☆聖書箇所 ヨハネ7:37〜39
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける聖霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
☆説教 渇きに気がついていさえすれば
ご存じの通り、私たちの教会の礼拝の様子は、HPで原稿で読むことができます。牧会報告や、また説教のすべての内容が、教会員の方ですと「聖日説教」というフレームに入っていただきますと、IDが…そして…がパスワードですが、そこに入ればすべての原稿を読むことができます。 同時にそこに入りますと、礼拝の同時中継を観ることができますし、またそれが保存されていますので、ファイルをダウンロードすればそのまんま動画を観ることができますが、 いま新しくO兄が小さなカメラを設置していてくださいます。それは常時この空間が映し出されています。実は暗視機能がありますので、暗い日も誰もいない日も、もし入ろうと思えばそれを観ることができるようになっています。
で、私(藤本牧師)がそれを彼(O兄)にお願いした理由は、一つありまして、一つはですね、礼拝に入って来られた方々が、一階部分がどれぐらい空いているのか、つまり一階部分がスカスカなのに、全部二階に上がっちゃいますと、二階がびっしりになっちゃうんですね。 で、そのあたりの按配を見ていただくために設置したんですけれども、ま、もう少し考えますと、体調悪かったり、お休みであったり、あるいは祈祷会であったり、どんな時でも、スマートフォンから普通にそのまんま観れます。
そういうシステムを少し私は(藤本牧師)は教団的に考えないと、地方の公の交通機関がものすごく少ない世界で、ちょっとお歳を召されていっぺんに礼拝に遠ざかってしまったという方々のために、何とか礼拝を届けようと、そういう意味で地方の教会がそれぞれの講壇を配信できるようにすれば、どんな時にも礼拝の恵みに与かることができると思っています。
私たちの教会では、何と言っても座席の按配。最後に頌栄を歌う時に、二階が崩れるんじゃないかなぁと思うくらい(笑)二階に集中している時があるんですね。少し、その辺り、入って来られた時にご協力いただきたいと思います。 もし私が皆さんの立場であれば、やっぱり礼拝の途中から一階席に腰を低くして入って来るのはちょっと憚ります。もし私が、皆さんの立場であれば。ですから皆さんのお気持ちはよくわかります。で、もし皆さんが私の立場であれば、その逆の発想も解っていただけると思うんですね。 案内の方がおられますので、案内の方が一階に導いてくださったら、一階に座ってくだされば感謝であります。
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聖書を見ていただきたいと思います。ヨハネの福音書の7章。37節のこの言葉から始めて行きましょう。
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
1)この言葉――祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で叫ばれた――ここに出て来る祭りというのは、ユダヤ教の三大祭り、「仮庵の祭り」です。
その三大祭りというのは、過越しの祭り、仮庵の祭り、刈り入れの祭りなんですが、 「仮庵の祭り」というのは、人々は当時自分の家を出て、木の枝や葉っぱで造った仮小屋で一週間過ごしますね。 そのようにしてユダヤ教の人々は、かつて先祖が奴隷であったエジプトから解放されて、苦しみながらもがきながら40年も荒野をさまよった、というその時のことを思い出します。 ――飢えに悩み、のどの渇きに苦しみ、そんな時に彼らは神さまに叫びます。するとモーセが岩を杖で打つと、そこから水がほとばしり出て、彼らの渇きをいやした。
この祭りでは、人々は自分たちがこの世にあって旅人であること、いつも仮の宿に住んでいることを思い起こします。 でも仮の宿で荒野を旅するような人生でも、神さまは水を湧き出させてくださること、私たちの渇きをいやしてくださることを記念いたしました。
祭りの間、毎朝、祭司は神殿の丘を降りてシロアムの池に行きます。そこに湧き出る水を黄金の柄杓(ひしゃく)で汲み上げ、そして神殿に持ち来たり、神殿の祭壇にその水を注ぎます。 イスラエルの人々にとっては、この儀式は単に大昔の荒野の体験を思い起こさせるだけではありませんでした。 もう一つ、先ほど(交読で)読んでいただきましたエゼキエル書の、その最後の預言の象徴でもありました。
