※藤本牧師は7/15(土)〜7/16(日)、女子学院・夏の修養会で講師
☆聖書箇所 マタイの福音書20章1〜16節
1天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。 2彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。 3それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。 4そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』 5彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。 6また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』 7彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』 8こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』 9そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。 10最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはり一デナリずつであった。 11そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、 12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』 13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。 14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。 15自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』 16このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
☆説教――戸塚伝道師 1デナリの風景
今日はマタイの福音書20章の1節〜16節、ここから共にみことばを読んでまいりたいと思います。 マタイの福音書の中で、イエスさまは天の御国の譬え話を数えてみたら15のお話をされています。天の御国の譬え話。 そのうちの11番目がこのお読みしていただいたこの場所なんですね。 ここから「1デナリの風景」と題して、三つの視点でみことばを見て行きたいと思います。
1)天の御国は、ぶどう園の主人のようなものです。(1節)
1天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
「天の御国は」が主語で、「主人のようなものです」が述語です。 天の御国はこのような主人のようなものですと、いうことが書いてあります。 ここの場所をず〜っと読んで、この主人は自分のぶどう園で働く労務者を雇うために、何回出かけたんだろうか、数えてみました。
@1節、朝早く。 A3節、九時ごろ。午前九時ごろに二回目、主人は労務者を雇うために出かけています。 BC5節、十二時ごろと三時ごろ。 D6節、五時ごろ。
全部で5回、ぶどう園の主人は出かけて行ったんです。 で、ここでもう一度詳しく、ぶどう園の主人が労務者を雇う時のやり取りを、丁寧に見て行きたいと思いますけれども、
@朝早く出かけた時、ここから見て行きたいと思いますが、2節をご覧いただきますと――
2彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
と書いてあります。 「一日一デナリの約束」――労務者たちと約束しています。 一デナリって、いったいどれぐらいでしょうか? 当時の一日分の賃金だそうですけれども、今で言うと時給800円位でしょうかねぇ。 で、何時間労働か?――これ、見てみますと、朝の6時から夕方6時までと考えますと、12時間ですので、800✕12=9600 約一万円ですね。ま、一日約一万円。 ま、これが当時の平均的な賃金だそうなんですけれども、約一万円でこの主人は労務者たちを雇っている――こういうことになろうかと思います。
A九時ごろに、二回目ですね、主人が出かけた時に出会った労務者、3節ですね。
3それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
労務者たちは市場に立っていて、何もしないでいた。「仕事をくれ」とも言わなかったんです。何もしないでず〜っといた。 一方的にこの主人の方から、その人たちに目を留められて声をかけられたんですね。4節――
4そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
この時、主人は「一万円上げるから」――そう言っていないですね。 「相当のものを上げるから、あなたがたもぶどう園に行きなさい」――こう言って、声をかけているんです。
B三回目、十二時の人に対しても、C四回目、三時の人に対しても、5節――
5彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
「同じようにした」ということは、主人は「相当のものを上げるから」と言って招いたんでしょうね。声をかけたんでしょう。 一デナリの賃金については、何も言いませんでした。
そして5回目のやりとり、D午後五時、6節――
6また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』 7彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
夕方五時にも主人は労務者を雇いに出かけたんですね。まだ人手が足りなかったんでしょう。 そして五時頃出かけてみると、別の人たちがいた。 「一日中仕事もしないでここにいるのですか?」 彼らは、だれも雇ってくれない。だれも雇ってくれないからず〜っと一日中いたわけですね。 すると、仕事を探しに出かけようとしなかったんでしょうかね、この人たちは? ず〜っと一日中雇ってくれるのを待っていたんでしょうか?
