☆聖書箇所 T列王記17:17〜24
17これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。 18彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」 19彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。 20彼は【主】に祈って言った。「私の神、【主】よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」 21そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、【主】に祈って言った。「私の神、【主】よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」 22【主】はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。 23そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」 24その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある【主】のことばが真実であることを知りました。」
☆説教 エリヤ(3)神を見失いかける
さて、列王記第一の17章、二週間前に見ていただきました17節に、「これらのことがあって後」というのがあります。 「これらのことがあって後」っていうのは、イスラエルに飢饉が訪れ、そしてエリヤはツァレファテという地のやもめのもとに身を寄せます。 (エリヤが)そのやもめに初めて出会っている場面があるんですけれども、それがツァレファテの「町の門に着くと」と10節に書いてあります。
10……ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持ってきて、私に飲ませてください。」
(彼女が水を)取りに行こうとしますと、(エリヤは)声をかけて思わず11節に――
11……「一口のパンも持って来てください。」
すると(12節で)、彼女は、「いや、我が家には一握りの粉と、ほんの少しの油があるだけで、今ここで二、三本のたきぎを集めて帰って、ま、小さな小さなパンを焼いて、それを食べて死のうとしていた」
そういう貧しい、そして飢饉の被害にもろに遭っている女性に対して、13節でエリヤは、ま、一つの挑戦を与えます。 「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったように、パンを焼きなさい。しかし、それをまず神さまの所に持って来なさい」
そのようにして、神さまを信頼するなら、これから先、14節――
14……『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
で、15節に(彼女は)「エリヤのことばのとおりにした。」 そして、長い間、そのとおりになったという、主に身を預け、主を第一とする者を主もまた第一としてくださるという、この奇跡の言葉が記されています。
ところが17節に、「これらがあって後に」と始まります。 聖書には、「これらがあって後」という言葉が何回か出て来ます。 それはある意味、次の話を切り出す時に頻繁に用いられる表現なんですけれども、ま、奇しくも、まさにこれが私たちの日常そのものです。 良いこともあれば、悪いこともあります。予想外に主が助けてくださった日もあれば、予想外に主を遠く感じる日もあります。
それは詩篇150篇全篇を見ますと非常に良くわかりますね。例えば――
<詩篇40:5> わが神、【主】よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計らいは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。……
と歓喜の内に主がなさってくださったことに感謝を捧げている40篇の5節もあれば、
<同44:23〜24> 23起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。…… 24なぜ御顔をお隠しになるのですか。……
と私たちが私たちが置かれる事態が変化していく場合もあります。これは詩篇の44篇の23〜24節ですね。
「私の仕える【主】は生きておられる」ということを学んだエリヤは、自分の信仰をこのやもめに伝えました。 飢饉で食料が貧しくなり、家にはわずかの粉と油しかなかった母親。 そしてそのわずかな食糧ではもうどうしようもないという時に、 「もう自害してしまおう。その前に、最後の食事を作って息子と死のう」 と思っていた母親に、エリヤは言いました。 「大丈夫、大丈夫。神さまは助けてくださる。 でもまず、神さまへの信仰を第一とすることを私はあなたに教えたい。 だから先ず、その粉と油でパンを作って、私のところに持って来てください。 もしあなたが神を尊ぶなら、神もあなたを尊んでくださる。あなたの家の粉は尽きない。つぼの油もなくならない」
