☆聖書箇所 Tペテロ5:6〜11
6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。 10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。 11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。
☆説教 Tペテロの手紙(30)悪魔に立ち向かいなさい
ペテロの手紙の今日は第29回目かな?30回目かな?来週で最後にしたいと思います。 それで、今日、特別に目を留めていただきたいのは、8節と9節ですので、ちょっと私(藤本牧師)の方で8節、皆さんで9節を読んでみてください。
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
皆さん、ライオンの吠えたける声って聞いたことございます? 私(藤本牧師)あんまりないんですが、一度横浜の野毛山動物園に行った時に、ライオン二頭が、二つの檻に入れられていまして、そして雄のライオンが吠えていました。 どういう喉の構造になっているのかわかりません(笑)。 恐らく喉の部分が太〜いトンネルのようになっているのだろうなぁと思うのですが、不思議な程深く、力強く、身の毛もよだつような、他で聞いたことのないライオンの吠える声ですね。
吠えますと、おそらく動物園の反対側、いや、外からでも聞こえるのではないか。 あれがアフリカの草原で吠えていたら、3キロ先まで届くのではないかと思うほど、大きな声でした。 大きな一台のブルドーザーが自分の前に立ちはだかったならば、一瞬身の毛がよだつだろうなぁと思うんですが、それよりもはるかに大きな存在感で、圭子と共に、「なるほど百獣の王というのはこういうんだね」と言ったのを覚えています。
そこからしばらくして、アフリカの草原でライオンの家族を見ましたけれども、別に静かにして座っているだけでした。 思わず、「ほえてくれよ。この草原で」(大笑)と思うくらい、静か〜に寝そべってぐ〜たらしていました。 私(藤本牧師)が動物園で見たライオンというのは、何かイライラしていたのか、お腹が空いていたのか、この狭い檻の中をグルグルグルグル回っていました。
いったいペテロはどういうイメージで、この「吠えたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(8節)と記したのか? しばらくしますと、ぺテロは、ローマ帝国がキリスト者を迫害するために、飢えたライオンを競技場に放ち、その中にキリスト者を送り込み、食われて死んでいくという残虐なことを、耳にするようになります。 ペテロはどういうことを想像して、こう述べているのでしょうか?――「身を慎み、目をさまし(ていなさい)。あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている」(8節)この世界。
今日の学びは3つのポイントでお話をいたします。 第一番目に、悪魔は地上を、この世界を歩き回る性質がある、ということは覚えておかなければいけないと思います。
1)悪魔は地上を、この世界を歩き回る
悪魔はこのペテロの手紙だけでなく、旧約聖書のヨブ記にも記されています。 神は悪魔に尋ねます。「おまえはどこから来たのか?」 悪魔の答えは「私は地を行き廻り、そこを歩き回って帰ってきました」(***ヨブ記1:7)。
(悪魔は)この世界を散歩していたのではないです。誘惑者として、私たちを神から引き離すために、闇に引きずり込むために、歩き回って来ました。 私たちは様々な形で、サタンの力を感じます――それが暴力であり、あるいは国家権力であり、自分の内側に潜む憤りであり、あるいは様々な欲であり――強引に私たちを神のもとから引き離し、罪と死の世界に引きずり込む悪魔の力、獲物を求めて吠えたける悪魔の声というもの――それを感じなければならない。
ペテロはこう記したときに、思い出したはずです――そのサタンの存在にあまりにも無頓着であった自分の事を。 十字架を前にしたイエスさまの言葉に対して、ペテロは豪語しました。(***ルカ22:31〜34) 「主よ。ご一緒なら、牢獄であろうが死であろうが、私は覚悟はできています」 そのとき、主イエスはペテロに仰いました。 「見なさい。サタンはあなたを麦のようにふるいにかけようとしている。あなたはサタンの前で、麦のように軽〜く振るわれる。あなたはもみがらのように、易々と扱われてしまうぞ」 ペテロはその警戒を心に留めずに、あっという間にサタンにさらわれて行きます。そしてイエス・キリストを裏切ります。
