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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2022年林間聖会T 大兼久 芳規先生の説教  
遅ればせながら、林間聖会の善い説教を拝聴した恵みを、HPに掲載し皆様に知らせることができればと、感謝に思います。
動画を見ながらの作業でしたが、すでにかなり正確な字幕も付けてありましたので、割と楽に感じました。

しかし、私(T・Y)がワクチン4回目を10日に接種した後、どうにも身体が言うことを聞かず、少し遅れてしまいました。
取り敢えず、聖会Tをお読みください。
なお様々なミスもあると思いますが、書いた者は見つけにくいものですので、どうぞご指摘くださいますように、よろしくお願いいたします。

〜*〜*〜*〜*〜*〜*


2022年林間聖会T 大兼久 芳規先生の説教  
「囲まれし者のマスキール・・・ 敵に」詩篇56篇

皆さん、こんにちは、京都伏見、京都西、徳島教会の牧師をしています大兼久と言います。この度は林間聖会にお招きいただき、共に主の前に出させていただけることを心から感謝しています。

詩篇の56篇のみことばをお読みいただきましたけれども、
【画面:囲まれ者のマスキール・・・「敵に」というタイトルが出る】
このところにダビデが色々な戦いの中を通り、囲まれながら、信仰生活の大切なことを学んでいる姿を紹介しています。
「マスキール」という言葉を用いさせていただきましたが、その前の幾つかの詩篇または前後にですが、<ダビデのマスキール>というものがいくつか出てきます。
この「マスキール」という言葉は、【画面:マスキール *教え*教えの歌】、それ以外にも《失敗から悟った時に教えられた言葉》そのように言われています。

幾つかお読みしてみたいと思いますけれども、(※第三版による)
【画面:32篇ダビデのマスキール「しかし、【主】に信頼する者には、 恵みが、その人を取り囲む。」(10)】
【画面:52篇ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて言った時、「神の恵みは いつも あるのだ。」(1)】
すばらしいですね。また飛びますけれども、
【画面:142篇のところにも、「あなたが私に良くしてくださるからです。」(7)――ダビデが洞窟にいた時のマスキール】ということで紹介がされています。

私たちは色々な環境の中を、ダビデではないですけれども、通させられることがあります。
特にテーマとして【画面:「囲まれた者のマスキール・・・「敵に」】
「マスキール:教え」ということで、色々なことに囲まれますけれども、
私たちの囲まれた時に、それを脱出しよう、解決しよう、ということに力を向けますけれども、
《それ以上に尊い大切なことが教えとしてあるんだ》ということを悟り、残していたのがこのダビデの詩篇です。

今日の午後には、「Zoomでお昼をいただきながらお交わり」っていうのも、幸いですね。
なかなかコロナなので集まることができませんけれども、集まれないながらもこのような方法を用いて、主にある交わりをどこの教会、どの場所にあっても持つことができるというのは、神さまが与えてくださった機会です。
で、お昼をいただきながら、【画面:「コロナ禍の中での教会」というテーマでお昼のお交わり】お交わりをするということを伺っていますが、
私たちはこの二年半、コロナ禍の中に囲まれ、押し込められ、抑えられ、また解放され、また押し付けられ、そのようなところを何度も何度も経験しました。

ダビデも逃げたい、ですけれども逃げられない状況の中に、何度も何度も置かれながら、そこから教えられたことを残しているのがダビデの詩篇です。

1)第一番目にダビデがどういうことをこの教えとして、そのような囲まれた環境の中で学んできたのか、そういうことを見ていきたいと思いますが、

第一番目は(55篇)17節のところにありますけれども、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」(第三版)
他にも幾つか、「一日中」という言葉が多く出てきます。
(56篇)1節のところにも、「一日中戦って、私を虐げている」。
(56篇)5節のところにも、「一日中、彼らは私のことを痛めつけています。」
そのようにして、一日中、ダビデは戦いの中を通りましたけれども、
ダビデが教えられたのは、それは【画面:「一日中の信頼」】というものでした。