1)ところが、一転して状況が変わります。
17節をちょっと丁寧に見てみたいと思います。
17……この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
という一文ですけれども、「病気になった」それから「病気が重くなった」、そして「ついに息を引き取った」という言葉で、経過がわかります。
しばらくの時間がかかったに違いありません。しかしその経過と共に、死の陰がじわじわと近寄って来る中、このやもめは非常に心を痛めた。 母親の頭は混乱していきました。 「いったいどういうことなのだろうか?」と。 つまり、かめの粉は今日も尽きず、つぼの油は今日もなくならないのに、愛するわが子は虫の息だ。やがて、死んでしまう。 愛する子どもの苦しいうめきを聞きながら、看病に疲れた母親は追い詰められていきました。 そして一旦与えられた信仰は、もと来た道へと戻りつつあります。
以前、この女性の思いは、神を<さばきの神>と見ていたに違いありません。 というのは、そもそもエリヤが出現するまでは、イスラエルこの地域は繁栄していました。 そしてエリヤがアハブ、イゼベルの罪を指摘して、イスラエルの民の信仰が落ちてしまったことを嘆いたその日以来、雨は一滴も降らず、その騒ぎがこの地域に及んだというのであれば、 この大干ばつという事態にあって、恐らくこの女性の神さまに対するイメージというのは、<恐ろしい神>と思っていたに違いないです。
それがあの日、エリヤに出会って変わりました。 神さまはどん底のやもめを憐れみ、その家庭を豊かに祝福してくださいました。 ところが、この祝福に溢れていた家庭にしばらくして試練が訪れ、 そして死んでしまって冷たくなった息子を懐に抱えた母親はエリヤに涙の抗議をします。
18彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
子どもに何かあれば母親は自分を責めると思います。それが母親というものだと思いますが、 「私のせいなのですか?結局、神さまは私に裁きを下すために、わざわざあなたをよこされたんですね?」 と、その結論へと母親は逆戻りしていきました。
今日は4つポイントを見ていただきたいと思いますが、二番目に――
2)ここで、エリヤの行動を、ちょっと簡単にかいつまんで見てみたいと思います。
19彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。
そして祈りますね。母親に代わって祈ります。
20……「私の神、【主】よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
エリヤは責任を感じて祈っています。母親の代わりに祈っています。そして21節――
21そして、彼は三度、そのこの上に身を伏せて、【主】に祈って言った。「私の神、【主】よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
特徴的なことに目を留めたいと思います。まず第一番目に――
●エリヤはこの子を受け取り、この子を抱え、自分の部屋に運び、この子の上に自分の身を伏せています。
私たちは「祈ってください」と言われた時に、その祈りの課題を受け取り、その祈りの課題を抱えて、自分の部屋に運び、その問題に自分の身を伏せて、果たして祈るだろうか?と思います。 私たちは私たち自身の祈りの課題がありますし、私たちの人生は自分のことで精一杯ですね。 ですから、色んな人から色んな祈りの願いを受け取り、受け取りはしますけれども、恐らくその時は心に留めますけれども、それを自分の部屋に抱えて、その問題の上に身を伏せて祈れるだろうか?と思います でも、私たちの心の中には――このようにして祈れる者になりたい――つまり他人事ではなく、その問題を受け取り、抱えて、自分を重ねて祈れたらと思います。
かつてモーセは民の罪のためにとりなしをした時に、神に申し上げました。(***出エジプト32:32) 「もし、民の罪を赦してください。その赦しが叶わないならば、私のいのちを取ってください。どうか、民を滅ぼす代わりに、私のいのちを滅ぼしてください」 モーセもそのように祈っています。 私たちも自分のこととして、兄弟姉妹の、家族の、友人の、この世界の事を祈れたら、 私たちはエリヤです。私たちはモーセです。
それからもう一つ(エリヤの行動で特徴的なことに)目を留めていただきたいのは――
