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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/23 エリヤ(1)私の仕える神は生きておられる T列王記17:1〜7
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☆聖書箇所   (旧約聖書)  T列王記17:1〜7

1ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
2それから、彼に次のような【主】のことばがあった。
3「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
4そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは鳥に、そこであなたを養うように命じた。」
5それで、彼は行って、【主】のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
6幾羽かの鳥が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。
7しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
 
☆藤本牧師説教     エリヤ(1)私の仕える神は生きておられる

しばらく講壇に立つことができませんで、大変申し訳なかったなと思います。私(藤本牧師)が最後に話した所――パウロの回心の後にアナニヤが助けに行ったという場面を話しました――あれをもちまして、イエスと出会った人々、イエスのやさしい出会い、ひとりひとりに違った形で出会いを為してくださるイエス・キリストの学びを終えて、新約聖書を学びましたので、今度は年末に向かって旧約聖書からお話をしたいと思います。

そして今日はそのエリヤの第一回目です。列王記第一の17章、ここで旧約聖書に沢山の預言者が出てまいりますが、その中で最大の預言者と言われているエリヤが、初めて17章の1節に出てまいります。ちょっと1節を一緒に読んでみたいと思います。
列王記第一の17章の1節です。よろしいですか?

1ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

エリヤという預言者が当時のイスラエルの社会に出てまいりまして、その第一声が――
「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる」でありました。
で、ここを今日、私たちは学びたいと思います。

時代はイスラエルの国が北と南に分かれてしまっていた頃のことであります。
北の王国はどんどん偶像崇拝に染まって行き、そしてアハブの時代に一気に神への信仰が崩れていきました。
いえ、実は一気ではありませんでした。この列王記という書物を読んでいきますと、
イスラエルが北と南に分裂して以来、北のイスラエル王国が徐々に神から離れ、時に加速し、地域の偶像を取り入れ、好き放題に生きていた様子は、実は積み上げられていました。
ページを一つ捲っていただいて、元に戻して16章の25節にこうあります。

<T列王記16:25>
25オムリは【主】の目の前に悪を行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。

オムリというのは、エリヤの時代、アハブ王のお父さんです。
アハブという王さまのお父さんが、すでに彼以前の誰よりも悪いことをしたという罪の道を歩んでいきます。
しかしまだ先がありました。それが息子アハブでありまして、30節を見ていただきますと――
<T列王記16:30>
30オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも【主】の目の前に悪を行った。

ということは親子二代で史上最悪というような不名誉な記録を塗り替えたということです。
しかもアハブの王さまにとっては、非常に象徴的な表現がなされています。31節――

31彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は……

ヤロブアムというのは、北のイスラエル王国の一番最初の王さまでありますけれども、
もうアハブの時代にあっては、もうそのようなことは軽々とできたと。
アハブは神に背を向けて、偶像をどんどんどんどんイスラエルの国に取り入れて来た、このオムリの背中を見て育って来ました。
父の背中を見て育ったアハブにしてみれば、自分が同じようなことを、いやそれ以上のことをすることは、子どもの頃から見慣れていた日常茶飯事でありまして、別に何の抵抗もありませんでした。

そしてアハブという王さまは偶像を崇拝するシドンの王の娘をめとります。
彼女の名前はイゼベルでありました。英語ではJezebel(ジザベル)ですね。
キリスト教の世界で、自分の娘にイゼベルという名前をつける人は先ずいないと思います。旧約聖書に出て来る女性の中で、最悪の人物です。
名前は「皇太子はどこにいるの?」という名前です。つまり最初から自分は皇太子を尻の下に敷くという位、負けん気の強い持って生まれた彼女の性格を名前にしたような人物でありました。
彼女が異教の国からイスラエルに嫁いで来る時に、よほどの宣教精神に燃えていたのか、彼女はバアルという偶像の預言者を450人、アシェラという偶像の預言者400人を引き連れて、イスラエルに乗り込んで来ました。