そして、8節をご覧いただきますと――
8こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
恐らく午後六時ごろだと思われます。最後5時に雇ったのですから、一時間働いて午後六時ごろ。 「最後に来た者たちから順に、賃金を払うように」、主人は監督に言いました。9節――
9そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
五時ごろ雇われた者たちも、ひとり一デナリずつもらうことができた。 喜んだでしょうねぇ! 一日中何もしないで立っていた人たちが、たった一時間しか仕事をしないのに、一万円もらった。一デナリ。やったぜ!という感じでしょうね。一デナリももらったぞ。こいつはすげぇや〜!って感じだと思うんです。 10節――
10最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
朝早く、第一回目に雇われた人もやはり一デナリ。11節――
11そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、 12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
一時間しか働かなかった連中にも――連中って言ってますね(笑)。 一時間しか働かなかった連中にも、一デナリ主人は支払った――それはないぜ〜。 俺たちは十二時間も働いた。しかも「労苦と焼けるような暑さを辛抱した、一日中」 恐らく今日のような日だったんでしょうね。じりじりと熱い太陽が照り付けるような、熱中症でやられそうな。 ま、ぶどう園ですから、ぶどう棚があって日陰にはなるんでしょうけれども、それでも暑いでしょうね。 12時間労働ですよ。ま、ブラック何とかじゃないですけれども(笑)「労苦と焼けるような暑さを辛抱した」
でも主人はこう答えています。13節――
13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。 14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
「一日一デナリの約束をしたから、自分の分を取って帰りなさい」と主人は言う。そう言うわけですね。 でも主人は言うんです。 「最後に雇った人にも、私は同じだけ上げたい」「私は上げたい」んですよ。 「最後に来た人たちにも、一万円、一デナリ上げたい。上げたいんです」――理由にならない理由です。 しかも、最後に主人は開き直って言うんです。15節――
15自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
最後にイエスさまは、この譬え話をお話しした後に、16節で締めくくっていますね。
16このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
このような譬え話を、イエスさまは「天の御国の譬え話」としてお話しされたのです。 では、二つ目の視点――
2)ここで、この一デナリの持つ意味を考えてみたいと思います。
朝早く雇われた人にとって、一日一デナリというのは、これは賃金ですね。 朝早く雇われた人にとっては、賃金です。主人から見てもそうです。 8節を見てみますと「賃金を払ってやりなさい」――賃金です。一日一デナリ。 朝早く雇われた人にとっては、そういう約束をして雇われたわけですから、主人からもらった賃金です。 12時間働きましたから、その結果、主人より一デナリ支払われる。
では最後、五時からの人にとっては、一デナリというのはどういう意味を持っているのでしょうか? これは主人からの一デナリというプレゼントです。お恵みです。たった一時間しか働かないのに、一デナリもプレゼントしてもらった。 僅かしか働いていないにもかかわらず、主人は一デナリも与えてくださった。お恵みくださった。
五時からの人とは、主人ははじめから契約していないんです。 九時からの人、十二時からの人、三時からの人たちには、「相当のものを上げる」と言っています。 一日一デナリではないけれども、雇われた人は契約関係を結んでから、ぶどう園で働いているわけですよ。 しかし五時からの人には契約がないわけです。 「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と7節に書いてありますけれども、主人はそう言っただけです。「あなたがたもぶどう園に行きなさい」
この人たちにも、五時からの人たちにも、主人は「一デナリ上げたいんだ」(14節)と言っているんですよ。 そして自分でも「気前がいい」(15節)と言っています。自分でも。 そしてイエスさまは、このように「あとの者が先になる」――逆転現象が起こるんだと、そういう風にイエスさまは仰っています。
ここをずっと読んでいる内に、イエスさまは、私にも、私たちにも問いかけているのではないかと思いますね。 私は主人である神さまから、報酬を受け取っているのだろうか?それとも恵みをいただいているんだろうか?どちらだろうか?
