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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/5 伝道礼拝 黒川知文牧師:イエスの十字架 マタイ27:45〜56
File  
造図2.pdf [698 KB] ダウンロード 造図2.pdf (698 KB) - Download : 125
●聖書箇所      マタイ27:45〜56

  45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
48また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。
50そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
51すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
52また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
53そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。
54百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。
55そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
56その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。

☆黒川知文牧師のご挨拶

おはようございます(おはようございます)。
先ほどこのスクリーンの壁で、(***座っておられたお席が隠れるので)見えなかったのですが、オリーブの親衛隊の方がおられましたので、私(黒川知文牧師)の親衛隊の慶應義塾大学塾生の方ちょっと手を挙げて(大笑)ください。何人ぐらいおられますか?はい、どうもありがとうございました。

事務的になりますが、その方はこの後、奏楽が終わった後、出口のところに来てください。そこで資料をお渡しいたしますので。
礼拝の中で献金がありますけれども、これはクリスチャンの神に対する献身でございますから、どうぞしなくて結構ですから。でも悪いなぁと思ったら、100円で結構ですから(大笑)。その代り、お昼ご飯はおごりますから(大笑)、どうぞお楽しみにしておいてください。

私(黒川牧師)は月曜日から木曜日までずっと愛知県の大学で教えておりまして、歴史学・西洋史を教えております。金・土・日はこちらにいまして、年間1〜2回は藤本先生から頼まれて、説教を預かることになっております。

月に三日は前橋と町田と我孫子という3つの教会で礼拝を担当しておりまして、第4週だけがこちらの教会に出ております。ですからほんとにご無沙汰しておりました。ま、「忙しいですねぇ」と言われますけれども、3つの礼拝、別々の礼拝ですから一つの説教でいいんですね(大笑)。ですからそれほど……嬉しいですね、喜びながら私はいつもこの任にあたっております。

それから満先生とは大学の時代から良く知っておりまして、丸投げされまして、奏楽も何か私の娘がやるという、何かすべてを黒川家で乗っ取ったように(大笑)なっておりますけれども。
先ほど来たらすぐに娘が「お父さん、早口だからゆっくりしゃべってね」と(大笑)。確かに私は早口ですから、それをカバーするためにも毎回プリント(右手で高く上げて)を準備しておりますので。

ま、このプリントでしっかり書いて、ま、最後はプリントを3つまとめますけれども、やはり職業柄、歴史学と聖書神学とこの二つの観点から、丁度この「イエスさまの十字架」というのは信仰の根本なのですね。今日初めて礼拝に参加される方々、親衛隊の方々がおりますから、おそらくこういった機会はないと思いますので、聖書が教えている十字架はいったい何なのか?救いとは何なのか?そういったことを、初めての方のために今日は説教を準備してまいりました。

☆始めのお祈り――黒川知文牧師

天のお父さま、あなたの御名を賛美いたします。このようにして教会に私たち一人ひとりを集めてくださいまして、愛する兄弟姉妹と共にあなたの御顔を拝する礼拝を持てることを感謝いたします。

この教会の藤本先生は、アメリカで尊き奉仕にあたっております。そのアメリカでの奉仕を守ってください。また、そのいない間一人ひとりが、教会の主はあなたの御子イエス・キリストでありますから、そのイエス・キリストに忠実に仕え、またこの教会を守ることができますように。

今日は特に午後からもオリーブの30周年記念(コンサート)という、ほんとにすばらしい一日となっております。どうぞこの午前中、午後とこの一日をあなたが祝福を与えてくださいますようにお願いいたします。

礼拝の中心はあなたのみことばでございます。そのみことばが、先ほど司会者を通して語られました。今しばらくこの弱き民がその説き明かしに移りますけれども、どうぞこの者の背後にあなたが働いてくださいまして、いま私どもに必要なみことばを、導きを、また導きの光を与えてくださいますようにお願いいたします。イエス・キリストの御名を通してお祈りします。アーメン。

