☆聖書箇所 T列王記17:8〜16
8すると、彼に次のような【主】のことばがあった。 9「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」 10彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」 11彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」 12彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」 13エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。 14イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油は亡くならない。』」 15彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。 16エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
☆説教
「かめの粉は尽きない」――2014年の元旦のメッセージをこのタイトルでしております。 その年の全国大会というのがありまして、そこでも私(藤本牧師)はここからメッセージをいたしました。 今日もメッセージそのものは似ていますが、少しだけ話は変えてありますけれども、とにもかくにもすばらしい聖書の箇所でありますので、もう一度心を寄せていただきたいと思います。
先週はエリヤの第一回目で、1節「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った」この言葉が、まさに彼の信条でありました。 「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。」(T列王17:1)――これが彼の信仰信条と言ってもいいでしょう。
イスラエルの偶像礼拝がどんどん広がって行き、どんな神を拝んでいるのか、要するに自分の願い、自分の欲をカミとした偶像を拝んでいるだけでありました。 そんな神は死んだ神で、まったく力を持っていない。
登場したエリヤは独特なメッセージを発します。 「私の仕えている神、私の信じている【主】は生きておられる。 であるがゆえに力ある働きをなさり、雨を止めることも雨を降らすこともできる」 そう言った彼は、実に独特な方法で、神が生きておられることを体験しました。 彼はケリテ川のほとりに身を隠し、そこで水を飲み、そこで烏が運んで来る食べ物で生き延びる、という実に独特な方法で、神が生きておられることを体験しました。
私たちの人生で、「神が生きて働いておられる」ということを、それはそれは様々な形で体験すると思います。 時に、無理難題が打破されて、道が開かれることもあるでしょう。 時に、死の陰の谷を行く(***詩篇23:4)ような、苦労の連続かもしれません。 時に、神さまがもう必要なことを全部備えて、「主の山に備えがある」(***創世記22:14) あるいは、「勝ち得てなお余りある」(***口語訳ローマ8:37)という「圧倒的な勝利」(***新改訳同)で、私たちは主が生きておられることを体験するかもしれない。 でも時には、あのシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように(***ダニエル3章、)燃える火の中に、主ご自身が第4の者として共に歩んでくださりながら、「あ、主は生きて働いておられる」ということを体験する場合もあるかもしれません。
エリヤはこの箇所で、徹底的に神に信頼する信仰を養いました。 烏に食事を運んでもらうということで養われただけではないです。 ケリテ川という辛い極限の状況の中で、支えられたということが、神に信頼する信仰への養いとなりました。 神はどんな方法でも、私を養ってくださる。 そしてその方法が、私たちの想像のつかないものであればあるほど、 私たちの信仰もまた、「想像もつかないことを為してくださる神」に対する信仰が強められていく。
そして今朝の場面です。 8節に「すると、彼に次のような【主】のことばがあった」というのは、7節の続きです。 7節を見てください。
7しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
川は枯れてしまいました。彼は移動しなければなりませんでした。 神さまは「ツァレファテという遠い地に行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている」(9節・と言われた。) また養われるわけです。
恐らくエリヤの頭の中にあったのは、きっとお金持ちのご主人を亡くし、豪邸に住み、豊かな財産を持っておられる、その未亡人の女性のもとで自分は養われると想像したに違いありません。10節――
10彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
と言った時に、エリヤは、いや、水差しどころではない。多くのしもべを連れて来て、そして彼を歓待し、彼を家に迎えてくれるやもめを想像していたはずです。
ところが、実際、11節――
11彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」 12彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。(***ほう、エリヤと同じような信仰を持っているのかなと思いますね、と説明)私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
というのは、少し平坦なものの言い方をしますと、そうですね、とんでもない女性に声をかけてしまったということでしょうか(笑)。 本当にこの女性でよかったんだろうか?と。 彼はようやく川で烏に養われるという状況を脱し、そして生きて働いておられる神によって、ツァレファテの地で養われると言った時に、本当にこの女性でよかったんだろうかと一瞬迷いがあったはずです。
しかし彼はそのやもめに言います。躊躇しながら言います。13節――
13……「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
こんなこと、私たちは言えませんね。こんなことは言えません(笑)。 エリヤもこんなことは言えないと思いますね。 これは明らかに、神がエリヤに言わせた言葉ですね。 「しかし、まず、私のために」というのは、「神のために」と思って、 神にそのすべての持てるものを持って来るという意味で、「パン菓子を作って持って来なさい」 当然、パン菓子を作って持ってきた段階で、わずかな粉と油はなくなってしまっているはずですね。 「でもそれから、あなたとあなたの子どものためにパンができるようになる」というのが、エリヤの口をもって、神がこのやもめに伝えた言葉です。
エリヤは不思議な方法で、実に不思議な方法で飢饉を乗り切りました。 その不思議な方法で養ってくださる神に遭遇した彼は、自分が体験した信仰をこのやもめに伝えたいと思ったんですね。
1)その意味で、非常に大胆な信仰の挑戦を、この女性にかける。
最後に残ったひと握りの粉と油でパンを焼いて、それを神のところに持って行くという(こと)。 それは『神に対する絶対的な信頼』の現れでありました。 それは『忠実』の現れではないと思います。 みことばに対する忠実という以上に、「この最後の最後を使い果たしても、神は絶対に私を憐れんで、私を祝福してくださる」という『信頼』の現れです。 それは生けるすべてを、神にかけるような信頼の現れです。
貧しい中から、最も大切な部分を神のために使っても、決して神は私を飢えさせることはない。 忙しい中から、週の初めの日をすべて神のために使っても、時間も体力も無駄になることはない。 持てる才能で、最も優れたものを神のためにささげても、それで遅れを取るわけではない。損をするわけではない。
生ける神を信じるっていうのは、自分の最も大切なものを神の手に託すということです。
先週、私(藤本牧師)はナイアガラの滝の話をしました。 あそこに行きますとですねぇ、もう一つ奇妙な観光どころがあります。 それはナイアガラの滝に挑戦して、ま、死んだ、生きた方々の痕跡の博物館なんですよ。 ビア樽の中に入って湖を浮いて、ナイアガラの滝に飛び込み、ビア樽の中でね(笑)、そして生き延びることを試みた方は、見事に失敗していのちを落としましたとかですね。 それから様々な水圧に耐える、100トンの水の水圧に耐える、そのカプセルを用意して、見事に生き抜いた人ですとか、 誤って子どもが湖に落ち、そのまんま滝つぼの中に落ちた。しかしその人物は無事に生き延びることができたとか、 写真や、実際のビア樽や、実際のカプセルが展示されています。
その中で、アメリカの綱渡りの名人ブロンディンという人の話が残っています。 ある日彼は、アメリカとカナダの間のナイアガラのその滝つぼに綱を張って、その上を往復するということに挑戦しました。 そこに集まった観衆は一万人です。彼の登場を待ち構えて、「ブロンディン、ブロンディン」という大歓声が沸くわけですね。 出て来た彼は、両手を上げて、そのざわめく観衆を静めました。 「私こそがブロンディンだ。あなたがたは、私が渡り切ることを信じるか?」 観衆は、すぐさま「信じる。ぜったいあなたならできる」と叫び返します。 彼はじりじりと、ゆっくりと、じつにゆっくりと、アメリカ側からカナダに二時間かけて渡るんですよ。
二時間かけて渡ったところに、カナダの側に大観衆が待っているわけですけれども、ものすごい観衆の声が湧き上がる中、ブロンディンはまたも彼らを静めて言いました。 「これからこの綱を歩いて、いま来たアメリカ側へ戻る。しかも、今度は誰かを私の背中に乗せて戻る。それもあなたがたはできると信じるか?」 すると、またもや観衆は答えました。「信じる。絶対できると信じる」 すると、ブロンディンは観衆を静めて言いました。 「では、誰が私の背中に乗るか?」(笑) その途端に、シ〜ンと音も立てずに観衆は静まり返りますね。 一万人の中から、一人の男が名乗り出ます。 そしてその男を肩に載せて、彼は3時間半、3時間半かけて、彼はアメリカに渡ったというお話ですね。
「私の仕える神は生きておられる」――そんなこと言うだけなら、誰でも言うことはできます。 「私の仕える神は生きておられる」と、でもいったいどれほどの人が烏に養われることを良しとするでしょうか? いったいどれほどの人が、つぼに残ったわずかな麦の粉と最後の油でパンを焼いて、エリヤの所に、神の所に持って来るでしょうか?