私たちは礼拝の時、神さまに信頼する、そして落ち着いた緑の牧場で聖書を開いて読んでいる時、「主を信頼する」と言うこともできます。
けれどもダビデが教えられたマスキールというのは――「ガテでペリシテ人に捕らえられた時」、また他に「エドム人のドエグが自分の前に現れた時」、そのような【画面:危機の時に、主に信頼】する。【「一日中の信頼」】と言ってもいいと思います――そのような彼の教えというものが、この中に出ています。

私もコロナ禍の中で、どうしたらいいのかなぁということを色々と困り、またノウハウを考える時っていうのが多くありました。
最初に、二年半前にコロナが始まった時には、礼拝の中で多く心に留めていたのが、【画面:「平安」】という言葉です。
それに伴いまして、もうどこの教会でも礼拝の配信をするようになりましたので、色々な教会の礼拝の配信を見ることができる機会に触れました。

ま、京都の教会でもそうでしたけれども、随分多くの教会で歌われていた讃美の一つが「スティル――Still――」という讃美でした。【画面:静まって知れ Still】
【画面:御翼の陰に隠し 主の前に静まる】――そういう歌詞のある讃美です。 
どこの教会でも、どの人でも、多くの人が、コロナが始まり、ニュースを一日中そういうことが流れて、そして慌ただしい、落ち着かないニュースばかりが流れる時に、
【画面:主の前に静まりたい】、心を落ち着けさせていただきたい――そういうことを求めていたなぁ・・・ということを感じました。

でも不思議だなぁと思ったのは、教会のクリスチャンもそうですけれども、クリスチャンでない方が、コロナで教会は閉鎖している、そして緊急事態で戸は閉めて、牧師夫婦だけで礼拝を守るような時もありましたけれども、そういう時にも訪ねて来られる方がいる。
そして動かされやすい自分の心を動かされてしまっているけれども、【画面:動かされないものが教会にはある】【その右に「教会」の大きな文字】――そういうことを感じつつ、訪れる方にお会いした時に、「あ、同じだなぁ」――そのようなことを思わされました。

最初は、平安を与えていただきたい――そういう思いでいたんですけれども、そのうちに、自分が求めるというより、自分のたましいが求めているのが、【画面:「礼拝」の大きな文字】次は「礼拝」っていうことでした。
今までは、「ぜひどうぞ皆さん、色々なことがあるでしょうけれども、日曜日の朝の午前の時、主の前に集まりましょう、教会に集まりましょう」と言っていたのが、
【画面:「集まらないでいただければ・・・」】ということを言わなければいけない。逆のことを言わなきゃいけない。
そういう時に本当に家庭で礼拝を守る、そして週報やCDが配られて、またこのような配信という形で、家庭で、施設で、そういう所で礼拝を守っておられる方がいる時に、【画面:「礼拝」の大きな文字】
その場所も礼拝なんだということを、しばらくの間学ばせていただき、また強調していた時がありました。

その時に、イスラエルの人たちが神殿で礼拝を守る事も勿論幸いです。
けれども、神殿で礼拝が守れなくなった時期が、イスラエルにありました
【画面:バビロン捕囚】というところです。
そして、ダニエルたちが異国の地で礼拝を守らなきゃいけない――そういう所を通った時に、詩篇の137篇だったでしょうか?
【画面:バビロンの川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた。(詩篇137:1)】
そこにバビロンのところで嘆いた。川のそばで。という表現がなされていた。
ああ、当時の人たちは川に行って、そして「公の信仰」ということを、なかなか礼拝を守る事ができない状況の中にあって、川に行って礼拝を守っていたんだなぁ。
そこを真(まこと)の礼拝の場所、真(まこと)の神さまの前に出る場所として信仰生活を保っていたんだな。