☆黒川知文牧師による説教   イエスの十字架   

※先生が作成されたオリジナル資料のプリントを、HP用に送っていただきましたので、PDFで添付して掲載しております。礼拝と同じように、それと照合しながら学んでくださると感謝です。
なお、4つの各福音書の十字架の箇所(「十字架上の七つの言葉」のページ)と1989年に描かれた十字架の絵と、詩篇の22篇、およびヨハネ3章など貼り付けられた部分も、礼拝で配布され、合わせて3つのプリントが一枚の紙に収まっていましたが、HP用には大きく省いて、先生のオリジナル部分だけの2枚の添付になりますことをご了承ください。T・Y

どの教会に行ってもあるのは十字架ですね。この教会でも(後ろを見て)ここにと、上とかそちらにもありますけれども、私たちは十字架に向かっては祈ったりは致しません。
十字架はイエス・キリストが死なれたその象徴であります。
福音書の20%はこのイエスさまの最期の3日間の出来事が書いてあります。
今日はイエス・キリストの十字架について、なぜイエスさまが十字架に付されたのかということを歴史学、最近の歴史学を中心にして学んで、後半はそれがいったい私たちにとってどのような意味があるかということを、プリントを通して学んでいきたいと思っております。

プリントをお開きになってください。開いたところに四福音書――私(黒川牧師)なりにこれはまとめてみました――(上段から)マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネと通常の新約聖書と順番が違います。
これは成立順なんです。マルコがAD60年の中頃、マタイが60年のその後で、ルカが60年の後半で、ヨハネがAD90年代でありますから、それぞれの4人の目から見たイエスさまの生涯を、特に重要な十字架のことをまとめてみました。

先ず十字架刑について、最近のいろんな学問的見地からの結論を紹介いたします。
左の下に十字架の絵が描いてありますけれども、これは1989年の段階ではこれだということですね。ま、これなら手首に釘を打たれています。
絵画ではよく手の平の真ん中ですけれども、それでしたらずり落ちてしまいますから、手首だろうということで、1989年の段階ではこれがイエス・キリストの十字架の形だろうと言っておりますけれども、これが数年前、発掘によって大きく変わりました。

数年前に、1世紀、イエスさまの時代に、実際に十字架刑につかれた人の十字の釘と骨が見つかったんですね。明らかに、それによると、こういう形じゃないんです。
十字の形がこうなるんです。手を後ろに持っていって、そして後ろの方から手の甲に11センチの釘が打たれる。こういう形なんですね(と両手を横に上げて見せる黒川牧師)。
その発掘された釘には、手の甲の骨が残っていたんですね。ですからこういう形でイエスさまは十字架につけられたんだということなんです。

それによってイエスさまの死因も変わりました。
それまでは窒息死でありましたけれども、少しはこれだったらずれて来ますから、脱臼して胸に押されて――最近高津はお医者様が増えて来ましたので、あまり(大笑)、ま、一応調べて来て、お医者様のある方に聞いてそうだということだったんですけれども――窒息死ではなくて、こうですから、ま、窒息する必要ないわけですよね。

要するに、この聖書の中のマルコの福音書の15章にありますけれども、イエスさまが十字架につけられる前に、鞭打たれます。
当時のローマ帝国のこのむち打ちは、十字架刑という死刑の前のむち打ちでありましたが、相当これは厳しいものです。
あの『パッション』という映画を観たら、鞭のところにいろんな牛片、牛の骨だとか、鉄片があるんですね。
それでイエスさまは40回鞭打たれたんですね。死刑でありますから。
ですから、ちょっと残酷ですけれども(鞭をふる身振りで)ぐっと行って、ぎゅっとですね、めり込んで、ぎゅっと。
これを豚を置いて実験しましたら、後ろどころかずっと前の内臓のところまで行って、血が出てしまうという。
ですから窒息死ではなくて――ちょっと医学用語を言いますけれども――ローマ兵のむち打ち40回による出血、脱水症状、20%以上の出血によるショックによって、呼吸困難となって、心停止となって死んだということなんですね。

窒息死だったら――これはナチスドイツが実験して――だいたい18時間〜24時間かかるわけです、死ぬまで。イエスさまは6時間ですね。だからもう既に出血によって心停止になったということ。
窒息死だったら最後まで声が出ませんけれども、イエスさまは最後まで声を吐かれておりますから、この多量出血による心停止状態だと、そのように最近では一応結論となっています、有力な説であります。
心臓付近に液体が溜まります。心嚢水肺付近にも液体が溜まって胸水として、ですからこのプリントの最後のヨハネの福音書の19章の34節――