預言者エゼキエルは幻を見た。神の救いが完成する日を見た。 ――神殿の敷居から水が湧き溢れて行きます。それは最初は預言者のくるぶしを浸すくらいの小さな流れでした。しかし、進み行くにつれ、やがて川となり、預言者の膝まで、あるいは腰まで、やがてその流れに圧倒されるような大きな川になっていきます。 その川の流れには一つの特徴がありまして、この川に入るものはすべてのものが生きる。実に沢山の魚の種類、のみならず植物も人間も、すべての川を生かす水が神殿の敷居の下、十字架のもとから流れ出る、という幻を見ます。
仮庵の祭りで人々は祝いました。昔、先祖を荒野で生かしてくださった神の恵みを祝いました。 でも同時に、やがてエゼキエルの幻が成就するときに、神殿から流れ出る水がすべてのものを生かすことを思いました。 祭司がシロアムの池から水を汲んで来て――今から二千年前の出来事ですね――祭壇に注ぐときに音楽が奏でられ、人々は歓喜しました。
この祭りの最後の日のただ中で、イエスは大声で仰った。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。 人々は本当の意味での渇きを知っていたのか?たましいが渇いているということがわかっていたんだろうか? イエスさまは――神殿の祭司たちが黄金の桶・酌で汲んでくる水が、祭壇の所に注がれているのを見ながら歓喜したんですけれども――本当に彼らはたましいの渇きに気がついているのか、と言わんばかりに、イエスは立って大声で、「だれでも渇いている者は、わたしのところに来なさい」
今年はペンテコステの日が今日5月24日です。 5月24日というのは、私たちインマヌエルにとっても、また日本中、世界中のホーリネス系の教会にとっても、また世界中のメソジスト系の教会にとって、最も重要な日です。 メソジスト教会というのは、いまは日本基督教団の中に入ってしまいましたけれども、例えば関西学院大学とか、青山学院大学とか、東洋英和とか、みんなメソジスト系の学校にとっては、今日は特別な日曜日です。5月24日だからです。 この日、メソジスト教会や、それに関わる群れは、ジョン・ウェスレーという人物の信仰の回心を記念いたします。
(ジョン・ウェスレーは、)18世紀のイギリス、そしてその後のプロテスタントキリスト教会に最も影響を与えた人物の一人でありました。 ウェスレーは英国国教会の司祭の家に育ち、オックスフォードで神学を学び、聖職者となり、やがて“ホーリークラブ”という聖く生きることを志すサークルを大学の中で設立して、神のみこころと思われることを全力で実行します。 オックスフォードのそばの刑務所を訪ね、そして不遇な環境にいる人々を慰めます。 学生でありましたけれども、お金を集めて貧しい子どもたちのために学校を創ります。 そのようにして、聖く聖く生きることをめざし、彼らはあまりにも規律正しく修道士のような生活をしていたがゆえに、大学の学生から揶揄されて、つけられたあだ名がメソジスト、規律屋さんという、そういう存在でありました。
でもウェスレーは、それでも満足できなくて、さらに聖められるためにオックスフォードから出て、そして弟のチャールズと一緒にアメリカのジョージアに――まだアメリカが独立する前です――ジョージアに宣教師として渡って行きます。 牧師として宣教師として、多くの挫折を経験しながらも、このジョージアで彼は決定的な問題と直面します。
最初は大西洋を帆船で横断していくわけですけれども、二度ほど嵐で沈みそうになります。 その嵐の波と風を受けて、彼は死ぬのが怖いと恐怖に凍えます。 それは当然のことなんですけれども、彼を驚かせたのは、その嵐の沈むばかりの船の中で、讃美歌を歌って平安に過ごしているドイツ敬虔派、モラビア派の一つのグループでありました。 思わず、ウェスレーはそのグループの子どもに尋ねます。 「坊や、恐くないのかい?死ぬのが怖くないのかい?」 驚く答えが返ってきます。 「全然怖くないよ。イエスさまが天国に迎えてくださるから」
彼はこの会話から始まって、渇きを感じるようになります。それはたましいの渇きで、自分に本当の信仰があるんだろうか?自分は死に直面できるんだろうか?自分には本当の平安というのが見出されているのだろうか?
