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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2022/8/11 林間聖会U 大兼久 芳規先生の説教
2022/8/11 林間聖会U 大兼久 芳規先生の説教を掲載しています。

昨日、掲載できました聖会Tに引き続き、今日8/13日(土)も聖会Uを、これも説教だけになりますが掲載させていただきます。

お一人お一人が恵まれましたオンラインの聖会の感動を新たにされ、尚且つ大兼久先生の語られた言葉を全体にまとまって読まれることで、福音の説教の内容を整理し、学びをされる時の助けになればと思っております。

3年ぶりの行動制限なしのお盆休みで、国内は以前と同じ民族の大移動状態ですが、
コロナ第7波感染拡大中でもありますゆえ、われわれ高齢者夫婦はひたすら感染予防対策を万全にし、遠出を控えてのんびりと自宅で過ごしております。
まだ感染からは完全に守られていることは感謝です。

高津の教会家族で地方へお出かけの方々、また格別にホームページを訪問してくださった方々のご家族やご友人、ご高齢者から幼い子どもさん方まで、すべての方々が共にご無事で健やかに休暇を楽しまれますよう、心よりお祈り申し上げます。

また明日8/14日(日)もオンライン礼拝を楽しみにしています。
後ろからですので、動画に映る方々や先生方の元気なお姿を拝見して、お名前を当てるのも老人夫婦の一つの楽しみです。  

※林聖、今年の講師の大兼久芳規(おおかねく・よしのり)先生は、京都伏見、京都西、徳島教会を兼牧され、また国内教会局長をなさっています。

※大兼久先生の説教の前に、蔦田就子宣教師のお話もありましたが、蔦田宣教師は今年また高津に来られるそうなので、その時にでもしっかりとケニヤの病院でのお働きを聞かせていただきたいと思っています。その日を楽しみにお待ちしています。

〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

2022/8/11 林間聖会U 大兼久芳規(おおかねく・よしのり)先生
「囲まれし者のマスキール・・・獄屋に」ピリピ1:12〜18

只今より聖会Uのみことばを心に留めさせていただきたいと思います。
お昼の交わりの時はいかがだったでしょうか?主にある交わりというものは、他には代えがたい信仰者の幸い、また喜びというものを感じることができたのではないかと思います。
特に今日のお昼には、それぞれの教会でこのコロナとの戦い、現在、実際どのように戦いの中を通っているのか、またそこをどうやって歩んでいるのか、そしてそれは、戦いだけではなく、きっと「このような恵みもありました」――そのようなお証しも、それぞれの中から出たのではないかなと思います。

この午後においては、【画面:囲まれし者のマスキール「獄屋」】ピリピ人への手紙の1章のところから、「囲まれし者のマスキール」、そしてこの「獄屋」、牢獄というものに捕らえられたパウロの姿から【画面:1620年頃の「執筆中のパウロ」という絵画】学ばせていただきたいと思います。

聖書の中には、色々なものに囲まれている人たちの姿があります。
【画面:「囲まれる」がここの説明の終わりまで、しばらく左上に映っている】
戦いとしては、詩篇などには、31篇のところに、「恐怖が私を取り囲んでいる」(13)と書かれています。
また良いものでは、詩篇の32篇には、「恵みがその人を囲んでいる」(10)と書いてあります。
125篇のところにも、「山々が取り囲んでいるように、【主】は御民を 今よりとこしえまでも囲まれる。」(***2節)
幸いですね。《主が私を囲んでいてくださるということを、実感として持ちつつ歩む信仰生活》は、何にも勝る宝です。

また新約聖書の中にも、第二コリントの5章14節には、「キリストの愛が私たちを捕らえているからです。」
(新改訳)2017は「捕らえている」と書いてありますが、第3版の慣れ親しんだ訳ですと、「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」
【※画面:「囲まれる」の文字はここまでで左上からフェードアウト】

