※藤本牧師は7/1〜7/2日本ホーリネス教団水郷聖会(茨城県)の講師
☆聖書箇所 使徒の働き1:3〜9
3イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。 4彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 5ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 6そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 7イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。 8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
☆戸塚伝道師の説教 イエスさまの証人になる
今日は(司会の)M兄に朗読していただきました箇所から、「イエスさまの証人になる」と題して、恵みを分かち合いたいと思います。 聖書のみことば、今日は特に1章の8節のみことばに心を留めて行きたいと思います。
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
こう書かれております。 イエスさまがこのお言葉を語られた場所は、12節をご覧いただきますと――
<使途の働き:12> 12そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。……
とありますので、弟子たちがこのみことばを聞いた場所はオリーブ山ではないかということが想像つきます。 オリーブ山で、イエスさまはこのみことばを語られた。
神さまは、しばしば山でみことばを語られるお方であることがわかります。 例えばアブラハムがイサクを捧げたのはモリヤの山、そこで神さまは語られました。 モーセが「十戒」を神さまから授けられたのもシナイ山で、シナイ山で神さまから「十戒」を授けられました。 新約聖書になりますと、イエスさまは山に登り「山上の説教」を語られた。マタイの福音書の5章の最初に書かれています。 しばしば神さまは山でお会いし、私たちに会ってくださり、私たちにみことばを語られる。 ここでも(使徒の働き1章)イエスさまはこのみことばを語ってくださいました。
しかも(使徒の働きの1章)9節――
9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
と書いてありますので、この1章の8節のイエスさまのおことばは、イエスさまの地上での最後のメッセージであったことがわかります。 地上での最後のメッセージであると同時に、またこれはお約束でもある。神さまからのお約束でもあるんです。 そこで、今日はこの1章の8節から、3つの視点で読んでまいりたいと思います。
1)「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、わたしの証人となります」とイエスさまは仰った。
「わたしの証人」「証人」です。 「証人」とは一体何なのだろうか? 三省堂の新明解国語辞典によりますと(笑)、何かの事実を証明する人。これが「証人」 そして付け加えで、法律では、裁判所または国会に呼び出され、実際に見たり聞いたりした事実を申し述べる人を指す、と書いてありました。 だから「証人喚問」ってのはそうですね、国会の。実際に見たり聞いたりした事実を申し述べる人。
そうしますと、「わたしの証人」「イエスさまの証人」というのは何かと申しますと―― 実際にイエスさまを見たり聞いたりしたという事実を申し述べる人、その事実を証明する人――それがイエスさまの証人であるということがわかります。
開かなくて結構ですけれども、ルカの福音書の24章の45節を見ますと――
<ルカ24:45〜48> 45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 48あなたがたは、これらのことの証人です。
とイエスさまは仰ったんです。 「十字架と復活の事実の証人ですよ、あなたたちは。その事実による罪の赦しという恵みが全ての人々に宣べ伝えられるということの証人ですよ」 そういう風に、イエスさまはルカの福音書24章45節〜48節で語られています。 このことの証人――この事実を証明する人が、イエスさまの証人であるということがわかります。
簡単に言えば「イエスさまの証人」とは、「私は、救い主イエスさまに出会いました」――そう信じている人、そのことが自分で事実だとわかっている人、そういうような生き方をさせていただいている人――それが「イエスさまの証人」 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、そのような証人になりますよ」――そのように、イエスさまは約束してくださったわけです。
2)では、このような「イエスさまの証人」となる場所は、どこなのか?