アメリカに上陸して間もなく、モラビア派の指導者でありましたシュパンゲンベルクという人物と会話をします。 何と初対面であったにもかかわらず、シュパンゲンベルクはウェスレーに大胆に尋ねます。 そのときの会話を、ウェスレーは日誌に記していますので、ちょっと日記を読みますね。
<ウェスレー日記・モラビア派シュパンゲンベルクとの会話>
彼(***シュパンゲンブルグと説明される)は、 「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか?自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の聖霊の証しをあなたは持っていますか?」 と私に尋ねた。私は驚いてしまった。何と答えてよいのかわからなかった。 (***彼は英国国教会の司祭ですから、司祭の服装をしています。シュパンゲンベルグは、と説明される)彼はそれに気づいたのか、続けて私にこう尋ねた。 「あなたはイエス・キリストを知っていますか?」 私は少し間をおいて、 「主がこの世界の救い主であるということを知っています」と答えた。すると彼は、 「確かにそうです。しかし主が“あなたを”救われたということを知っていますか?」と尋ねた。私は答えた。 「主が死なれたのは、私をも救うためであったということを望んでいます」 それに対して、彼はさらに尋ねた。 「あなたは本当に自分自身を知っていますか?」 「はい。知っています」と答えたものの、それが空しい言葉であることを自分では分かっていた。 ――ここまで――
と彼は日記に記しています。 「あなたは自分自身を知っていますか?イエス・キリストの救いが本当にあなたのものになっていますか?」――このシュパンゲンベルクの問いによって、ウェスレーから流れる信仰復興運動というものが始まったと私(藤本牧師)は考えています。 この問いかけ――あなたは自分のたましいが渇いているのを知っているのか――この問いかけこそが、ウェスレーに“渇き”というものを与えました。 自分は渇いているんだと(いう気づきを)。
少し気温が上がってくると、私たちはいろんなところでポスターを見ます。 渇きを感じなくてもこまめに水分を取るようにしなさいと(笑)。 ある程度、子どもでもそうだと思いますけれども、何かに没頭していて、自分のうちに渇きがあるということに気がつかないで生活していると、だんだん脱水症状を起こしてくる。
ウェスレーはこのシュパンゲンベルクの「あなたは自分自身を知っているのか?自分自身が渇いている、という自覚があるのか?」というこの問いから始まり、実は三年の年月がかかります。 三年の苦闘が始まるのです。 そして三年経った1738年の5月24日、ロンドンのアルダスゲートという通りで持たれていた集会で、その渇きが満たされることを味わいます。 ちょっとその日記も、ちょっと読ませてください。
<ウェスレー日記・アルダスゲート街の集会>
夕刻、私はひどく気がすすまなかったけれども、アルダスゲート街の集会に行った。 そこである人がルターの『ローマ人への手紙』の序文を読んでいた。 夜9時15分前ごろであった。彼が、キリストを信じる信仰を通して神が心のうちに働いてくださる変化について説明していたとき、私は自分の心が不思議に熱くなるのを覚えた。私は、救われるためにキリストに、ただキリストのみに信頼した、と感じた。 神が私の罪を、この私の罪さえも取り去ってくださり、罪と死の律法から救ってくださったという確証が、私に与えられた。 ――ここまで――
というのが、この5月24日なのです。 気の進まないウェスレーを、アルダスゲートの集会へと連れて行ったのは聖霊でした。 司会者が、特別に意図もなく、ルターの言葉を読んでいたときに、十字架を信じる信仰が、ウェスレーの心のど真ん中に、すーっと与えられたのは聖霊の働きでした。 そのとき、ウェスレーは、心が不思議に熱くなるのを覚えました。 聖霊が、彼のたましいに神の愛を注いでくださいました。
その夜、ウェスレーは気が進まない暗い顔をして、(アルダスゲート通りの)集会に足を運び、夜遅く帰って行くウェスレーの顔は、感謝と喜びに溢れていました。 聖霊が、彼の心を、赦されて、神の子どもとされた喜びで満たしてくださいました。