34しかし、兵士うちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

と言うんですね。この水というのは、先程言った心嚢水肺の中の胸水ですから、これはもう医学的にも正しいんだということがわかる。一応医者にも確認しましたから(笑)。
ですから、聖書はことごとくその様子を伝えているんだということなんですね。

では、なぜイエスさまは十字架刑に付されたのか?これについては後ろをご覧ください。私(黒川牧師)なりに、「イエスさまの最後の一週間」と、「十字架に至る構造」をまとめてみました。これは私のオリジナルです(笑)。
左側ですね、AD30年の4月の7日にイエスさまはこの十字架上につかれて、午後三時に死なれましたけれども、よく「反乱罪によって、イエスさまはローマ兵によって処刑された」と言う――それはそうではないんですね。

そこを見てください。@,A,B――これはユダヤ教の裁判です。
ユダヤ教の裁判では、4月7日の金曜日の、午前中の二行目では、冒涜罪(ぼうとくざい)で有罪判決となっていますね。
イエスさまは最後まで自らを「神の子」だとされました。「あなたの言う通りです」(***マタイ26:64)と言って。
ユダヤ教では、人が神と言ったらそれは冒とく罪と言って処刑、死刑なのですね。
イエスさまはず〜っと自らを「神の子」とした。それで冒とく罪で有罪判決になります。

当時ユダヤ人はローマ帝国の支配下にありましたから、ローマ帝国の方に審理を委ねます。それがC,D,E――これはローマ帝国の裁判です。
その結果は、イエスさまには反乱罪は犯してないとして無罪なんですね。
ですから本来イエスさまは、無罪で釈放される、そういった時でありましたけれども、ここで、当時この日がユダヤ教の「過越しの祭り」という三つの大きな祭りの一つでありました。
エルサレムには通常5万人のユダヤ人がいましたけれども、このときにはその5〜6倍、30〜40万人ぐらいユダヤ人が集まっております。

この三つの大きな祭りの時には、習慣的に恩赦をするという、重罪人を釈放するという、そういった習慣がありました。
そこで、ピラトが聞いたところ、ユダヤ人たちは「バラバー」と言う。これ、発音はバラバー(***バーが強い言い方)なんですね。
バラバーという、この人は反乱罪で死刑でありましたから、「このバラバーを選ぶか、イエスを選ぶか」と言って、民衆たちは「イエスを十字架につけろ」と言って、それを承諾してバラバーが釈放されて、その代わりこのバラバーの処刑の代わりに、イエスさまが死刑となったというわけなんですね。

ま、最終的にローマ帝国がそれを認めておりましたから、ローマ帝国にも、王さまですね、責任があると思いますけれども、じゃ、イエスさまのこの十字架となった、その張本人はだれかということですね。
(プリント)右の上を見てください――「イエスの十字架に至る構造」
張本人は、左の二重括弧の中、ユダヤ教の指導者です。
ユダヤ教では人が神としたら、それは冒とく罪とされる。
イエスさまもこのユダヤ教指導者の偽善だとか権威欲だとか、そういったものを真正面から批判されました。
批判されても、パリサイ派の批判の中では、「彼らの言うことには従いなさい。しかし、することはしてはいけない」と言っていますね。
神学的には正しいんですけれども、しかし、することが偽善であったということで、ユダヤ教の指導者たちは、イエスの殺害計画をもう既になしております。

そしてユダヤの民衆が、直接かかわって来るんでありますけれども、左のページの4月2日の午後を見てください。
イエスさまが4月2日の日曜日の午後に、オリーブ山からエルサレムに入城した時には、ユダヤ人たちはイエスさまを歓迎します。
やっと政治的にユダヤ人を解放してくださる、政治的な救い主として歓迎しますけれども、その後、神殿の商店を破壊された――これは神殿の商店の利益はユダヤ教の指導者に来ます。
パリサイ派、律法学者を非難したことによって、だんだんとイエスを殺そうという権威者たち――ユダヤ人は権威者に弱いわけですね――ですからそのような背後から、1週間前はイエスさまを歓迎したユダヤ人が――右(構造図の方)に移りますけれども――そのユダヤ教の指導者たちの扇動によって、コロッと考えが変わって来るんですね。
ま、その背景には(イエスが)政治的メシヤでなかったという幻滅感もあります。