アハブはサマリヤに神殿を建て、公に人々がバアル(偶像)を礼拝できるように祭壇を築きました。
大地の母としてまつられるアシェラ、そして大地の父としてまつられるバアル。
ま、日本でも中近東でも、農業の祝福を求める神々というのは、いつも男女に分かれます。
男性神と女性神がいます。
ヒンズー教の神殿に行きますと、実に実に奇妙でありますけれども、神殿の中央に石で造った丸い塔が建っています。その回りに丸い円がありまして、その円の溝の所に毎朝祭司は牛の牛乳を注ぎます。
それはいったい何を現しているかと言えば、それは男性性器を現しています。
そして、そこに拝みにやって来る人々、男性の場合ですと、神殿の裏に以前は娼婦街がありました。
そしてそこで遊んで帰ると、一年の畑仕事に豊作がやって来る――そういう発想であります。

私(藤本牧師)がインドに行きましたのは、25年前。25年前のヒンズー教の寺院がそのようにできていましたので、今でもそうだろうと思います。
それは3000年前のイスラエルのバアルとアシェラも同じであります。男女の性の営みによって、男性神と女性神の性の営みによって、この世界が祝福されるという発想。
そしてその祝福というのはいったい何をさしているのか?それは農作物が豊かであること。
農作物が豊かでありさえすれば、それが私の幸せで、そして私はそれを求めるために、つまり自分の欲を満たすために、ひたすら礼拝するというものの考え方を――私たち日本でも頻繁に見ます――それをご利益宗教と言います。
健康であればよし、願っている学校に合格すればよし、仕事に恵まれればよし、自分が願っているものが全て叶っていけばよし、という意味で、当時の中近東からアジア日本に至るまで、このご利益宗教の姿というのは現在に至るまで見ることができます。
簡単に短く、3つの点でお話をいたします。先ず第一番目に――

1)何かが失われていきました

何が失われて行くのか、そういう発想をしてなにが悪いかと思いますけれども、
そういう発想の中で確実に何かが失われていきます。
何が正しくて何が間違っているのか?という価値観が失われていきます。
何が聖くて何が汚れているのか?あるいは何が真理であり何が誤っているのか?
真理は踏みにじられ、正義は地に落ち、金もうけと快楽に人々は走るようになります。
それが現代社会だと言われれば、まさにその通りであります。

いま、プロテスタントの人口というのは、おおよそ70%以上、アフリカ、南米、そしてアジアにいます。
かつて宗教改革当時、プロテスタント教会を引っ張って来たヨーロッパにいるプロテスタント人口というのは、世界にいるプロテスタント人口のわずか15%ほどに過ぎませんね。かつて、プロテスタント教会を引っ張って来たのはアメリカでありました。
しかしアメリカはもはや17%〜15%ぐらいしか占めていません。圧倒的にキリスト教の流れは、アフリカ、アジア、南アメリカに移って行きました。

私(藤本牧師)は、以前北欧の教会の特集を、日本のテレビで観たことがあります。
大きな大きなゴシック教会、もう人々がこないので売りに出される。そしてそのゴシック教会がスーパーになる(大笑)。
皆さん、ゴシック教会の中に野菜コーナー・鮮魚コーナー・肉コーナーがありまして、カートをもって一周して(笑)、そして教会の入口のこちら側にレジカウンターがあるっていうのを私は観ました。
あるいはイベント会場になったり、ディスコになったり、様々な形で教会が用いられる程、教会堂が廃れていくという現状です。
こういう現状は第二次世界大戦の後に、加速していきました、ヨーロッパでは。

イギリスのカトリックの神学者、G・K・チェスタトンという人がいます。
彼はかつて社会における暗黒の時代の到来を、次のように述べました。
「歴史の至る所で、社会が、繁栄から滅亡へと、栄光からくずへと、自由から奴隷へと転落していく。しかも静かに、平然と、落下していく。顔にはなおも笑みをたたえながら、すでに肋骨は、身体の中の屋台骨は、文字通り音を立てて、身体から崩れ落ちている」(A Chesterton Anthology, ed. P.J.Kavanagh/San Francisco:Ignatius Press, 1985, p.359) と言う。

現代社会というのは、余裕を持ってその表情は笑みをたたえているかのように思う。
しかしその社会を支えて来た価値観というのは、肋骨というのは、音を立てて、崩れ落ちていると。
退廃はゆっくりと、しかし確実に進んで行きました。

