題      名: 宗教多元主義――福音を聞くことなしに死んだ人は?(ウェスレーの回答)
氏      名: fujimoto
作成日時: 2002.12.27 - 22:41
宗教多元主義をどう考えるか――ウェスレーによる包括主義
「宣教研究」2001               藤本 満

はじめに

 「宗教多元主義」という用語は、頻繁に耳にしつつも、ヒック、ニッターらによる論集『キリスト教の絶対性を越えて』を直に読んで理解しなければ、その概念を捕らえることはできないだろう。しかし、以下の解説を読んでいただくことで、多元主義とそれに対するキリスト教の反論の大まかなところは理解いただけると思う。
 この解説は、主に上述の書物に対する反論を集めた『キリスト教は他宗教をどう考えるか』(G・デコスタ編、教文館、1997)から、様々な神学者の意見を引用しつつまとめられている。そこにはドイツ・イギリス・アメリカの現代神学を代表するような名前がある。私は、彼らの神学や彼らの反論にすべて同調するものではない。むしろ、稚拙な方法論ではあるが、彼らの論の中から自分が賛同する部分だけをつなぎ合わせて、自分なりの多元主義に対する応答を考えてみた。論議は不十分ではあるが、多元主義に対する反論は理解いただけると思う。
 最後に、多元主義ならぬ、いわゆる「ウェスレーの宗教的寛容」について、さらに宣教論との関わりも含めて、「福音を聞くことなしに死んだ人はすべて滅びるか」という質問に私なりの回答を記す。

1)宗教多元主義とは?

 現代にあって「宗教多元主義」という問題を神学的・宗教哲学的に論じた代表的な人物はジョン・ヒックである。彼は、1972年にキリスト教が他の宗教をどう考えるかについて、「コペルニクス的転回」をすべきであると提唱した。(John Hick, "Copernican Revolution of Theology," in God and the Universe of Faiths: Essays in the Philosophy of Religion, pp.120-32)。コペルニクス的転回という表現は、後の彼の著作「Problems of Religious Pluralism」の邦訳の題名『宗教多元主義――宗教理解のパラダイム転換』(間瀬啓允訳、法蔵館、1990)にも使われている。ヒックはそれまで自分も共有してきた伝統的な「救いはキリストのみによって」という立場を、「プトレマイオス的」と呼ぶ。プトレマイオスの天動説は、地球を世界の中心において、天体が地球の周りを動いていると理解する。それと同じように、キリスト教が他の宗教をどのように考えるかという問題について、伝統的な理解は、キリスト教を絶対的な真理として中心に置き、他の宗教を自分の周りを回っている惑星のように考え、中心にあるキリスト教の唯一性を主張してきた。それに対して、ヒックはまさにコペルニクス的転回を提唱しているのである。すなわち、キリスト教も、他の宗教と同様に、唯一絶対的真理の周りを回る惑星の一つに過ぎないという考え方である。

      神学に必要なコペルニクス的転回……とは、キリスト教が中心であるというドグマから、中心にあるのはむしろ神であるという自覚への転回であり、また人類のすべての宗教は、われわれ自身のものも含めて、この神に仕え、この神の周りを回っている、という自覚への転回である」(Copernician Revolution・131)