で、このユダヤ民衆が「イエスを十字架につけろ」と要求したときに、ローマ総督は、イエスは無罪なんだけれども、ユダヤ人が反乱する、暴動への恐れによって、それを聞き入れるわけです。妥協します。
そこに「集団心性」という歴史学の用語でありますけれども、これは一人ひとりじゃなくて、人間が集団と集まった時に一つの方向に向かうという、そういった一つの歴史上の現象があるんですね。
もともとはフランス革命の恐怖政治のことを、そこから来たメンタリテという、これはフランスのアナール学派というのでありますけれども、だからユダヤの民衆も、権威者であるユダヤ教の指導者たちから扇動を受けて、最終的には「イエスを十字架につけろ」として、イエスさまは十字架につけられたということなんですね。
だから不当な裁判、そういった中をイエスさまはこの十字架につけられて、このあと殺されたということなんです。

はい、これまでは今日の前置きです。
それでは今日の箇所をこれから見たいと思います。(プリントの紙の)表に戻ってください。

「十字架上の7つの言葉」として――これはハインリッヒ・シュツとか、ハイドンなんかにそのコラール集がありますけれども――@〜Fまで、一応イエスさまが(仰った)7つの言葉を書かれています。ちょっと見ましたら、

@番目がルカ(23章)の真ん中ですね――
34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
最初は、まだ死の前でありますから、言葉数が多いです。

A番目が、その左の、同じルカ(23章)の――
43「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」で、

B番目がヨハネ(19章)の真ん中――
27「そこに、あなたの母がいます。」
ま、お母さんへの様々な配慮ですね。

そして、その後のC番目、これが今日の、マタイの27章の46節――
46イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタ−ニ」(と叫ばれた。)
これがC番目です。C番目はマルコも書いています。
マルコの上の左の方ですね、15章の34節――
34「エロイ、エロイ、ラマ、サバクターニ」
本当はエリーですけれども、でも相当この時の痛みがありますから、恐らくエロイとなってしまったと、そう耳にされたと判断できます。

そしてD番目が、ヨハネの真ん中の下、「わたしは渇く」(***19章28節)――出血状態でありますから、当然これは脱水症状です。わたしは渇く、そのままです。

E番目が、この(***ヨハネの欄の)下、「完了した」(***同30節)と短い言葉になっていますね。

そしてF番目が、ルカの最後のところですね。(23章)46節――
46「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
――これが最後の大声。他の(***福音書マルコとマタイの)箇所では、「イエスは大声を上げて息を引き取られた」、その大声が、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」という言葉。

この7つの言葉の中で、特に私たちの救いと一番関係する重要な言葉が、(C番目の言葉で)この「エリ、エリ、ラマ、サバクターニ」(***マタイ27:46)なんですね。
ま、今日は特にこのことを学んで行きたいと思っておりますけれども、その前にマタイに戻ってください。
AD30年、4月7日の金曜日に、午前9時にイエスさまはエルサレムで十字架に処せられました。これは「十字架上の7つの言葉」(***マタイの福音書27章の欄)の方ですよ。

マタイ27:45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

はい、これちょっと波線してください。
朝の9時に十字架につけられて、12時から午後3時まで全地が暗くなった。このことは、(福音書を)最初に記したマルコも、(15章)33節に――

マルコ15:33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

と、同じ内容が書かれています。ルカも(23章)44節に、

ルカ23:44そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
同23:45太陽は光を失っていた。

この暗やみはいったい何なのか、ということです。
この暗黒状態、先ずこれは月食とか日食ではありません。過越の祭は、満月の夜でありますから、日食とか月食ではありません。
三時間も――これは、神さまが直接介入された暗闇だと言うことができます。神さまが直接介入された時に、暗闇が訪れます。

これはあとで見てください。出エジプト記の10章の21〜23節でありますけれども、「やみにさわれるほどにせよ」という言葉があるんですね。
あの出エジプトで、神の10番目の災害、あののろいが下るときに、この暗やみが訪れた。「さわれるほどのやみが下った」とあるんです。
あの十戒の映画の中では、最後に天から暗い雲がど〜んと来ますけれども、単なる暗さじゃないわけです。

