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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/27 戸塚雅昭伝道師:岸辺のカウンセラー ヨハネ21:1〜15
☆聖書箇所   ヨハネ21:1〜15

1この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子たちがいっしょにいた。
3シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6イエスは彼らに言われた。「船の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも、「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
 15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

☆戸塚伝道師の説教    岸辺のカウンセラー

この朝、H兄に朗読していただきましたヨハネの福音書21章の1節から15節、ここに心を留めてまいりたいと思います。

ヨハネの福音書21章――これはヨハネの福音書が書き終わってから後、付け足されたものである、と聞いたことがあります。
その理由は20章の30節と31節にあるんですね。30節と31節をご覧いただきますとこう書いてあります。

30この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

――<終わり>――
ここで一つ締めくくりの文章表現がなされていますね。
ヨハネはここで一旦終わるつもりだった。
だけれど、付け足す必要があったからこそ、この後21章を書いたんだと思いますね。
なぜ付け足す必要があったんだろうか?
何回も読んでいる内に、ペテロを弁護するために書いたのではないかと思われるようになってきました。
ヨハネはペテロのことをイエスさまを裏切ったままの状態にはしたくなかったのではないだろうか?
ということは、この21章というのはペテロのために書かれた文章、と言っても間違いではないのではないかと私(戸塚伝道師)は思うんです。
21章の1節――

1この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

この後、テベリヤの湖畔――テベリヤというのは、ガリラヤ湖のことですけれども、ガリラヤ湖の湖畔で、ガリラヤ湖の岸辺で。
舞台は十字架、復活のエルサレムからガリラヤ湖に移っております。
今日は、このみことばから3つの場面で、「岸辺のカウンセラー」と題して恵みを分かち合いたいと思います。
先ず一つ目の場面――

1)再び漁に出たペテロの心理を推察してみたいと思います。

2節と3節ご覧ください。

2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

ペテロはなぜ漁に出かけたのでしょうか?
イエスさまから「あなたは人間を取る漁師になる」と言われ、漁師という仕事、これをイエスさまにお捧げして、舟も網も捨ててイエスさまに従ったペテロでした。
ところが捧げたものを再び取り返して、元の仕事をしようと思った。
なぜ元の仕事を――漁に行こう――とペテロはそう思ったのでしょうか?何がそうさせたのでしょうか?

元の仕事に戻りたい――なんとなくわかる気がします。
私が二年前献身をした後、あまりにも激しい環境の変化について行けず、
「教師の仕事に戻りたい。教師の仕事に戻りたい。こんな早く献身するんじゃなかった。もうちょっと待っていればよかった」(笑)
そういう思いに駆られて駆られて辛い時代、時がありました。
藤が丘から聖宣神学院まで、健康のために20分かけて歩いて通学していましたけれども、途中に藤が丘小学校という小学校があるんですけれども、
藤が丘小学校の校舎のすぐわきに道がありまして、教室が見えるんですね。
大体見える高さにあるのが、一年生と二年生の教室。
ちょっと上に三年、四年。一番上の四階が五年、六年の教室です。

朝、ちょうどそこを通過するのが9時頃、朝の会が始まっている頃です。
先生たちの様子をず〜っとしばらく佇んで見ていました。
あ、出席取っている。日直が前に立ってスピーチしている。ああ、あそこに戻りたい。戻りたい。
あんまりず〜っと立っていると、目が合って、不審者だと思われる(大笑)。
教室で「また、あの人来てるよ」「またあの人、立ってるよ」なんて言われているかもしれません。
でもしばらくそういう日々が続きました。

眠れない日が続いて、心療内科に行きました。「適応障害」、薬をもらいました。
「治りたいですか?」ってお医者さんが言われて、「治りたいです」
「じゃその答えを言います。神学校を辞めることです(大笑)。だって身体と心が反応しているじゃないですか。辞めれば済むんですよ。」
「あ、そうですか〜」
子どもたちから、もう二度と先生と呼ばれない辛さ。
喪失感――これが戻りたい原因でした。

じゃペテロの場合はいったい何が戻りたいという思いにさせたんでしょうか?
私は罪責感ではないかと思うんですね。
「イエスさまのことを私は裏切ってしまった。もう弟子と呼ばれる資格はない」という強い強い罪責感。
「もう弟子なんか辞める。漁師に戻る」そういう思いで「私は漁に行く」そう言ったんではないかと思うんです。
強い強い罪責感はなかなかなくならなかった。