●一つ目は神さまから報酬を受け取る生き方。
AだからBの世界です。働いた、だから賃金の世界です。 ぶどう園の主人は雇い主である。この主人を神さまを示しているとすると、 「神さまが私の努力や頑張りの報酬として、何かをくださる」という、そういうイメージです。 もちろん日常生活において、仕事は当然そうですね。働いたから、賃金をいただくことができる。 勉強もそうですね。頑張って勉強したから、成績が上がる。 AだからBの世界です。
ではお祈りはどうでしょうか?お祈りすると、神さまは答えてくださる。 聖書を読む時はどうでしょうか?聖書通読。聖書を毎日読むと、そこから神さまが大切なことを語ってくださる。 礼拝に出席することはどうでしょうか?礼拝に出席すると、ここでなくてはならない恵みを味わうことができ、新しい一週間のための糧をいただくことができる。 献金はどうでしょうか?神さまに感謝を込めて捧げものをすると、私たちの日々の生活はそのことによって祝福される。
もちろんこれらのことは、私たちの信仰生活にとって大切なことですね――お祈りすることも、聖書を読むことも、礼拝に来ることも、献金をすることも。 でもこれらのことが、一生懸命やって頑張ってこれらのことをしたから、その見返りとして何かをくださると考えていると、 それは神さまからの報酬を受け取る生き方なんだ、そう思うんですね。
このような生き方をしていた人の姿が、すぐ前の、マタイの19章に書かれているんです。 二人います。二人ですね。開かなくて結構です。 一人は金持ちの青年(***マタイ19:16〜26)。永遠のいのちはよいことをした報酬であると考えていました。 もう一人は27節、ペテロです。「何もかも捨てて、イエスさまに従った。報酬として何かをいただけるのではないでしょうか?」(とイエスさまに言いました)。 金持ちの青年も、ペテロも、何かをしたことによって、報酬として神さまから何かをいただこうとしていた――これが報酬を受け取る生き方です。
でもイエスさまは言われました。(マタイ)19章の30節―― <マタイ19:30> 30ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。
こちらは「先の者があとになり」って書いてあります。 青年のようによいことをする人、ペテロのように何もかも捨てて従う人――そういう先の者があとになる。 優秀で、模範的な、エリート的な、そういう人たちがあとになる――そういう風にイエスさまは30節で締め括っていらっしゃるわけです。 そしてその後、20章の譬え話が続くわけです。
で、イエスさまは、この30節「先の者があとになる」だけじゃなくして、その後、「あとの者が先になる」と書いてあるわけですね。 「あとの者が先になる」例として、この20章からの譬え話が続いているんだろうと思います。 これが(***金持ちの青年やペテロの例)報酬を受け取る生き方。
●もう一つが、恵みをいただく生き方ですね。
あとのものが先になる生き方です。AにもかかわらずBです。あとにもかかわらず先になる。 「にもかかわらず」――このAにもかかわらずBということは、私(戸塚伝道師)が神学院で河村従彦(かわむら・よりひこ)院長先生から、教理の授業を受けた時に教えていただいたことなんですね。 かなり河村従彦先生の恵みの捉え方に、私(戸塚伝道師)はすごい感化を受けました。 AにもかかわらずB――この感化を受けて聖書を読むと、今までと丸っきり違った風景が見えて来るということが解りました。
五時からにもかかわらず、一デナリ。 五時からの人にとっては、ぶどう園の主人は雇い主ではないんですね。 一日中暇だったのに、たまたま声をかけてくださった、気前のいいおじさんに過ぎなかった。 契約もしていない。労務者としての資格もない。気前のいいおじさん(がいた?)。
では神さまに対する私たちのイメージはどうでしょうか? 気前のいいおじさんでしょうか?(笑)ま、そんな失礼ですね。神さま、すいません。違います(笑)。今のは取り消します(大笑)。 でも、神さまは私にとってどのようなお方でしょうか?どのようなイメージでしょうか? AだからB、報酬をいただく神さまでしょうか? それとも、AにもかかわらずB、お恵みをくださる神さまでしょうか?
一方的な声掛け、一方的なプレゼント、一方的な恵みをくださる神さまのイメージでしょうか? 一生懸命頑張って、「よし、よくやった。では、ご褒美としてこれを上げよう」と仰る神さまでしょうか?