すなわち、神さまの怒りとさばきがまさにイエスに下ろうとしている、これです、そのやみなのですね。
神さまの怒りとさばきがまさにこのイエスに下ろうとしている、そのような、さわれるほどのやみが三時間。

その中で特に重要なのが、46節の「大声で『エリー、エリー、レマ、サバクターニ』と叫ばれた。」
訳は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味であります。

さて、じゃ、この意味につきましては、裏の先程の紙の右側「イエスの十字架に至る構造」の一番下に(詩篇22篇を)書いておりますので、ご覧になってください。
まずこの言葉の解釈の立場から3つの解釈、説があります。

1)これは「絶望の言葉」説です。

これを取って、佛教だとかキリスト教でない人が、この言葉によってキリスト教を批判します。
すなわち、教祖はなんでこのような無残な死に方をしたのか、ということなんですね。
ほんとに教祖だったら、もっと安心立命ではないかとか、イエスの神に対する絶望の言葉は、この教祖の無残な死に方で、こんな者は教祖ではないとする、絶望の言葉説であります。

しかし絶望では――呼びかけが「エリー」です。わたしの神さまと言っているんですね――決して全く絶望したわけではなく、イエスは最後まで父なる神さまへの信頼を持っています。エリーです。わたしの神。
二つ目の解釈は――

2)「神への賛美」説です。

これは主としてはカトリックの解釈でありまして、私(黒川牧師)はそれは正しいと思っています。それは、この裏のページにこの詩篇がありますね。
聖書の中では、ま、今日もユダヤ人はそうでありますけれども、その最初の部分を引用することによって、その詩篇全体を引用するという、そういった習慣をユダヤ人は持っております。
ですからこの「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とプリントの詩篇22の1のところに書いてありますから、イエスさまは、もう死の直前において、
詩篇22篇が自らに成就していることを示そうとされて、この最初の言葉を叫ばれたということ――これは間違っていません、正しいです。

じゃ、この詩篇22篇は何を言っているのか、ということ。
そこに全部(詩篇22篇を)私(黒川牧師)は貼っておりますから、それをご覧になってください。
先ず詩篇22篇はメシア預言です。メシアとは、救い主。
詩篇はイエスさまが来られる1000年ほど前に書かれた文書でありますけれども、そこで将来来るメシア、罪からの救い主の預言がいくつかありますけれども、そのうちの一つがそれなんですね。

ちょっと見てください。1節から2節まではまさに十字架上の苦しみを語っていますね。
それから3節から21節までも、全部これは十字架上の今の状況を詩篇の中では語っています。たとえば、7節見てください。

7 私を見る者はみな、私をあざけります。
 彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
8「主に身を任せよ。
 彼が助け出したらよい。
 彼に救い出させよ。
 彼のお気に入りなのだから。」

これはイエスさまと同時に十字架にかけられた強盗の一人が、この言葉を吐いております。
飛んで12節――

12 数多い雄牛が、私を取り囲み、
  バシャンの強いものが、私を囲みました。

数多い雄牛――これはローマ兵の象徴ですね。まさにその状況が書かれています。
飛んで、18節見てください。

18彼らは私の着物を互いに分け合い、
  私の一つの着物を、くじ引きにします。

文字通りのことを、ローマ兵たちがやっております。
ですからまさにこの詩篇の22篇は、今のこの十字架上のイエスさまの苦しみを1節2節で、そして今の十字架上の今の状況を、詩篇22篇が既に言っているんだということを理解することができます。

22節から後半を見てください。内容が変わります。神への賛美となるんですね。
十字架上で苦しみを受けておりますけれども、あとには神への賛美としてずら〜っと言っているんです。特に27節――

27地の果て果てもみな、思い起こし、
  主に帰って来るでしょう。
  また、国々の民もみな、
  あなたの御前で伏し拝ましょう。

これは何のことはない。福音宣教のこと。福音が全世界に及ぶことの預言ですね。
さらに最後、30節――

30子孫たちも主に仕え、
  主のことが、次の世代に語り告げられよう。

いまは全世界の宗教人口の三割までがキリスト教徒。全世界へとこの福音が及ぶようにと、そのことの預言が、今日から見たら、これも成就していると。

ですからイエスさまは、死の直前の苦しみにおいて、今のこの十字架上の死は1000年前の詩篇の22篇がことごとく成就している。
だからそれを知らせるために、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、この引用をしたのだと――これは間違いではありません。正しいです。