ピリピに、パウロは伝道した時にも、リディアさんたちが川で祈り場に集まっていた、ということが記されています(使徒16:12〜14)。
【画面:そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。リディアという名の女の人が聞いていた。(***使徒の働き16章13〜14節)】

私たちが教会で礼拝を守ることも幸いですけれども、教会で守れない時、
「エルサレムでもない、この山でもない、そして真(まこと)の礼拝する人たちが、霊と真(まこと)をもって礼拝するときが来る」(***ヨハネ4:21〜24)
とイエスさまが仰いましたけれども、
家庭においても「主よ」と言って、私たちが声をまた心を主に向ける時に、そこにおられる方に真(まこと)の礼拝を守ることができる。

聖会も本当でしたら一か所に集まって、そして聖会を守りたいんですけれども、なかなか許されない。
けれども私たちが【画面:主の名によって】聖会を守る時、また小さな集会だったとしても、主の名によって集まる時に、【画面:わたしもそこにいる】(***マタイ18:20)
と言われる方を知らせていただきながら、その方の前に聖会と集いを持たせていただける――そのようなことをまた学ばせていただいたのは、コロナの初期の頃でした。

ダビデもそのようにして、この詩篇をペリシテ人がガテでダビデを捕らえた時に、神さまに心を向けて、そして信仰の告白を残しているのがこの詩篇56篇です。
ダビデがどういう時にこの詩篇を残したのか、ということが書かれています。
「恐れのある日に」(第三版、3)、「一日中 彼らは私のことを痛めつけています。」(5)
「私の敵は 一日中私を踏みつけています。」(2)
「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。(第三版、3)
私たちが信頼できるのは、
【画面:恐れのある日にも 主を信頼することができる】ということが、この場所に書いてあります。
「一日中」という言葉は、なかなか厳しい言葉です。他のところで、55篇の17節のところにこういう言葉が書いてありました。
「夕べに朝に また真昼に 私は嘆き うめく。すると 主は私の声を聞いてくださる。」

(※もう一度繰り返して)
「夕べに朝に また真昼に 私は嘆き うめく。すると 主は私の声を聞いてくださる。」
「一日中」ですね。
一回だけの試みは、どうにか乗り越えることができます。
一回だけの波ならば、乗り越えることができます。
けれども二度、三度、四度、五度、六度、七回、何回も波が来る。そして続くという時に、
主を信頼し続けるということは、そう簡単なことではありません。
そして私たちがその時に――一回だけならば、まぁいいですけれど――何回も何回も来ると逃げ出したくなる。また、どうしたらいいか、解決を探る、いい方法を探す――そういうところに走りやすい時に、
ダビデは逃げることができない環境の中に置かれていました。
その時に、唯一その自分の心とたましいと信仰を支えることができたのが、
【画面:恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。(詩篇56:3)】(***第三版)
「信頼」ということだけで、問題を解決することができる人は幸いです。

自分のことを考えてみても――どういう風に説明したら、この兄弟、この姉妹、またここに来た初めての人に「主の平安」を知っていただけるかな――そういうことを考えます。
それで「あれをしたら どうですか」「これをしたら いかがですか」色々な方法などお伝えすることもありますけれども、
【画面:恐れのある日に、私は、あなたに信頼します(56:3)】
ダビデは (心に)怖れを覚える日、私はあなたに信頼します。(***2017版、3)
「信頼する」ということのみで、戦うことを知っている人は幸いです。

ダビデのマスキール 教えの二番目は――【画面:ダビデのマスキール 教えA】
2)(詩篇56篇)4節のところにこういう言葉が書いてあります。

【画面:神にあって 私はみことばをほめたたえます。神に信頼し 私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。(56:4)】
また10節のところにも同じような表現がなされています。
【画面:神にあって 私はみことばをほめたたえます。【主】にあって 私はみことばをほめたたえます。(10)神に信頼し 私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。(11)】