それが聖書に書かれています、(使徒)1章の8節の真ん中に。
8……そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
エルサレム――ひとつ目。ユダヤとサマリヤの全土――二つ目。地の果てにまで――三つ目。 三つの範囲を、イエスさまは示されました。
@エルサレムでわたしの証人になるんだよ、とイエスさまは仰った。
エルサレム――この聖書の場面では、今イエスさまが弟子たちと一緒にいる場所、そこですね。つまり、そこで証人となる。今いるこの場所で。 範囲から言うとすごく狭い場所ですね。すごく狭い場所、ここでイエスさまの証人となる。
私たちの日々の生活の中で、一番身近で一番狭い場所と言ったら、家庭ではないでしょうか?家族ではないでしょうか? ま、お一人で生活されている方々もいらっしゃると思うんですけれども、でも一番狭い範囲、家庭、「家庭でわたしの証人になる」――イエスさまはそう仰いました。 そのように言うことができるのではないかと、私(戸塚伝道師)は思うんです。 その中でイエスさまに出会った生き方をさせていただく、それが私のエルサレムでもある。 家庭の中で、イエスさまの証人として歩むということは、すごく難しいことだなぁっていう風に思います。
私(戸塚伝道師)は、高校二年生の時にイエスさまを信じて救われて、イエスさまに出会いました。 その時家族に内緒で洗礼を受けてしまったんです。教会に行っていることも内緒です。日曜日の朝、 「ちょっと図書館に行ってくるから」(笑)「勉強?」「うん」「じゃ、いってらっしゃい」 図書館ではなく教会です。そして内緒で洗礼を受けてしまった、大学の一年生の時。 教会に行っていることをしばらく黙っていました。 「随分図書館に行っているのねぇ」(笑)ず〜っと図書館に行っていました。 でもついに結婚するという段になって、私が教会に行っているということを言わざるを得なくなってしまった(笑)。そして 「実は教会に行っているんだ。洗礼も受けたんだ」――そういう風に言ったんですね。 父の反応――「お前は教師だろう。公立学校の教師だろう。公立学校の教師はどの価値観にも染まってはいけないんだ。真っ白でなくちゃいけないんだ。特定の価値観を持ってしまった、偏った教師におまえはなってしまったんではないか?公務員としてどうか?」――そういう風に言われました。 確かにそうなのかなぁと思います。いろんな価値観を持っている人たちがいる。 子どもたち、そういう家庭の人たちの前に立つ者として、あ、そうなのかなぁと思いました。 確かに特定の価値観に染まってしまったのでしょう。
母の不安はこうでした。 「あなたねぇ、戸塚家の長男でしょう?お墓はどうなるのよ」(大笑)「私たちを面倒見てくれるの?」 すごい不安になっていました、母は。 まるでキリスト教に息子を拉致されたみたいな感じで(大笑)――でも親としたらそうなんですよね――自分とは全く分からない所に息子が連れて行かれちゃったような感じで。
私(戸塚伝道師)は、 「いや、イエスさまを信じているんだ。イエスさまの十字架で救われたんだ。罪赦されたんだ。お父さんもお母さんも信じてよ〜」 そう言いましたけれども、全く相手にされませんでした。 「何言っているんだ。この息子は。どうかしちゃったんじゃないのか!」 イエスさまを信じたために、却って全然証しにならない。 父に批判され、母に心配がられてしまって、親孝行できないじゃないか、このままじゃ。 イエスさまを信じるということは、親を困らせることなのか?親を不安に落とし入れさせることなのか? そうじゃない。それなのに、なんでこんな結果になってしまったんだろうか? もう証しどころではありません。 「わたしの証人になるんだよ」とイエスさまは仰っても、無理です。無理です。
現在どうでしょうか?私(戸塚伝道師)は家庭の中、夫として。 本性丸出しの場ですよね、家庭は。本性丸出しの場(大笑)。「あんた、それでも…」(大笑)なのか? 「わたしの証人になるんだよ」――わたしの証人?本性丸出しで、わたしの証人?(大笑) でも家庭ってそういう所ですよね? ゆっくりしたいし、リラックスしたいし、本性丸出しにしたいですよね? そこで「イエスさまの証人」――私(戸塚伝道師)は子育ての経験がないんですけれども――恐らく子どもを育てるって、喜びであると共にものすごい苦労ではないかと思うんですね。 それこそ、神さまの召しがなければ(笑)、親にはなれないんじゃないかと思う位、ほんとに一筋縄ではいかない。 よそさまのお子様をお預かりしているだけでも大変なのに、わが子をどうやって育てようか、躾けようか? そして、ましてや「信仰」という神さまからいただいたものを継承させようか?というのは、これは一筋縄ではいかないことだと思うんです。 本当に難しいことだと思うんです。
エルサレムでも、証人というのでも、もうどうすることもできないような難しさがある。 でもイエスさまは、最初にエルサレムで、この場で、一番狭い場所で、「わたしの証人になるんだよ」とイエスさまは仰いました。