しかしその説に対しての批判は、イエスさまは苦しんで叫んでいるんですね。決して賛美として歌っておりません。苦しみの中でこれを叫ばれたということが書かれております。
ここで、やはりこの原語に戻ったら初めて分かるということ。
3番目の解釈が――、

3)「苦悩の叫び」説です。

罪のないイエスに下される、神のさばきに対する深い叫びなんだ。永遠に一つであった父なる神との霊的断絶の深い叫びなんだ――これが、この「苦悩の叫び」説でありまして、それに関しては、このプリントの右下の3つのこの箇所の原語をご覧になってください。
【詩篇22篇1節「エリ、エリ、ラマ、アザブタニ」
 イエスの言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
アラム語「エリ、エリ、メトゥル、マ、サバクタニ」
※3行とも、いずれも右側に黒川先生によるヘブライ語が書かれています。T・Y】

先ほどの詩篇22篇1節、これはヘブライ語です。右に書きました。
さあ、これを今日は覚えましょう。私(黒川牧師)の後に発音してください。行きますよ。
「エリー、エリー(エリー、エリーと繰り返す)。ラマ(ラマ)、サバクターニ(サバクターニ)。」
はい、どうもありがとうございました。で、それがイエスさまの言葉ですけれども、
詩篇22篇1節はそうじゃないんですね。じゃ、私(黒川牧師)の後に発音してください。
「エリー、エリー(エリー、エリー)。ラマ(ラマ)、アザブターニ(アザブターニ)。」

はい、最後、アザブターニなんですね。新約聖書の原語では、このサバクターニであって、アザブターニではありません。
ですからもしも、この22篇を引用するだけが目的だったら、イエスさまは「エリ、エリ、ラマ、アザブターニ」と叫ばれたはずであります。
しかし、「サバクターニ」(と実際には叫ばれた)。

では「サバクターニ」とはいったい何であるかということです。
その下、アラム語なんですね。アラム語にこの「サバクターニ」が出て来ます。
ただし当時のアラム語訳聖書、これはタルグームという聖書でありますけれども、そのアラム語訳聖書の詩篇の第22篇の1節はその下にあります、「エリ、エリ、メトゥル、マ、サバクターニ」なんです。
一応「サバクターニ」にアンダーラインしてください。

要するに一番重要なイエスさまのこの言葉は、確かに詩篇22篇の引用、1節からの引用ですけれども、しかしイエスさまは、アラム語で、しかもアラム語の聖書でもない、自らの言葉だったということなんです。
アラム語は当時のユダヤ人の生活で使っている言葉です。ま、ヘブライ語とほぼ同じような所ですからね、似通っていますけれども。

結論を言いますよ。イエスさまは確かにこの22篇のメシヤ預言が自らに成就していることを指し示そうと、この1節を引用されましたけれども、しかし今の苦悩の叫び声で、自ら自分の言葉で「サバクターニ」と叫ばれたということ。
ということは、この言葉によって、イエスさまは明らかに私たち人間の立場を取って、罪のない方が、罪のある人間の身代わりの死を遂げられたということです。
新約聖書に「サバクターニ」というこの言葉がありますから、私たちはそのことを確認することができるんですね。
このイエスさまの十字架上の苦しみは、私たちには理解できません。
なぜかと言ったら、私たちは罪人ですね。罪のために死ななきゃいけないという。

関西のある教育大学の付属小学校で、殺人事件がかつてありました。
その時7人の生徒を殺したその犯人がおりまして、あのニュースを見ていたときに、私(黒川牧師)の印象に残ったのは、その7人の生徒を殺した人は、ほんとに家庭の境遇が相当同情すべきところがありましたけれども、殺した後、彼はこう言っているんですね。
「早く俺を殺してくれ」と、こう言っているんですね。
その方に限りません。重罪を犯して人を殺してしまった人は、その罪の結果は死だということはわかっていて、自分を殺してくれ〜って思うようになるそうですね。