復活の朝、ペテロはマグダラのマリヤから、「誰かが墓から主を取って行きました」(***ヨハネ20:2)と聞いて、恐らくヨハネと一緒に墓に行って確かめました。
そしてイエスさまが身につけておられた亜麻布と頭の布切れが置かれたままなのを見て、イエスさまが復活されたことをペテロは信じました(***同20:8)。
そしてその日の夜も、また八日目の夜も、復活されたイエスさまが来られて、イエスさまと会って、他の弟子たちと共に喜びました(***同20:19、26)。
そんなペテロでしたけれども、罪責感は消えなかった。

イエスさまとはゲッセマネの夜から一言も口を利いてなかったのです。
イエスさまがペテロに最後に話をされたのは、
「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(***ヨハネ18:11)――この言葉だったんです。
それ以来、口を利いていない。イエスさまとは口を利いていない。
ペテロは思ったでしょうね。
「私はあんなに強がりを言っていたのに、イエスさまの予告通り、三度も『イエスさまなんて知らない。記憶にございません』と言ってしまった。裏切ってしまった」
罪責感は増すばかりです。

私(戸塚伝道師)の喪失感の時も同じなんですけれども、祈ればどうにかなるような問題じゃないんですよ。
信仰をしっかり持てば何とかなる問題じゃないんですよ。
喪失感も罪責感も、もうほんとに辛いんです。苦しいんです。
ペテロは、もうむしゃくしゃしているような、どうすることもできない気持ちを、何とか抑えつけるかのような思いで、ペテロはガリラヤ湖に行って漁に出たんですね(***ヨハネ21:3)
「もう弟子なんて呼ばれたくない。もう漁師に戻ろう」
裏切りの地、エルサレムから離れたくて、ガリラヤ湖まで来て、そしてペテロと共に仲間を呼んで、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち――これはヤコブとヨハネだと思われます――そしてプラス2名の計6名で舟に乗り込みました。小舟に乗り込んだ。
でもその夜、何もとれなかった。

4夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立たれた。(***いい言葉ですね、と言って二度繰り返す)けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」とイエスさまは質問した。
「はい。ありません」
「では、舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」(***同21:6)
そうしたらば、大漁の魚がとれた。
このシーン、どこかで体験したことがある。ルカの5章のシーンだ。
ピーンとヨハネは来て、そしてペテロに言いました。「主です!」(***同21:7)
そして、ペテロは見知らぬその男の人がイエスさまだと気がついて、ここからペテロとイエスさまとの関わりが再スタートするわけです。

二つ目の場面は――

2)罪責感にさいなまれるペテロの心の傷を癒されるカウンセラーとしてのイエスさまの手法を追って行くことにしたいと思います。

イエスさまのこの手法、これはストレートなアドバイスではありませんでした。
さりげない間接的な手法でした。でもカウンセリング・マインドに貫かれた、そういう手法でした。
イエスさまがカウンセラーだと言いますと、何か安っぽい、「救い主であられるお方がカウンセラー?そんなのないよ」というイメージで捉えがちですけれども、
でも旧約聖書のイザヤ書の9章の6節にこういうイエスさまについての預言が書かれているんですね。

<イザヤ書9:6>
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は、「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

この中の「不思議な助言者」――英語でWonderful Counselorと訳されている聖書があります。
「不思議な助言者」――Wonderful Counselor――ということはイエスさまはカウンセラーだと言っても間違いではない。
Wonderful Counselor、このペテロの心の傷を癒されるイエスさまの手法、そのキーワード、三つあると思うんです。

@一つ目のキーワード、それは《裸》というキーワードです。7節ご覧ください。

7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

なぜペテロは上着を着て、湖に飛び込んだのでしょうか?
恥ずかしかったから?イエスさまに見られたくなかった?
つまりこの《裸だった》というのは、上半身だけではなかったということです。
でもペテロはどうしてそんな恰好でいたんだろうか?舟の上に。
当時の漁師の姿なんだろうか?それとも着替え中だったんだろうか?じゃなぜ下着を先にはかなかったのか(笑)、上着をまとったのか?謎だらけですけれども、
それ以上に恥ずかしかったのが、ペテロの《隠しようもない自分の罪深さ》でした。

この大漁の出来事はルカの5章に似ているとありましたけれども、ルカの5章の8節に――

8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。

この後(***ルカ5:10)、イエスさまから召命の言葉をかけられるわけなんですけれども、「私は罪深い人間だった」ということを初めに実感したのが、ルカの福音書5章の大漁の体験でした。
その大漁の体験が再びよみがえった形、さらに強い罪責感、それがよみがえった形がこの箇所(***ヨハネ21:6)にあるわけです。
「自分は裸だった。裸だ。隠しようがない、イエスさまを裏切ってしまったというこの思いは隠しようがない」
更に、自分の裸をイエスさまに見られたペテロ、隠しようのない罪や、みじめさや、弱さや、辱めや、無力さなんですけれども、
その時ペテロの心によみがえったのは、十字架の上のイエスさまではなかったか?と思います。