Aユダヤとサマリヤの全土、そこでわたしの証人になるんだと仰った。
エルサレムよりも少し広い範囲ですね。 家庭よりも少し広い範囲――そう考えますと、ま、隣近所でしょうか? あるいは、友人や知人や親せきや、それくらいの範囲内でしょうか? そんな風に例えて捉えていきたいと思いますけれども、仕事仲間や、隣近所や、地域や、町内会というそういう所ですよね。 高津教会もこの町内会でどのような証しを立てているか? 恐らく藤本満先生と圭子先生が色々苦労されて、色々気を遣って、配慮していただいて、日曜日この地域の中で讃美歌を歌うことを許され、こんな沢山の人たちが集まることが許されているんだなぁという風に思います。 その賜物だと思うんですね。
教会の感謝祭でバザーをした収益金を町内会長さんの所に届けたということがありました。 今からもうだいぶ前ですけれども、十年ぐらい前ですね。 「このお金を使って、掲示板の費用とさせていただきます」ということで、溝口第一町会の掲示板――すぐそこにありますけれども、小さな掲示板です――そこに「寄贈、インマヌエル高津教会」と書いてあります(笑)。 ちょっと一部いま文字が剥げていますけれども。 少しでも地域に貢献できるように、地域での証人になるように。 この地域で、私たちの教会のことを地域の方々が認めてくださっているがゆえに、こうして礼拝が許されているのかなと思います。
今から10年前、2007年の7月16日のことですけれども、新潟県中越沖地震がありました。 最強震度が6強です。新潟県柏崎市がその6強の場所だったんですけれども、その柏崎市の教会、ホーリネス教会の会堂が被災に遭いました。 一階が潰れてしまっていますね。2階部分は斜めに落ち込んで半壊状態だったそうです。 たまたまここの牧師先生夫妻は、教団の聖会に出席して教会にいなかった。だから命拾いしたそうです。怪我もしなかったそうです。いのちは守られたそうですね。 がれきの片づけ、様々な支援、それを一生懸命してくださった方々は、それは、なんと一度もその教会に集ったことのない地域の方々だったそうです。
その牧師先生は思ったそうです――「こんなに地域の方々が、この教会を助けてくださった。地域の方々が教会を助けてくださった」 これは逆転現象ですね――教会が地域に貢献するとかじゃなくて、地域の方々が教会を助けてくださった。 教会は、これほどまでに、こんなに沢山教会のことを思ってくださる方々が地域にいらしたということに気づいていなかった、そのことにあまり目を向けていなかった、ということにその牧師先生は考えさせられたそうです。反省させられたそうです。
日曜日、身内だけで仲睦まじく集まって楽しくしているけれども、地域の方々から私たちはどのように見られているのだろうか? 相手の立場に立った感受性のようなものを、もっともっと養って行かなければいけないのではないか、そんな風に私(戸塚伝道師)は気づかされたことです。 客観的に捉える目を与えてください、隣人のことを自分のこととすることができますように、機会を与えてください――そのような思いで、 エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土でイエスさまの証人とさせていただきたいと思うのです。 友だちの中で、同じ職場の中で、親戚の中で、私たちはどのような証人とさせていただくことができるか、考えさせられることでございます。
B「地の果てにまで」とあります。
地の果て――エルサレムを中心とすると、地球の裏側、地図上では、ものすごく遠い所、――そこで世界宣教というそういう必要性が訴えられるのでしょうけれども――これは地理的なことだけではないと思いますね。 地の果て――多くの人たちが見えない所、気づかない所で、様々な意味で難しい所。 もしかしたら自分では行けないけれども、他の人だったら何とかなるかもしれないと思うような所。 あるいは、自分にとってはもう絶望的な所、そこが地の果てではないかという風に捉えることができるわけですね。
「なんで、私はこのような大変な状況の只中に置かれているんだろうか?」と言わざるを得ないような所――そこが地の果てです。 「私しかこの苦しみは知らない。解らない」――そういうような境遇や試練。 神さまは、もしかしたら私たち一人ひとりに、そのような地の果てを与えておられる。 そしてその場で、私たちは生かされている。その場に置かれているのかもしれません。 そこで「イエスさまの証人として、あなたは生かされているんだよ」とイエスさまから言われているような気がします。
でも、イエスさまの証人として一体何ができるんでしょうか? あまりにも辛い状況の中で、私はいったい何ができるのでしょうか? ほんとに考えさせられることでございます。
