☆聖書箇所 へブル10:19〜25
19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。 20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 21また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。 22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 23約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 24また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。 25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
☆説教 新しい生ける道 「聖餐」
今朝は「アブラハムの生涯」から少し離れまして、せっかくの聖餐式でありますので、へブル人への手紙10章19節から少しいっしょに見ていただきたいと思います。 先に10章の19節と20節、私(藤本牧師)が19を読みますので、皆さんで20を読んでみてください。
19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。 20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
今日ご一緒に「聖餐」ということを、ここにある(藤本牧師の目の前真下に並べられたパンとぶどう液のトレイなどの台を指さして)聖餐なのですが、「聖餐」っていったい何なのか、簡単にお話をします。 初めて教会にいらっしゃった方にとっては、聖餐は奇異なことなのかもしれませんが、少し理解を寄せていただければと思います。
私たちは神に祈ることによって、神のみことばを聞くことによって、読むことによって、いつも神さまの恵みを得ることができると信じています。実際そうです。 しかし、私たち(***プロテスタントの信仰者)は神の恵みを導き出す導管と言いますか、channelチャンネルと言いますか、管として、神が特別に2つの方法を定めてくださったと信じています。
キリスト教のすべてが、すべてのキリスト教が、この2つの特別な方法をそのように信じていると言っても過言ではありません。 その特別な方法が「洗礼」と「聖餐」です。それを私たちはsacramentサクラメント、秘跡(***聖礼典とも)と呼びます。 「洗礼」と「聖餐」を、執行できるのが牧師です。 牧師の「按手礼」というのは、そういう意味を持っていまして、 祈ることも、みことばを説き明かすことも、すべての教会で、信徒の方でも私(藤本牧師)は許されているという風に思っていますが、 サクラメントは牧師の特別な職だと思っています。
「洗礼」は一生にただ一回だけです。 もっとも私たちは教会で洗礼式を見る度に確認しますよね、信仰生活というのは、日々洗礼式だと。 日々罪に悔い改め、きよめられ、神に対して生きる信仰を日々大切にする――この聖餐式(洗礼式?)を私たちは日々生きているんだということを、改めて確認いたします。
「洗礼」と、もう一つサクラメント――それが「聖餐」です。 私たちは折りにかなって、この恵みにあずかります。 これを「主の食卓」と呼びます。あるいは「communionコミュニオン」という風にも呼びます。 聖餐とは何なのか?私たちはそこに、どういう思いを持って、近づくべきなのか、3つ簡単にお話ししたいと思います。
第一番目にもう一度20節を見ていただきたいと思います。
1)(へブル10章)20節に「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して」という表現があります。
もしご自分の聖書でしたら、(印をつけておくといいでしょう)。 「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」、19節の2行目に戻りますと、「大胆にまことの聖所に入ることができる」 イエス・キリストの肉体という垂れ幕を通して、大胆に私たちはまことの聖所に入ることができる――それを20節の最後「この新しい生ける道」(とへブル書の記者は言った)これこそが、「新しい生ける道」だと。 つまり、十字架を通して恵みを受けるために、大胆に神の御前に出ることができる――これが新約聖書が教える新しい道です。 ちょっとだけ説明させてください。
主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちを前にして仰いました。 パンを裂いて弟子たちに渡し、「これがわたしのからだだ」と仰いました。 ぶどう酒の入った杯を渡して、「これがわたしの血による新しい契約である」と仰いました。 (***ルカ22:19.20マルコ14;22,24、マタイ26:26,28)
このパンとぶどう酒――これが十字架の象徴でありました。 パンは裂かれた十字架の上のご自身のからだ。 杯は、十字架の上で流されるご自身の血を表していました。 その肉も血も、キリストのいのちを表していました。 特別に肉、特別に血というよりも、それらが表しているものはすべて「キリストのいのち」です。
罪ある私たちが神に近づくために、神のもとに行くために、神の恵みを受けるために、その罪の代償としてその罪を贖うために、覆うために、その罪の身代わりとして「いのち」が求められていました。 旧約聖書以来、「いのち」が求められていました。