私たちは覚えておかなければいけないことがあります――人に勝つことはできるでしょう。自分に勝つこともできるかもしれません。しかし悪魔には勝てない。 そして悪魔はエデンの園で、蛇に身を変えて私たちに近づくように、私たちは、なかなか悪魔が自分の心を、たましいを捉えようとしているということに、気がつかない内に引きずり込まれていく。 だから、ペテロは「身を慎み、目をさましていなさい」(と、教えるの)ですね(Tペテロ5:8)
「身を慎む」という言葉は以前学びました。ちょっと4章の7節を一緒に読んでみたいと思います。
Tペテロ4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
「身を慎む」という言葉で、ペテロは何を意味しているのか?――目を覚まして、身を慎んで祈りなさい。 勿論ペテロはゲッセマネの園でイエスさまから直接に言われた、また直接に学んだことを思い出しているはずです。(***ルカ22:39〜46) イエスさまに「ここでわたしとともに祈りなさい」と言われていたにもかかわらず、ペテロは寝てしまいました。 その後で、イエスさまから言われました。 「目を覚まして祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(***マタイ26:41)
「肉体は弱いのです」というのは、「所詮人間は弱いのです」。 ほえたける獅子が獲物を捜して歩き回っているこの世界にあって、私たちがサタンから守られるとしたならば、祈りによる以外にない。 「身を慎む」というのは、自分の弱さをよく自覚し、「目を覚ます」というのは、所詮人間というのはサタンの前になす術がない、ということを自覚しながら祈りなさい。 祈るときに神の力に包まれる。それ以外にないんだから、私たちは祈らなければいけない、ということはペテロが伝えているメッセージの一つだろうと思います。
2)ペテロは悪魔をライオンにたとえました。
聖書で獅子にたとえられている、もう一つの存在があります。 獅子というイメージは、聖書の中では、キリストにも使われています。獅子はダビデの王家の紋章でありました。 悪魔の力は、私たちが到底抵抗することができないほど強い。しかし、神の子イエスの力と比べることはできないです。 私たちは悪魔の力を過小評価してはならない。しかし、恐れることはない。 ちょっとマルコの福音書の3章を見ていただきますでしょうか? マルコ3章20節から私(藤本牧師)の方で読んでまいります。
(マルコ3:20〜27を説明を加えながら読んでいかれる) 20イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事をする暇もなかった。 21イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。 22また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
当時イエス・キリストは悪霊を追い出すということを盛んにしておられました。 ですから律法学者たちは「(イエスは)悪霊どものかしらによって、悪霊を追い出している」と(言った)。 するとイエスさまはこんなことを話されます。23節から――
23そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。 24もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。 25また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。 26サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。 27確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、先ずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。
こういうことなんです。27節、もう一回見てください。 確かに、「強い人の家」というのは悪霊の家です。悪霊の家に押し入って行って、家の中に捕われている「家財」というのは私たちのことです。 「家財をもう一度略奪する」というのは、その家から連れ出すには、「先ず強い人を縛り上げる」というのは、悪霊を縛り上げなければ、悪霊に捕われている人のたましいを解放することはできない。
イエスさまがこう仰っているのは、「確かにわたしは悪霊よりも強い」ということを仰っている。 確かにわたしは、「家財」として悪霊に捕われ縛られているような人のたましいを、いとも簡単に解放することができる――つまり「悪霊を簡単に縛り上げることができるほど、わたしは強い」ということをイエスさまは仰っているのです。
使われている表現は乱暴ですけれども、乱暴な程――イエス・キリストは悪霊を縛り上げることができる――その圧倒的な強さを、ご自身で仰っています。 無力に悪霊の言いなりになっていた人が解放されるには、イエスさまがそこに乱暴に押し入って、悪霊を縛り上げて、そして家財を略奪するかのように、私たちを連れ出してくださる(以外にないのですから、私たちにとって良い知らせです)。