私たちは、囲まれている色々なものに動かされるのは人間です。
それを、戦いばかりが私の周りを囲んでいると取るのか、それとも目を転じて、神さまが意味を込めて、私たちの周りに置いていてくださるものとして、
【画面:左上に「囲んでいる」の大きな文字】それを「ああ、囲んでいる」――そのように捉えるのか、というところには違いがあります。

パウロもここで色々なものに囲まれていた、ということが書かれています。
【画面右上:パウロと使徒の誰かの写真】
親衛隊の人たちとか、またお弟子さんたち、また教会教会への思い――そういうものにも囲まれていたと思いますが、【画面左上:投獄】されていたということが書いてあります。
この時にも、パウロは迫害が彼を囲んでいました。

昨年の夏だったと思います。四国の方に行きまして、そして帰り、橋を渡って帰ろうとしたんですけれども、ちょうど台風の影響で橋が通れないということが分かりました。
どうしようかなと思ったんですけれども、パッと横を見ましたら、そこに博物館の看板がありました。
【画面右側:大塚国際美術館の内・外観や、アクセス地図の写真縦三枚】
あ、これはいいということで、博物館の中に入りました。
大阪の方からももう橋が止まっていますので、誰も来ない。そして月曜日の休日に殆ど人はいない。
大きな博物館の中に入ることができました。
そこはタイルで色々な今までの歴史的な絵画を再現している――そのような博物館でしたけれども、
その中に入って、色々なキリスト教の歴史というものを感じることができました。

で年代ごとに並んで、その階によって、美術品が並んでいるんですけれども、
イエスさまのおられた1世紀、そして弟子たちのいた2世紀位までのところにあった美術品というものに、イエス・キリストは一切ありませんでした。
その時期にあったものは偶像――「これが神だ。これが私たちの皇帝、王だ、そして主だ」――そういうような美術品が多くありました。
後から考えてみたら、当然だなぁと思います。

迫害の時代にイエス・キリストの十字架、そして弟子たちの姿を美術品として残すということは難しいことでした。
【画面:地下から登場した猛獣の餌食にされようとしているキリスト教徒の絵画を右上に見せて】
けれどもそれが3世紀頃になりますと、一気に増えて来ます。
そしてこれでもかという位に、キリスト教の色々な場面のことを、美術品の中に、絵画の中に残している姿を見た時に、
1世紀のそして2世紀のその当時のクリスチャンの人たちの戦いの大変さ、
けれども、その迫害の中にあったんですけれども、信仰を、火を燃やし続けていてくれたおかげで、国が変化し、そして国教として認め、多くの美術品を残すことができるような時代になったんだな――そのようなことを教えられました。

パウロはここのところで投獄をされ、【画面:先程の「執筆中のパウロ」の絵画を右上に見せ】そして迫害、敵に囲まれていたんですけれども、彼自身の言葉、または信仰というものはどういうものだったのか。
(ピリピ1章)12節のところにこう書いてあります。
「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」(ピリピ1:12)
パウロの周りに色々な困難、迫害、そういうものがありましたけれども、【画面左上:役立った】という思いで、それらを見ている姿が彼にはあります。

聖会のTの時にも、詩篇の中でダビデが「必ず善くしてくださる主がおられる、益としてくださる主がおられる、神の恵みはいつもあるのだ。」(詩篇32:10、52:1、125:2)
私たちは周りに囲まれた時、それにもう支配されて、悪いことばかりが起こる、大変になっていく、どうしよう、こうしよう、ああしよう――そういうことばかりに右往左往しやすいんですけれど、
パウロは牢屋に捕らえられているにもかかわらず、そして物事が悪い方向に見えるように、進んでいるように感じるにもかかわらず、
福音の前進に役立ったことを知ってほしい――そのように彼は残しています。
伝道の姿、そして自分が投獄されたことによって、クリスチャンの人たちが確信をもって、
(ピリピ1章)14節のところには、【※画面下方帯状に書かれて:恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。】
そのように、彼は証しをしています。 