前々回ですか、「放蕩息子」のお話(***ルカ15:11〜32)をさせていただいた時に、兄息子と父親との関係が、AだからBの関係でした。 弟息子と父親との関係は、AにもかかわらずBの関係でした。 聖書を読むと、AにもかかわらずBの恵みに生かされた人が数多く登場していることがわかります。
先ずモーセがそうでした。 モーセってすごい人ですけれど、人を殺しているんですよね。 ま、過失致死なんでしょうけれども、人を殺しているんです。 にもかかわらず、出エジプトのために神さまが用いてくださった。
ダビデ、ダビデは姦淫を犯し、殺人を犯す。ほんとに残念です。 でもダビデはその子孫からイエスさまが生まれるというダビデ王さまです。
ペテロ、イエスさまを知らないと三度も否定しました。 にもかかわらず、イエスさまに赦されて回復された後、いのちがけで伝道し、最後はイエスさまのために殉教したと言われています。 そのペテロの書いた手紙は、今でもこの聖書にちゃんと残っている。
パウロはどうでしょうか? 教会とクリスチャンを迫害しました。 にもかかわらず、異邦人の使徒として用いられた。
AにもかかわらずBの恵みに生かされている人が聖書にはいっぱい登場するんですよ。 それだけではありません。 この本(再び、藤本牧師の新刊本を見せて)を読みますと、宣伝しているわけじゃないですけれど(笑)、ルターも、アウグスチヌスも、ウェスレーも、何らかの失敗を犯し、何らかの罪を、取り返しのつかない罪を犯し、にもかかわらず、神さまが用いてくださっているんです。 そして、私たち一人ひとりどうでしょうか?過去を振り返りますと――いや、今振り返ってもそうですが――こんな者が、このような者が、にもかかわらず、神さまから恵みを沢山いただいている。
なぜ聖い聖い神さまの前で、AにもかかわらずBが成立するんでしょうか? 神さまは聖いお方です。そのことは寸分違わず、一ミリともレベルは下がらない。 聖い。もう近づくこともできない。一瞬見ただけでも滅ぼされてしまう位聖いお方。 そんな聖い神さまの前で、私たちはなぜ今生かされているのでしょうか? なぜ「天の父なる神さま」と呼ぶことができるのでしょうか? なぜ、それほど神さまは気前がよいのでしょうか?
それは、ご自分の独り子さえ惜しまずに、死に渡された神さまだからです。 そのご自分の独り子・イエスさまは、私たちのために十字架にかかってくださった。 私たちのために十字架にかかってくださった――この一事のゆえに、聖い神さまの前でも、AにもかかわらずBが成り立つ。一方的な神さまの恵みにあずかることができる。 これが福音の本質、よい知らせなんです。
それはすべての造られた人のものであり、クリスチャンだけのものではない。 すべての人に対するものなんです。 イエスさまが私のために十字架にかかってくださった――この恵みを何とかしてお伝えする者にさせていただく、私(戸塚伝道師)はそのようにさせていただきたい、という風に神さまに導かれて、神さまに召されたのだと私は信じております。
お祈りに支えられて聖宣神学院の二年間の学びを終え、卒業し、遣わされています、 高津教会に、静岡教会に。 最近交互に遣わされていますので、朝目覚めた時に、今日はどっちだったっけ?(大笑)あ、今日は高津教会。
神さまから「あなたはぶどう園に来てくれますか?」と声をかけていただいた。 声をかけていただいたのは、60歳の時でした。 60歳にもかかわらず、声をかけていただいた。 え〜もっと若い人が献身しないのかなぁ、なんていう声にならない声を聞きながら、 でも神さまに声をかけていただいた以上、「はい、わかりました。このような者でよろしければ、60歳からでもよろしくお願いします」 まさしく五時からの恵み、五時からの召命。若い時からの献身者ではなかった。 ましてや、朝早くからでなかった。五時からですよ。 ある先生から、あなたは「五時から男(どこかで聞いたような言葉に大笑)ですねぇ」、「はい、そうですねぇ」五時から男(笑)。
最近、神学生は五時からお呼びがかかった方々が沢山いるんですよ。 そういう方々が、多く学ぶようになって来ました。 その先頭を切ってくださったのが、江藤先生です。 以前、高津教会でインターンをしてくださいました江藤先生。今は癌と闘っていらっしゃいます、江藤先生。 神学院が現在のような制度ではない時代です。若い神学生と共に4年間みっちり寮生活をなさった。 健康的な課題を抱えている中、学びと訓練に励まれた4年間。もう頭が下がる思いです。 優秀な企業で沢山の部下を使っていた方が、仕える立場になって神さまのご奉仕をされた。