それでもオムリの在位は16年、アハブの在位は22年――これはイスラエルの王の歴史において決して短命ではありませんでした。
以前の王さまたちと比べると、国情も安定していきましたし、民は繁栄を見ることができたのです。
しかし、預言者エリヤの目から見て、あるいは神の目から見て、イスラエルの顔は笑っていても、肋骨は既に身体から崩れ落ちていたのだ。

この世界がそうなのか?あるいは私たちがそうなのか?顔は笑っていても、肋骨が抜け落ちているのではないかと思うことが多々あります。
ゆっくりと、しかし確実にやってきます。

週報に写真を乗せておきました。
【※この記事にも添付していますのでご覧ください】
私たち夫婦は、もう30年以上も前、アメリカのニュージャージーに住んでいました。
日本から家族が来ますと、、車を走らせてナイアガラの滝を案内しました。
私(藤本牧師)は合計で4回ぐらい行ったと思います。

ナイアガラの滝というのは、高さよりも水量ですね。水量が圧倒的です。湖ごと壁になって落ちて来ます。
その音、迫力、水しぶき。
その水が、落ちた先で、ナイアガラ川となってずっとこう下って行きます。
ナイアガラの滝つぼから10キロ離れた先で、何と川が直角に曲がるという、その写真を週報に載せておきました。
曲がる地点は削られていて、そして大きな半円を描いています。
その上を鳥かごのようなケーブルカーが向こうを行き来するという、そのケーブルカーの上からの写真がそれです。

この観光スポットは「大きな渦」と呼ばれています。“Great Whirlpool”《グレートワールプール》で検索されますと、観ることができます。
渦を巻いているかのように実は見えないですね。水面が複雑に白く動いています。
私たちが夫婦でケーブルカーに乗った時に、そのガイドさんに生意気に言ってみました。
「日本には鳴門の渦というのがある(笑)。それは一目瞭然で、海の真ん中に渦がいくつもいくつもできる。そこに船が寄って行きますと、まるでその渦の中に巻き込まれるんじゃないかと思う位、明らかに渦を巻いているのが鳴門の渦だ」と。
「ところがこのナイアガラの渦を観ると、どこを見ても巻かれていない。いったいどういうことなんだ?」と言いましたら、ガイドさんが丁寧に答えてくれました。
「いや、ここのもすごいんですよ」と(大笑)。
「それはね、水面に浮いている木の枝でも葉っぱでも一つとして沈まないものはない」

ふっと見た目で、この世界の渦は、静かな白い波を立てながらゆっくりと動いているかのように見えます。
しかし実は、そこに浮いているものが人ひとりの人生であれ、会社一つであれ、あるいはその時代に生きる人々の精神でも価値観でもあれ、大きな木の枝から小さな木の葉っぱに至るまで、沈まないものは一つもない。
全部どこかで、この大きな繁栄の中で、一回沈んで巻き込まれて底まで行って、そして繁栄を過ぎた頃にもう一度川の表面に上がって来る。
実はそういう曲がり角に、歴史があったと考えていただきたいと思います。

これから先、私たちはエリヤとその働き、そこに現された神の栄光を見て行きますが、まさに時代はこのように曲がりつつあったということ、
そして、そこに存在していたイスラエルの民の中で、渦に巻き込まれずに浮いたままでいられる者は一人もいなかった。
全部沈んでいきます。
エリヤはそういう中で沈みかける体験も致しますけれども、彼には一つの確信がありました。
それが1節の――「私の仕えている神、【主】は生きておられる」です。

2)「神は生きておられる」という言葉に注目をしたいと思うんですが――

これが、聖書の神と、ま、いわゆる偶像のカミガミとを区別する第一の要因です。
ちょっと皆さん、第一列王を挟んでおいていただいて、しばらくたったところにエレミヤというのが出て来ます。
エレミヤ書の10章の1節〜5節までをちょっと交替に読んでみたいと思います。

<エレミヤ10:1〜5>
1イスラエルの家よ。【主】があなたがたに語られたことばを聞け。
2【主】はこう仰せられる。
      「異邦人の道を見習うな。
  天のしるしにおののくな。
  異邦人がそれらにおののいていても。
3  国々の民のならわしはむなしいからだ。
   それは、林から切り出された木、
  木工が、なたで造った物にすぎない。
4 それは銀と金で飾られ、
  釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。
5 それは、キュウリ畑のかかしのようで、
  ものも言えず、歩けないので、
  いちいち運んでやらなければならない。
  そんな物を恐れるな。
  わざわいも幸いも下せないからだ。」

