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::: 牧師の発表した論文 :::


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Name   fujimoto
Subject   ガラテヤ書に見る信仰と愛の霊性(「宣教研究」2002)
「御霊の人であるあなたがたは……」
――ガラテヤ書に見る信仰と愛の霊性
                                                  藤本 満

霊性とは?

 私は「霊性とは何か」という問いに対して、以前、納得が行く簡潔な定義に出会ったことがあります。知性は物事を理解する理性の力であり、感性は感じる感覚の力であるが、霊性とは神を信じる信仰の力だ、というのです。
 私は、この単純明快な定義に何か腑に落ちるものを得ました。確かにそうなのではないでしょうか。霊性とは、信じる力であり、それは神との関わりの度合いを指し、神の世界を信じる力なのではないでしょうか。その人がどれだけ、神を知り、神を意識し、神の前を生きているか、ということを問うているのではないでしょうか。
 そう考えるとき、霊性について非常に大切な聖書の箇所にたどり着きます。Tコリント2:10−16です。信仰の力が芽生えて、神の世界がわかるようになる、神の御心を知ることができる、その世界を生きることができる、という霊性を与えるのは、御霊です。
 「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません……私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました……」。
 霊性の鍵を握っているのは、御霊なのです。霊性は、御霊によって導かれなければなりません。聖書は、人間の霊性は、感性よりも、知性よりも、身体性よりも、一番眠ってると教えています。なぜなら、この力が罪の影響を最も強く受けたからです。罪の影響を受けても、霊性がなくなりはしません。むしろ、人間社会の宗教の数の多さ、醜さを考えてみれば、霊性が罪の力によって、極端に歪められて根をはっていることがわかります。「この世の霊」をもって真の霊性を培うことはできません。真の神に通じる霊性は、キリストの御霊を通してのみ与えられるということを、パウロは教えているのです。
 パウロは、Tコリント3章ですぐに、「御霊に属する人」と「肉に属する人」との対比に話を転じていきます。そうしますと、霊性とは何かを考えるときに、私たちはパウロの言う「御霊に属する人」(コリント)、あるいは「御霊の人」(ガラテヤ)が何を意味しているのか、という問題を究明しなくてはなりません。そのためには、まずその反対にある「肉の人」「肉に属する人」を考えてみましょう。

1)「肉」の中心にあるもの

5:15「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます」。
5:26「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることにないようにしましょう」。
 「霊」に対抗する「肉」というとき、私たちは何を思い浮かべるでしょう。ペテロは、みだらな性に関することと酒による宴会騒ぎを、偶像礼拝と抱き合わせて、最も肉的な罪と理解していました(Tペテロ4:3)。ヨハネは、「肉」ではなく、「世」という表現を主として使いますが、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」という世俗の要素を挙げています(Tヨハネ2:16)。パウロが、「肉」と言うとき、そこには「情欲や欲望」(ガラテヤ5:24)が含まれていることは確かです。ガラテヤ5章の肉の行いのリストには、不品行、汚れ、好色、あるいは酒にかかわる酩酊、遊興が入っています。あるいは、ヨハネと同じように、Tテモテ6:10では、金銭を愛することがあらゆる悪の根であると富への執着を挙げています。
 しかしパウロにとって、「肉」・「肉的」と言うとき、圧倒的に自己中心に基因する人間関係のぶつかり合いが指摘されます。ガラテヤ5章の肉の行いのリストには、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」と、15の具体例のうち8つが、自己中心に基因する人間関係のぶつかり合いです。
 コリント人への手紙第一でも、「肉に属する人」と対抗して「御霊に属する人」の説明をした後、すぐにパウロは、「あなたがたの間にねたみやあらそいがある」と、互いに競い合うような傲慢や党派心を指摘しています(3:3)。コリントの教会には、賜物のある人々は多くいても、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」(12:26)という同情が欠落していました。さまざまな奉仕に熱心で、教会の活動が盛んでも、寛容にして、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならない「愛」が欠けていたのです。
 思いやりのなさ、自己中心、自分勝手、他者への無関心――こうしたことが、「肉」の中心にあるのです。ひと言で言えば、エゴの問題です。エゴの問題が人間関係をどれほど複雑にするかは、今更論じるまでもないでしょう。