イエスさまは、無実の罪です。法的にもローマ法的にも、一切罪はありませんでした。
イエスさまの生涯はこの4つの福音書に書いてあります。
言葉においても、思いにおいても、人間として私たちと同じですね。空腹になられたとか渇いたとか、語られておりますが。
しかし一点違うことは、罪を犯されなかった。
罪を犯されなかったが、私たちの身代わりとして、罪ある私たちの身代わりとして、神の裁きを一身に受けた。    
聖書は「罪の結果は、滅びである、死である」と言っています(***ローマ6:23)。
人間は自分の力で罪から解決することはできませんからね、
神さまはこのイエスをこの世に送られて、実際、歴史上の人物として人々と会話をし、交流して、そしてこの十字架上の死の後、三日後には復活されたと言うのですね。

聖書の言葉、(プリントの)裏のところに、これが「聖書中の聖書」と言われる一番有名な言葉がありますので、ヨハネの福音書の3章。
これをじゃ、ご一緒に朗読いたしましょう。
ヨハネの福音書の3章は、このイエスさまのことを書いております。ちょっと長いですけれども、ご一緒に朗読したいと思います。

ヨハネ3:13〜17
13だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
(この人の子というのは、イエスさまのことです。メシアの称号としてですねと説明)。
14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

特に16節ですね。ヨハネの3章の16節は、「聖書の中の聖書」というのですね。
神、この神は父の神ですよね。父の神は見えません。父の神は、実にそのひとり子イエスをお与えになったほどに世を愛された。
神さまは人間を造られて、人間は罪を犯しました。そのために人は罪のために死ななきゃいけない。罪のためにほんとに様々な空しいそういった人生。
しかし、そういった人を神さまは愛しておられて、何とかしてこの人を救おうとして、神自らがひとり子を送られて、人と一緒に住まわれて、そして十字架上の死、これは人の身代わりの死なんだということです。
それは御子イエスを信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
罪から来る結果は死ですよね。イエス・キリストのこの身代わりの死を信じる者には、もう罪から解放されて永遠のいのち、生きる希望、あらゆる善きもの、全く新しい人生へと変わるんだということなんですね。
これがこの聖書の中心的な教えであります。

私(黒川牧師)は、高校二年生の秋に教会に行きました。
今日も十何名の方が初めて教会に来られて、おそらく相当緊張されているんじゃないかと思うんですね。
ちょっとレポートを読んだら、「教会とは宗教者だけが行く所だと思っておりました」と書いて、「行って歓迎されて嬉しかった」と書いてありましたけれども。

私は生まれてから知人も家族も一切クリスチャンはいません。
ですから、ほとんどの日本人と同じように、キリスト教こそバカな宗教はないと思っていました(笑)。邪教だと思っていましたね(笑)。
天使、悪魔、何だこれは。神なんかいないじゃないかと。
そして高校二年の時に――あまり高校時代はいい思い出がなかったのですね。失恋したり、成績が良くなくて――何とかして美しい思い出を作ろうとして、教会に行ってキリスト教を否定しようと思ったんですね。自信があったんです。

あらゆる例えば神の存在から、聖書から、当時のなぜキリスト教国がベトナム戦争をするのかとか、なぜ中世はキリストの世界なのに、あんなに暗黒な……そういうことを全部言って、宣教師を相手に毎土曜日ごとに5時間ほどずっと話して、最後は私は復活を疑おうとして、復活を当時の歴史書で調べたんですね。
そしたら、その歴史家も、「何か不思議なことが起きたと考えなければいけない」という結論なんですね。
イエスが十字架につけられて三日後に復活された。それは、そのあとに弟子たちの人生は大きく変わっておりますから、「何か不思議な事柄があったと仮定せざるを得ない」。
それを見て私は鳥肌が立ちまして、「何か起きたかもしれない」――そういった聖書に対する偏見が取り去られた時に、初めて教会に行って、そして自分の罪がわかりました。

それまでは、自分を中心とした、優越感にもとずく人生でありました。自分を中心にして世界は動いている。
しかし高校に入ってから、特に数学の成績が悪くて、劣等感があって、どうもそうじゃない。そうした中で、孤独と劣等感の中で、何とかして、その中でも本当に愛せる人、本当に信じるもの、人、目標、そういったものをもがいて求めておりました。
まさかこの聖書の教えがそうなるとは思っていなかったんですね。