日本、世界を問わず様々な宗教の特徴は、神々は遠く離れた遠い所にいる近寄りがたい存在です。 そのことを意識せずに、神と呼ぶことは恐らくないだろうと思います。 日本では古来、山岳信仰というのが有名です――山を神とする信仰を持っている人々は、山を登るときに、「六根清浄、六根清浄」と唱えながら、頂を目指します。 六根(ろっこん)というのは、目、耳、鼻、舌、この身体、そして私たちの意志です。 それを人間の6つの根っこ、6つの欲ですね――それがきよめられる。 その欲の迷いを断ち切って、清らかになりながら、「六根清浄」と唱えて、神である山を汚さないように登って行きます。
だとしたら、聖書の教える神は、さらに聖なる方です。 その御座に近づくときに、どんな難行苦行も意味がありません。 旧約聖書に記されているユダヤ教の神殿には、神殿の一番奥に神の座がありました。 そこに近づくことができるのは、何万人もいる祭司の中で唯一大祭司だけです。 多くの動物の贖いの血を携えて、神殿の聖所と、そして最も聖なる神の座、至聖所、そこに入って行きます。 聖所と至聖所の間には、隔ての幕がありました。 その隔ての幕をくぐって、至聖所に入ることができるのは、年に一回だけです。 人間の罪深さと神の聖さを隔てる壁を、(大)祭司はこのようにいけにえ、すなわち「いのち」を携えて中に入って行きます。
その意味で、祭司は神に敵対してしまっている私たち人間の罪を背負いながら、私たち人間一人ひとりが神の座に近づく道を備えました。 祭司がいたとしても、神と人とは隔たった関係にあり、できたら近づきたくないという程の恐れがありました。
しかし、イエス・キリストが十字架にかかったときに、息を絶えた瞬間、福音書を見ますと、その神殿の至聖所の幕が真っ二つに裂けたと記されています。 (***マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45) 神さまはもはや、そのような隔ての幕を必要とされないと宣言されました。 キリストが私たちのために、十字架の上で血を流し、いのちを注ぎ出されたときに、私たちの罪を(赦し)きよめるためのいけにえとなられました。 ですから20節に、イエス・キリストの十字架の垂れ幕を通して、「ご自身の肉体という垂れ幕を通して」、私たちは神の前に出るという「この新しい生ける道」が備えられたというのです。
道が備えられただけではありません。21節をちょっと見てください。
21また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
というのは、現在形です。 幕が解かれただけではない。イエス・キリストは復活され、今は「神の家をつかさどる偉大な祭司」として、今も今日も、私たちの罪のためにとりなしをしていてくださいます。 祭司は旧約聖書の職分ですけれども、それは預言者が“神に代わって”神のことばを語るとすれば、祭司は“私たちに代わって”私たちの罪を荷う仕事をいたします。 イエスさまご自身が、私に代わって、私のために、とりなしをしてくださる――それが十字架であります――それがこの聖餐の意味するところであります。
さて2番目に、ここが大切なところです――
2)聖餐にあずかる心構え、どういう心構え、信仰姿勢によって、私たちは聖餐にあずかるのでしょうか?
ちょっと22節と23節を一緒に読んでみたいと思います。22と23にその心構えが記されています。
22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 23約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
これがその姿勢ですね。聖餐にあずかる姿勢――全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、動揺しないで、しっかりと希望を告白して、聖餐にあずかりたい。
22節にこう始まりますね。
22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、……
というのは、「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」というのは、罪を悔い改めたという意味です。 罪を悔い改め、神に向かって、神に対して生きる道を私たちは選んだ。 そして「からだをきよい水で洗われた」というのは、洗礼を受けたという意味です。
ですから「全き信仰をもって、真心から神に近づく」(22節)。 そして――罪を赦し神の子どもとする、私たちの罪をきよめると――「約束された神は真実な方ですから」(23節)聖餐にあずかるときに、動揺しないで、しっかりと希望を告白して聖餐にあずかりましょう、という文面と理解することができます。 これが「新しい生ける道」をたどって、つまりキリストの聖餐にあずかって、神の御前に出る姿勢です。 「全き信仰」、ちょっと恐れおののく表現ですね。「全き信仰」「真心」(22節)。
皆さん、パチンコって今あんまり危ないですから、売ってないですね。 私たち子どもの頃はよくパチンコを作りましたし、駄菓子屋に行きますと、プラスチック製のパチンコが売ってましたが、作ったときは木の枝が割けるY字の枝の間にゴムを張って、そして石を飛ばして獲物を倒すわけですね。
ひとりの少年がパチンコに夢中でした。でもなかなか獲物に当たらないんですね。 庭でいろんなものを狙いますけれども、なかなか当たらない。 一生懸命練習しているうちに、ふっと現れたのが、おばあちゃんが大事にしているアヒルでした。 試しにそれを狙って石を放ちますと、なんと石は見事にアヒルの急所に当たって、アヒルは死んでしまいました。 少年は焦りました。当たるはずのないパチンコが(笑)、見事に一発でアヒルを倒してしまいました。 慌てた少年ですけれど、気を取り直して茂みの中にアヒルを隠しました。 隠し終わって、目を上げた途端に、妹と目が合いました。見ていたんです。