2)「御霊」の中心にあるもの

5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
 「肉」の中心にあるものがエゴだとしたら、「御霊」の中心にあるものは、何でしょう。それは「愛」です。「肉と言えば、自己中心」であるとすれば、「御霊と言えば、愛」という構図が成り立っているのです。
 ガラテヤ人への手紙を少し分析してみましょう。パウロは「御霊の人であるあながたが」の生き方を上述の聖句で要約しています。パウロは、あえて隣人愛を強調するために、律法の全体を全うするという愛から、神への愛を省いていますが、それほど隣人愛に集中し、特にキリスト者同士の謙遜な自己犠牲、行動を伴った愛と定義しています。主ご自身が、最後の晩餐での席上で弟子たちの足を洗い、そして「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と教えられ、これをもって「新しい戒め」を制定されたのですから、これを、御霊の人が帯びる特徴の第一定義するパウロは、キリストの心がわかっていたのです。
 ここで使われているギリシャ語は、アガペーです。肉的な愛は、愛する対象が自分にとって価値があるから愛しているのです。アガペーは、相手に価値がなくとも、愛を注ぎ、相手がどん底にいるとき、その中に価値を見つけに行く愛、相手を立たせる愛、相手を信じ続ける愛。そして、注ぎ込まれた愛の故に、相手に価値が生まれ、新しい可能性が生まれるのがアガペーです。ひと言で言えば、十字架に示された神の愛がアガペーです。
 もちろん私たちは、生まれながらにして、このような愛を持っていません。「肉に属する人」の基本には常にエゴがあるからです。しかし、キリストを信じたことによって、御霊が与えられ、神のアガペーが心のうちに注がれ、このアガペーが私たちの心からあふれ流れていく――これが、4:16の「御霊によって歩みなさい」、4:25の「御霊によって生きる」、そして「御霊によって進む」の原動力となっています。

3)もしだれかが過ちに陥ったなら

6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。……
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
 パウロは、ガラテヤ人への手紙5章で上述のように、御霊による歩みを「愛をもって互いに仕える」「隣人をあなた自身のように愛する」と総括的に定義した後、6章のはじめで、この総括的原則を一つの事例に当てはめ、具体的に解説します。それが、「もしだれかが過ちに陥ったなら」という状況です。
 ここで、「御霊の人であるあなたがたは……」とあるように、私たちが本当に御霊の人であるかどうかは、他人の過ちや欠点にに対してどのような態度をとるかで試験されていると言ってもいいでしょう。
 この箇所を解説して、鈴木正久先生(旧日本メソジスト教会牧師、前日本基督教団総会議長)はそのガラテヤ書の講解の中で、次のように述べています。この先生は古いメソジスト気質を持った質実剛健な霊の器でした。
「私たちは他人の罪過や欠点を知ると、反射的に自分がなにか偉い者のように思えるクセがあるが、これは自己欺瞞だというのです。……他人が谷から落ちたからといって、自分が高い山の上にいるわけではありません。他人がまちがいを犯したことが、自分が善を行っていることにはなりません。」(『信仰と自由の手紙』新教新書、p.174−75)。
 まさにそのとおりではないでしょうか。他人の過ちを前にして、肉に属する人の第一の傾向は、相手を責めることによって、同じ過ちに今は陥っていない自分に満足することです。
 もう一つ、このような状況で肉に属する人の傾向があります。それは、巻き込まれたくないといって、見て見ぬ振りをすることです。この傾向を鋭く指摘したのがウェスレーです。説教49「悪口のいやし」のなかで、メソジストこそは、他人の欠点について陰口を言わない・聞かないというだけでなく、過ちを犯して神の道を離れつつある兄弟といかに対峙し、いかに罪の道から引き戻すかということを教えました。誤っているキリスト者を正すことは、メソジストの中にあって隣人愛の実践だったのです。
 パウロはガラテヤ6:1で、人の過ちを正すときは、「柔和」をもって正すように念を押しています。柔和とは遜った姿です。自分はそうした誘惑とは無関係だと強がったり、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、柔和な心で人に接することはできません。
 柔和さは、人の目の中にあるおがくずとともに、もしや自分の目の中にある梁があるかもしれないという遜った心から出てきます。柔和さは、自分の中にある破れ、弱さ、そしてそれを被ってくださる主の恵みを知ることから来る、やさしさです。
 私たちが自分自身の内側の破れ、弱さ、痛みというものを見つめ、それをやさしく癒してくださる主イエスが自分のうちにおられることを知ったとき、私たちははじめて柔和な心で人の過ちを正すことができるのでしょう。医者が病人を癒すようにではなく、同病者があわれみをもって手を差し伸べるように。
 パウロがここで用いる「正す」(カタルティゾー)は、マルコ1:9では、「網を繕う」という文脈で使われているように、もとの状態へと回復させるようなやさしい行為なのです。まさにこういう状況で、「御霊の人であるあなたがた」の実質が試されるのでしょう。

