。ぼちぼちです。元気です」というお返事を聞いて、安心してしまったら、ゲハジなんでしょう。元気そうなお返事をいただいても、あとで大変な課題と取り組んでおられることを知らせて頂いたり、漏れ聞いたりしながら、私たちは考えさせられます。ゲハジではなく、人の心を洞察するような、その背景にある「心の悩み」に敏感に応じるような牧師でなければならない、と。

●責任感の軽さ重さ

 エリヤはシュネムの女に同行しますが、とりあえずゲハジを先に遣わしました。
 「そこで、彼はゲハジに言った。『腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい』」(二九節)。
  彼は言われたとおり、エリシャの杖を子どもの顔の上に置いてみました。ところが、何の答えもなく、何の応答もなかったので、引き返して、「子どもは目を覚ましませんでした」とエリシャに報告します(三一節)。
  ゲハジに使命感や責任感はあったのでしょうか。彼は言われるとおり、エリシャの杖を持って子どもの顔の上に置くことは置きますが、その物理的な行為だけで奇跡を期待したのでしょうか。杖を置いたのは一度だけなのか、それとも何度かそれを試してみたのでしょうか。反応がないことを確かめると、すぐに諦めて帰ってきたように描かれています。ここを読みますと、はーん、どうりで最初の時点で、シュネムの女はゲハジを相手にしなかったわけだ、と納得するのです。
 では、エリシャの祈りはどうでしたでしょうか。エリシャは寝室に入り、戸を閉めた。そしてベッドに上がり、独特な祈りをします。
 その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめた」(三四節)。
 自分の身体を死んだ子どもの上に重ねて、自分のいのちをもって死んだ子どものいのちを包み、いのちのない身体に自分のいのちを注いでいるのです。すこしは子どもの身体は暖まったかに見えるますが、それでも息を吹き返したわけではない。そこでエリシャは一旦ベットから降り、部屋の中を歩き回り、またベットの上に上がり、同じ動作を繰り返します。
 顔の上に杖を置くゲハジと、自分の身体を重ねるエリシャ。祈って一回であきらめて報告に戻ってくるゲハジと、祈りを通して自分のいのちを注ぎ込み、吹き込んでいくエリシャです。
 私は、このいのちのない身体に、自分の身体を重ねて、自分のいのちを注ぎ込む姿が、イエスさまの十字架のように思えてなりません。
 「塩狩峠」という三浦綾子さんの小説は、実際に話に基づいています。明治四二年二月二八日夜、塩狩峠で、最後尾の客車の連結が突然はずれて、逆降暴走します。乗客全員が騒然となっているなか、乗客のひとりでした、長野政雄さんが、自分の身体を差し出して、列車を止め、乗客の命を救います。クリスチャンであった彼の懐から、いつも持っていた遺書が発見されます。
  「苦楽生死 均(ひと)しく感謝。
     余は感謝して全てを神に捧ぐ。」
 何もいのちを投げ出さなくても、乗客全部の洋服や手荷物を投げてかませることができなかったのか。そんな余裕はなかったのでしょう。でももしかしたら、他の方法でも列車は止められたかもしれません。しかし、美しきは、列車が止まったという事実ではなく、彼がいのちを投げ出したということにあります。自分の身体を重ねて、いのちを投げ出して、いのちをを費やて、人を生かしたというのは、まさにイエスさまの十字架です。
 美しきは、祈りの結果にあらず。美しきは、祈るエリシャの姿です。いのちを奪われた身体に、自分のいのちを重ね、部屋の中を歩き回り、再び身体を重ねるような祈りです。主よ、私たちが、私たちの罪を背負われたあなたの姿を、いのちのない身体に自分のいのちを重ねたエリシャの姿を思い浮かべ、祈ることができますように。ゲハジではなく、エリシャのように祈ることができますように。

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DATE: 2004.08.06 - 12:10
LAST UPDATE: 2004.08.06 - 12:11

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