 ヒックが「神」と呼んでいるのは、明らかにキリスト教に顕現されている神と次元を異にする。ヒックは、比較宗教研究の視点から、諸宗教のうちには共通するものが存在することに目を留める。「それは根本的に不満足な状態から、無限により良い状態へと移りゆくという広い意味での救済論的な構造である」(『宗教多元主義』・124)。この救い、あるいは解放はそれぞれの宗教的伝統において独自の言葉で表現されているが、いずれの場合も「自我中心から実在中心への移行」において経験されるものである。そしてこの体験の仕方は、文化によって異なるわけであるから、どの宗教も優位性・絶対性を主張することはできないという。
 その上で彼は、キリスト教の立場から他の宗教を考える三つの選択枝を提示している。先のプロテマイオス的態度を、ヒックは「排他主義」と呼ぶ。これは、救いを一つの特定の宗教に限定するものであって、「教会(キリスト教)の外に救いはなし」というように、他宗教を全面的に否定することである。そしてヒックは、これまでカトリック・プロテスタント両方に見られた宣教姿勢を、「対決姿勢」、「改宗主義」として批判している。ヒックは、「これまで生きまた死んでいった人類の大多数の人々は、キリスト以前か、キリスト教世界の教会の外で生きた」という事実を前にして、素朴に問う。「とすると、神は万人を救おうとする愛の神であるにもかかわらず、実際にはほんの一握りの人々だけが救われるようなしかたで救いを与えることを定められた、という結論を受け入れなければならないのだろうか」(同・Copernician Revolution・122)。
 第二に、他宗教による救いの可能性により開かれた立場として、包括主義がある。極端に単純な言い方をすれば、包括主義とは、キリストの贖いの恵みは、他宗教にも及ぶ、他宗教の救いをも包括するというのである。すなわち、人が救われるとしたら、それはすべてキリストの贖いの故であるが、その人の生きた時代環境において、キリストの福音を知ることなく、その恵みにあずかる、という可能性を認めるのが包括主義でる。
 ヒックの多元主義を論駁しながら、自らの包括主義を明らかにするドイツのプロテスタント神学者の言葉を以下に引用しながら、包括主義の立場に理解を深める。

      イエスは、諸国民が神の国の未来にあずかることを望み見ておられた。だから、「人々が、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着くであろう」と言われたのである。マタイ福音書では、同時に、「この国の子ら」すなわち神の選ばれた民は、それにあずかることを拒否されてしまう、という一言が加えられている。同じように普遍的な外観を呈しているのは、最後の審判のたとえである。そこでは、多くのものがわざによって神の国に入れられるが、彼らはイエスのことを知っているわけではない(マタイ25:40)。このたとえは、しばしば慈善の業を施した相手が実はキリストであったのをしない信仰者たちのことを語っている、と解釈されてきた。しかし、このような限定付きの釈義を正当化するような言葉遣いはどこにもない。むしろ、一般的な読み方によれば、人間は一人一人すべからく終末の審判に直面しなければならない。それこそがこのたとえに前提されている状況である。
       しかし最後の審判のたとえはまた、人が神の国の交わりに入れられるか否かを決定する際の最終的な規範はイエスとその宣教である、ということを含意している。生涯の間イエスを知ることのなかった者にとっても、このイエスが規範なのである。それゆえ、結論的に言えば、イスラエルの選民やキリスト教会の成員でなかった者でも、実際には多くがイエスと彼の宣べ伝えた神の国に属している。彼らの永遠の救いにとって決定的なのは、彼らの生き方がイエスのわざと宣教に適合しているかどうかということである。イエスはこのような意味であらゆる人々の最終的な評価基準であるが、そのことを知っているのが教会の成員である(『キリスト教は他の宗教をどう考えるか』・152-3)。

 このように包括主義は、他宗教の人々がキリストを知ることなしに救われる可能性を認めてはいるが、その中心にキリストを置く点で、キリストによる救いという枠をでてはいない。
 ヒックらの多元主義は、この包括主義を越えるものである。「神の啓示に多元性があり、したがって、救われる側の人間の応答形式にも多元性が求められうる」(『キリスト教の絶対性を越えて』・70)。ヒックは、「神」という語が有神論的(人格的)宗教伝統における言葉であるとして、無神論的(非人格的)も究極的実在として、同じ一者が存在すると考える。そこで、特定の宗教伝統に共通するような名前として、「究極的実在」あるいは「実在者」という用語を使い、以下のように述べる。

      「実在者そのもの」は一者であるが、それにもかかわらず、その一者がさまざまな仕方で人間に経験されうるものなのだ、ということである。そしてこの考えが、いま私の提言しつつある多元主義的仮説の中心部分にあるわけである(同・79)。

