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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/17 Tペテロの手紙(28)神の御前にへりくだる Tペテロ5:5〜6
☆聖書箇所    Tペテロ5:5〜6

5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
 6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

☆説教    Tペテロの手紙(28)神の御前にへりくだる

ペンテコステを前に、もう一度ペテロの手紙の第一の学びに戻りました。これが27回目だろうと思います。
(***実は4/26と5/3に26回目がダブっていましたので、これが28回目です――T・Y)
先週は「羊の群れを牧する」という2節のことば、あるいは「キリストご自身が羊の群れの大牧者である」という所から学びました。
今日は5節と6節ですが、もう一度ちょっと5節を先に読みますね。

5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

今日は「神の御前にへりくだる」と題して、短く3つのポイントでお話をします。
先ず第一番目が、いま読みました「互いに謙遜であれ」。

1)謙遜を身に着けなさい

身に着けるというのはエプロンのように身にまとう、という文脈で使われていますから、「謙遜で身を包みなさい」とか、あるいは当時の奴隷はエプロンを身に着けていたようです。ですから、「奴隷のように謙遜でありなさい」と考える人もいますし、
もしかしたらペテロは――イエスさまの最後の晩餐で、弟子たちのだれも互いの足も、自分の足も洗おうとしない、誰かが洗ってくれるのをじっと待っている場面で、イエスさまご自身が手拭いを腰にまとって、弟子たちの前にひざまずいて足を洗われた――「その姿勢を思い出しながら、謙遜を身にまとう、身に着ける」ということを考えているのかもしれません。

先ずペテロは「互いに」という言葉を使います。
ちょっとよく5節の構造を見ていただきますと、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい」――こう始まりますと、「若い人よ。傲慢にならずに年配者に謙遜に従いなさい」と言っているようですが、実はそうではないです。
「若い人よ。年配者、長老に従いなさい」と言った後で、一旦切って、改めてペテロは言い直しています。そして言い直した言葉が、
「みな互いに謙遜を身に着けなさい。老いも若きも、みな互いに謙遜を身に着けなさい」

で、ペテロはこの謙遜ということを、人間同士の問題で話をしているわけではないです。
5節の、その次の行ですね――「神は高ぶる者に敵対し」とあるように――これは非常に大きな言葉ですが――神さまというお方は、高ぶる者をお嫌いになる。
それが長老であろうが、若い人であろうが関係ない。神さまは高ぶる者をお嫌いになる。
少し考えたらわかると思います。

サタンが天使から堕落してサタンとなったのは、神と争い、自らを神とするような高ぶりがあったからですね。(***ルカ10:18、4:1〜13、マタイ4:1〜11)
そのサタンが創世記の3章で、アダムとエバを誘い込み、
「神は本当にエデンの園の中央にある木の実を食べるなと言ったのか?それを食べると死んでしまうのか?そんなはずはない。その園の中央の木の実を食べたら、あなたがたが神のように、様々なことを知るような者になることを神は恐れているんじゃないか。さあ、食べてしまえ。そしてあなたがたも神のようになるんだ」
と言って、サタンはアダムとエバの心の中に高ぶりを生まれさせますね。

それ以来、人はバベルの塔を天にまで届くように建て(創世記11章)、「さあ、われわれが神になろう」こう言いますよね。

モーセの時代にあの砂漠の地で巨大なピラミッドとスフィンクスの建造物を、エジプトの国が造っていました。
巨大ないのちの源であるナイル川の水を治め、この国の文明を創り上げていたこの土木建築事業を生み出し、この巨大な帝国がユダヤ人を奴隷としてごみのように扱います。
エジプトの傲慢な振る舞いに、やがて神さまは鉄槌をくだされます。
その時に神さまは、エジプトの王の心をますますかたくなにされ、ますます高ぶらせ、自分こそがこの世界を支配する王であると言わせ、その後、この高ぶりのゆえにこっぱみじんにエジプトを滅ぼされますよね。

十字架を前にイエス・キリストを訊問していたピラトは、イエスに言います。
「なぜあなたは黙っているのか。あなたを釈放するのも、あなたを死刑にするのも、私の決断一つにかかっているんだぞ」
とイエスさまに言った時に、イエスさまは仰ったではありませんか。
「何を高ぶる。天からの赦しなしに、おまえには何の権威もないぞ」と。
(***ヨハネ19:10〜11)

ああいう場面全部見ていますと、神さまが「高ぶり」というものをどれほどお嫌いになるかよくわかるのです。
ペテロは単に「謙遜を身に着けなさい」と言ったのは、謙遜という徳はすばらしいものであって、互いを愛するときに、互いに謙遜になるということがどれほど必要か、ということを必ずしも言っているのではない。
「神さまは高ぶる者を嫌われる」ということを言っているのですね。