明らかに、信仰というのは、時に非常に挑戦的です。 そして信仰というのは、非常に大胆です。 「信じる」ということは単に神が生きておられるという事実を認めるという意味ではないということ。 それをエリヤは徹底的に自分自身体験し、それを実践しようとして、このやもめに教えようとしている。 (信じるということは、)「信じる対象の手の中へ自分のいのちを預けることだ」と。
ま、私たちはなかなかそういう場面に遭遇するわけではないです。 でも私たちは振り返って考えて見ると、そのようなことをして来たんです。 皆さんして来たんです。そういうことをしてない人はいないです。 「神を信じる」ということは、平々凡々とした日常の中では――その恵みに感謝し、そして為すべきことを為し――その程度なのかも知れません。 しかし、私たちは人生の危機に立つ度に、 いや、風邪一つ引いて自分の身体が調子悪い、仕事一つで自分の人生がひっくり返るかも知れないという中で、 私たちは信仰をかける。信仰をかけるんです。
税理士のN兄が、洗礼を受けて間もなくの時でありました。 自分の大きなクライアント、大きな会社の税理の仕事を任されていて、ふとしたことに気がつかず、税務の調査が入りまして、それを指摘されて、 そうなりますと、ま、自分の責任のみならず、相手方の会社に多大な迷惑をかけるという、人生最大の窮地に立った時に、 彼は税務署の方に会うわけですけれども、カバンの中に聖書一冊入れて会いに行くんですよね。 何の書類もない。聖書一冊入れて会いに行く。 洗礼を受けたばかりの兄弟は、その経験を通して、神さまの恵みを味わった。 この方はいかなる方法でかはわからない。でも生きておられるならば、絶対にその力を私を通して発揮してくださる。
私たちは時々無謀な信仰を神さまにかけようとします。 そして無謀さゆえに、周りに抑えられ、無謀さゆえにその信仰がうまくいかない時もあるかもしれません。 それでも私たちの心の中には、生きて働いておられる神にかける信仰というのはこういうもんだということを、私たちは忘れないですね。
よく言いますよね。「一度熱いストーブに触った猫は、二度と触らない」と。 私たちの信仰っていうのはそういう部分があります。 一度大胆にストーブに触ってしまって、それがものすごく熱かったから、もう絶対に触らない。信仰は守りに入ります。 ですからものすごい窮地に立ちますと、信仰は発揮しない。 自分の為せる常識的な範囲の中で、それを全部済まそうとします。 でも実際そうではないんです。
信仰の信仰たるゆえんというのは、自分の力が尽きた時、自分が最も窮地に立たされた時に、たとえそれが叶わなかったとしても、 「神にすべての信仰をかける」という世界に踏み出して初めて、私たちは信仰者、あ、自分は信仰者なんだと(いうことを深く味わう)。 それ以外の方法で、自分が信仰者であるということを体験することは、私(藤本牧師)は難しいと思いますね。
二番目に、13節もう一回見ますが――
13エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、先ず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
どういうことか? 信仰の挑戦はたとえわずかな粉、わずかな油だとしても、実際に今、やもめが持っているものです。
2)今そこにあるものに対して、神さまの挑戦は発せられたんですね。
やもめの家族にしてみれば、あれもない、これもない。あれも失い、これも奪われ――ないものは沢山あります。 しかし神さまは、ないものに関心を寄せておられない。 「最後に残ったその粉、最後に残ったその油を、わたしに奉げてみてはどうか?」ですね。
私たちは様々な場面で考えます。 「神さま、選りによってどうして私にこの仕事を回して来られたんですか?私には才能がありません。財力もありません。余裕もありません。頭脳も足りません」 私たちは事実の否定的な側面ばかりを、つまり持っていないものばかりを眺めて嘆いているんですが、 神さまは私たちが持っていないものには、何の関心もないです。何の関心も寄せないですね。 「僅かな粉で良い。わずかな油で良し。それをわたしに託してみてはどうか?」と。 いま実際に持っているもの、いま実際に自分がそれを使おうとしているもの、神はそこをご覧になろうとしている。 「それをまず、第一に、わたしのところへ」というこの一線を越えた時に、やもめは、この女性は新しい世界を体験するんですよ。