という言葉が書いてありますけれども、【画面:御言葉をほめる】
「主をほめる」っていうのは、よくするんです。「神さまをほめたたえましょう」とよく言います。
けれども、ダビデはここのところで、みことばをほめたたえます。神にあって。
【画面:御言葉を ほめる】
ということが書いてあります。
「このみことばはね、すばらしいんです」と言って、ほめたたえることが許されるほど、試みに遭った時に、「私にふさわしいみことばを与えられた」という経験を積むことができる人は、幸いです。

みことばには「打率」というのがあるんじゃないかなと思います。
なかなかその打率が上がらなくて、ちょっと悩む時あるんですけど、三割行ったらすばらしいバッターです。

私もこの林間聖会には一番最初に出席したのは、山中湖の林聖ではなかったかなと思います。
小学生、低学年だったか、参加させていただきました。よく覚えています。
集会中はあんまり覚えてないんですけれども、湖でボートに乗ったのはよく覚えています。
そして帰る時に、先生たちが声をかけてくださっていたのはよく覚えています。

次は神学院、そしてその後、東山荘の林間聖会にも出席をさせていただきました。
思い出すのはソフトボールが青年会でありました。集会場の横のところにグランドがありまして、そこのところでソフトボールをするんですけれども、
まあ、どこの教会の青年たちもみんな野球がうまいこと。
それに対して、あ、打つのが下手だな――そんなことを思わされました。
十回打席が回って来ても、一回か二回、右で当たらなければ左で打ったりして、そんなことをしていました。

一割、一割五分、でも許されたならば試みが十回あった時に、閉じ込められること囲まれることが十回あった時に、二割、三割、四割、打率が上がることができるようになれたら幸いです。
《ふさわしいみことばに出会った時に、人はみことばをほめたたえる》と言うことができます。

コロナになる少し前に、父が天に帰りました。信仰を持って天に帰ることができたので幸いですけれども、
その葬儀を終えて、しばらくの間、やはり母の方は、なかなか落ち着かない。そして元気のない時期を過ごしました。
そうしてる時に、花が届けられました。花が届けられて、そこに言葉の書いてある小さなメモというか、差し込みが置かれていました。
そのみことばを読んでから、母は元気になりました。

最初は、そのみことばを読んで、大きな声で泣いていました。
どういうみことばだったかと言いますと、イザヤ書の48章の16節ですけれども、そこのところに、こう書かれています。
【画面:※差し込みを花の上に置いたデザインで、「それが起こったときから、わたしはそこにいた」というみことば】
家で倒れましたけれども、けれども、その時から父と母二人だけではなく、【画面:先のデザインの中のみことば】「それが起こったときから、わたしはそこにいた。」(イザヤ48:16)
その涙が悲しみの涙ではなく、安心とそして大丈夫なんだという、大丈夫だったんだという、そういう涙ではなかったかなと思います。

そのみことばを贈ってくださった方のことを知りました。
大きな病を経て、そして一生懸命信仰生活を送られて、教会で――奏楽者の少ない教会の中で――奏楽のご奉仕をしたいということで、一生懸命練習をしていてくださった姉妹でした。
けれども、そうしている時に倒れられて、そして言葉やまた手が不自由になられるところを通りました。
どれだけあの方だったら、一生懸命信仰生活を送ってるから、そしてやっとご奉仕も与えられて、どんなに満足感と喜びを覚えていただろうか。
けれども、しばらくして、それができなくなってしまったところを通られた時、この言葉が与えられたんでしょうね。
【画面:先程と同じ】「それが起こったときから、わたしはそこにいた。」(イザヤ48:16)