そのあと八王子教会に今いらっしゃいます中西先生。 「孫のいる神学生です」と、かつて高津教会にいらした時にご挨拶されていました。 高津教会から献身されました小島先生(沼津教会)。 それからいま白鳥教会の橋本先生は、最高齢72歳で献身された。 船橋教会の館(たて)先生、私と同じ大学、二年先輩。 宇都宮教会の大島先生。次から次へと、五時からの方々が学ぶようになっています。 それから竹内神学生。
五時からの人が祝され用いられているというのは、私(戸塚伝道師)にとっても、ほんとに大きな励ましであり恵みとなっています。 もちろん若い方々も、五時まで待つ必要はないんですよ(大笑)。 もし神さまから声がかかったなら、ぜひ「はい、わかりました」とお返事してほしいと思います。 神さまの声というのは、召された人にははっきり分かるんですよ。分かるように声をかけてくださるんです。 分かるように声をかけてくださるのは、神さまの責任です。 神さまはその人に声をかけなさるんですね。何がなんだかわからないということはないんです。はっきりと声がかけてくださる。 神さまが必要とされた方には声をかけてくださる。 ぜひ声がかかったならば、「はい、解りました。よろしくお願いします」とお返事していただきたいと思います。
最後に三つ目の視点です。 「私たちはこの恵みを覚えて、今週も歩む者とさせていただきましょう」と申し上げて、説教を締めくくってもいいと思うんですけれども、 私(戸塚伝道師)は、今日の聖書箇所を読み直して、もう一つ大切なことに気づかされました。私なりに、気づかされたんですね。
特にこの藤本満先生の本を読みますと、藤本満先生は時々ご自分のお考えを書いているんですけれども、内村鑑三についてこういう風に書いてあるんですね。
――自分と同質の者たちとの交わりを好み、世界のキリスト教と交わることを不得手とし、教会的な聖書解釈よりも個人的解釈を好む傾向が、日本人キリスト者の抱える弱点でもあります。(――ここまで)
そうすると、「個人的解釈を好む」――私(戸塚伝道師)好んでいるわけじゃなくて(大笑)、それ以外にお話しできない(笑)ような、個人的解釈です、これからは。 でもそれが弱点になるということだけは、肝に銘じておきたいと思いますけれど。
3)なぜそのような個人的解釈をしたくなったかと言うと――このぶどう園の主人は、なぜ五時からの人から一デナリを支払ったのだろうか?――そういう疑問があったからです。
もし主人が朝早く来た最初の人たちから先に、一デナリを支払っていたらどうでしょうか? その労務者たちは、喜んでその一デナリを受け取って帰って行ったと思うんですね。 まさか、五時からの人も一デナリもらっているとは知らずに(笑)、「あ〜あ、一万円、一日働いた。あ〜あ、この一万円」(と感謝して)。
でも、主人はそうしなかった。五時からの人からデナリを支払っているわけです。 最初の人たちから文句をつけられることを百も承知で。見せびらかすかのように(大笑)。 むしろ文句や不満や大騒ぎになることを待っていたかのように(笑)。
恐らくこの主人は、最初に来た人たちに何かを気づかせたかったに違いない。 もしかしたら、最初に来た人たちこそがこの譬え話の中心だったのかもしれません。 もう一度13節をご覧いただきます。
13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
しかし、彼は「そのひとりに」というのは、主人にガンガン文句をつけている朝早くから来た人たちですね、恐らくその文句をつけている威勢のいいひとりだったんでしょうか。 そのひとりに答えて言った。何と言ったか?第一声が『友よ』と言っています。 これは、新改訳聖書の第二版には、入っていない言葉です。 でも第二版をお持ちの方は、下の注に、小さな字で――原文には、『友よ』という意味の呼びかけ語がある――と書かれています。 ですから本当はこの『友よ』が入っているのが正しいのです。 『友よ』と呼びかけている――雇い主と労務者の上下関係に立って、この主人はこのひとりに答えているのではありませんでした。 「私は、あなたに何も不当なことはしていないよ。友よ。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか」
