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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/26 アブラハムの生涯(17)イサクを捧げる 創世記22:1〜14
☆聖書箇所    創世記22:1〜14

1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
 6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると、彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
 9ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

☆説教    アブラハムの生涯(17)イサクを捧げる

今日は創世記の22章を開いていただきました。ずっとアブラハムの信仰から学んでおりまして、今日はその17回目です。
そしてアブラハムの生涯における最大の試練です。
信仰を語る時に私たちは恐らく「チャレンジ」というものを語らなきゃいけないでしょうし、信仰を語る時に試練を避けて通ることはできないと思います。
そしてアブラハムの晩年に現れた神の試練ですね。

私(藤本牧師)はお年を召された牧師夫人にある時、訊いたことがあります。
「先生の牧会生涯の中で、心に残る聖書のことばは何ですか?」と。
「長〜い牧師の生涯で、心に残る聖書のみことばを一つ選ぶとしたら何ですか?」
その先生は、(次のみことばを教えてくださいました)。
<Tコリント10:13>
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

私たちが心から信じている聖書のことばです。
それでも耐えることができないような試練もあるんじゃないかと、ふと考えさせられます。
アブラハムに襲いかかるこの試練は、おおよそ人が耐えることのできない試練だろうと思います。

人生長生きすれば、試練の数も増えますし、ですから伝道者の書には、こう記されています。
<伝道者の書5:17>
「人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。」
もちろん喜びも楽しみも沢山あります。でも人生長ければ多くの苦痛、苦難、病気、怒りというものが生まれます。

モーセは詩篇の90篇で、(うたっています。)
<詩篇90:10>
「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは 労苦とわざわいです。」
と言いました。あ、なるほど労苦とわざわいの多い人生だと。

しかし、年が加えられ、苦労も確実に加えられると思いますけれども、しかし長生きした分、神さまの真実もまたより深く味わうようになる。
人の温かさも味わうようになるでしょう。人の苦労も解るようになるでしょう。
試練と共に脱出の道を備えてくださる神の憐れみがわかるようになるんだろうと思います。

だとしたら、今の私(藤本牧師)に――60を迎えようとしていますが――このアブラハムの信仰の究極を語ることができるんだろうか?と自問いたします。
で、明らかに答えはノーです。絶対にこのアブラハムの信仰の境地に私(藤本牧師)は立てないと思います。
いくら年を重ねても、子どもや孫を失う程の大きな試練に遭わない限り、なかなかこの場所は語れないと思いますし、またそういう試練には会いたくないと思いますし、それがゆえにこの信仰の神髄にはなかなか届かないだろうと祈ります。
しかし、同時に、試練というのは、大なり小なり、みんな、ここに出て来る自分の息子イサクを捧げるアブラハムのような心境、心情、あるいは信仰を伴うものだと思って、今日一緒に見ていただきたいと思うんです。
試練というのは、大なり小なり、皆、ここに出て来るアブラハムのような心情、心境、信仰というものが伴うものだと思って、一緒に見ていただきたいと思います。

話はこういう風に始まります。1節(と2節が読まれる――)

1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

アブラハムは「耳を疑った」と言うのはこういうことだと思いますね。
子どもを捧げるという宗教は、古代中近東にはいくらでもありました。
しかし旧約聖書に記されているように、子どもを神に捧げるというような習わしに絶対に従ってはならないと書いてあります。
人の子どもを神に捧げるというような古来の習わしに断じて従ってはいけない、と聖書に書いてあります。
イサクは神さまが約束してくださったアブラハムの子孫です。奇跡の子どもです。100歳にして生まれた奇跡の子ども。
そしてこの子どもから「あなたの子孫を星の数ほど増やす」と仰った(***創世記15:5)、その神さまの約束は、このイサクにかかっている。
「そのイサクを捧げよ」というあり得ない試練がアブラハムに課せられます。

旧約聖書の中で最も、ある意味理解に苦しむ、矛盾を感じる物語の一つですし、多くの哲学者が、このイサクを捧げるアブラハムを、多くの画家がイサクを捧げるアブラハムを描いています。
最も矛盾に満ちていると言いながら、得てして、こういう受け入れられない、想像もできない現実というのは、私たちの人生にやって来ます。得てしてやって来るもんです。