偶像っていうのは、5節に「きゅうり畑のかかしのよう」なものだ。
偶像はどんなに見事に金細工人が細工を施しても――たとえそれが「名匠の作」(9節)とであったとしても――所詮それは林から切り出された木を、木工がなたで造った物に過ぎない。
3節に、そこに息はない。そんな物に幸福をもたらす力もないし、災いを下す力もない。
ですから5節に、「そんな物を恐れるな」と書いてあります。
いのちを持たないものは、無力であると。

<詩篇115:5〜7>
5口があっても語れず、目があっても見えない。
6耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
7手があってもさわれず、足があっても歩けない。
 のどがあっても声をたてることもできない。

いや、偶像のカミガミは「無力である」だけではない。これは「私たちにとってやっかいもの」となる。
エレミヤ書の一つ前にイザヤ書があります。そのイザヤ書の46章1節を一緒に読んでみたいと思います。
そうですね、私(藤本牧師)が1節を読みますので、皆さんが2節を読んでください。

<イザヤ46:1〜2>
1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。
  彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、
  あなたがたの運ぶものは荷物となり、
  疲れた獣の重荷となる。
2  彼らは共にかがみ、ひざまずく。
  彼らは重荷を解くこともできず、
  彼ら自身もとりことなって行く。

当時、今のイラクに当たりますバビロンは、メディアとペルシャの王国に滅ぼされようとしていました。
人々は自分の家財道具を荷車に載せて、町から逃げようとします。
その時、「あなたがたがこれまで拝んで来た偶像は、あなたがたの重荷となる」という文章です。
ベルはネボと同じく、偶像神の名前です。
その偶像は、ひざまずいてかがんでいる。
彼らの偶像は、獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。

もちろん皆さん、造られた像そのものが神だ、と人々が思っていたわけではないです。
造られた像にこれらのカミガミが宿るという風に当時の人々は考えていました。
ですから46章の1節「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は」というのは――
ベルとネボという偶像神は、この偶像、像に宿る。
しかし実際、それらの像は、獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶ者はあなたがたの荷物となり、疲れた獣の重荷となるだけだと。
つまり、力がないだけではない。生ける神とは違う。
いのちのない神は助けにならないだけではなく、無力だけではなく、あなたがたの重荷にしかならないと言われていますね。

それに対して、もう一度エリヤに、T列王記に戻っていただきたいと思いますが、17章の1節。

1私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。

聖書の神に像はないです。聖書は神を像に刻みません。
ソロモンが神殿を建てた時でさえ、私たちが教会堂を神に捧げる時でさえ、ソロモンの祈りがそこで読まれます。(***T列王8:22〜53)
「天地万物をお造りになった神が、この神殿にお住いになるとは到底考えられません。
しかしせめてあなたの栄光の一部をここに満たし、私たちがこの神殿で祈る時に、私たちの祈りを聞いてください。
私たちは聖別して、もっぱらこの建物をあなたの栄光のために用います。
ですからせめてここで私たちが祈る祈りを、天におられるあなたが聞き遂げ、私たちを祝福してください」
と言って、私たちはこの教会堂を神さまにお捧げいたしました。

神殿のどんなゾーンも、その中に神がおられると私たちはおられると思っていないです。
しかしそれを聖別した時に、神さまはそこを特別な祝福をもって包んでくださる。
皆さんがご自分が建てた家を神に向かって捧げるならば、ご自分がお借りになったマンションの一室を神に向かって捧げるならば、神さまはその場所をきよめて、ご自身の栄光のために用いてくださる。特別な祝福をその中に入れてくださる。

しかし神は、その建物、その部屋、そのゾーンに閉じ込められるような存在ではない。
なぜなら神は生きておられる。
生きておられる神は聞いておられる。見ておられる。守ってくださる。助けてくださる。神はあなたを愛してくださる。導いてくださる。