お昼ご飯が終わって、おばあちゃんが妹に、「お皿洗ってね」って頼んだ時に、妹はそっとお兄ちゃんのところへ行って、 「大丈夫。このお兄ちゃんがお皿を洗うから」(笑)と言いました。そして、お兄ちゃんの耳元でささやきました。 「アヒルのことは、忘れてないからね」(大笑)。
それからというもの、それからというもの、妹はお兄ちゃんを見て、 「おばあちゃ〜ん、お兄ちゃんがお皿を洗いたいって言っていたわよ」 そしてお兄ちゃんの耳元で、いつも「アヒルのことは、忘れないからね」 数週間、彼は家の掃除や洗い物を率先して熱心にやりました。 時には義務で、時には罪滅ぼしで、時には妹の「アヒルのことは忘れてないわよ」というその脅しに乗って。
とうとう、ある日苦しくなって、少年はおばあちゃんに正直に言いました。 おばあちゃんは優しく言いました。 「知っていたわよ。私は窓の所で全部見ていたから。でもあなたのことは愛しているわ。赦しているのよ。でもね、それを黙っていて、どれくらいあなたが妹の奴隷になっているのか(笑)、ちょっと心配していたわよ」
彼は赦された。いや、赦されていたんですね。 それでもずっと、自分の罪責感に苦しんでいました。いったいなぜなのか? それは、彼が自分を責め立てる者の言葉に耳を傾けたからです――「アヒルのことは、忘れていないから」 サタンは私たちを責め立てる者です。
マルチン・ルターが一生懸命宗教改革に取り組んでいた時、ある日サタンが彼の前に現れて、という話をルターは記録してあります。 サタンは彼が犯したかつての罪を全部紙の上に書き立てて、そしてルターに突き付けました。 「おまえは宗教改革をやっているけれども、おまえの罪はこんなものだろう」と。 ルターは一瞬ひるみました。しかし、その紙の一番上に、 「主イエス・キリストの血、すべての罪よりあなたをきよめる」(***Tヨハネ1:7) というみことばを書いて、それ以来、サタンは彼のもとに現れませんでした。
サタンはいつも私たちを責め立てています。――「アヒルのことは、忘れてないから」 私たちも自分の犯した罪を決して忘れることはないと思います。
でも旧約聖書には、「思い出さない」という動詞が7回出て来ます。 そのうち6回が「憐れみ深い神は、あなたの罪を思い出さない」です。 「思い出さない」という動詞が、旧約聖書に7回しか出て来ない。そのうちの6回は、「憐れみ深い神は、あなたの罪を思い出さない」です。 そうしますと、この動詞の構図がよくわかります。
サタンは罪の責めの中で、私たちを滅ぼそうとさせます。 でも聖霊は、私を罪の責めから救い出そうとして、私の心の中に十字架に現れた神の愛を注ぎます。 「聖霊は、あなたの心に神の愛を注ぐ」とロマ書の5章の5節に記されています。 聖霊は私たちの罪を確信させます。しかしその目的は、私たちを神の恵みにあずからせるために、私たちの罪を確信させる。 私たちを責めて滅ぼすために、私たちの罪を確信させるのではない。 罪を確信した私たちが、神の恵みにあずかって、その罪が赦されるために、そして感謝と神の愛に生きるような者にならせるために、私たちの罪を確信させます。
へブル人への手紙を記していますが、この「全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」(10章22節)――ページを一つ捲っていただいて、11章の6節を見てください。 6節を一緒に読みたいと思います。 この6節が今年(2016年)の高津教会の標語聖句ですね。 この標語聖句をもって、私たちがアブラハムの信仰を学び始めたのは元旦でありました。
<へブル11:6> 6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
「神がおられること」を私たちはもちろん信じています。でもそれだけではない。「神を求める者には神、神は報いてくださる」という希望を“動揺することなく”持つ(10:23)信仰を、「全き信仰」と言います。 そのような「全き信仰」を私たちは持つことができるのか? へブル人への(手紙の)記者は、持つことができると言います。どうやって持つのか? 12章の2節を一緒に読んでみたいと思います。
<へブル12:2> 2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」姿勢を「全き信仰」と呼ぶのです。 揺るがない信仰なんてないと思いますね。陰りの通らない信仰ってのはないです。私たちの信仰は、時に長〜いトンネルの中を通ります。 私たちは信じているつもりでも、自分に襲いかかる不安や、自分自身の罪・汚れのゆえに、私たちの信仰は大きく揺らいでしまいます。 何とかその動揺を抑えるために、私たちは、「私たちを愛し、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリスト」(***Tヨハネ3:16)の十字架を見上げる。 その方こそが、私たちの信仰の創始者であり、完成者であられる。そのイエスから目を離さないでいなさい(へブル12:2)。
私たちはこういう言い方をすると申し訳ないですが、聖餐にあずかるこの一時、イエス・キリストの十字架から目を離さない。 自分自身の愚かさはよ〜くわかっている。私自身の抱えている問題課題はよ〜くわかっている。 しかし、聖餐にあずかる時には、私を愛し、私のためにご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリストから絶対に目を離さない。 その時に、私たちは全き信仰を持った者とされ、聖餐の恵みにあずかることができるのです。