一つ目――エルサレム、二つ目――ユダヤとサマリヤの全土、三つ目――地の果てにまで、 イエスさまの証人となるそれぞれの場所があって、 「そこで、わたしの証人になるんだよ」とイエスさまが仰るわけですね。 このような難しい場所の中で、本当に証人として生きていけるんだろうか?という風に真剣に悩み考えた時に、このままでは到底イエスさまの証人になることはできないと思います。 そこで三つ目は――
3)イエスさまの証人となるための原動力――それは聖霊である
ということが、1章の8節、一番最初に書かれています。
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、……わたしの証人となります。」
「力を受けます」――聖霊があなたがたの上に臨まれるとき力を受ける。 この力ですね。ものすごい力です。 私(戸塚伝道師)、調べましたらば、この「力」という言葉が書かれている日本語で「力」という風に書かれている所なんですけれども、ギリシャ語――もともと聖書はギリシャ語で書かれていますけれども――この力という所は、ギリシャ語でデュナミスという風になっています。 このデュナミスというのは、英語のダイナマイトの語源だそうです。 ダイナマイトのような力、それを神さまが与えてくださる――それが聖霊の力なんです。 ダイナマイトを仕掛けて火をつけるとどうなるか?――どんな硬い岩盤もこっぱみじんになる訳です。 ものすごい力を神さまが与えてくださる。 聖霊の力ってそんなすごい力なんだ。こんなすごい力を神さまが与えてくださる。 「ああ、神さま、その聖霊の力を私にください。 私にください。そのすごい聖霊の力を。 そしてエルサレムでも、ユダヤとサマリヤ全土でも、地の果てにおいても、 イエスさま、あなたの証人となるために、 そのすごい聖霊の力をください。ください」 私たちは必死になって、祈り求めたいと願わされることでございます。
イエスさまは仰いました。(***ルカ11:11〜13) 「子どもが卵(魚)をくださいと言うのに(さそり)蛇を与える親はいない。ましてや、求める者に聖霊をくださらないことは、神さまはそういうことはない」と神さまは仰いました。 弟子たちは必死になって聖霊を求めて、この後ペンテコステを迎えるわけですよね。
でも私たちはどうでしょうか?今の私たち。 もうペンテコステ、終わっているんですよね。一か月前に終わっているんじゃないんですよ。もう2000年前に終わっているんです。 聖霊は今はもう、すでに私たちに与えられているんです。 この場にも聖霊が働いておられる。 イエスさまを信じた人たちの心の中に聖霊が与えられている。 どの辺に聖霊がいらっしゃるのだろうか?ここだろうか(頭や胸を触りながら笑)。ここだろうか(笑)。 感情的に高ぶったりすることはない。喜びで心が溢れて溢れてどうしようもないということもあんまりない。 確信がみなぎって来たり、何かものすごいパワーが与えられて、なんかすごい元気になっちゃったということも何かあまり感じられない。 そんな自覚はないですね。私(戸塚伝道師)はないです、少なくとも(笑)。 でもある意味では、ない方がいいのかもしれない。私みたいに、すぐ力をいただくと傲慢になっちゃう者は。
なんか聖霊はさりげなく、風のようだとイエスさまは仰る。 「思いのままに吹く風のようだ」と(***ヨハネ3:8) その時は解らないけれども、後で解ることが多いんではないでしょうかねぇ。 あ、そうだったんだ〜と、気づかされる時――それは聖霊の働きだったり、聖霊の力だったり、聖霊の助けだったり。 あの時、そういえば不思議に守られた。不思議に助けられた。難しい仕事で自分では無理だと思ったのに、不思議に力が与えられてそこを乗り切ることができた。 ものすごい問題課題の中で、もう悩みに押し潰されそうになった時に、辛さの只中で、不思議に聖霊が慰めを与えてくださった。 恐らく個人的な体験、色々おありになる方々がいらっしゃるかもしれません。
私(戸塚伝道師)にとって、私もそう言えば沢山ありますね。考えて見ればね。 でも私にとって、「これは確かに聖霊の働きだった。聖霊の力だった。聖霊の助けだった。不可能を可能にするようなものすごいみわざだった」と思われることをたった一つ言いなさいと、もし言われたらば、それは、私(戸塚伝道師)がイエスさまと出会ったことです。
私は確かにイエスさまと出会いました。 イエスさまを救い主として信じることができました。それまでは信じることができなかった。 でもあの日、あの時、信じることができた。イエスさまと出会うことができた――これは聖霊の力。聖霊の働き。 頑なで傲慢で汚れていて、臆病で怖がりで、孤独で自分が見えていなくて、寂しくて愚かな私にイエスさまは出会ってくださった。 これは理屈ではない。聖霊の働きです、聖霊の力です。 イエスさまと出会ったという経験、事実。 自分の醜さは十分解っています。人には言えないような罪もあります。性格的な歪みも重々承知です。この間申しましたけれども、社会的経験も乏しい。学もありません。肩書もありません。おまけに病気を抱えています。 でも、イエスさまと出会ったという経験――これは否定することができない。 誰にも解ってもらえなくても、批判されても、バカにされても、煙たがれても、 胸を張って言えるのは「私はイエスさまに出会いました」 イエスさまと出会った、というこの経験で勝負する以外にないんですよ、私は。 他に何にもないんです。学歴もないですよ。ここに立たせていただいていますけれども、何の資格もないですよ。 イエスさまと出会ったという経験、これだけですよ――それがイエスさまの証人だと、イエスさまは仰る。