許されたら、私たちの周りに起こって来る出来事、悪にしか感じない、迫害にしか感じない、戦いにしか感じない、試みにしか感じないことの中に、
神さまご自身をそのような(※善い)お方として捉えさせていただき、益としてくださった、そして神さまは役立てていてくださる、という信仰の捉え方をすることができたら幸いです。

今回、聖会の中で賛美できたら、ということでお願いしたのが、「善き力に われかこまれ」という賛美でした。
「善き力に囲まれ」――ボンヘファーという、ドイツの牧師さんですけれども、ナチスに抵抗しました。【画面右上:ディートリヒ・ボンヘファーの顔写真】
彼はそれ程熱心なクリスチャンホームというか、そういう背景ではありませんでした。
お母さんは真実な信仰を持っておられたようですけれども、医者であった父親が、時々にしか教会に行かない――そういう家庭であったので、母親は心配をしていたそうです。
家庭全体が、ま、そのような感じだったんですけれども、お兄さんが戦争に行って、そして(※戦死)亡くなったことを通して、母がとても悲しみました。

その姿を見ていて、彼は神学部に進むことを決めます。家族はみんな驚いたようです。
けれども彼はそのようなことで牧師になりましてから、真実に伝道にまた牧会に励んでいましたけれども、国がそのような状態になり、そして国がどんどんどんどん違った方向に進んで行った時に、彼はそれに抵抗します。
結局捕らえられて、そして終戦の間際に、彼は(※絞首刑で)亡くなります。
悪い方にしか向かってないじゃないか!
けれども、彼の証しは、思いは、【画面左上:善き力に】――すごいですね。

「善き力に」――牢屋の中にいるのにもかかわらず、先が厳しいということが分かっているにもかかわらず――「われ善き力に囲まれ」――土台がそこにある人は幸いです。
環境と状況に土台を置く時に、私たちはそれさえ揺さぶられたような信仰生活であります。
いつも私たちは、色々な目の前に起こって来る現実に、心の土台を、信仰の土台を置くか、
それともそうでないもの、そうでないお方に、土台を置くかどうかということは、
同じ試みの中を通るにしても、大切なことではないかと思います。

そのようにして役立つ、またはこれらの環境にあるにもかかわらず、神さまは「益」をしていてくださる、「益に、善きことに」していてくださる、という風にして捉えるためには、どうしたらいいでしょうか?

1)その一つが【※画面下方:僕(しもべ)感、という大きな文字が出てくる】です。

(ピリピ1章)1節のところにこう書いてあります。
パウロがこのピリピ人への手紙を書く時の自己紹介、第一声、最初に伝えた言葉、そして大切にしていた言葉――
●【画面下方帯状に:キリスト・イエスのしもべである、パウロ】(ピリピ1:1)と書いてあります。

クリスチャンになられたことは幸いです。
神の子としていただいたことは、罪赦されて(***ローマ3:23〜24)
そして神さまの恵みが、追って来るでしょう。(***詩篇23:6、32:10)
キリストの愛が私を囲んでいます。(***詩篇52:1、125:2、Uコリント5:14)
本当に幸いなことです。
それと共に、キリスト・イエスの僕(しもべ)であるパウロ(ピリピ1:1)――その意識が彼の大切な意識でした。

この「僕」っていうのは、どういう意味があるかというと、【画面左上:僕とは】
自分は「長」ではないということです。
自分は自分の人生、信仰生涯の主人ではない、ということを意味しています。

以前、宣教研究委員会の「長」の働きをしていたことがありました。大変です(※思い出して笑う大兼久先生)。
もう日程も決めなきゃならないし、内容も決めなきゃいけないし、リードして、それで集まっていただいて、色々なものをしなければいけない。
ところが、数年前に「長」が変わったんですね。そして私も、ま、委員の一人として残していただきました。とっても(※嬉しそうに笑う大兼久先生)楽になりました。
本当に(※実感を込めて)「長」から「長」じゃないっていう、こんなにありがたいことかなぁと思いました。
責任を取ってくださる方がいるんです。動かしてくださる方がいるんです。配慮してくださる方がいるんです。