三番目、もう一度へブル人への手紙の10章に戻ってください。
3)聖餐とは不思議に皆で受けるもの
24節と25節を一緒に読んでみたいと思います。
24また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。 25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
「〜しようではありませんか」というのは、22節の最後も、23も、24も25もみんな同じです。 ということは、聖餐にあずかる姿勢を、24と25も注目しているということがよくわかります。 ここに共通して同じ言葉が出てまいります。24節の「互いに勧め合って」という言葉。それから25節の「いっしょに集まる」
聖餐というのは、不思議に皆で受けるものです。 私たちは病床に聖餐を持って行くときも、病床にいる重篤な方だけに聖餐を与えるということはしません。 そこに集っている者みんなが聖餐にあずかります。 聖餐は不思議に皆で受ける。ですから24節に「互いに勧め合って、互いに注意し合って」
聖餐共同体という言葉がありますが、教会というのは、この聖餐を囲む群れです。この聖餐を囲む共同体です。 私たちは互いのために祈り、互いを励まし、互いに戒め、互いに助け、そして今日は共に聖餐にあずかる。 式文の中に聖餐にあずかるときに、「私たちは聖餐によってキリストと一つにされ、共にあずかる兄弟姉妹とも一つにされる」という文章が式文に必ず入っています。 「共にあずかる兄弟姉妹とも一つにされる」――この「一つになる」というのは、簡単なことではない。 私たちのエゴイズムをつぶさない限り一つにはなれないですね。 なかなかつぶれないエゴイズムを持っていたとしても、共に同じ主の聖餐にあずかることができたというだけで、私たちは立派に聖餐共同体です。 25節に、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで」――もう教会に行くのをやめようとか、そんなことは考えないで――「却って互いに励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と。
インマヌエルではそういう呼び方はしませんが、日本基督教団では、私たちの言う第一種会員――教会の活動会員ですけれども――陪餐会員と呼びますよね、日本基督教団では。 陪餐会員というのは、今、現在、聖餐にあずかっている人の人数です。 もちろんそれは洗礼を受けて、その教会に集っている人たちという意味も含められているのでしょうけれども、 教会員であるということの一つの意味合いは、聖餐に共にあずかるという意味で、そういう意味で、聖餐の聖日は格別に大事にしていただきたい。 格別に大事にしていただきたいと思います――主の家族に自分が加えられていることの尊さ、そのありがたさを共に思う。
その意味で今朝、無事を祈っています下村姉が一緒に聖餐にあずかることができるということは特別な恵みでありますし、 インターネットをご覧になっている兄弟姉妹は、すぐに冷蔵庫に行ってパンを取って来ることですね(大笑)。 ぶどうジュースがない。だったらワインはあるんじゃないですか?(大笑)。何でもいいから持って来なさい。オレンジジュースでもいいですから持って来なさい。 祈りに合わせて共に陪餐するときに、私たちはどこにいても聖餐共同体です。
一つ申し訳ないことがあります。一つ大変申し訳ない。 聖餐は洗礼を受けた方々に限られます。 礼拝はそうではないんですが、この聖餐だけは洗礼を受けた方々に限られます。 そしていま式文を読むときに、「(洗礼が)まだの方は、どうぞ今日は心の中で聖餐にあずかってください」と(前もって注意をします)。 私(藤本牧師)はこれも大変大きな祝福だと思っています。大変大きな祝福。 そして神さまは、最善の時に、信仰の創始者であり、完成者であられる神さま(イエスさま)は、必ずその方々を洗礼に導いてくださり、最善の時に共に聖餐にあずかることが可能であることを信じています。 どこの教会にあって洗礼を受けられた方でも、私たちの兄弟姉妹も、今日たまたま仕事のついでに高津教会の礼拝にいらっしゃった方も、私たちと共に、聖餐共同体の一員です。 共に主の恵みに与かり、折りにかなった助けをいただきたいと思います。
☆お祈り
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 (へブル10:20)
恵み深い天の父なる神さま、御子イエス・キリストの十字架を通して、私たちが大胆にまことの聖所に入ることのできる恵みを感謝いたします。私たちはその聖所に入った瞬間、その罪は赦され、その聖所に入った瞬間、私たちはその求めをあなたの御前に聞いていただくことができることを感謝いたします。
その交わりの中で、私たちがなすべきことも教えてください。私たちが捨てるべき罪も教えてください。のみならず、捨てる力をお与えください。 私たちに人を赦す心を与え、またその場において私たちの病を癒し、またその場において私たちの心の傷を癒してくださいますように。 分裂がある所に平和がありますように。 その思いを心の中心に供えるところの、据えるところの聖餐式でありますように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式――藤本牧師 これ以降は「聖日説教」に掲載
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