実はイエスさまも、ペテロと同じ裸だった。
十字架刑というのは、ペテロと同じ裸の状態で刑を受ける刑だと言われています。
ここに十字架が掲げられています(講壇後ろの十字架を腕で示して)けれども、きれいですね。
十字架というシンボル、ネックレスになるくらい、そういう素敵なデザインなんですけれども、
カトリック教会に行きますと、この十字架の上に磔にされたイエスさまの像が刻まれたものがついています。
でも、腰には布がちゃんとついているんですね。 
多くの絵画を見ますと、イエスさまは腰に布が巻かれている、そういうものばかりなんですけれども、本当の十字架刑はペテロと同じ《裸》。

恐らく、私たちは本当の本物の十字架というのは、イエスさまの十字架を直視することはできないのではないかと思います。
それぐらい残酷で、みじめで、辱めを受けたイエスさまの姿。
ペテロは、その十字架上のイエスさまの姿を自分の姿と重ね合わせて、
「この自分と同じ辱めを、イエスさまは先に負ってくださった」
ということを、その時思ったのかもしれません。あるいは後で実感したのかもしれません。

人間をとる漁師から、魚をとる漁師に逆戻りせざるを得なかった、このようなペテロの状態――《裸》の状態でした。

8節〜10節ご覧いただきたいと思います。

8しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

8節〜10節は、ペテロ以外5名のほかの弟子たちの行動が書かれています。
じゃ、ペテロはその後、湖の中に飛び込んだ後、いったいどうしていたのか?11節――

11シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

Aここに二つ目のキーワードがあります。《百五十三匹》というキーワードです。

《153匹》――このように魚の数が記録されているということは、誰かが数えた。
誰かが数えたから、153匹という記録が残っている。
ま、正確には153匹プラス、「幾匹か持って来なさい」の幾匹かと、それからイエスさまが先に焼いてくださった魚を合わせたものだと思うんですけれども、
でも、ま、ペテロが網の中にあったのは153匹です。
恐らく私(戸塚伝道師)はペテロが数えたのではないだろうか?
ペテロが魚の数を数えて、その後、網を陸地に引き上げたと思われます。

じゃ、ペテロはなぜとれた魚の数を数えたんでしょうか?
ほかの弟子たちは陸地に上がっていた。魚をイエスさまの所に持って行ったんでしょう。
弟子たちはイエスさまと一緒に魚を焼いていた。
でもその間、ペテロはず〜っと魚の数を数えていた。
数えなくてもいいんですよ。でも数えていた。
恐らくイエスさまの所に行きたくなかったんじゃないかと思う。
合わせる顔がない。時間つぶしにやっていた。身の置き所がなくて、153匹。
以前はルカの5章の6節には、「網は破れそう」と書いてあったんですけれども、今回(ヨハネ21章)11節には「網は破れなかった」と書いてあります。

ペテロが魚を数えながら思い巡らしていた事――それはイエスさまの弟子の資格なんかないと思って、漁師という元の生活に戻ろうとしていた自分、ほかの5人を道連れにして。
そんなペテロに「食べ物がないよね?舟の右側にあるよ」と教えてくださったイエスさま。
漁師に戻ろうとしていたのに、それを助けるかのように、とれる場所を教えてくださったイエスさま。
この一匹一匹がイエスさまの恵みなんだ――ペテロはそんな気持ちで数えていたのかもしれない。
“♪数えてみよ主の恵み”とありますけれど、
(***イ538 望みもきえゆくまでに 福413 望みも消えゆくまでに 繰り返し部分の最後)
時間潰しに数えていたのかもしれませんけれども、それと同時に、ペテロの心にジ〜ンと伝わって来るイエスさまの思いがあったんだと思いますね。
この一匹一匹はイエスさまがくださった恵み。数えたい。数えたい。

B三つ目のキーワードに行きたいと思います。――《炭火》

11節に、ペテロは遅ればせながら、網を引き揚げて陸地へ行きました。
その時、ペテロは岸辺にあったあるものを目にして、ぎょっとして心が凍りつきました。
ペテロの目が釘付けになったのは、イエスさまが焼いてくださったパンや魚ではありませんでした。
その下に赤々と燃えていた《炭火》でした。
三つ目のキーワードは、《炭火》です。