4)互いの重荷を負い合う

 6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
 6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。
 これに関して、ガラテヤの注解を書いているジョン・ストットは非常に興味深い視点から話を展開しています。ストットは、この命令の背後にある、「われわれはみな重荷を持っているが、神はそれを自分一人で負うことを望んでおられない」という前提に心向けるように促しています。
 私たちは、往々にして、自分の負っている重荷で他人を煩わせない、ことこそ信仰の強さのしるしであると錯覚しているというのです。たしかに詩篇55:22に「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」とありますし、Tペテロ5:7では、「あなたがたの重荷をいっさい神にゆだねなさい。主があなたがたのことを心配してくださる」と、神が重荷を負ってくださるのです。それを受けて、重荷を背負ってくださるのは神であるから、人間に助けを求めるのは不信仰だ、あるいはそんな信仰の弱い人間になってはならない、と大いに誤解している、とストットは指摘しています。
 もちろん主は、私たちの思い煩いも挫折も、悲しみも試練も、すべての重荷を負ってくださいます。しかし、主がこうして私たちの重荷を背負ってくださるとき、その一つの方法は「兄弟姉妹の愛」によるのです。主にある兄弟姉妹の助けを求めること、またそれを受けることは、不信仰のしるしではありません。
「われわれが互いの重荷を負い合う友情も、ご自分の民に対する神の目的の一部分なのである。だからわれわれは、自分の重荷を秘密にすべきではなく、むしろ、ともにその重荷を担ってくれるキリスト者の友人を求めるべきである」(ストット『ガラテヤ人への手紙講解』、いのちのことば社、p.294)。
 確かに、人に頼らず、神のみに信頼するということは、聖書が教える信仰の一大原則です。しかし、ここガラテヤでパウロが、「兄弟たち」と連続して呼びかけていますが(5:11、5:13、6:1)、主にある兄弟姉妹が互いに重荷を負い合っていることは、信仰と愛とが結合した、うるわしい姿なのです。
 5節でパウロは「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と述べています。5節の重荷と、先の2節の重荷とでは、ギリシャ語が違います。2節では、重い荷というよう重さを強調する「バロス」が使われていますが、ここ5節は、一般的に運ぶべき荷物、「フォルティオン」です。私たちにはみな自分の全うすべき責務があり、しかし時に自分では担いきれない、重すぎる荷がやってくるのです。そのような苦境に立たされているとき、「御霊の人である」自分の信仰が試されていることは言うまでもないことですが、同時に「御霊の人である」兄弟姉妹の、同労者の愛が試されている、ということができるでしょう。  