ご利益信仰の神が私たちに幸せを与えることで――収穫が豊かでありさえすれば、それをもって私たちが幸せであるというような――そういう信仰ではない。
神は私たちを創造され、神は私たちの人生を導いてくださり、私たちを戒めてくださり、私たちを鍛えてくださり、私たちを愛してくださり、やがて私たちが神の国に迎えられるのにふさわしい者と、私たちを造り変えてくださる。
私たちが神を運ぶのではない。神が私たちを運んでくださる人生。
ですから私たちは試練さえをも、喜んでそれを受け留める。
願いが叶わなかったとしても、私たちは牧場の羊であり、羊飼いである神は、私たちを通して(御心を現し)、いつも私たちを伴い、私たちを緑の牧場、いこいの水のほとりに伴わせてくださる。

3)エリヤの場合を見てみたいと思います。【※実際に彼は自ら生きておられる神を体験した。】

ちょっと17章の2節を私(藤本牧師)の方で読んでいきますね。

2それから、彼に次のような【主】のことばがあった。
3「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
4そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは鳥に、そこであなたを養うように命じた。」

神は今まで豊かな雨に恵まれていたこのイスラエルに、もはや雨は降らせないと仰る。
雨を止める。
そしてなんと、「あなたはとりあえずケリテ川のほとりに身を隠し、そこの水を飲め。食べ物に関して言えば、わたしは烏に、あなたを養うようにさせる」
「烏に命じた」と書いてあります。
エリヤはこれまでも、烏に餌をやったことがあるかもしれないです(笑)。しかし、烏に餌をもらう体験は初めてでしょう(大笑)。
いえ、烏に餌をもらう人生をこれから送るのかって(大笑)、エリヤにしてみれば、これはとんでもないことが待っているんだなぁと思いますよね。
全く予想もしない手段で、神は養ってくださる。

私の両親(藤本栄造・幸子前牧師、横須賀在住)が福岡で開拓をした頃に、よく前田さんという方が――ま、建築業者の方だったんですけれども――福岡出張の際には、教会に寄ってくださった。
教会に寄るだけでなく、教会に泊まって行かれた。
彼は十分な財産を持っていた人物でありますから、ホテルに泊まればいいんですよね。
だけど、わざわざ教会に泊めていただきたいと寄ってくださり、そして帰り際に泊めてくださったお礼としてということで献金を置いていかれた。
そして出来たばっかりで、まだ教会員がいないような教会で、私の両親、私たち家族は、その前田さんの献金によって養われたんですね。
神さまがどんな方法で私たちを養ってくださるか、わからない。
でも雨を止め、食料を飢饉で根絶やしにされる神は、予想もしなかった方法であなたを助ける。
なぜなら、この神は生きておられるからだ。

エリヤは生きておられる神がどのようなことをされるのか、どのような不思議をなさるのか、彼は実際に自ら体験したんです。
実際に自ら体験しない限り、それは私たちの信仰にはならないですね。

私の母(藤本幸子前牧師)は、戦時中に両親を空襲で亡くしました。
まだそれは十代の高校生の頃でありました。そして両親を戦争で亡くして、家を失くして、呆然と、ま、何とか日々過ごしている中、ある時宣教師の所に行ってみた。
そして宣教師に教わったことは、「この聖書の中に、生きておられる神がいる」という話を聞いた。
それによって、劇的に自分の意識が転換し、そして「それまで自分が頼りにしていたものを一切捨てて、生きておられる神に自分は仕えよう。この方を信じて生きて行こう」と彼女は決心しました。
母は私に対して、何度もその話をしましたけれども、今ではよく覚えていない。
ま、それでいいんだろうと思います。
なぜなら、「生ける神」は、私たち一人ひとりが自ら経験しない限り、「神さまは生きて働いておられる」ということは実感できないからです。

皆さんお一人お一人にも、そういう証しがあると思います。
私(藤本満牧師)はエリヤを学んでいくときに、自分の証しをいたしますけれども、今日は朝顔教会の井出定治先生の証しを引用して終わりにしたいと思います。
この先生の証しを、皆さんは自分のものとして受け取ることができるんだろうと思います。
井出先生は自分の牧師生涯を支えて来たみことばとして、ある聖書の箇所を引用しているんですね。

そのみことばがこの先生に与えられたのは、神学校の最終学年の年であったそうです。
肺炎を患いまして、そして片肺を切除されました。
ずっと神学校で学んで実習もして来たんですけれども、入院をして卒業式にも間に合わず、卒業生が次から次にいろんな教会に派遣されて行く中、彼は病院の一室に入院し、これからの自分の身を案じ、主に身を捧げ主に用いていただくために献身したのに、もしかしたら自分は何もできずに、これで人生を閉じてしまうのか?