なぜ、メソジストの(信仰に立っている)人々は、それから何百年も経った今もなお、ウェスレーの回心記念日を祝うのか? それはまぎれもなく、同じ神の御霊が、聖霊が、同じ事を、今日の私たちにしてくださることを信じているからですね。 二千年前の出来事を、その恵みを、今の私のたましいに注いでくださり、私を神の子どもとしてくださることを知っているから、私たちはペンテコステを祝うのですね。 私たちの罪深さを悟らせてくださり、十字架以外にすがるほかなしという信仰を与えてくださり、神の子どもとされている喜びを与えてくださるから、私たちはペンテコステの聖日に集まって来たんですね。
私たちはキリストの言葉を思い浮かべます。 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)という実感を、私にも与えてくださいと、私たちはペンテコステに、そしてこの5月24日に祈ります。
2)渇いたら飲む
ちょっと38節を一緒に読んでいただきたいと思います。
38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」――いや、必ずしもなっていないです。 心の奥底にあるのは、もしかしたら淀んだ水かもしれない。無気力かもしれない。 イエスさまは37節の終わりで仰いました――「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」というこの聖書のことばに*が付いているでしょう。 その*をたどって、欄外を見ますと、37節の欄外の*に――すなわち「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい」という“いつも”という言葉が2回出て来ます。 しつこいからこういう訳し方をしないで、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」となっているんですけれども、もう少し原語の時制を考えると、それは「一回のことではなく“毎日”、毎日のことではなく“いつも”渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」という言葉になるんだと思います。
イエスさまは「仮庵の祭り」に来ている人々の心をご覧になりました。 遠い昔のモーセの時代の栄光を人々は感謝し、記念しているのです。 そしていつ来るともしれぬ果てしない預言の成就を、救いの完成を願いながら神殿の祭壇に注がれる水のことを見ているわけです。 それは、シロアムの池から汲んで来た水なんです。それは単なる水にしか過ぎないということを人々は知っています。 その水によって、自分のたましいの癒しはない、ということも実は彼らはよく知っているんです。 そしてその渇きがあるから、その祭りを必死になってやっているんです。
そこへイエスさまの招きの声が来る――「わたしの所に来て飲みなさい」(37節)。 「いや、いつもわたしの所に来て、いつも飲みなさい」 そしてご覧になって、イエスさまは仰いました。 「だれでも――それは初めての人でも、小さな子どもでも、神殿に何十年と足を運んでいる高齢の方でも――いつでも来て、いつもわたしの所から飲んでいなさい。 今日もし私たちの心のうちに淀んだ思いがあるなら、今日わたしの所に来て、あなたは生ける水を飲みなさい」
アルバート・オーズバーンという救世軍の初期の指導者がいます。彼は救世軍の讃美歌を沢山作詞した優れた詩人でありました。 彼はロンドンの一角の指揮官としての任命を受けまして、それはすごく祝された教区で、彼のもとで働く多くの士官を神さまは尊く用いてくださいました。 教区は膨れあがって、そんな中ある日、士官の一人が彼の所にやって来て言います。
「先生、うわさで聞いたんですけれども、救世軍の本部がこの教区を分割するそうです。先生、そのまま放っておいていいんですか? 神さまが先生の指導下で、こんなに祝してくださった教区が分割されれば、神さまの働きは妨げられてしまいます。先生、本部に嘆願書を出して闘ってください」 そのとき、オーズバーンは言いました。 「いやいや、私は神さまの御心にも、自分の上官の指示にも従いたい。まあ様子を見よう」
ほどなくして、彼は本部に呼び出されます。まさしく、教区を分割するような指令を受けます。 突如として、このオーズバーンの心の中に、分割すべきではない、分割して欲しくない、 という思いが湧き起こった。 分割されたら、今のような自分の立場を誇れなくなってしまうということに彼は気づくんです――実権も自分の影響を及ぼす範囲も、失われていく。