ペテロは《炭火》を見て、フラッシュバックしました。
痛みを伴う過去の記憶がよみがえりました。
その過去の記憶とはいったい何でしょうか?
ヨハネの福音書の18章。これはお開きいただきたいと思いますが、ヨハネの福音書18章の15節です。
痛みを伴うペテロの過去の記憶がここに書かれています。

<ヨハネ18:15〜18、25>
 15シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭に入った。
16しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れて入った。
17すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。
18寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。

飛ばして25節――

25一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して「そんな者ではない」と言った。

ここに《炭火》があったんです。ここでペテロは立って暖まっていたんです。
そして三度もイエスさまを、炭火に当たりながら「知らない」と言ったんです。

そして、ヨハネの福音書21章の9節――

9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

イエスさまはペテロのために、《炭火》を用意されました。
ペテロが一番思い出したくない場面、痛みを伴う過去の記憶にイエスさまは敢えて向き合わせたわけですね。
恐らくイエスさまはこんな思いではなかったかと思うのですが――
「ペテロ。あなたはあの日、あの時、あの場所で、《炭火》に当たりながら、わたしを知らないと言ったね。でも今あなたは《炭火》に暖まりながら、その《炭火》で焼いたパンと魚を、わたしと一緒にこれから食べようとしている」

《炭火》という意味の言葉が使われているのは、新約聖書ではこの二箇所だけです。
これが単なる偶然でないのは確かです。
イエスさまは明らかに、故意にこの時、ペテロと語らいの時を持つために場所をセットされ、
ペテロは大祭司の庭で炭火の側に立っていた時、三度主を否んだんですけれども、
それでも、その中庭での炭火の記憶が、恐らくペテロの良心と記憶の中で、火のように燃え上がっていたのは間違いないと思うんですね。
それが消すことのできない罪責感になっていた。

ここで偉大なるカウンセラー、イエスさまは、その大きな心の傷を負った記憶の中の場面に直面するようにペテロを導かれました。
そして、ペテロの痛みと恥をもう一度、この炭火というシンボルで焼いて癒すために、この炭火を用いられたんだと思うんですね。
そしてこの後イエスさまは、ペテロの愛を確かめるように、三度尋ねられる記事がずっと続くわけですね。

ペテロが主を否んだその状況をもう一度生きてご覧――イエスさまはそう求めておられるように思うんです。
この後、ペテロは罪責感を取り除かれて、痛みを伴う記憶を癒されました。
さらにイエスさまは、ペテロをもう一度献身の生涯へと燃え立たせるために、この炭火の前で取り扱われるわけですね、ペテロのことを。
ペテロはその炭火を前にして、様々なことを考えたと思います。
その後、イエスさまは12節「さあ来て、朝の食事をしなさい」こう仰るわけです。
「さあ来て、朝の食事をしなさい」

(※ここで、これまでのまとめをしてくださる戸塚伝道師)
イエスさまはカウンセラー。ペテロの罪責感を癒すイエスさまの手法、その三つのキーワード――
@一つ目、裸。ペテロはイエスさまの前で隠しようもない裸だった。でもイエスさまはそれ以前に十字架の上で裸になられた。
A二つ目、153匹。ペテロは漁師に逆戻りしようとした。でもイエスさまは大漁の恵み、153匹を用意してくださった。
B三つ目、炭火。ペテロは炭火に当たりながら、イエスさまを否定した。でもイエスさまは炭火の前で、炭火焼きの朝の食事でペテロと道連れの5人をもてなしてくださった。

三つすべてが、赦しの宣言のシンボルなんです。
丁寧な心の癒しのプロセスをイエスさまは為された。
それがペテロを罪責感から解放していくことになった。
イエスさまは名カウンセラー。超自然的な奇跡で一瞬のうちに、心を解放されることができるお方なのに、そうされなかった。
丁寧に丁寧に、ペテロと関わられたカウンセラーであったわけですね。

そして三つ目の場面――

3)食事を済ませたときの、イエスさまからの質問です。15節――

15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

これがイエスさまからの質問でした。
「あなたはこの5人以上に、5人がわたしを愛している以上に、わたしを愛しますか?私を大切に思っていますか?」
それを三回も繰り返す。三回も繰り返す。
ペテロの返事、恐らく許されたことを実感したのでしょうか?あるいはまだ曖昧のままの状態だったのでしょうか?
「はい。主よ」と返事をしています。
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
その後、イエスさまは「わたしの小羊を飼いなさい」