同級生がはるばる病院を見舞ってくれたそうです。
その同級生が任地に立った後に、教会に離れて行った時に、先生は非常な寂しさと不安に包まれてしまった。
この静養という期間が、これからいったい何年続くんだろうか?これから先自分はどうなるんだろうか?
その時、先生の心に聖書の言葉が響いたと言います。それがT列王記の1章の29節です。それを読んで終わりにします。
文脈は全く違いますけれども、ダビデの言葉です。
ダビデの言葉、1章の29節に――

<T列王1:29> 
29……私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった【主】は生きておられる。

これが、これから私たちが学んでいこうとしているエリヤの確信です。
「わたしのいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる」
ですから、皆さんは今日、今朝この場で礼拝を捧げることができるんです。
私たち一人ひとりが、ふっとこう自分の人生を振り返った時に、そこにはあらゆる苦難がありました。
しかし生きておられる神は、私のいのちをこれまでも、あらゆる苦難から救い出してくださった。
その生きておられる主が、井出先生を励ましてくださり、不安と寂しさの中で、神が突然リアルに立ち現れた。
今までも神さまを信じて、今までもこの方に仕えて生きて来た。
しかし、「神は生きて働いておられ、私のこの身体をケアしてくださり、たとえ烏をもってでも私を養ってくださる」という確信が与えられた瞬間に、
エリヤも、また井出先生も、私の母(藤本幸子牧師)も、そして皆さんも、
「自分を支えてくださる神は、生きて働いておられる」ということにふっと目覚める。

ハワイの初代のクリスチャンが、こんなことを書いています。
ハワイはキリスト教国ではなかったわけですが、アメリカが西へ西へと行く中で、やがて自分の領土にしてしまうんですよね。

宣教師がハワイに来る前、人々はハワイの神殿に入る前にしばらくの間、神殿の外に座って、息を整え、心を整えたものです。
それから神殿に入ると、いのちを吸い込み、祈りに精気を込めました。
しかし宣教師の連れて来たクリスチャンは、立ち上がって数行祈ると、アーメンと言って全部終わりです。

そこで、ハワイの人々はクリスチャンを「ハオレス」と呼ぶようになりました。
「ハオレス」とは、息をしない人、いのちを吸い込まない人、という意味です。

私たちはそんなクリスチャンではないです。そんなクリスチャンには絶対にならない。
「私の仕えている神は、私の信じている神は、生きておられる。そして私たちにいのちの息を吹き込んでくださる」という緊張感を私たちは持って、礼拝に来ます。
ですから祈りに情熱を込めます。
神を恐れて、礼拝に座します。
十字架を見上げて、「この方の憐れみと愛が、私たちの人生を生かす」ということを実際に信じて、心を込めて賛美を歌います。
この方を礼拝することこそが、自分を生かす。
いのちの源であるこの方は、私たちを生かす。

そしてエリヤのように、飢饉に見舞われ、家を追い出され、そして川のほとりに住むようなことがあったとしたならば、きっと神さまは私が想像もしない方法で、私を養ってくださる。
そして私たちはみな烏に養われるような体験をしたい。したい。真実に思っています。
「私の仕える神、【主】は生きていて、私を助けてくださる」――そのエリヤの確信を持って、これからエリヤから何回か学んでいきたいと思います。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、
「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった【主】は生きておられる。」(T列王1:29)
「私の仕えるイスラエルの神、【主】は生きておられる。」(T列王17:1)

――であるからこそ、大きな渦のように、私たちのいのちや、私たちの尊さを巻き込んで沈めていくような流れの中にあって、私たちは生ける神に向かって祈り、手を差し伸ばし、何とかしてあなたの憐れみの手を掴もうと思いつつ礼拝に集っています。

祈りの課題は毎週あります。私たちは毎週不思議な方法であなたに養われなければ、私たちはやって行くことができないと真実に思っています。ですから、心を込めて生ける神であるあなたに賛美を歌い、あなたの祝福を必要としています。

どうか私たちを愛してください。私たちを憐れんでください。私たちを大切に思ってください。私たちを御翼の陰に匿い、私たちに力を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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