●エリヤの祈りは二回とも同じように始まります。
20節に「私の神、【主】よ」。 それからもう一回、21節に「私の神、【主】よ。どうか、この子のうちに、この子のいのちを返してください」と。
エリヤの一番最初の宣言というのは、17章の1節に書いてありますね。 「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる」 これがエリヤの第一声です。 これがエリヤのモットーです。エリヤの信仰そのものです。 「私の仕えるイスラエルの神、【主】は生きておられる」
エリヤという人物は、自分の人生の主体に自分がいないんですね。 いつでも彼は、「私の仕える神、【主】よ」――その主に信頼して生きていて、その主のみここころの中を生きていて、そしてその主の御力によって生かされていて――自分が為すこと、自分が語ることすべてが、「私の仕える神、主は生きておられる」です。
つまりエリヤは、自分が信じている神さまを明確に捉えています。 自分の信仰が非常に明確で、自分がいったい誰に向かって祈っているのか? この方がどれほど憐れみに富んでいるのか? それから、この方が人の死も人のいのちも握っておられるという事実。いのちの神であるということ。 生ける神はいのちの神であるということをエリヤは固く信じていました。
私たちもそのようにして、主の名を呼ぶ者になりたいですね。 「私の神、主よ。あなたは生きておられます」と言って、祈りを始めたいと思うんですが、 なかなかそうはいかないです。
ドイツの第二次世界大戦の中を生き抜いた、ヘルムート・ティリケという有名な神学者がいますが、彼は戦争体験から面白いことを語っています。 夜中、空襲のサイレンが鳴りますと、ドイツの町の人々が一斉に防空壕に逃げ込むのです。 真っ暗の洞窟の中で、じ〜っと身を潜めていますと、だんだんその身を潜めている人々の中から、つぶやくような祈りの声が至る所から聞こえて来る。 至る所から、ドイツですから、クリスチャンの声でしょう。 「神よ。助けてください。神よ。お守りください」 というその声が、真っ暗な洞窟の中で至る所で聞こえてくる。
ところが、空爆の音が地響きを立てて、どんどん近づいて来る。 どんどん近づいて来ると、祈っている人の心は、だんだん空から落ちて来る爆弾一つ一つへと、地面を叩く爆撃の音へと集中してしまう。 それが自分自身の体験であったと。 つまり、「神さま、どうか助けてください」という祈りをするんですけれども、 自分の心は、すべてを支配しておられる神から、自分の所に近づきつつあるその空爆の音へと、どんどん心が集中していく。 そしていつの間にか、祈りが消えていくと言うんですね。
私(藤本牧師)は思うに、このやもめは息子が病気になった時にエリヤに言わなかったのか? それとも、エリヤは出かけていなかったのか?よくわかりません、事情は。 恐らく彼女はこういう奇跡を体験したわけですから、最初は一生懸命自分で祈ったんだと思います。自分で祈ったはずです。 でも、その息子の状況が徐々に悪化していく。悪化していくと 「いったい神はおられるんだろうか?」確かにおられる。 「では、その神は私を憐れんでくださるのか?」いや、もしかしたら、憐れんでくださらないかもしれない。 なぜなら、私はこんなに罪深い人間だから――と(「神を見失いかける」と)いう所に戻って行くのです。
私たちも同じです。 私たちはこのやもめと何ら変わりはないですね。 だから私たちは、ある問題を抱えますと、自分の内側だけでは抱え切れずに、教会の誰かに「私のために祈ってください」という風に言うんです。 どういうことかと言うと、私たちはエリヤを捜しているんですよ。エリヤを捜している。自分自身では荷い切れないこの重荷を、私から受け取って、抱えて、自分の部屋に行き、身を伏せるように、私の代わりに祈ってくれる人が、私の回りにきっといるに違いない。 この高津教会には、いるに違いないということを信じて、私たちはエリヤを捜すんですね。
K姉が入院された時に、ま、病状もあったんですけれども、実に多くの教会員がK姉をお訪ねになりました。 良かったなぁと思います。私たち夫婦が行き、次に婦人会を代表してWM姉が行き、それから教会員の方々が行ってくださり、戸塚先生が行ってくださり、昨日竹内神学生がK姉の様子を見に行ってくださいました。 それはみんながK姉に祈られたという体験を持っている人が、姉妹のお見舞いに行ったんですね。 あ、なるほどなぁと思いました。なるほどなぁと。