二回目も、「はい。主よ」と返事をし、イエスさまは「わたしの羊を牧しなさい」
三回目は、ペテロは「はい。主よ」とは言わなかった。「主よ」だけしか言わなかった。
「あなたはいっさいのことをご存じです」と17節に書いてあります。
「いっさいのことをご存じです。私の罪責感もご存じです。私の心のすべてをご存じです」

イエスさまは、私たち一人ひとりに同じ質問を投げかけられる。
「あなたはわたしを愛しますか?わたしを大切に思っていますか?」
「あなたがご存じです。一切のことをあなたはご存じです。
私の喪失感も、心の傷も、精神的な病理も、うつ的傾向も、深層心理も。
不安や、恐れや、悩みや、嫉妬も。
自分でもわからない自分のことも。
自分には気がつかないのに、他人にはよく見えることも。
自分ではどうにもならない暗やみ部分も、全部ご存じです。イエスさま」

イエスさまは十字架の上で「完了した」と仰いました(***ヨハネ19:30)。
「完了した」(***新改訳)「成し遂げられた」(***新共同訳)文語訳ですと「事終わりぬ」です。
すべての人の救いが、そして私の救いが、癒しがすでに完了した、とイエスさまは仰った。もう何があっても大丈夫ですよと、イエスさまは仰った。
私のことを一切をご存じのイエスさまは、私のカウンセラーであり相談相手なのです。
もっともっとリアルにイエスさまと相談したいと思うんですね。

社会においてカウンセラーという仕事は、引っ張りだこです、今。
学校でも必ずスクールカウンセラーと言うのが一校に一名、最低一名は在籍しているような時代です。
でもプロのカウンセラーであったとしても、相談に来る人の纏まらない、愚痴っぽい、恨みがましい、しっかり受け止めることができないような、そういうようないろんな話をず〜っと聞くことができるような広い心を持っているとは限りません。
優秀なカウンセラーを見つけるのは難しいです。しかも何回も長時間も。お金もかかるし。

でもイエスさまが私のカウンセラーだとするなら、イエスさまに聞いていただくカウンセリングは無料です。交通費もかかりません。 
一年365日24時間開業、一向に進展がなくても、ぐずぐずしていても、付き合ってくださるのがイエスさま。

私たちは、少なくとも私(戸塚伝道師)は、忙しいということもあるんでしょうか、何か神さまというお方をリアルに感じられなくなってしまった(笑)。
信仰が当たり前。お祈りも当たり前。もうすっかり生活に馴染んでしまっている。
神さま?あ、いらっしゃるの当たり前。
でも、神さまのリアリティー、神さまと共に歩んでいるという、そういうリアリティーがもっとほしい気がするんですね。

もし目の前に、皆さんが座っている隣にイエスさまが座っていらっしゃったら、あるいは家のリビングにイエスさまが座っていらっしゃったら、どんな話をするだろうか?どんな相談をするだろうか?
ああ、あのこともこのことも。このことも聞いてみたい。このことも相談に乗ってもらいたい。
ま、しょっちゅうイエスさまが目に見えていたらうっとうしいかも知れませんけれども、申し訳ない、うっとうしいなんて言葉を使って。
でも、イエスさま、ちょっとあっちへ行っていてください。
でも、本当に辛い時、ほんとに辛い時、聞いてもらいたいんですよ。イエスさまに聞いてもらいたい。
それ位リアルにイエスさまを感じたいんです。そのリアルさの中で、イエスさまに色んなことを話したい。
これは幻想でも何でもない。これは気休めでも何でもない。
本当にイエスさまとお話をしている内に、なんか本当にイエスさまが聞いてくださるような気がして来る。
それ位イエスさまと親しい関係をもう一度求めていきたいと、私(戸塚伝道師)は思います。
まるでリアルに、目の前にイエスさまがいらっしゃるかのように毎日生活し、イエスさまに何でも相談し、イエスさまから色んなことを教えていただき、そういうような関係をイエスさまと作って行きたいと思うんです。
そして色んなことをイエスさまとお話しした後、最後に、私もペテロと同じようにこう言いたいと思うんですね。
「あなたはいっさいのことをご存じです」

☆お祈り――戸塚伝道師

イエスさま、普段はあなたのことを意識しないで、生活や仕事に夢中になる自分がいます。しかし、時として無性にあなたと直接お話ししたくなるような状況に置かれるようなことがあるかもしれません。

ガリラヤ湖の岸辺で、あなたがペテロの心の問題を丁寧に扱い、触れて癒され、ペテロの人生を導かれたように、イエスさま、私たち一人ひとりにも近づいてください。そして一切のことをご存じのあなたが、祈りの内に私の相談相手となってくださり、具体的な助けとなってくださるよう、この一週間よろしくお願いいたします。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。

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