一デナリの約束――それはどういうことでしょうか? 主人の思いを想像してみました。これは主人である神さまの思いでもあると思うんですね。 「友よ。あなたは朝早くから起きて、私を待っていてくれたね。 私が出かけると、すぐにあなたに会えた。 私のぶどう園で働きたい、という願いでいっぱいだったね。 私は嬉しかったよ。そしてあの時から、あなたを私の友として信頼し、一デナリの約束をあなたと結ぶことができたんだ。 さあ、これが私からあなたへのかけがえのない一デナリだ。 自分の分を受け取ってほしい。一日大変だったねぇ。お疲れさま。気をつけて帰りなさい」
一デナリの約束――それは友としての関係に基づいた、愛と信頼の約束でした。 こんな麗しい関係、それが私と神さまとの関係でもある。 だから、イエスさまは(マタイ20章)1節に「天の御国は、主人のようなものです」と言って、この譬え話を話しておられるのですね。 14節――
14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
自分の分――それは何か? それは「友よ」と言ってくださる、自分の友からいただいた約束の一デナリ。 慈しみ深き友なるイエスさまからいただいた一デナリ。 でも神さまは仰います。 「私としては、最後の人にも、約束はしていないけれども、あなたと同じ一デナリ、それを上げたいんです」 なぜ?「あの人たちも、私の友だからです」
もしかしたら、教会にまだいらしていない多くの方々にも、神さまは先回りして、一デナリ上げたいと思っていらっしゃるのかもしれない。 天国に行ってみて、「え〜っ、なんであの人がここにいるの〜?」(大笑) 「へぇ〜、神さま〜、なんであの人が?あ、あの人も」(笑) アメージング・グレースですよ、それこそ。 (先週木曜日のコンサートで)ベック由美子さんが、アメージング・グレースを賛美してくださった。 日本語の歌詞は、「驚くばかりの恵みなりき」 驚くばかりです。なんであの人がいる。何であの人が? でも私も言われているかもしれませんね。「なんで?」って。
神さまって気前がいいんですよ。気前のいい神さま。 私たちは、もしかしたら、神さまの底抜けの気前良さが解っていないかもしれません。 「あなたと同じ一デナリを、この人たちにも上げたい」 私にも自分の分を神さまからいただいている、自分だけに与えられた約束の一デナリを、友としての一デナリを。 それはもはや、神さまからの報酬ではありません。 主人である神さまが、私ひとりに「友よ、友よ」と呼んでくださる、そういう関係にある事を気づかせてくださった時、その約束がかけがえのない自分の分となる。 かけがえのない自分に与えられた恵みとなるんです。
気前のいい神さまが、他の人に自分よりもいい恵みをいっぱい与えておられるように見える時があります。 あの人はいいなぁ。あの家はいいなぁ。あの教会はいいなぁ(笑)。 でもみんな自分の分はひとり一デナリずつです。 神さまからのかけがえのない友としての存在です。 神さまの目からはみんな同じなんです。 いま、この時、私たち一人ひとりに与えられている恵みの一デナリ、自分の分を新たに覚えたいと思います。 そして友なるイエスさまに感謝しながら、大喜びで家に帰りたいと思います。
☆お祈り――戸塚伝道師
神さま、感謝いたします。あなたが私たち一人ひとりに、それぞれの一デナリを与えてくださいました。それがかけがえのない自分の分です。自分に与えられたすばらしい恵みです。ありがとうございます。
それでもある時には、自ら抱えている問題や悩みや不安、他の人と比べる思いなどに振り回されて、あなたの気前よさが分からなくなってしまうことがあるかもしれません。しかし、私を「友よ」と呼び、私を愛し、救い、信頼してくださったあなたが、私の神さまですから感謝いたします。
そのようなあなたから与えられた一デナリの恵みに生かされて、この一週間も歩ませてください。愛するイエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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