私(藤本牧師)は別に姉妹の信仰を特別に申し上げるつもりはないですが、良く祈られる姉です。 あまりにも祈りが長いので、K姉に「すみません。礼拝の祈り、もうちょっと短くしてもらえませんでしょうか?」(大笑)とお願いしたこともありました。 一時、私(藤本牧師)は思わず時計を見て計っていたんですけれど(大笑)、7分を越えた日がありまして、それはさすがに長いかなぁと思いましたが、 どうして長くなるかと言いますと、姉妹の頭の中には個別事項が入っているんですね。 大らかに全体を包むような祈りはしない。全部一本一本行きますので、自然と細かくなる。 そのようにして祈られた体験がある人は、姉妹が病気になったら、じゃ、姉妹の所に日頃の感謝も込めてお見舞いに行こう、姉妹のために祈ろう、となりますよね。
すると、私たちの教会には実はエリヤは沢山いるんです。沢山いる。 私たちは割と自分のことを自分の内側に秘めますので、なかなかエリヤを捜そうと思っても捜さない。 でも実はエリヤは沢山いる。 ですから何かありましたら、皆さん、牧師にだけ言うというのでなく、自分の近い所にいる方に色んなことをお話しになりますと、その方は受け取り、抱えて上がり、自分の寝台の上に載せ、その問題のために自分の身を伏せるように祈ってくださる。 私たちは、そのように祈りたいと切に願います。
それだけでなく、他人事であるから一層、空爆の音ではなく、全知全能なる神の力を見つめ続けることができる。 私たちは現実に直面すればするほど、その現実の課題の重さを抱えれば抱えるほど、祈ることは難しくなります。 人間っていうのは、私(藤本牧師)はそういう風にできていると思います。 そういう時に、子どもが親に、ご主人が奥さまに、奥さまがご主人に、どうか自分のために祈ってほしいという風に話をするんです。 「祈ってくれ」と言わなくても、日頃教会に来ていない子どもがいきなり自分の抱えている問題を親に言ったとしたならば、それは「祈ってくれ」という意味です。 (親に)言ったからと言って、親が助けてくれるわけではない。でも親が信じている神さまは、自分の親の祈りを聞いて、きっと助けてくれるに違いない。
そしてもしかしたら問題の詳細は聞かない方がいいのかもしれない。 問題の詳細を聞けば聞くほど、その詳細に気を取られて、神に一心に祈るということを忘れてしまいます。忘れてしまいますよ。
私(藤本牧師)、以前に話したことがあると思いますが、今は元気なSM姉が、わけのわからない病気で三分に一回、15秒痙攣するというその病気で倒れた時に、千葉のどこかの病院に入院されて、私たちは電車でお見舞いに行きました。
個室なんですけれど、ドアを開けた途端ですね、その人工呼吸器に繋がれて、目を閉じることができませんので、目が乾かないようにゴーグルをしている姉妹を見て、私(藤本牧師)は圭子(夫人)に声をかけて、「ちょっと一旦、出よう」と一旦部屋から出ようと。 部屋から出て、気持ちを取り直して祈りに行くっていう姿勢にならないと、駅から階段を上がって来て、病院に入って、ふっと入って姉妹のために祈るなんてことは到底できない程、ひどい状況でしたね。 私たちはお母さんに、「こんなに激しく痙攣して、脳に不可逆的なダメージが加わってしまうわけですから、もういっそ全身麻酔してもらって、寝させてもらった方がいいんじゃないですか?」って言いましたら、お母さんが、 「いえ、もう既に全身麻酔しています」と。
それを姉妹は三か月以上ですよね。で、不可逆的なダメージが残りました。 でも神さまは憐れんでくださり、一生懸命リハビリしていく姉妹。 今は結婚して、そして様々な不自由を抱えておられますけれども、元気で過ごしていらっしゃいます。 祈り手は、現実に直面しますとひるみますよ。
エリヤは「どうして、この子はこんな風になったんですか?」とか「どうして、お母さんは手の施しようがなかったんですか?」とか「いろいろしなかったんですか?」とか聞かなかったに違いない。 ま、聞いても遅いですよね、もう息を引き取っていますから。 でもエリヤは、逆に聞かないがゆえに、この問題に集中できたというのは、恐らく、私たちの教会も同じで、 「礼拝でなかなか祈ることができなくても、祈祷会で祈ってもよろしいでしょうか?」と聞いて、「ええ、ぜひ祈祷会で祈ってください」と言われた時に、 私(藤本牧師)は祈祷会の皆さんに詳しい事情は申し上げない。 「ものすごく難しい問題です」で、聞いた方は「ものすごく難しい問題だそうですけれども(笑)、神さま、どうにかして上げてください」だけ。 みんなでお祈りします。 それはそれでいいんです。問題を聞いたがゆえに、それを詳細に祈るという立場に私たちはいない。 なぜかというと、詳細に知ったところで、私たちの力ではどうにもならないわけですから。 お医者さんであるならば、詳細に事情をお知らせください。
でも私たちが祈っているのは、すべてを知っておられる生ける神です。 この方はすべてを知っておられる。そしてこの方は、私たちが熱心に祈ることを求めておられるわけですね。 この記事を読むたびに、祈ることを知っている私たちにとっては大きな挑戦です。 私たちはこういう風に受け取っているんだろうか? 私たちはこのように明確に、祈る時に神さまを意識しているんだろうか?