2)キリスト教真理の本質をうがつ多元主義

  多元主義をいくつかの角度から批判することができるが、現代プロテスタント神学を代表するドイツの神学者パネンベルクは、ヒックの述べる多元主義的仮説の中心部分を掘り下げて批判している。
 その質問は、単純に、では私たちはヒックの言うすべての「中心にある神」をどのように定義できるのだろうか、ということである。キリスト教において、私たちが神を知ることができるのは、まさに聖書の証言を通してであり、決定的にはイエス・キリストにおいてである。その中心点をはずしてしまったとき、私たちはもはや世界の中心におられる神を論じることはできないのではないか。私たちがキリスト教徒である限り、はたして聖書の証言とキリストにおける神の自己啓示を陰に隠して、「中心にある神」という存在を論じることなど、できるのだろうか。つまり多元主義の肯定は、キリスト教の本質にかかわる啓示の歴史を否定しなければ成り立ち得ないというのである。

      ヒンズー教徒とシーク教徒が神に祈るとき、彼らがキリスト教で礼拝している神と同じ神に祈ろうと思っているかどうかを、われわれはどのようにして知るのであろうか。このことは、敬虔なイスラム教徒との場合でも明快ではない。というのは、われわれも部分的には同じ「伝統の蓄積」を共有しているとは言え、イスラム教徒が神に向かう態度は、ムハンマドを信ずる彼の信仰に規定されているからである。それでもなおこれは同じ神なのであろうか……。同じことは、他の道を歩む人々の宗教生活についても言い得るであろう(『キリスト教は他宗教をどう考えるか・162)。

 パネンベルクは、同じことがあらゆる宗教に言えるという。例えば、キリスト教よりもはるかに忠実に自らの宗教伝統に仕え、宣教に熱心な宗教もある。それらを尊敬をもって認めざるを得ないとしても、「しかし彼らの生活の宗教的な変革は、キリスト教徒の持つ希望、すなわちわれわれの肉体が神の栄光への参与によって終末論的に変えられるという希望に、積極的に対応するものであろうか」(同・163)。キリスト教とはキリストにおいて神の約束を与えられているのであって、それ以外の点ではない。

3)宗教における相対主義の矛盾

 宗教多元主義には、人類がみな救いを求め、安全や幸福や確実性を求め、抑圧からの自由を求めている、そしてその求め方はさまざまであっても、それぞれに真摯な願いが宗教に込められている、という前提がある。その前提に立って、多元主義の人々は、われわれが特定の宗教を絶対視せず、さまざまな宗教のうちにある真摯な願いに目を向け、宗教を多元的に考えるように勧める。
 しかし、現実世界に生きてれば、このようにおおらかに「人類はみな救いを求め」とは言えないのではなかろうか。救いを宗教によって求める者もいれば、性や金や権力によってそれを得ようとする者もいる。それらの人々が、対立し、抗争することによって、実際世界は破滅に導かれていくことも現実なのであるから、「人類がみな救済を求めている」という認識に立って、種々の宗教同士の多元的一致を求めるのは、あまりにも楽天的であり、幼稚に思える。
  インドで30年間宣教師であったイギリスの神学者ニュービギンは、実直に多元主義に質問を投げる。今日、イスラム原理主義が世界各地で暴力的な行為を展開している状況において、多元主義はむしろ無力である。1930年代のドイツにおけるナチス勢力の台頭のような出来事に際して、多元主義はどうなるのか。宗教的立場の中には、容認してはならない立場も存在する目を持たなければならない。ヒットラーを前にしたとき、多元主義はまったく無力であって、「キリストこそ主」という真理をかざして、立ち上がったバルメン宣言の絶対的真理性だけが力を持ちえた。宗教に「悪魔的」要素が存在するとき、われわれは、ある価値に絶対的な確信をもってかかわらなければならない、とニュービギンは説いている。
 アメリカの社会学者ピーター・バーガーは、ある社会が別の「信憑性構造」(宗教的な理念)を持った社会と接触すると、四つの反応があると教えている。第一の反応は、単純な拒否であって、自己の領域の回りに垣根を作るという反応である。第二の反応は、侵入者に屈服することである。第三の反応は、現存の信憑性構造を改革し、侵入者のもたらした新しい洞察を取り入れるべく努力することである。第四の反応は、多元主義、つまりわれわれにとって真理は彼らにとっての真理ではないかもしれない、というあいまいな、いい加減な形での共存である。先のニュービギンは、バーガーによる分類を受け、「第四の反応は死を迎えつつある文化の徴候である」(『キリスト教は他宗教をどう考えるか』・172)と主張している。第一の反応のように、ただひたすら外に向かって扉を閉じ、閉鎖的な社会を作り上げていくとき、外界との境界線となる垣根だけは存在しても、内側のいのちはすでに枯渇している。だからといって、真偽の問題をまったく問わずに、両者混在の形で受け入れ、浸透していくと、文化は自らのアイデンティティーを失い、死に行くというのである。
 多元主義はあきらかに、キリスト教がともすると第一の反応にしたがって他者との対話を閉ざし、他者を完全否定し、他者を制覇する姿勢をとってきたことに対する反省から生まれてきた。しかし、第四の反応に見られるように、真偽を判別する力を自ら放棄し、多元的に両者が混在する社会を指向するとき、その文化は死に至るというニュービギンの主張には説得力を感じる。