2)私たちは簡単に高ぶりの罪から解放されることはない

恐らく高ぶりの罪から遠ざかるためには、「自分は傲慢な人間だ」という自覚に立つ以外にはないです。
実は「自分は傲慢な人間だ」と自覚しない限り、私たちは高ぶりの罪から遠ざかることはできないです。「自分は傲慢な人間だ」と。

私(藤本牧師)はある時、大井町線が溝の口まで乗り入れられ、そしてうるさくてしょうがないですね。
駅の建築構造を間違えたために、駅の駅舎をホームが半分半分しかカバーしてないので、そのドームに真ん中を走る大井町線の騒音が反響して、100メートル200メートル先に騒音が落ちるような構造になってしまいまして、T建設とT電鉄をこの町会に呼び出して、そして「いつでも住民運動を起こします」みたいなことを言った。

そのとき私(藤本牧師)、生まれて初めて名刺作ったんですね(大笑)。
それで溝口のIに行って、Iの方に、「一番いい紙で名刺を作って、わずか100枚しか要らないんだけど(笑)、一番いい紙で名刺を作って」と(注文した)。
そして、こっちは名刺を出すんですけれども、向こうはどこどこの課長さんとか、部長さんが来て、住民の方々に頭を下げ、そして向こうは私の名刺を見て「ああ、この人は牧師なのだ」と。
それは私の思いの中ではね、侮られてはいけないという気持ちがありますよね。見くびられてはいけないという気持ちもありますよね。

だけどどっかで、この名刺交換一つで、微妙に自分の傲慢さが出るんですよ(笑)。
だから私たち男性はいい名刺入れを用意しようと思うでしょう?
私は100円ショップで買った名刺入れが妙に重くて(笑)、これを持っているだけで重いみたいな……
でもいい名刺入れを用意し、それをいいデザインで――ま、デザインに凝ることはすばらしいことなんですけれども――プライドの表し方っていうのは皆さん、限りないと思いません?

若い牧師が、あるとき、地域のキリスト教団体から少々の栄誉を受けるんですね。
彼は、その年の最も謙遜な牧師として表彰されるわけです。
教会員もみんなその表彰式に行き、とっても遜った思いで、当日もっとも謙遜な牧師としてのスピーチをするんです――謙遜がいかに大切かと。

ところが、教会員がその表彰状を、次の週に地域の本部に返しに来るんですね。
その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ(笑)、そして教会のロビーに飾ろうとした(笑)。
「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」という風に返上しに来たというのです。
もちろん、ジョークだと思います。でも、同時に真理を貫いていますね。

私は出エジプト記(***モーセ5書?)をモーセが書いたとは、思っていますが、思っていません。一部を書いたんだと思います。かなりを書いたんだと思います。でも後の人がそれを編纂したのだろうと思います。
なぜなら、出エジプト記(***民数記12:3)には「モーセほど謙遜な人はいなかった」(笑)と書いてある。

それは神さまの霊感を受けたら、その謙遜なモーセでさえ、「モーセほど謙遜な人はこの世界にいなかった」と書けるんだ、ということは違うと思います。
やっぱり、「自分ほど謙遜な人はいない」なんて書く人物がいたとしたら、それほど傲慢な人はいないじゃないですか?

高慢から免れるというのは至難の業です。ものすごく難しい。
あまりにも難しいので、ジョン・ウェスレー(1703〜1791、英国国教会司祭、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰 覚醒運動を指導した)という人は、「キリスト者の完全」という書物を書いた時に、(次のように教えています。)

「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、自分自身が証しするなら、まず最初に注意しなさい。高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」

私たちは、こういう経験をした――私たちは貧乏自慢、病気自慢でさえ、自慢にしてしまうんですよ。
ですから、本当にこの高慢から解放されるということは実に難しい。
(高ぶりの罪から遠ざかることができるとしたら、)「自分はまさに傲慢な人間だ」という自覚に立つ以外にはないですね。

アメリカのクリスチャンのジャーナリスト、フィリップ・ヤンシー(1949〜)が「深夜の教会」という題で、コラムを書いていますが、

それは、彼が通っていたシカゴの教会のことですね。
毎週火曜日の夜に、教会は地下室をAAに開放しています。
AAとは、アルコホーリック・アナニマスという、60年、もう70年ぐらい前にできた団体です。
聖公会の牧師サムエル・シューメーカーによって始められた――アナニマスというのは匿名です――アルコール依存症を、匿名で自助的にグループを作り、そしてケアする団体で、
いまでは、例えば自傷行為をする人、あるいはギャンブル依存症、あるいはドラッグ依存症の方々が毎週集まって来るのが、ま、世界中で有名なAAですね。