3)私たちは悪魔の存在に無頓着であってはならない。
(悪魔は)この世界を歩き回り、誘惑者として私たちをいとも簡単に引き込んでしまう力を持っている。 しかし(私たちは悪魔を)恐れるに値しない。 なぜなら、もし身を慎み、私たちが祈るなら、私たちは守られている。 のみならずイエス・キリストは、なす術もなく悪霊に捕われている私たちを、解放する力を持っておられるということです。 更に強い獅子であるイエス・キリストは、悪魔を縛り上げて、私たちを解放することができる。
ペテロは、イエスさまがかつて、何百何千という悪霊を内側に宿して、悪霊に縛られて、墓場に住んでいる男に向かって、「悪霊よ、この人から出て行け」と命ずる強い声を聞いたことがありました。 ちょっとマルコの福音書をいま開いてくださっているので、その5章を見てください。 3章から飛んで5章を。ペテロが目の当たりにしたこの場面ですね。 5章の1節からちょっとしばらく一緒に読んでいきたいと思います。交替に1節から8節まで。
1こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 2イエスが船から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。 3この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。 4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。 5それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。 6彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、 7大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」 8それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。
ま、ほんとにこの記事は感慨深く読みますね。 悪霊につかれた人は墓場に住みついている――不毛の地、何にも神の御前に生産的なことが生まれて来ない世界に住みついているというのは、私たちのことです。 私たちはたびたび足かせや鎖でつながれています。 時に仕事に繋がれ、時に家庭内の厄介な問題に繋がれ、時に悩み事に繋がれ、繋がれたままで、夜昼となく、墓場や山で叫び続け――最終的に人間は自分の身体を傷つけるぐらいに、心を傷つけるぐらいに――そこから解放されないですね。 墓場に住んで悪霊を内に宿しながら、縛られて自分を傷つけながら、叫んでいる男っていうのは、私たちのことですね。
他の福音書で読んでみますと――イエスさまは湖に上がられた時に、この墓場に通じる道をあえて行くのですね――他の福音書では、人はこの男を恐れてこの道を行かなかった。 でもイエスさまは、あえてこの男に会いに行くためにこの道を行かれるんです。 私たちは狂暴な人を避けます。振る舞いが狂暴であるとか、性格が狂暴であるとか、私たちは直感的に、さまざまな問題課題で縛られて、悩みに落ち込んでいる人ってわかりますよね。避けます。 でも、どこかで自分自身も捕われていて、そして実は自分が住んでいるのは墓場であって、夜昼となくこの墓場で縛られ、叫び、自分自身を自傷行為と言いますかね、そういう状況にある自分というのが解らない。 イエス・キリストはまっすぐにこの道を行かれ、そしてこの人物に会った途端にイエス・キリストは仰った。8節に「汚れた霊よ。この人から出て行け」と。
ペテロは後に、このペテロの手紙の中で、「ほえたける獅子のように、この世界を歩き回り、獲物を捜しているサタンに気をつけなさい」(***Tペテロ5:8)(と語っていますが)、 でも所詮このサタンに勝てない。勝てるとしたら、身を慎み、目を覚まして祈ること。 そしてもし(サタンに)捕われていたとしたならば、それで絶望することはない。 キリストは必ず私たちに出会ってくださり、この悪霊から私たちを解放してくださる。 「汚れた霊よ、あなたの心の中から出て行け」と私たちに気づかせてくださる、(と言いたいのでしょう)。
この男の姿を見てください。(マルコ5章の)12節に――
12彼らは(悪霊は)イエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」 13イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
よくわかりません。二千匹ほどの豚というのは、では悪霊は2000入っていたのか? 人の心の複雑さっていうのがよくわかります。 9節にイエスさまが
9それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、(悪霊たちは)「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
レギオンというのはローマの言葉で、ローマにあの「百人隊長」という言葉がありますけれども、100人の軍隊があります。この軍隊をいくつか束ねて、ひとつの師団を作る。それがレギオンです。 レギオンというのは、歴史的に調べると、100人の軍隊が6つ集まって、600人というレギオンがあります。 もっと大きいと2000人以上のレギオンというのがあります。そうすると、100人がいったいいくつ集まるのか? 100人が24師団、24のグループが集まって、と言われますと、「2000匹ほどの豚が」って言われた時に、あ、人の心の中には、それほど多くの部屋があるのか、と。 そしてこの男の中にそれだけ多くの悪霊が住んでいた。 でもイエスさまはそれを全部追い出しますね。全部を。
心理学者は、私たちの心の内側を探って、私たちの心の扉を一つ一つ開いていくんでしょう。そのようにして、深層心理――私たちが普段気がついていない、そして私たちがそこにいつの間にか黒〜い雲を宿してしまった、というその事実、私たちが封じ込めている様々な思い出、私たちの傷――というものを、ゆっくり解きほぐすように解らせてくれるんだろうと思います。 でも聖霊はそういう小部屋に入り込み、かつて悪霊が住んでいた部屋に、イエス・キリストの霊は住んでくださる。 (悪霊を)追い出すのみならず、その部屋をきよめて、そこに住んでくださる。
悪霊を宿していたこの人物をちょっと見ていただきたいと思いますが、(マルコ5章の)15節ですね。
15そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
この「着物を着て、正気に返ってすわる」――覚えてほしいと思うのですが、サタンというのは、聖書によると、この世界を歩き回って、餌食になる者を捜し求め、ほえたける獅子のように歩き回りながら、いとも簡単に私たちを飲み込む。
ペテロは飲み込まれた経験があるんです。その経験をする前に、イエスさまから、(警告を受けていました。) 「よくよく覚えておきなさい。あなたの心がどんなに燃えていても、所詮人間は弱いのです。いざという時が来たら、麦のもみ殻のように簡単にあなたは振るわれますよ」と。 そしてペテロは、いとも簡単にサタンにあしらわれ、飲み込まれた経験を知っているんですね。
だから(ペテロは)イエスさまから言われた、「身を慎み、目を覚まして祈りなさい」というその祈りの力によって、イエス・キリストがゲッセマネの園で守られ、十字架に向かわれたその様子をペテロはよ〜く知っている。
そして翻って考えてみると、2000もの悪霊を宿していたその悪霊を一斉に追い出してしまわれるイエス・キリストの力強さ、そして追い出された後に、(かつて悪霊につかれていたその男が)正気で神の御前に座っているその姿をペテロは覚えている。
この男はかつて不毛の墓場に住み、縛られ、自分自身を傷つけていた男ですが、今は正気に返って、イエスさまの御前にすわっている――それが今朝の私たちです。 で、私たちはいつも祈る。 「主よ。どうか私たちの心を聖霊によって調べ、私たちを悔い改めに導き、様々なものに縛られ、自分自身を傷つけて生きていた私たちが、以前はイエスさまの権威の前で不安で仕方がなく、みことばをまともに読むことも、また静かに祈ることもできなかった私たちが、今は正気であなたの御前に座ることができ、キリストを信じ告白することができるようになりました。 どうか週に一日でも、一時でも、私たちが正気に静まり、平安を取り戻す時間を私たちに与えてください。そして私たちを何ものにも縛られない、キリストにある自由な人として、聖なる者として生かしてください」 と祈らざるを得ないです。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と、いつの間にか捕われている私たちから、今朝、悪霊を追い出してください。悪霊の手が私たちの背中に触れていたら、それを払い落としてください。 そしてどうか私たちがその存在に気づくかのように、もう少し霊的に敏感になり、そして目を覚まして祈ることができるように。 いつ何時、悪霊の世界に引き込まれるのかわからないほど、私たちは日頃から墓場に住み、日頃から何かに縛られ、日頃から自分を傷つけて生きているのではないかという、自覚に立つことができるように、私たちに悟りを与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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