4)諸宗教は多元主義を受けれるか?

 宗教多元主義は、先に述べたように、キリスト教教理の中心とも言えるキリスト論・三位一体論をその根底から再構築することを求めている。わけても、キリスト教の絶対性、いや優位性でさえ否定することを求めるのであるから、相互理解のための交流と対話はあっても、改宗を目的とする宣教はあり得ないことになる。
 もし多元主義が正しい選択であるとすると、ポール・グリフィスが述べているように、それを提唱している一部のキリスト教神学者たちは、同じ要求をキリスト教以外の諸宗教にも突きつけることになる(『キリスト教は他宗教をどう考えるか・212)。外から見れば特殊主義で排他主義と思われるような教理を発展させてきたのは、キリスト教徒ばかりではないし、改宗を目的とする宣教活動を行ってきたのもキリスト教徒だけではない。自らの教えが他と比して、優位である、絶対的であると自認してきたのもキリスト教徒だけではない。イスラム教にとって、コーランは他の聖典が決して届くことのできない絶対的な規範であり、ユダヤ教は言うまでもなく、ヒンズー教も仏教も、他の宗教は救いの成就に不十分であると主張する。もし多元主義が正しいとすれば、宗教間対話に当たって、それに参加する宗教すべてが自分自身の伝統について徹底的に新しい理解を発展させなければならない。そのようなことを諸宗教が容認する可能性などあるのであろうか。
 以前、中東和平に関して、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が米国のクリントン大統領を挟んで握手をするという進展があった。いわば、ホワイトハウスにおいて世界の三つの大宗教が手を取り合い、互いの理解を深めるために対話を重ねたわけである。しかし、だからといって、ユダヤ教やイスラム教がその宗教的真理と確信するところを放棄し、その宗教的伝統を相対化するだろうか。それはあり得ないと断言して良いだろう。
 さらに、モルトマンが述べているように、唯一性の主張を放棄した宗教などに、人は何の魅力を感じるのだろうか。

      もしわたしがマルクス主義者なら、あるいはイスラム教徒なら、わたしと会話を始める前に決定的に譲歩をしてしまうキリスト教にはあまり興味を持たないであろう(『キリスト教は他宗教をどう考えるか』・208)。

 排他主義に凝り固まった者同士が対話を展開することは不可能である。それ故、多元主義への指向が始まった。しかし、だからといってその独自性を解消してしまった者同士が対話して、何の益になるかと問われれば、逆に、多元主義は説得力を欠くものとなっていく。