その中でこの物語に、私たちは何を学ぶのか、簡単に3つ見ていただきたいと思うんですが、第一番目に――

1)アブラハムの従順さです。

2節にこうありますね――

2……「あなたの愛しているひとり子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。」
3節に――

3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。……

翌朝早く――半年考えた、とか、悩みに悩んだ、とは書いてない。
翌朝早く、神さまが仰ったそのまんま、イサクを連れて出かけて行きます。
4節に――

4三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

三日目――伝説では、モリヤの山というのはエルサレムですから、ベエル・シェバからエルサレムまでは約80km。
大体3日間歩いたら着くんでしょうが、その道から逃げずに黙々と歩いて行きました。
5節――

5それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

イサクは戻って来ないんですけれどもね。
何も言わず、いや、何も言えず、ふたりの若い者たちをそこに残して、親子ふたりで山に登ります。
6節――

6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

黙々と登って行きます。

そしてとうとうアブラハムは息子イサクに手をかけようとしたその瞬間、11節――

11その時、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

何度もここから話した――そんなにはないですね、3回ぐらい話したことがあるかもしれません、30年で。
1節に神さまの呼びかけは「アブラハムよ」ですね。そしてその時、彼は「はい。ここにおります」とこう言います。
11節の最後で、もう一度神さまは「アブラハム。アブラハム」と仰せられ、同じようにアブラハムは「はい。ここにおります」で、この試練が終わります。
信仰生涯は、自分の名前が呼ばれて「はい」と返事をし、そして自分の名前が呼ばれて「はい」と返事をして終わる。

この物語の一番最初、「アブラハム」と呼ばれ、「はい。ここにおります」と答え、一番最後、同じように名前が呼ばれ、そして「はい」と返事をする。
いつでもどこでもどんな状態でも、神さまの呼びかけに答える距離にアブラハムは居たということです。
アブラハムはこんな厳しい、難しい、苦しい状況にありながら、神さまから逃げなかった。神さまから遠ざからなかった。神さまを避けなかった。信仰を捨てなかった。
「はい。ここにおります」という距離に居続ける。

これがアブラハムの信仰で、アブラハムの従順なんでしょう。で、これは非常に難しいです。
私たちは試練の中で祈りはします。
でも「アブラハムよ」と言うように、温かく自分に呼びかけるような声はほとんど試練の中では聞こえて来ないです。
そして「はい。ここにおります」と言う素直さよりも、「なんでこんなことになるのか?」という疑問や、あるいは「どうしたらここから脱することができるんだ?」というような自分の考えがいつも先に来ます。
ですから試練の中で、温かく私の名を呼んでくださる神さまと、それに素直に答えている自分の姿が、ここに出て来るようにはない。
だから私たちは、ここを読むたびに、読むたびに、このアブラハムの従順さというものを考えなければいけないと思います。

でも私(藤本牧師)は少しこの沈黙というものが、もしかしたらこういうものなのかなぁと思うようになりました。
従順さだけでなく、もっと複雑なものがあるんじゃないかと。
つまり、イサクと言葉を交すこともせず、アブラハムはサラに一言も言わずに、周りの者に「神さまからこういうお告げがあった。なぜだろう?」と相談することもなく、翌朝早く出かけて行くわけですけれども、
私たちの試練の中で往々にして、言葉にならない苦労とか、言葉にできない程の悲しみとか、「言葉にならない」というのがありますよね?

もうすぐインマヌエルのオンラインの学びが8月から始まりますが、今回は聖学院大学の准教授の臨床心理士の藤掛明先生の講座です。
皆さんがもしお取りになりたければ、まだ席があれば取ることができますが、スマートフォンでもパソコンでも。
聖学院大学で一番最初に履修届が埋まってしまうと、すぐに埋まってしまうという人気の授業ですが、
藤掛明先生は、ご自分が癌であることを公表しておられます。
ですから、今回のオンラインの授業でもビデオ撮りがあるんですけれども、全部字幕で付くようになっています。
少し聞き取れない部分もあるからですね。