5)コイノニア

 6:6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。
 パウロは、さらに具体的な課題へと筆を進めます。六節の「みことばを教えてもらう人」とは、いわば信徒です。そして「教えてくれる人」とは伝道者・牧師のことです。教会はしっかりと牧師を経済的に支援しなさい、と諭しているわけです。
 6節の「分け合いなさい」は、「コイノネオー」です。ここにあたたかな響きがあります。言うまでもなく、この動詞から「交わり」(コイノニア)が成立します。教会はコイノニア、聖徒の交わりです。そして交わりの基本にあるのが、良きものを分け合う・共有するということです。物資だけに限りません。時に神による知恵や恵みを分かち合い、体験や証しを分かち合い、そして試練や痛みをも分かち合うのが交わりです。
 そのようにして、御霊の人による、信仰と愛との共同体は形成されていきます。物資や痛みや喜びや試練を分け合うことなしに、愛の共同体は作られていきません。当然、それがなければ、愛をもって互いに仕えることもないでしょう。
 さらにパウロは、6:8で「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」と述べています。「霊に蒔く」とは、霊性を育てることではないでしょうか。そのためには、9節の「たゆまず善を行う」、そして10節の「すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行う」と結んでいます。
 ここに肉の行い・欲望から自由にされた生き方があるのです。ここに御霊によって生き、御霊に導かれて進む生き方が具体的に描かれています。これが御霊の人である私たちの霊性の実質が問われる場、敬虔を修練する場があるのです。
 デボーションに日々時間を費やしたとしても、信仰による家族を助けるという愛の実践を怠っていたら、霊性の実質は歪んでいるか欠けているといっても過言ではないでしょう――私はここで、インマヌエルが長らく牧師に課してきた「自給精神」のあり方を問うているのです。その精神そのものを否定しているのではなく、その「あり方」を問うべきだと私は考えています。そしてここで、そのあり方を見直すための聖書的な基盤を提供しようと、小さな試みをさせていただきました。

6)信仰と愛の結合
 
 この箇所にさかのぼるところ5:6でパウロは、ガラテヤ人への手紙全体の鍵となることばを上述のように記しています。
 5:6「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」。
 この聖句に、私たちは信仰と愛の結合を見るのです。パウロは手紙の前半でユダヤ主義者と論争してきました。ユダヤ主義者は、教会に入り込んで、割礼の必要性を強調する人々でした。十字架への信仰は神の民のとしての入り口であって、そこを経て割礼を受け、律法を全うすることによって、正式に神の民に加えられると教えていたのです。それに対して、パウロは断固、「信仰のみによって義とされる」ことを強調し、割礼派の教えを「ほかの福音」(1:6)と拒否してきました。割礼を受けて律法主義に逆戻りするということは、「神の恵みを無にすること」(2:21)です。またそれは、パウロの「労したことが、むだになる」(4:11)ことです。
 しかし、ここにもう一つ神の恵みをむだにする場合があります。それは信仰が信仰で終わってしまって、いっこうに愛へと働かない場合です。これこそが、ガラテヤ人への手紙後半の主要テーマとなっているのです。信仰を唱えることによって、律法からは解放されます。しかし信仰がそこで終わってしまうなら、相も変わらず利己主義の支配は私たちを圧迫してくるのです。
 ウェスレーは、「愛によって働く信仰」という表現を自分の神学思想を明確にするために頻繁に用いました。当時、信じるだけがすべてで、信仰の上にどっかり腰を下ろし、愛の実践を強調することを律法主義として弾劾するような教えが、流行していたからです。ウェスレーはパウロを正しく理解していたと、私は考えます。愛の実践を欠いた信仰至上主義もまた、パウロにとっては「ほかの福音」にあたることになるのです。なぜなら、信仰が律法からの自由を説くだけで、律法が本当に格闘していた利己主義との格闘を放棄し、利己主義に縛られていくのなら、神の恵みを無にすることに他ならないからです。
 御霊の人である私たちは、信仰と愛を結び合わせることを求めなければならないと私は考えます。例えば、「信仰による自立」と「愛による相互援助」というように。

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DATE: 2002.12.27 - 22:31
LAST UPDATE: 2002.12.27 - 22:33

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