その新しい世界、14節、約束されていますね。
14.15.16と、一緒に交替に読みたいと思います。
14イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」 15彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。 16エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
3)やもめは信仰の挑戦に答えて、神を第一としました。
そしてその時、実に詳しくエリヤのことばの通りにし、そしてエリヤのことばの通りになったと(記されています)。 つまり、やもめが神を第一にした時、神もまたやもめを第一にされた。 やもめが神さまを尊んだ時に、神さまもまたやもめを尊ばれた。 「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」――15節(〜16節)、「彼女は行ってそのとおりにし、するとそのとおりになった」。 こういう信仰の世界に、私たちはぐっと奥に入って行くように招かれている、ということを私たちは考えなければいけないですね。
私(藤本牧師)は、ず〜っとイエスが福音書の中で、私たちと出会っている場面を見ました。 主の出会い方は様々でありました。 そしてどの出会いを見ても、主は実にやさしく出会っておられる。 その人の事情に合わせて、しかし上手にその人の信仰の歓喜を引き出すように、ゆっくりやさしく、決して無理をせず、挑戦を投げかけておられる、という話をしました。 その話は20回を超えました。 私(藤本牧師)は習慣として、新約聖書、旧約聖書と交互にこう話をすることでありますけれども、 私(藤本牧師)は今度一度、エリヤとエリシャに挑戦しようと思いました。 それはこの二人の預言者のメッセージは、挑戦に満ちています。
一方で私たちは主の慰め、主のやさしさ――先ほどイザヤ書で見ましたように、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(***イザヤ42:3)というこのイエス・キリストのやさしさというものを味わわなければいけないんです。 これを味わわずに、私たちは主の平安というものを知らないんです。 イエスさまは仰いました。 「わたしは、あなたがたに平安を与えます。わたしの与える平安は、世が与えるのとは違います」(***ヨハネ14:27)という、 世が与えるのとは違う平安を、私たちはどういう風にして味わうのか?ということを、学ばなければいけない。
しかし同時に、私たちはその信仰の浅瀬ではなく、自分のいのちを主の御手に託すほどの信仰の深みに、どういう風にしたら日常的に入って行くことができるのか? つまり日常生活、平々凡々とした日常生活の中で、神を第一にするってことは、どういうことなんだろうか?ということを考えず、信仰者にはなれないです。 そういう意味で、エリヤとエリシャの学びは、信仰の挑戦に溢れているということを覚えておいていただきたいと思います。
最後に一つ話をして、今日は少し早いですけど、終わりにいたします。 小さな少年が、サーカス団が村にやって来るという噂を聞いた。 村にサーカス団のポスターがいろいろ出ます。 そんなすごいサーカスが、こんな小さな村にやって来る、というのは初めてのことで、少年は友だちから噂を聞きました。 サーカスには、動物使いがいるそうだ。サーカスには、曲芸師がすごいことをやるそうだ。空中ブランコもある。
彼は家に帰るなり、お父さんに言いました。 「父ちゃん、サーカスに行ってもいい?」「行ってもいい?」 父ちゃんが言いました。「だめだ。そんなお金はうちにはない」 もう取りつく島もありませんでした。