色々な環境の中を通ります。
ダビデは他のところでも、その場所から、逃れたい、55篇ですかね。
【画面:詩篇55篇6〜8節 私は言いました。「ああ 私に鳩のように翼があったなら。飛び去って 休むことができたなら。ああ どこか遠くへ逃れ去り 荒野の中に宿りたい。セラ 嵐と疾風(はやて)を避けて 私の逃れ場に急ぎたい。」】
そのようにして逃げたい。ダビデだって、捕らえられて、そしてガテで王の前に出される時に、逃れたい、けれど逃れられない状況の中にあった時に、
【画面:神にあって 私はみことばをほめたたえます。神に信頼し 私は何も恐れません。(詩篇56:4)】
【画面:神にあって 私はみことばをほめたたえます。【主】にあって 私はみことばをほめたたえます。(詩篇56: 10)】

コロナや色々な戦い、戦争のニュースまた色々なニュースが、私たちの多く耳に入って心を惑わします。
けれどもその時に、十回あった時に一度、二割、三割、ああ、神さまはそういう風にして私と一緒にいてくださったんだな、一人ではなくて一緒にいてくださって、その試みの中を、私は気づかなかったけれども、通っていたんだな。大丈夫だ。
ふさわしいみことばに出会えた時に、人は「神にあって、私はみことばをほめたたえます。」そのように彼(ダビデ)は言っています。

それはアブラハムもそうでした。
アブラハムは神さまから約束が与えられて、「あなたの子孫はこの星のようになる」(***創世記15:5)と言われたんですけれども、すぐにならなかったんですね。
二十数年間待ちました。待たされました。
ローマ人への手紙の4章17節。
【画面:背景は黒い夜空に散らばる星を表していて、聖句の下部は多くの人々が空の星を眺めているのかと思わされる。文字は、アブラハムへの約束 神にあって わたしはあなたを多くの国民の父とした。】
18節【画面:背景は17節と同じ。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおり】

アブラハムの信仰が、なぜ二十何年も待たされているのにもかかわらず、超えることができたのか?
それはその時、その時に、語られている言葉を捉えていたからです。
しっかりとその環境にふさわしい言葉を、主が与えてくださる。そして与えてくださった。
これなしに二十何年も耐えるのは――コロナで二年半も超えていくのは、まだ先が続きそうですけれども――言葉が与えられて、そして与えられるだけじゃなくて、
「この言葉をほめたたえます。この言葉を与えてくださった主をほめたたえます」と言う程までに、みことばが与えられることの幸いを歌っているのが、ダビデのマスキールです。

ダビデは(詩篇56篇)1節2節にこう書いてあります。
「神よ 私をあわれんでください。人が私を踏みつけ 一日中戦って 私を虐げているからです。」(1)
2節のところにも――
「私の敵は 一日中私を踏みつけています。」(2)
ダビデは踏みつけられたみたいです。
捕まってすぐに王さまの前に連れて行かれる。でもその前にどうも獄屋の中に入れられていたのかもしれません。
そして一日中虐げられるというところを通っていたのがダビデです。
牢屋の中に入れられて「あ、もしや、これはあのダビデじゃないか。サウルは千、ダビデは万を打つ、あのダビデじゃないか」ということが、だんだん噂のように広がって行った時に、人々の扱いは厳しくなってきました。
そうするうちに、兵隊の中にも家で家庭で、また職場で嫌なことがあった人もいたでしょう。
そうすると、始まるのは、「あ、これがあのダビデか。」
自分のイライラをダビデにぶつけるような人もいたでしょう。踏みつけ踏みつけ、一回だけじゃなくて何度も踏みつける。

イエスさまご自身も叩かれ、唾をかけられ、そういう所を通りました。
けれども、私たちは色んな所を通る時に、「みことばをほめたたえます」「このお方に信頼しています」というお方を知ることができながら歩む時に、
その時間が長く、一日中かかることがあったとしても、超えていくことができるのが、ダビデのマスキールです。