藤掛先生は「16時40分」という本を書きました。副題は「癌になった臨床心理士の心の記録」というもの。
16時40分というのは、大体人生のそういうタイミングで自分は癌になった。ステージWだということを聞かされた――という、そこから始まる自分の心を読もうとしている臨床心理士のその記録がこの本になっているんですね。

(この本の中に)大変興味深い章で、「励ましの言葉」と題された章があるんですが、ちょっと読んでいきますね。
「励ましの言葉」ですから、こういう試練の場面で言葉がどういう風に機能するのか、ちょっと読んでいきますね。

――藤掛先生の本を引用しながら語る藤本牧師――
私に対するすべての言葉かけには、ありがたい思いがした。背後にその人の善意を感じることができて嬉しかった。しかし、独特な窮屈観を味わうことも多かった。
「先生、元気そうじゃないですか」――そう言われると、私としては様々な複雑な思いを吐き出して語りたいという思い――病気に対する不平や弱音、不満を話し出すということに、いきなり蓋をされてしまったという感じだった。
「先生、お元気そうじゃないですか」と言われて、自分の内側にある様々な弱音を出すことができないですよね?
ですから一番最初から「蓋をされた」という窮屈な思いがあったと。

こういう言葉もあったそうです。
「早く元気になってください。先生に何かあったら、キリスト教界の大損失です」――こうした言葉には私(藤掛先生)の代わりに神に向かって、なぜ今、不治の病にかかり死ななければならないのか?死ななければならないのが「私」なんですか?というメッセージが含まれていた。
「先生、早く元気になってください。先生に何かあったら、キリスト教界の大損失です」っていうのは、神さまが関わっているんですよね。
だったら、そんな大損失になりそうな出来事を、なぜ今、この私(藤掛先生)に神さまは及ばせるようになさったのか?という、私(藤掛先生)の中にある沸々とした神に対する怒りを、誰かが代わって言ってくれるような気がした、と記されています。
――引用はここまで――

「励ましの言葉」なんです。でもそれは励ましになってない。
いや、一生懸命励まそうとするんですけれども、その人物にとっては、励ましにならない。
もしかしたら、だからアブラハムのこの物語の場面ではひたすら沈黙なのかなぁと思いますね。
ほとんどアブラハムとイサクは話をしない。
家庭の中でこのイサクの出来事に関して、何ら話し合いはなされていない。
黙々と80km旅をし、黙々と山に登り、そして息子に手をかけようとするアブラハムの姿ですね。
アブラハムは、堪えます。

ですから、ある意味、試練の中で私たちの抱く信仰というのは、従順さもあるんだろうと思います。
「はいここにおります」という従順さもある。でも同時に、同時に私たちは堪えるんだろうと思います。
言いたいことは沢山ある。でも神への信頼ゆえに、私たちはその言いたいことを全部は言わない。
もちろんその代わりに泣くでしょう。その代わりに叫ぶでしょう。
でも私たちは耐える。

2)この出来事の中に不思議な希望も含まれています。

7節をちょっと皆さんで一緒に読んでみたいと思います。22章の7節――

7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

まさかアブラハムも、「そのいけにえはおまえだ」とは言えないですよね。8節に――

8アブラハムは答えた。イサク(わが子よという意味ですね、と説明する藤本牧師。***「イサク」の欄外の注は「わが子よ」、愛情のある表現)。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

イサクは思ったんですね、すべてが変だと。
いけにえを捧げるならば、それを携えて行くのが普通です。
たきぎは自分が背負っている。父は火を用意して刀も用意している。しかしいけにえがない。
「お父さん、火とたきぎとそして刀はあっても、全焼のいけにえはいったいどこにあるんでしょうか?」
アブラハムは「神が備えてくださる」「神が見つけてくださる」「神が何とかしてくださる」(と不思議な希望を神にのみ置いた発言)。