「AAには、非常に教会とよく似た2つの原則がある」とヤンシーは言っています。
まず1番目に、AAは極端なまでに正直でないとだめだ。
そして2番目に、AAは極端なまでに依存的でなければだめだ。

1.<極端なまでに正直>――これは依存症のグループに課せられた課題で、AAでは言ってはいけないことがある。
「私は藤本です。以前アルコール依存症でした。今は治りました」とは絶対に言ってはいけない。
たとえ20年間、10年間、アルコールを口にしていないとしても、なお自分はアルコール依存の傾向があり、かつてそうであり、今なんどきであったとしても、この依存症に陥る可能性は多分にある、という自分の弱さを認める。
正直に認めない限りAAに入れてもらえない。
自分の弱さを否定すると、再び私たちは餌食になる可能性が強いからですね。

ましてAAの極端なまでに正直であれということは、「僕はアルコール依存症かもしれないけれども、そこにいる鈴木君はドラッグ依存症だから、もっとひどいんだ」ということを決して言ってはいけない。
みんな同じ地平に立ち、みんな同じ程度に問題を抱えている。その中では上下関係はない。
みんな人生をめちゃくちゃにしてしまった、という自責のその念から、ある意味解放されずにいる。それを引きずっていることが大切なのです。
引きずることによって、自分の弱さを認め、正直に認め、それをいまだに抱えている自分というものを意識することが必要だ。

これはね、ヤンシーが言うには、教会と同じだ。教会では、だれ一人として――「私はイエス・キリストを信じ、罪赦され、罪は洗いきよめられ、それから私の心の中には罪がありません」――そんなことを言える人はだれ一人いないです。

「特別なきよめの経験を受けた人でさえ、『私は罪から完全に解放されました』と言ってしまった途端に、それがとんでもない過ちになる」とウェスレーは言っているんですね。
私たちは自分が意識している罪から解放されているとしても、あなたのことばは意識せずに人を傷つける。
自分は意識している罪から解放されているとしても、自分にはまだすべきことをしていない怠慢の罪が沢山残っているではないかと。

まして私たちは、私はあの人よりはましだ、ということは言わない。
どんな罪でもその罪が心にあるんであれば、私たちはどこかで自分たちは50歩100歩だと言わなければいけない。    
              
2.<極端なまでに依存的>(というAAの原則があります。)
もちろん依存するのは、人ではないです。
AAというのはもはや――宗教組織ではないですから、神に依存するという言葉は使いませんけれども――人間を越えた力に依存するということを学ばない限り、自分の現状から脱することはできない。
つまり自分にはできない。自分の力ではダメだ。だから神に極端なまでに依存し、また同時に、仲間のサポートに依存する――これがアルコホーリック・アナニマスの原則ですね。

参加者は素直に許しと力を神に求め、素直に周囲の友人にサポートしてもらう。
自分は治ったと決して言わない。傲慢に決してそんなことを口にしない。
「神は高ぶる者に敵対される」(Tペテロ5:5)――極端なまでの依存の原則が私たちを傲慢から守る。

6節を見てください。

6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。……

神さまというお方を考えて、自分自身この方の御手の下にへりくだりなさい。その方が私たちを高くしてくださる。
5節の終わりに、「へりくだる者にこの方は恵みを与えてくださる」。

3番目にこの聖書の箇所を見て終わりにしたいと思います。

3)ルカの福音書18章で、二人の男が神殿で祈るためにやってきた、という話をイエスさまはなさいますね。

その二人の男というのは、パリサイ人と取税人です。
パリサイ人というのは、当時の潔癖なまでの道徳家、宗教家です。
その生活態度、その信仰には非の打ち所のないほど潔癖ですね。
片や、取税人は当時の社会から嫌われるほどの罪深い存在ですね。
この二人が同じ神殿の中で、お祈りをするわけですけれども、道徳的に潔癖で完全なパリサイ人は神さまに感謝を捧げます。
「神さま感謝します。私はあの取税人のようではなく、私は守られました」
ちょっとルカの福音書18章を見ていただきましょう。せっかくですから、9節〜14節まで交替に読んでいきましょう。

ルカ18:9〜14
   9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

興味深い所で、あまり深く時間を取れませんが、11節を見てください。

11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のように……
人と自分を比較するんですね。
同じ節の3行目、「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」
もちろんのことながら、彼はゆする者ではなく、不正をしない者であり、姦淫をしない者であり、全部神の恵みとして尊いことで、彼の生き方は立派なんですね。
だけど心の中に高ぶりが芽生えるというのは――彼はほかの人々と自分を比較し、「自分はほかの人々のようではない。ことにこの取税人のようではない」と言った途端、彼の心は傲慢でいっぱいになってしまいます。