3)第三番目に、ダビデが学んだこと。それはその言葉が教えたもの。それは【画面:神が味方である】ということでした。

9節のところに――「そのとき私の敵は退きます。私が呼び求める日に。私は知っています。
(***その日に、私は知っています、と強めて)神が味方であることを。」

色々なことを知ることができるのは幸いですけれど、みことばから神さまが、もう周りは敵ばっかり、一日中です。
そしてこれからガテの王さまの前――【画面:ガテ ゴリヤテの出身地とあり、巨人ゴリヤテとダビデらしき人物が剣を持っている絵】――ガテと言うのはゴリヤテの出身地なんです。
「おまえか、私たちの偉いゴリヤテ様を亡き者にしたのは。おまえか」と言って、また踏みつけられる。
そういうところを通されていた時に、敵ばっかりの中で、
「私は知っています。神が味方であることを(9)。肉なる者が私に何をなし得るでしょう(4)。」

私たちが主を信頼する、また主を信頼したいという時に、一生懸命信じよう信じようとすることも幸いなんですけれども、【画面:信じるお方がどういうお方なのか】ということが分かれば分かるほど、信じ易くなっていきます。
これは人間関係でも同じだと思います。
会ったことのない人と、信頼しましょう――なかなかそれは無理です。
でもお会いする、会う機会が増える、そして一緒にいる時間が増える時に、信頼っていうものが増えていきます。増していきます。【画面:大きな字で「信頼」】
ですから私たちは日ごとに主の前に近づく。日ごとに主はどういうお方なのかっていうことを【画面:みことばから教えていただく】。
ダビデは「私は知っています。【画面下方:神が味方であることを】」(9)

ローマ人への手紙の8章(31節)のところにも、【画面:神が(私たちの)味方であるならば、(だれが私たちに敵対できるでしょう)】ということが書いてあります。
敵を数えるのは、私たちは案外、得意です。
けれども味方となってくださっておられる方を探すのは、やはり信仰が大切です。

二年半前に任命がありました。任命、次の担当はもう一つ徳島の教会。はい、分かりました。
まだコロナの始まる少し前だったと思います。どうしようかなとやはり考えました。
日曜日の礼拝を、ま、今は伏見教会、(京都)西教会、そして徳島教会、一つ一つを回りながら、【画面:インマヌエル京都西/伏見/徳島教会 ウェブ礼拝にようこそ!の言葉の下に3つの教会の外観の写真】それぞれの教会から配信して、他の教会はそれを受信しながら礼拝を守るという体制になっているんですが、まだ配信のはの字もないような時です。
どうしようかなと思いました。
で、祈祷会――午前中伏見で祈祷会を守って、午後は2時から定時の祈祷会が西教会であって、そこから4時に終わるんですけれども、ちょっと厳しいから3時位に終わって、3時過ぎから車で200キロぐらい離れていますんで、飛ばさないように行ったとしても三時間〜三時間半、夜7時半の祈祷会どうにか間に合うかな?う〜ん大丈夫かな?ちょっと無理かな?色々考えました。
これはもう配信ということをしなければ無理だなぁ・・・と思うようになりました。
それでウェブカメラというものを購入いたしました。まだその時には、普通に購入できたんです。
それから一か月位しましたならば、コロナが随分大変になりまして、それでウェブカメラはもう買えなくなりました。
神さまは良くしてくださっているなぁということを思いました。

詩篇の52篇のところに、最初にお読みしましたけれども――ダビデのマスキール。「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た」と言ったときに――
「なぜおまえは悪を誇るのか。勇士よ」(1)その後に、【画面:「神の恵みは、いつも、ある」のだ。】これ、第三版の訳だったですかね。
【画面:「神の恵みはいつもある」】すごいですね。
サウル王様に自分の居場所が伝えられる。そういう人が現れた時に、「神の恵みはいつもあるのだ。」