この言葉は新約聖書のへブル人への手紙の中では(11:19)この時のアブラハムは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、とアブラハムは考えました」と書いてあります。
遠い遠いヘブル人への手紙では――「きっと一旦殺しても、神さまはよみがえらせてくださるとアブラハムは考えていた」と書いてありますけれども、この物語ではそうは書いてないですね。
アブラハムにはわからない。でも何らかの脱出の道を、何か神さまは備えてくださるに違いないということは、たとえここで(イサクを)失ったとしても、それですべてが終りではない。神さまは何かを私のために準備していてくださるという、「淡い希望」。
私(藤本牧師)はこの「確かな希望」と呼ぶのが、ちょっと気が引けますね。
これほどの試練に私たちが遭ったら、絶対ここは突き抜けるという、「確かな希望」というよりも、そのろうそくの炎のように、ゆらゆらしながらもきっとそこを突き抜けるだろう、何か神さまは事を為してくださるだろう、という不思議な、柔らかな、小さな、でも確かにそこにある希望を、彼は持っていたのではないでしょうか?

先程読みましたあの藤掛先生の本にはこんなくだりですね、(続いています)。
さっきの「励ましの言葉」という章なんですが、実は言葉は結構難しかったと、その様々な言葉は、もらった言葉に対して自分はどう反応したかが書いてあるんですけれども、この章の一番最後にこういう風に書いてあります。

――また本を引用して読み始める藤本牧師――
闘病中に読むようにと、何人かの方から本をいただいた。(ま、これも無粋ですよねとご自分で笑いながら。闘病中に本を読むか?って苦しいわけですから。足の骨を折ったぐらいだったら、ねぇ、ギブスで固めてあと本を読むでしょうけれど、癌で入院していて「この本を読みなさい」と言うのもないだろうなと思いますが、とご自分の見解も挟まれる藤本牧師)。またある方々からは、メールをいただいた。またある方々からはサプリメントや民間療法の薬をいただいた。(もう沢山届くんですね、と付け足して、ご自分の経験をここから話される。)

私(藤本牧師)よく知っております京都伏見教会の田辺岩夫先生。
もう亡くなりましたけれども、民雄先生、あの先生が亡くなった時に、全国からありとあらゆるサプリが届いた。
私も私ですから、もう病院で言葉が発せられない程、先生は病んでおられたんですけれども、先生の耳元で、
「先生、それで参考までに、何が一番効きました?」って訊いたんですね。
もうすぐ亡くなるのに(大笑)。もうすぐ亡くなるんですけれどね、
「先生、何が一番効きました?」って訊いたら、先生は「ア・ロ・エ」って書きましたね(大笑)。アロエって。
それは抗がん剤で、食べられないというその食欲をもう一回復活させてくれたのがアロエだったと。あ、なるほど。
それで私(藤本牧師)はアロエ(のサプリ)を飲むようになったのですが(大笑)。

藤掛先生はこういう風に書いてありますね。
またある方々からサプリや民間療法の薬をいただいた。またある方々からは千羽鶴をいただいた。
私はクリスチャンであるので、千羽鶴に何か効果があるとは思っていない。
しかし、千羽鶴も、サプリや民間療法の薬も、そして本やメールなども、大切に病床や自宅に保管し、よく眺めた。(「よく眺めた」――本もメールも千羽鶴もよく眺めた、と強調)。どれもこれも人の祈りがかたちになって、私(藤掛明先生)を慰め、励ましてくれるように思えたのだ。

言葉によって慰められた、とはどこにも書いてない。むしろそれは私(藤掛明牧師)にとって、非常に苦痛だった。
でもいただいた本も読みはしないけれども、それを眺めているだけで、そのメールも一回読めばいいわけですけれども、眺めているだけで、私の背後に私のために祈っていてくれる人が沢山いるという実感を得た。
千羽鶴もそうでしょうねぇ。一生懸命折ってくださるわけですから。
そこに希望が生まれて来るわけですね。

大きな試練の中であっても、アブラハムも私たちも希望や慰めをつかもうとします。
沈黙して耐えているかもしれない。そこには不安や疑いも混じっているかもしれません。
私たちはアブラハムのように完璧ではないでしょう。
しかしどこかに慰めや希望を見つけて、祈ります。それは神さまは必ず脱出の道を備えてくださる(と信じるから)。
解決ではないかもしれない。でも脱出の道を備えてくださる。