5)対話への道

 多元主義の教科書的存在となっている『キリスト教の絶対性を越えて』の編集をヒックと並んでつとめたポール・ニッターは、キリスト教が他宗教との対話を進めるために備えられている橋を三つ上げている。「相対性」という名を持つ、「歴史的・文化的」な橋、「神秘」という名をまとう「神学的・神秘的」な橋、それに「正義」という名の「倫理的・実践的」な橋である。
 これまでの話の流れでわかるように、最初の二つの橋を渡ってしまうとき、キリスト教は自らを相対的なものとせざるを得ない。それはモルトマンの表現を借りれば、「キリスト教のアイデンティティの本質的な点を明け渡してしまう行為」である(『キリスト教は他宗教をどう考えるか』・209)。
 そう論じた上で、モルトマンは、三番目の橋こそ、今後キリスト教が他宗教との対話を求めて積極的にわたらなければならない橋だと述べている。いささか、共感するところがある。

      ヨーロッパでのキリスト教とマルクス主義との対話の経験から私が感ずるのは、世界諸宗教とその共同体が有意義な対話を行なう道はただ一つしかない、ということである。それは、『キリスト教の絶対性を越えて』において倫理的・実践的な橋と呼ばれたものである。これは、現代世界に住むすべての人間が晒されている重大な危機にかかわるからである。核の脅威、環境の危機、世界的な経済苦境といった、われわれに共通の危機は、世界の諸宗教の対話へと招じ入られずにはおかない(同・209)。

 諸宗教の対話がしばしば平和会議の席上で起こることを考えても、モルトマンの主張は正しいと言わざるを得ない。
 カトリックの神学者ハンス・キュンクは、諸宗教の間に平和がない限り、世界には平和がもたらされないであろう、と述べている。もちろん、私たち福音主義に立つ者は(キュンクも同じく)、世界に平和がもたらされるには、諸宗教間の平和だけでは不十分であり、人間の罪の問題、神との和解、という真の福音のみが世界の平和を造り出すことができると考えている。しかし、キュンクの言葉は、キリスト教の歴史に猛省を迫る現実の問題であることを否定することはできない。すなわち、キリスト教は、真理を掲げて多くのいのちを奪ってきた、十字軍、宗教戦争、キリスト教帝国主義、ユダヤ教迫害という歴史をいまなお背負っているからである。真理の旗を掲げて多くの断絶を生み出し、真理の名の下に他者を抑圧してきたからである。
 そのような現実を知っていても、キリスト教が他宗教との対話のために橋を渡ることはなかなか困難なことであるに違いない。しかしモルトマンは、現代こそがその好機(カイロス)であると述べている。すなわち、@世界規模で生命を脅かす対立が存在し、A生命に仕える真理そのものが問われ、B地上の生命の諸条件に大きな変化が必要とされている、現代こそ、対話のために橋を渡る好機であるという。

6)ウェスレーに学ぶ「宗教的寛容」

 一七世紀英国には宗教的寛容というムードが知識階層の中で育ちつつあった。一方では、ヨーロッパ各国の国教会と信条を異にする人々が、迫害を受けながらも信念と愛をもって耐え抜いた純朴な姿を通して、他方で、啓蒙主義の自立した良心や理性によって、寛容的精神(他宗教に向けられたわけではないが)がヨーロッパに育っていった。特に英国は、議会制民主主義の成功や商業上の自由放任主義などにも連関していることであるが、特定の主義主張に独断的権威を持たせない、自由な傾向が育っていく過程にあった。
 英国キリスト教会では、広教派(Latitudinarian)と呼ばれたケンブリッジ・プラトン主義者がこうした自由主義の旗頭であった。いわば、当時のキリスト教会内の多元主義である。その根底には、神学面でも政治面でも、真剣で純粋であることが、血の抗争を生むのであれば、真理を灰色にぬって、様々な相違に無関心である方がはるかに適当だとする考えがあった。
 ウェスレーは、このように自分の立場を持たないことを美徳とする広教派と自らの神学を明確に区別しながら、真の対話と相互理解とは、自らの立場を明確にしながら、遜って相手を認めるところにあると説明している(説教「公同的精神」)。この説教は、ウェスレーがキリスト教会内における神学や実践の相違を超克するために訴えている「寛容」であって、直接に他宗教との対話について述べたものではない。しかし、この説教から以下に挙げる二つのポイントは、私たちが他宗教をどう考えるかにあたって、有益であることは確かである。