で、彼の祈りは実に単純です。 「この子のいのちをこの子に返してください」 「三回、その子の身の上に身を伏せた」(21節)って書いてありますので、もしかしたら三回同じ祈りを繰り返したのかもしれません。 願っていることはただ一つですね。
さて、この子は癒されます。癒されて、息子を失った母親は――
3)神を見失いかけた者がもう一度引き戻されます。
どんなに使ってもなくならないかめの粉、つぼの油を見て、彼女は神さまの力を実感しました。 しかし今、ここで、いのちを失ってしまった自分の息子を見て、神の力も、神の愛も、神の存在さえも見失いかけていくというのは当然のことなのですが、 エリヤの助けを通して、彼女はもう一度、神さまを実感いたします。
私たちは何度か、これを行きつ戻りつ三歩前進二歩後退、しかしまた三歩前進二歩後退で、私たちの信仰というのは鍛えられて行くんですよ。 鍛えられて行くんです。
その度に、皆さん、自分の人生を思い起こされたらいいです。 エリヤが現れる。神さまはエリヤを送ってくださる。 そして自分の信仰の力ではない。 神さまの送ってくださったエリヤなる人物のその祈りによって、自分の信仰は引き戻される。 私の仕えている主は生きておられる。そして生きておられる神が、私たちに力を示してくださる。 私に代わって祈ってくださる――そういう方によって、私の信仰はもう一度もとに戻って行くんです。
4)24節、これで最後ですので、よく見ていただきたいと思います。
4番目をご一緒に読みたいと思います。(T列王記17:24)
24その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある【主】のことばが真実であることを知りました。」
最終的にこの女性が経験したことは、「あなたの口にある、主のことばが真実である」ことを知った。「主のことばが真実である」ことを知った。 もちろんその前に、私はあなたが「神の人」であることもわかった。 いいですか。端的に言えば、それはそうだと思いますよ。 こういう奇跡が聖書の中に出て来るとすれば、エリヤ、その後継者エリシャ、それからイエス・キリスト、それ以外ないです。それ以外ないです。 ですから、このエリヤというのが預言者の中の預言者で、最も力強い預言者であったということがよくわかります。 ですから、彼こそは神の人です。
でももう一つ見ていただきたいんですね。 新約聖書で、エリヤと呼ばれた人物がいます。 ヨハネの福音書の10章を見ていただきたいと思うんですが―― 新約聖書、ヨハネの福音書の10章の41節。いいですか、ご一緒に読みたいと思います。
<ヨハネ10:41> 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。
これは似ているんですね。この彼というのは、バプテスマのヨハネのことです。 バプテスマのヨハネ――多くの人々が彼についてこう言った――「何一つ行わなかったけれども」というのは、エリヤと比較しているんですよ。 バプテスマのヨハネはエリヤだと言われた。でもエリヤのようには奇跡は行わなかった。 つまり、あのツァレファテのやもめが体験したことというのは奇跡であって、この方はまことに「神の人」であるということがわかって、最終的には「この方の口にある神のことばは真実である」ということがわかった。
バプテスマのヨハネの場合は奇跡もないんです。 でも、バプテスマのヨハネは「神の人」であり、バプテスマのヨハネの口にある「この主のことばは真実である」ということはわかったんです。 私たちはもちろん、こういう事態にあって、結果が伴えば伴う程いいと思います。 でも結果が伴ったから、エリヤはエリヤとなったわけではない。 これはバプテスマのヨハネを見たらよくわかります。
神の人の真実さというのは、祈るよう依頼されたら、それを受け取り、ふところに抱えて、自分の家に持ち帰り、その上に自分が身を伏せるように、熱心にその人のために祈ること。 そしてその人は自分にはないような信仰を持っていて、あるいは自分の問題とはちょっとかけ離れた次元で、角度から、自分のために熱心に祈ってくれる。 お父さんは、所詮僕の仕事のことは、僕の会社のことはわからないから、ま、いいよと、 できたらこどもには、言ってほしくないですね。 それは本当のことなんです。息子の職場のことなんかさっぱりわからないですね。さっぱりわからないですよ。 でもやっぱり家族のために、親はみんな祈りたいです。
教会員の置かれているそれぞれの様々な事情というのは、同じようにさっぱりわからない。 詳しく教えていただいたからと言って、それで私(藤本牧師)の祈りが変わるわけではない。 でも祈ってくださいと言われたら、一生懸命気にする。何度も気にする。一日の中で何度も気にし、そして私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださった、主イエス・キリストの御名によって祈る。 この方はすべてのことを覆し、死をいのちに変え、復活の力をもって、栄光を現してくださる。 この方は、死を通してでも――ペテロに仰いましたように(***マタイ16:21)――死を通してでもご自身の栄光を現してくださる。そういう方に、私たちは祈る。そして私たちの口にある「主のことばは真実である」。
私たちのことばが真実なんじゃない。私たちが心の中に秘めている、そして時に私たちが口にする「主のことばが真実である」ということを何とか周囲の者たちにも伝えたいという思いが、私たちの中にある。 だから私たちはエリヤになれる。ならなければいけない――という風に思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたはエリヤのように祈っているのか?と言われたら、本当に乏しいことを感じます。私たちの祈りに力があるのか?それも乏しく感じます。
しかし、たとえそうだったとしても、私たちは一心にあなたを見つめ、自分が受け取った祈りの課題に身を伏せるように祈りたいと願っている者です(アーメン)。 その願いを実現する力を、主よ、どうか私たちにお与えください(アーメン)。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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