私はこの時間ずっとあれこれと30分以上かけて、イエスさまの証人についての説明をさせていただきましたけれども、本当は私がしゃべるよりも「百聞は一見に如かず」なんですよ。 高津教会の皆さんお一人お一人が、イエスさまの証人なんですよ。 沢山おられるんです。高津教会のイエスさまの証人。 その中で、いま一番話題の方を紹介します。 「高津教会の宝だ」と満先生が仰った方――それは今日礼拝に出席されているH姉です。 癌という病気の只中で、日々闘っておられる方、それでもイエスさまと出会った喜びで心が溢れておられる方。 洗礼式でのあいさつ――T姉がアップしてくださいました――洗礼式でのH姉のご挨拶、お証しでした。 何度読んでもすごいです。恵まれます。
キング牧師が「私には夢がある」という演説をしましたけれども、それに匹敵するぐらいのすごい証しです(笑)。 一部分ご紹介します。
――H姉の証し・(4月23日の洗礼式で)―― 今日はとっても幸せです。私はもう一番幸せな人です。(H姉はこう仰ったんですね、最初に、と説明)。この教会に来て、皆さまに祈っていただいて、いま天から力が入りました。死の恐怖は消えました。新しいいのちが生まれたと思います。今までは悲しみだけでしたけれど、人生を楽しむ力が戻りました。いただいた幸せは、私のところでは止めません。私のわかったこと、感じていることで、神さまのおことばを中国の癌の仲間に教えました。眠れなくて苦しんでいる友だちがすぐ眠れるようになり、食べられるようになりました。そして、私より先に昨日洗礼を受けました。私から出発した幸せは、彼女からもまた遠くへ飛ぶんだと思います。皆さん、ありがとうございます。
こういう証しだったんです。 昨日、もっとすごいことを伺いました。昨日じゃない、先週、H姉から。 先週じゃないですね、先週は私、静岡にいたんですよ(大笑)。 先々週、あ、藤本満先生の、午後のね、宗教改革の500周年の(講義の)時でした。 最初にね、お証しをされていました。 「高津教会の礼拝に出られることが、最高の抗がん剤治療です」と(アーメン)。 もう私のつたない説教よりも、H姉がここに出てお証して(大笑)……
これはH姉の頑張りですか?気休めですか? いや、聖霊の働きです(あちこちからアーメン)。聖霊の力です。 H姉にこのような証しをさせてくださる、他国の言葉で語らせてくださる、天国の言葉で語らせてくださる――まさにイエスさまの証人ではないでしょうか?( アーメン)
2017年、今年の元旦礼拝で高津教会に語られたみことばが週報の一番上にあります、赤字で。 「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」 (イザヤ60:1) 元旦礼拝に満先生を通して、このみことばが語られました。あれから半年。 起きよ。光を放て。あなたたちはわたしの証人なんだ。 起きよ。光を放て。もう一度私たちは一人ひとりを、イエスさまの証人であるということを、改めて認識したいと思うんですね。 イエスさまに出会ったという事実を証明する人です。 そしてもう一度その証人になるために必要な聖霊の力を、すでに神さまは与えてくださっているということを信じたいと思います。 そしてその聖霊の力に気づかせていただきたい。 そして新たに、聖霊の力をもう一度神さまを求めて、仰いで「心に満たしてください」とお祈りしたいと思います。
イエスさまは約束されました。 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:8)
☆お祈り――戸塚伝道師
イエスさま、感謝いたします。あなたが、私たち一人ひとりに出会ってくださり、あなたの証人としてくださいますからありがとうございます。どうぞ、聖霊のすばらしい力を与えてください。いや、あなたがすでに働いておられることに気づかせてください(アーメン)。あなたの愛と喜びと平安で心を満たしてください。
そして、この1週間も、この月も、この年の残る下半期も、家庭において、地域において、職場や学校や、そしてさらには地の果てとしての私だけの置かれた場所において、あなたに出会った恵みを現す者とさせてください。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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