 a)ウェスレーは、公同的精神を述べるにあたり、普遍的な隣人愛から話をはじめ、キリスト教が愛の宗教であることを強調している。キリスト教が真理を追究する宗教であるには違いない。ともすると真理の追求の中で排他的な精神が生まれてくる。しかしキリスト教が愛の宗教である限り、真理への道は愛が欠如しているところには存続不可能であると主張する(二・4)。歴史上では、たとえ純粋な情熱が真理の探究のために傾けられていたとしても、愛がなければ、必ずと言っていいほど、それは迫害や争いに転落していき、その結果はキリスト教からほど遠いところにあるという。

 b)宗教的寛容の精神はまた、人間性につきまとう誤りと無知を深く認識すること(humanum est errare et nescire/人間は誤り、無知なるものである)に端を発している。ウェスレーは人間の持つ無知と偏見とに"invincible"(打ち砕くことができない)という形容詞をつけているが、人間がこの地上において人間である限り、その理解には限界があり、無知と偏見は必ずついて回る。この問題の根の深さを徹底的に認識することによって、ウェスレーは相手の主張を切り捨てて自分の主張に固執するところの独善の愚かしさを訴えている。
 私たちキリスト者は、自らの聖書知識・福音体験・教会の歴史をもってして、神が私たちに与えようとしておられる「キリスト教の恵み」のすべてであると思いがちであるが、キリスト教会は他宗教との対話によって、完全に捕らえと思っていた福音の真理をさらに深めていることも事実である。もちろん私たちは、他の宗教が聖書を越える啓示を提供しているとは考えていない。聖書こそが、究極の絶対的な啓示である。しかし、その聖書を理解するために、オリエント宗教と原語、ギリシャ哲学が多くのことを教えてくれた。モルトマンはマルクス主義との対話で「実践」の理念を学んだ。神学全般が、二〇世紀に入って心理学・社会学から多くを学んだことも事実である。対話にあって、相手を教え説得するだけでなく、相手から学ぶこともあろう。その意味で、私たちは聖書こそ絶対的な真理であると確信しつつも、その真理を未だ完全には捕らえておらず、時に他宗教との対話によって、キリスト教理解に新たな側面を発見し、聖書の真理をさらに深く理解することもある、と言っても良いのではないだろうか。

7)福音を聞くことなしに死んだ人は、すべて滅びるのか?(信仰を持たず、幼児洗礼を受けずに死を迎えた幼児については、拙著『ウェスレーの神学』p.352,n.9を参照)