片や取税人は、まともなことは何一つしていないです。
それに彼の祈りも、非常に乏しい――13節、第一に「遠く離れて立ち」というのは遠慮なのか、後ろめたさなのか、神さまからの距離が非常に遠い。
その次に、「目を天に向けようともせず」というのは、向けることができない程、罪深い。
「胸をたたいて」というのは、悔い改めているしぐさです。
でも心が砕かれて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と言った時に、神さまは、14節に、彼を「義と認め」てくださったというのは、これはものすごいことです。

どういうことかと言うと、神殿で誇らしげに祈ったパリサイ人は神さまに受け入れてもらえませんでした。
しかし遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、胸を打ち叩いて、神の御前にひざまずいている、取税人に対してイエスさまは仰った。
「この罪深く、しかしへりくだっている取税人の祈りは聞かれた」――実はイエスさまはそうは仰ってない。
この取税人の祈りは聞かれた――そんなことはイエスさまは仰ってない。(それ以上です。)
イエスさまが仰っているのは、なんと「神さまはこの取税人を義とされた」。すごいです。

イエスさま(が仰っているの)は
「『正しきはこの人なり』と、神さまが彼を受け入れてくださった。
神さまは、胸を打ちたたいて、顔を上げることもできない罪人の男、しかし、真実にひざまずいて、赦しを請うているこの男を、受け入れ、愛し、義としてくださいました」です。

それは単に「いい祈りをしたね。あなたのお祈りをわたしは聞き届けた」じゃないんです。
「正しきはこの人なり」と、彼を許してくださっただけでなく、彼を祝福してくださった。
つまり、あんなに遠くに立っていた彼なのに、彼は神さまの傍らに置かれて、手を差し出されて、神さまは彼を抱き留めて、「わが子よ」と優しく声をかけてくださった。

ペテロの手紙に戻りますと、子どもは親に従うこともすばらしいですし、若い人が年長者を尊敬し、従うことも素晴らしいと思います。
でも、謙遜を身に着けなさいと(ペテロは言う)。年齢は関係ないと。実は立場も関係ない。「みな互いに謙遜を身に着けなさい」(Tペテロ5:5)。
なぜなら、「神さまというお方は、高ぶる者に敵対する」(同5:5)。

で、私たちは人に対してへりくだるのではない。「神の力強い御手の下にへりくだる」(同5:6)
すると神さまは、私たちの罪を赦してくださるだけではない。
私たちを義としてくださる。私たちを受け入れ、私たちを祝福してくださる。

どうか、私たちもよくわかっていることです。私たちは人の傲慢さを一瞬で見抜きます。一瞬で。
10秒会話しているだけで、あ、この人自慢げだなぁ(笑)というのがわかります。たった10秒で。
でも自分の会話の傲慢さに気がつくのに、私たちは何時間でも話す。
何時間話してても、自分の傲慢さには気づかない。
相手はじ〜っとそれに耐えている。
自分の相手に拷問を強いているんだ(笑)ということさえ気がつかない。

「イエスさま、どうか、私を傲慢の罪から遠ざけてください」と詩篇(***19:13)に祈りがありますけれども、その祈りを祈ろうとしたら、
何と言っても「自分は傲慢な人間なのだ」
そして「神さまは傲慢な人間をお嫌いになるんだ」
そして、「もし私たちが謙遜を身にまとうならば、神さまは両手を広げて私たちを祝福してくださるんだ」という、こう単純なものの考え方を頭に叩き込む以外にないと思いますね。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、私は傲慢な人間です。自分のした過ちをまともに認めようともせず、どこかで人よりも優れていると考え、どこかで自分のした体験を人に紹介するときに、あなたの恵みよりも自分自身の存在を前に出してしまうような者たちであります。どうか、その自覚を一生手放すことがありませんように。

その罪から解放されるために、人と自分を比較して優越感に浸るのではなく、「神の力強い御手の下にへりくだる」(Tペテロ5:6)。もし私たちがイエス・キリストと自分自身を比較するなら、こんなに乏しい者は世界にいないと誰もが痛感するはずです。イエスさま、どうかあなたと自分を比較して、どんなに愚かな、欠けだらけな、罪深い自分であるかに気づくことができますようにしてください。

そしてもし気づいたのであれば、神さま、どうか私たちを招いて、受け入れて、愛して、私たちを抱き留めて、私たちを祝福してください。「あなたこそが義人だ」と、「正しきはこの人なり」(ルカ18:14)と、私たちを迎えてくださいますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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