3)私たちはアブラハムの信仰の深みを見ますね。

一番最初は、この物語の中にアブラハムの信仰の従順さを見る。
二番目に、アブラハムが抱いた希望・祈りを見る。
三番目に、深みを見る。

12節をちょっと一緒に読んでみたいと思います。22章12節――

12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

何度読んでも、何度読んでも納得のいかないこの文章がありますね。
「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない」―その次の文章です――
「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」――えっ、神さま、今まで分からなかったんですか!?(大笑)ですよね。
まだまだ若い頃、「自分の生まれ故郷を出て、わたしの示す地に行け」と言った、その時の神を恐れ信ずる信仰を、神さま、あなたはよくわかっていたじゃないですか!?
なかなか子どもが生まれない中、100歳にして生まれるぞ、与えられるぞということをまっすぐに信じた――その信仰を、あなたはわかってくださったんじゃないですか?
ここにありますでしょう、「今」わたしはと。「今」なんですか?と。今までわかってくださらなかったんですか?と。

私(藤本牧師)は言葉面を読んで、今までそういう風に考えたんですけど、今回、聖書の話をもう一回読んでいく内に、私(藤本牧師)は少し意味が違うんじゃないかと思いました。
それは、言葉の表面はそう書いてありますが、私(藤本牧師)は、この言葉によって、神さまはアブラハムをほめておられるんじゃないか?
ひと言でいえば、「よくやった」と。
「あなたはかつてのあなたとは違う。全然違う。あなたが本当にわたしのことを第一としていることがわかった」と。

そういう場面というのは、私たちの人生で、こういう試練でなくても何回かあるに違いない。
その時神さまは改めて私たちに、「よくやった。今この時、あなたはよく、わたしを第一としているということを自分で証明できた」
神さまはアブラハムを飛びっきりほめておられると思うんですね。

皆さん飛行機に乗られる時に、飛行場で飛行機の中に案内されるんですけれども、外がどっしゃぶりで、そしてこの飛行機本当に飛ぶのかなぁ、みたいに思うことがありますでしょう?
そして、離陸をしますと、その雨を降らせている分厚い雲、その黒い雲と風で、上昇していく飛行機がこう揺れますよね?
そしてその雲が厚ければ厚いほど、その暗〜い離陸時間というのがあるわけですよね?
しかしどこかで雲をふっと突っ切った途端に、シーンとなりますでしょう?
これは私たちとしては驚きの経験をするじゃないですか!

地上ではあれほど風が吹き、雨が降り、土砂降りで、その土砂降りの雲が私たちの人生を深々と覆っているんですが、アブラハムは信仰で神さまに望みをかけ、周囲に祈られたのか、従順さのゆえに助けられたのか、やがてその土砂降りの分厚い雲を抜けて行くわけですよ。
そして抜けた果てに待っていたのが、神さまの言葉で、
「よくやった。よくそこまで耐えた。わたしはあなたを存分に祝福する」という、青空に出会った言葉が、この12節ではないかと思うんですね。

神さまはアブラハムに、13節、仰いました。

13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。……

神さまは備えていてくださった。試練の先に、分厚い雲の先に、喜びを備えていてくださった。別の雄羊が(備えられていた)。
そして(アブラハムは)その場所を、アドナイ・イルエ、「主の山の上には備えがある」(と名付けた。14節)。

「主の山の上には備えがある」というのはクリスチャン標語のようなものです。
私たちは何かにつけて、自分が困難に面する度に、何かにつけてこの言葉を口ずさむ――「主の山の上には備えがある」。
大変な出来事、先の見えない様々な試練であればあるほど、何かの形で神さまの備えはその山の上にはあるんだということを、私たちは信じたいと思います。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、願わくは、願わくはアブラハムのような厳しい試練には遭わせないでください(笑)。私たちの家族をお守りください。とは言え、やがて私たちはみな愛する者を失います。とは言え、私たちは大なり小なり、同じような試練を、この人生の中で何度も通過します。

でも分厚い土砂降りの雲を突き抜ける信仰をお与えください。その信仰が従順でありますように。その信仰が忍耐に満ちていますように。その信仰にわずかな希望のともし火を備えてください。そして、必ず晴れやかな気持ちで、「ああ、これでよかった、あなたは善にして善を為したもう神であった」と言う所まで、私たちを富ませてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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