 最後に、この頭を痛める質問に、私なりのつたない考えをウェスレーに沿って論じて小論を閉じることにする。明確な答えに窮する質問であり、幅を持った回答に止め、読者の方々に教えを請うものである。
 メソジストの年会で「キリストを聞いたことのない人々が、神に受け入れらるという可能性があるのか、あるとしたら、どのような条件においてか」という質問が討議されている(Works・[・337)。ウェスレーは、コルネリオのケースを引用して、前者の質問には肯定的に、後者の質問には、キリストの功績によって、そして条件は、この場合キリストに対する信仰ではなく、神を恐れ、正しいことを行なうこと、としている。
 少し回りくどくなるが、総合的にこの問題を理解するために、ウェスレー神学におけるこの問題の位置づけを論じておく。上述の年会における討議は、アルダスゲイトで信仰義認を体験した当時からウェスレーの頭の中にあった。カルヴァン派は、キリストにおいて信仰によって義とされる前の人間のあらゆる行為になんの価値も見いださない。このことに、ウェスレーはリバイバル当初から疑問を抱いていた。義とされる前のすべての行為を、「罪」と断定したこともある自分を、その意味で、自分はカルヴァン派に近づきすぎたとも反省をしている。
 義認以前の人間行為に全くの価値を見いださなければ、当然、悔い改めの必要も悔い改めの実を結ぶことも、強調されることはなく、積極的に救いを求める姿勢を失うことになる、というのがウェスレーの反論理由の一つである。
 いやそれだけではなく、ウェスレーがカルヴァン派と違って、義認以前の人間の行為(特に悔い改めの実)に価値を見ていたのは、先行的恵みの教理の故であった。神の救いの恵みは、特定の選ばれた人だけでなく、すべての人に及んでいる。その明白な現れが、すべての人に与えられる良心(先行的恵み)である。先行的恵みによって、人は自らの行動を反省し、罪深さを自覚し、正しい行いを求める。やがて福音に触れたとき、さらに強く罪を自覚し、キリストの贖いを信じる信仰に導かれる。しかしここで、その福音を聞く機会がなかった人は、どうなるのだろうか。聞いて拒否したのではなく、その機会を得ることがなかった人にとって、先行的恵みは無に帰してしまうのだろうか。先行的恵みに「贖い的な」要素が全くないと言い切れるのだろうか。
 ウェスレーは、『新約聖書略注』のなかで、だれが、コルネリオの祈りと施しを、神の御前で罪深いものと断罪することができるだろうか、と記している。確かにコルネリオは未信者であり、キリストを信じる信仰をもってはいない。しかし、神はコルネリオの祈りと施しを受け入れておられた。後のウェスレーは、このような未信者の神を恐れる思いを、キリスト者の「子としての信仰」と区別して、「しもべの信仰」と称し、これもまた神に受け入れられる可能性があることを述べている(説教106「信仰について」T・10、説教117「信仰の発見について」§13-14、説教119「見えるところで歩む、信仰によって歩む」§1)。同じように、パウロのアレオパゴスでの説教(使徒17:27)に説明を加え、「探り求めるなら、神を見いだすこともできる」、ということを他宗教における低いレベルの啓示として、その価値を認めている。
 これは必ずしもウェスレーが異教を積極的に評価しているという意味ではなく、彼がキリストの贖いに基づく先行的恵みの「普遍性」を評価していることの現れである。
・「すべての裁き主である神が、彼ら(福音に接したことのない人々)をどのように扱われるのかは、神ご自身におまかせしよう。しかし、このことだけは明確である。神はキリスト教徒だけの神ではなく、異教徒の神でもある。そして、神は『与えられた光に従って』(ロマ12:6)『主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられ』(ロマ10:12)、『どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです』(使徒10:35)」(説教91「愛について」U・3)
・「キリストの死による恩恵は、キリストの死と苦難に徒に関する明確な知識を持っている人ばかりか、その知識からやむを得ないかたちで閉め出されている人々にも届いている」「人々が心のうちに働く先行的恵みを体験し、悪人が聖い人間になるならば、キリストの死の恵みにあずかることができる」(「クエーカー教徒への返事」, Works・XI・178-179)
 ウェスレーは、ここでいわゆる「包括主義」の立場を明確にしている。聖書の神こそが、キリストの贖いこそが、すべての人々の救いの源であり、それ以外にない。その恵みは、福音を未だ聞いたことのない人の上にも、先行的恵みを通して及ぶこともあり得る。コルネリオのように神を恐れ、愛を実践するなら、神に受け入れられる。しかしその場合でも、その人物は未だ知らないキリストを通して、その贖いの故に受け入れられる(『新約聖書略注』使徒10:35)。
 そのような理由をもって、ウェスレーは米国メソジストのための教理信条から、福音を聞く機会のなかった人々を永遠の滅びに一律に定める、英国国教会宗教箇条第28(Of Obtaining Eternal Salvation Only by the Name of Christ)を削除している。
 さて、そのように福音を聞いたことのない人々の救いの可能性を完全に否定しないウェスレーの神学が、「だから他宗教の救いを尊重すべきであって、福音を宣教する必要がない」という結論を導き出したのだろうか。言うまでもなく、否である。私は、その理由が大きく分けて四つあると思う。