初めて礼拝の時、一番真ん前に座りました、怖くて他の人が。食い入るように説教を聴きました。
そのとき、自分が正しいと思っていた――尊敬する者は自分だけだと思っていましたけれども――その自分が罪に汚れたものであるということがわかったんですね。
そのとき、勿論目には見えませんけれども、今ここに神さまがおられることを実感しまして、それまで否定しようとしていた神さまが、いま自分を愛してくださっている、その愛に触れて涙がとめどなく流れまして、涙が渇いて全く新しい人生、本当に目標がある、ほんとに裏切ることがない神さまに従って行こうという、心の平安と生きる目的、喜びをその時味わって、それが今から43年ほど前の出来事ですね。

ただその頃、イエスさまの身代わりというのがちょっとまだ理解してなかったんですけれども、そのことはその後、私は理解できました。
それは母親の言葉なんです。私は小学校、中学校まで、非常に身体が弱かったんですね。アデノイドというのですか、今の言葉で、扁桃腺が弱くて、しょっちゅう熱を出して40度、39度でずっと寝込んでおりました。
その時に母親が言った言葉が、これでした。じっと看病しておいて、
「辛いのう。できることならあなたの身代わりになってあげたい」と言ったんですね。
母親は私を愛しています。ですから、その苦しんでいる私の身代わりとならせてほしい――あっ、これがイエスさまの身代わりの十字架だということを私(黒川牧師)ははっきりと理解することができました。

イエスさまは罪の中で死ななければいけないという、また罪の中で生きる目標がない、生きる喜びもない、いまはもう空しいという、そういった人を神さまは愛して、その身代わりとしてイエスさまが十字架上で死んでくださった――これは歴史的な事実です。
そしてその後、救いの完成として、三日後に復活されて天に昇られた。いまだにイエスさまのからだはありません。聖書はそのことを言っています。

福音とは自分の罪のために、身代わりの死をなしてくださったこのイエスさまを信じること、信じる時に、神さまがあなたと共にいてくださる。
で、救われる方は神さまが永遠の昔において、すでに選んでおられます。

お祈りの前にひとつのことをお勧めいたします。
イエスさまの十字架の死は、私たちにどのような意味があるのか、3つのことを述べます。

@どうか、神さまは天地を造られて、今も存在して生きて働いておられる――そのことを信じてください――神さまは天地を創造して、今も生きて働いておられる。

A人は罪を犯したために死ななければいけない。その罪のために生きる喜びがない、生きる目標がない。苦しみしかない――そのことを自覚してください。

Bそれでも神さまは、あなたを愛しておられます。
そのために、イエスさまをこの世に遣わされて、十字架にかけて、十字架で死ぬことによって、その人の、あなたの罪の身代わりとされました。
今はそれを信じる者は救われて、神さまから永遠のいのちが与えられます。
人生は大きく変わります。

これが福音の中心内容であります。どうかそのことを追い求めてください。

☆お祈り

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです(Uコリント5:21)。この方にあって、救われるためです。

天のお父さま、今朝のみことばに感謝いたします。今から二千年ほどの昔に、あなたの御子イエスは人としてこの世にあって、歴史的な人物として、33年間の生涯を送られました。その最期は不当な裁判による十字架上の死でありましたけれども、その7つの言葉のうち、第4の言葉が「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」でありました。

これは、そのときから千年前ほど前に預言をされていた詩篇22篇のメシヤ預言の成就であることの確認であり、と同時にイエスさまご自身の苦痛の叫び声でありました。罪のない方が、罪ある私たちのために身代わりの死を体験される――それは私たちには想像できないほどの苦しみであります。この言葉によって、イエスさまは、私たちの罪の身代わりの死をされたという、そのことを私たちははっきりと理解することができます。感謝いたします。

どうか今この礼拝の中で、教会の中で、まだこの信仰にあずかっておられない方があるならば、今日この礼拝に出ただけでも、その背後に神さまの導きがあると私は確信しております。どうぞなおも救いを求めることができますように。また既に救われた私たちは、自らに与えられたものを通して、この地上生涯の最期に至るまで、あなたのことを証しすることができますように。自らの職業をもって、さらには言葉をもって、あなたへのこの託された救いの言葉を私たちが語れますように、この一週間、あなたが支え導いてください。今朝のみことばに感謝をして、イエス・キリストの御名を通して、このお祈りを御前におささげいたします。アーメン。


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