オーズバーンの証しでは――気がつくと、彼は上層部と激しく議論をしていました。 彼は後に振り返って、こう述べています。
「不覚にも、私は御国のためではなく、御国における自分の立場のために闘っていた。 それは聖霊を悲しませることでした。 聖霊は悲しまれると、私のもとを去って行かれました」 その後も、オーズバーンは自分の管轄の教区をなんとか運営することはできました。 しかし、彼と神さまとの間には、それ以来、妙な距離感ができてしまいました。 そして彼は普通に仕事をするんですけれども、霊的に冷めてしまったと言うべきなのか、その聖霊が去って行かれた後に、替わって無感動でかたくなな霊が彼の心の一角を支配していくようになるんですね。
そんな折り、彼は交通事故に見舞われました。 彼は本の中でこう書いています。
「気がついてみたら病院にいました。 回復するのに長い時間がかかりました。憐れみ深い聖霊は、再び私の心にその手を伸ばして来られました。 ある日、隣の部屋でだれかが歌う声を聞きました。それは神の栄光を賛美する歌でした。 私は歌声に心を揺さぶられ、神との親密な交わりをもう一度取り戻したいという思いに駆られました。 悔い改めの思いが心から溢れ出て、涙が止まりませんでした。 (***病院の一室ですね、と説明) 神は私の罪を赦してくださり、聖霊が再び来られて、私の心の中を新たに充たしてくださいました」
そうしてオーズバーンは病院の床の上に座りますと、新しい讃美歌を作ります。 その詩が――
救い主イエスよ たとえ十字架への小径で躓いても たとえ志が歪んでも くずの混ざった金のようでも 主よ あなたに仕える者としてください どうか私を用いてください あなたが喜ばれるように きびしく私を洗いきよめて 私の心の中に きよらかな水を充たしてください オーズバーンは、生ける水に、聖霊に渇いていた自分に、気がついた。 長〜い間気がつかなかったんです。 でも交通事故で、病院のベッドに寝ていて、隣の部屋からその讃美歌の声を聴いた途端に、 自分は実は神さまから離れていて、聖霊のその溢れる流れから遠のいていて、自分は渇いているんだということに気がついた。試練の中で。
そして歌った讃美歌――「たとえ、くずの混ざった金のようでも、もう一度私を洗いきよめて、生ける水を私の心の中に溢れさせてください」――という願いを取り戻すのが、ペンテコステです。
そしてウェスレーは渇いている自分に気がつき、三年の年月を経て、聖霊が自分の心の中に満ち、自分は本当に神の子として赦されているという感動を味わったのが、5月24日です。
私たちは今年5月24日とペンテコステが二つに重なっています。 イエスさまは仰いました。 だれでも――小さな子どもでも、教会に50年通っている人でも――だれでも渇いていると思うなら、わたしの所に来て飲みなさい。今日飲みなさい。 そして、自分自身のうちにある渇きを告白し、そして心の中に聖らかな水を満たしてもらいなさい。
☆お祈り
祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(ヨハネ7:37)。いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい(同・欄外の注)。
恵み深い天の父なる神さま、だれでもの中に私が入っています。その私の心の奥底には、疲れがあり、無気力があり、時に汚れた水が、淀んだ水が巡っているのを私たちに分からせてください。その淀んだ水に失望するのではなく、きよらかな水で充たしてほしいというその願い、渇きを感じさせてください。
もしオーズバーンのように、聖霊が悲しまれると去って行かれた、ということを私たちが知っているのなら、今朝オーズバーンのように祈ります。
「たとえくずが混じったような金でも、主よ、あなたに仕える者としてください。どうか私を用いてください。あなたが喜ばれるように厳しく私を洗いきよめてください。いやいや、イエスさま、優しく私を洗いきよめてください。 そして私たちがかつて体験したような、あなたの子どもとされ、罪赦され、清らかな思いで、新鮮な思いであなたに仕えた、あの日のことを思い出させ、私たちの心の内側にあなたの愛を満たしてください。 あなたが必ずそうしてくださることを、私たちは信じています。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」
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