 a)異教にあって、与えられた光に従って救いを求める人であればあるほど、ロマ七章に見るパウロのように、自分の内側には異なった律法がすんでいることを意識し、欲している善を行うことなく、欲していない悪を行っている自分に悩んでいるからである。彼らこそ、良心の責め苦からの解放を待ち望んでいる。「しもべの信仰」は、そこに留まっていて良いはずはなく、「子としての信仰」へと導かれるべきものである。ウェスレーの教えの焦点は、「しもべの信仰」を等しく認めることではなく、「アバ、父よ」と心の底から叫ぶことができる喜びを伝えることである。

 b)さらにウェスレーは、「全き救い」(full salvation)を説いた。それは、しもべの信仰から子としての信仰へ移されるだけでなく、新しく創造され、聖なる者とされ、キリストのように変貌していく、という壮大な救いである。キリスト到来の良き知らせは、羊がいのちを得るだけでなく、「それを豊かに持つため」(ヨハネ10:10)という生の充実にある。

 c)先行的恵みによって、罪を悔いて愛を実践し、真の神へと思いを馳せる道があるにもかかわらず、異教はむしろ、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代え」、彼らの純粋な霊的渇望を偶像崇拝によって満たしてしまうことが一般的だからである。すなわち、偶像崇拝を中心とした宗教は、先行的恵みを伸ばすどころか、その障害となっている現実がある。

 d)ウェスレーは、先行的恵みの積極的側面を認めていたが、その恵みを打ち負かすほどの罪の現実を認識していた。つまり、先行的恵みがすべての人に備えられているにもかかわらず、人のうちには悪への傾向性が根強く残存する。それほど原罪は圧倒的な力をもって人を制圧してくる(『ウェスレーの神学』, p.163)。

 これらの考察を総合して、日常的な牧会のレベルで話をすれば、こういうことになるのではないだろうか。「私の父は、たいへん立派な人でした。まじめに生きて、周囲の人たちのために労を尽くしました。でも、イエスさまのことは知らずに死にましたが、天国に行ったのでしょうか?」という一般的な質問に対して、神学的には、次のように考えられる――この神学的な考察が牧会的にどのような意味と役割を持つものかは、牧師それぞれが考えなければならない。

@ その人物が、正しく生きることができたという背景には、神の恵みがあったことを覚えて、神に感謝をする。福音を知らずとも、十字架の贖いの故に、その人の上にも聖霊の働きによる先行的な恵みが及んでいたことを感謝する。もしその人物が永遠のいのちにあずかっていると思うのなら、その人物は主イエスを知らずとも、それは等しく十字架の功績に拠ることを覚え、私たちは主イエスに感謝することを学ばなければならない。

A キリストの福音を信じることがなかったからといって、その人物が滅びに至ったと断定することはできない。律法を持っていた者は、律法の基準で、律法を知らなかった者は、自分自身の良心が基準で、神はそれぞれの基準に応じた公平な裁きをされる(ロマ2:11-15)。福音を知らずに、異教の中で与えられた基準にかなうために努力を重ねてきた人をも、神はその人が問われる責任能力と照合して公平に裁かれる。

B しかし、「人々の隠れたことをさばかれる」(ロマ2:16)神を前に、その裁きに立ちおおせる者は、果たしてどれほどいるだろうか。心の中まで見通されたとき、一般的な「あの人は良い人でした、まじめで……」という物の言い方が、神の御前で通用しないことは事実である。滅びに至る門は広く、多くの人々は漫然とその道をたどっているという主の言葉は、良い人ならたぶん救われるであろうという安易な気持ちをうち砕くものである。したがって、私たちは全力をもっていま生きている人のために福音を語る。生きている人が福音を聞くことは、死んでいった人の願いでもある(ルカ16:28)。

C しかし、「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。これは確かなことです」(マルコ9:41、参マタイ25:40)とあるように、人目に隠れた正しき人々が、自覚もせずして、永遠のいのちに入れられることも約束されている。したがって、人の判断で、福音を信じた否かで断定することは許されていない。もちろん、キリスト教の信仰を全うした人については、「あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれている」(マタイ16:19)のみことばのように、永遠のいのちに移されたと確信するものである。