今回の聖会の聖書の個所、そして讃美歌をということを言っていただいたときに、ふっと思い浮かんだのが、「善き力に われかこまれ」という賛美です。
色々と作詞をされた方も戦いの中を通りましたけれども、その時、「善き力に囲まれている」――よくそういうことが言えるなぁと、よくそういうことが言える信仰はすばらしいなと、そんなことを思わされました。

ダビデも敵に囲まれたり、そしてこれから王様の前に裁きを受けなきゃいけない時に、
「恵みがその人を取り囲む。(***詩篇32:10)
神の恵みはいつもあるのだ。(***詩篇52:1)
あなたが私に善くしてくださる。(***詩篇103:2、116:7,12、119:65)
そのようなことを、ダビデのマスキールにはあちらこちらに書かれています。

私たちが信仰生活を送っていながら、戦いは色々あります。
けれども、それは悪いことのように見えるかもしれません。
イエスさまが十字架に架けられた時に、弟子たちは、もうこんなに大変なこと、悪いことが起こってしまったと言って逃げ、元気がなくなってしまいました。
けれどもそれは、私たちにとって最高の恵み、罪の赦しを与えてくださる、大切な恵みとなりました。

色々なものにこれからも囲まれることはあるでしょう。
けれども、その中で神さまを信頼し、みことばを与えられて【画面:主は善いお方だ】善くしていてくださる、神は味方である――そういうことをことある毎に、波が来る度に、みことばによって、そして聖霊に示されて超えることができたならば、同じ信仰を私たちも超えることができるんではないでしょうか。

☆お祈りをしたいと思います。――大兼久 芳規牧師

心に恐れを覚える日 私はあなたに信頼します。(詩篇56:3)
神にあって 私はみことばをほめたたえます。(同56:4,10)
神に信頼し 私は何も恐れません。(同56:4,11)
肉なる者(***詩篇145:21、65:2)が私に何をなし得るでしょう。(同56:4)
(※詩篇56:11は「人が私に何をなし得るでしょう」)

恵の深い天のお父さま、あなたは私たちがどういう所を通っているのかを、一番ご存じです。私はその表面的なことしか、目に見えることしか分かりません。意味も深く分からない者ですけれども、あなたは私たちの通っている道を知っていてくださいます。そして、恐れのある日に何をしたらいいのか、解決方法を探ってしまいやすい私ですけれども、ダビデは「あなたに信頼する」その一つの方法だけで、戦いを超えて来ました。アブラハムもパウロも皆そうでした。私たちも色々な解決方法は頭に浮かび模索しますけれども、囲まれている時に主を信頼し、ふさわしいみことばに恵みを与えていただき、そしてその波を超えていくことができたならば幸いです。

この後には交わりの時もありますけれども、色々と戦いの中を通って来た証しも多くあるでしょう。でもきっとその中にも、ここを超えながら、こういうことを教えられました――そういうことの証しもあることと思います。あなたは私たちを無駄に試みの中を通されないお方ですから、知っていてくださるお方ですから、お委ねできるお方ですから、御名を崇めて感謝をいたします。聖会の時を愛する方々と共に守り、あなたの前に出させていただいたことを心から感謝をし、愛する主イエスさまのお名前によってお祈りをお捧げいたします。アーメン。

☆司会、藤本満牧師より
大兼久先生ありがとうございました。
それでは最後の讃美歌を歌いますが、この讃美歌は恐らく皆さんの耳にはあまり知られていないだろうなという風に思います。【画面:「主の善き力に守られて」(書籍タイトル)、讃美歌のタイトルは「善き力に囲まれ」です。】
これは有名なドイツ、ナチス、ヒットラーの時代に獄中で殉教いたしましたディートリヒ・ボンヘファーの祈り「主の善き力に守られて」――これに曲をつけて賛美をしていただきます。
バプテスト連盟の新生讃美歌(73番 善き力にわれ囲まれ)に載っている曲でございます。では賛美を聴き、またそれに心を合わせたいと思います。



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DATE: 2022.08.13 - 00:26

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