でも少年はあきらめません。 「何でもやるから、お父さん、お願いだから入場料、ぼくに頂戴!」 「いったいいくらなんだ?」 「2千円」 「わかった。じゃ毎日お父さんの畑の仕事を手伝いなさい。学校から帰って来て、学校に行く前、毎日手伝いなさい。それで行って来なさい」 彼は毎日頑張りました。そしてとうとう、次の土曜日に、彼は二千円を手にしてサーカスに行きました。
目にしたのは、町を練り歩くパレードです。 勇壮な虎が檻に入って、吠えたけりながら、町の道路を車に乗せられて通り過ぎて行きました。その上に猛獣使いがいました。 玉乗りの曲芸師が大玉に乗りながら道を行きます。 空中ブランコの女性がコスチュームを着て、歩いて行きました。 少年は興奮しました。びっくりしました。
最後に来たのがピエロです。 ピエロは球を4つも5つもジャグリングしながら、歩いて行きました。 そして少年は、その興奮で、最後にやって来たピエロに走り寄って、手を差し出しました。 ピエロはジャグリングの手を止めて、少年の手を見ました。 そこには二千円、握られていました。 少年は大きな声で「ありがとうございました!」と言うと、ピエロに二千円を渡して、走り去って行きました(笑)。
少年はこのパレードがサーカスだと思った(笑)。 パレードそのものも見事でした。 でもこのパレードについてサーカスに入って行くという、その思いも解らず、パレードだけに満足して帰って行ったというのは、実に残念であります。
私たちはイエス・キリストのやさしい出会いに会いながら、イエス・キリストを私たちの事情に合わせて、私たちの信仰レベルに合わせて、(それでも主は)様々な形で身を低くして私たちと出会ってくださる。 でもイエスについて行く時に、やがて私たちは自分のいのちをこの人の手に預けるような、大きな挑戦に遭うんですよ。 その挑戦に躊躇する私たちの所に、エリヤがやって来て言います。 「あのツァレファテのやもめを見なさい。 神さまは私を烏で養い、ツァレファテのやもめの家が、雨が降るその日まで、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったように、私たちを養ってくださる――そのことを決して忘れないでほしい。 そしてもしあなたがその一線を越えて、神を第一にする時に、神は必ずあなたを第一にしてくださる。それをもってして、あなたは信仰者と呼べる――そのことを忘れるな」 とエリヤは言うに違いないと思います。
☆お祈り――藤本牧師
イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」 (T列王17:14)
一握りの粉とほんの少しの油でパンを焼いて、やもめはエリヤの所に、神の所に持って来ました。その日を境に、彼女と息子家族も長い間食糧が尽きることはありませんでした。 エリヤの預言者としての働きの一番初めに、どのようにして神に養われ、どのような信仰をもって、神を信ずるかということが記されているこの事実を感謝いたします。
私たちの日常の中でも、様々なことがございますけれども、私たちも信仰を学びたく思います。教会に来た、あるいはイエス・キリストを知った、洗礼を受けたその入り口は小さなものであったかも知れません。しかし私たちの日常生活の中で起こる様々な厄介な出来事の中で、あなたを尊ぶ時、あなたは私たちを尊んでくださる、ということを実際に味わうことができるように。
サーカスのパレードを見るのでなく、実際に天幕の中に入って、その大胆な喜びを味わうことができるように、聖書の中に神の恵みによって養われた人々の話が山ほど出て来ます。 ●目の前の紅海が二つに分けられて、その真ん中を歩いて行った民、(***出エジプト14章) ●十字架によって息を引き取られたイエス・キリストが、三日の後によみがえられて、そして人々の中に現れたそのお姿、 主よ、どうか、私たちにも、そのような栄光を見せてください。 しかしそのためには、大胆な信仰をもって、あなたを第一とすることはいったいどのようなことなのだろうかと考え、信じ、実行する勇気を私たちにお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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