私の信仰生涯、私が主人である時には大変です。責任を取らなきゃいけませんから。
けれども、私の罪と咎の責任を取ってくださったお方が、私の生涯においても、
周りが迫害であろうが、矢が飛んで来ようが、牢の中に入れられようが、
責任を取ってくださる方が与えられているんだ、ということを知っているのが、僕(しもべ)の真の姿です。

●次にこの僕(しもべ)というものは、買い取られた者という意識があります。

僕っていうのは、きれいな言葉ですけれども、はっきり言うと「奴隷」です。
創世記に出てくるヨセフも、奴隷として売られます。兄たちに売られてしまう。
こんな悲しいことはありません。もう自分はどうしようもない。
そして何か映画を見ましたら、彼がエジプトに売られる。
「これは痩せてるけれどもね、しっかりしてるよ!買わないか」と(※奴隷商人らしい口ぶりの大兼久先生)言って、ポティファルのところに彼は売られて行きます。
奴隷も意識していることの一つには、自分のために代価が払われた、という意識です。

パウロは「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」と言った場合に、《私のために、私を買い取るために代価が払われた》ということを強く意識していたのがパウロです。
ですから彼は「キリスト・イエスのしもべ」と言いました。

私たちは十字架で代価が払われたお互いです。
そして第一コリントの6章の20節のところには、こういう言葉があります。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」(Tコリント6:20)
私たちも代価を払っていただいたゆえに、神の子としていただき、そして赦しと恵みと御国の特権を与えていただいたお互いとしていただきました。

●もう一つ買い取られたものというものは、買い取られたら、誰のものになるのでしょうか?

【画面下方:主のもの、という大きな字】ですね。代価を払ってくださった方の所有、ものになる。
もう一度(ピリピ1章)1節のところをお読みしますと、
「イエス・キリストの」と書いてある。「しもべであるパウロ」
いつの間にか、私の生涯は私のもの、そう思いたいし、そう思っているところがほとんどですけれども、
でもパウロが「私はキリスト・イエスのもの、僕(しもべ)である」と言う意識が強かった。
ですから「私の周りに起こって来る一つ一つの出来事、そして投獄であろうとしても、それも主が所有していてくださる。責任を取っていてくださる」という意識を持っていました。

いかがでしょう。色々な試み、またコロナとの戦い、今日もそういうような沢山の証しがなされたと思います。
けれども、責任を取っておられる方がおられます。
そしてこのお方に「よろしくお願いします。まだ道は半ばですけれども、今までのことも、これからのことも、あなたが一番の責任者なんですね」と言って、証しと、そこに土台と、安心と、確信を置くことができるのが、僕(しもべ)の認識です。

また第二番目に、この僕(しもべ)感の次に、周りに起こって来る出来事を益と捉えることができるために――
2)必要なのは【画面下方:聖め】です。

(ピリピ1章)17節、18節のところにこう書いてあります。お読みします。
【画面下方に帯状に流れて出てくるみことば:ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。
しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。】

パウロは投獄されたことによって、お弟子さんたちも強められて証しをした(ピリピ1:14)、ということが前の所に書いてありました。
けれども、そういうお弟子さんたちだけではなくて、妬みから伝道する人たちがいた。
複雑ですね、人間っていうものは。
普通ならば、「いやいやいやいや、それちょっと、そういうのは純粋じゃないでしょう。」
さっきのところ(ピリピ1:17〜18)にも(パウロは)
「純粋な動機からではありません。けれども、そうであったとしても、福音が広められることは益だ。私はそれを喜ぶ」と言っています。
「いやいやいやいや、自分の思い通り、自分の正しいと思うこと通りじゃなきゃ、受け入れられない」――どうしても人間っていうのは、そういう所があります。
けれども、そのような思いに対して、少々違ったような動機で福音が伝えられたとしても、「喜んでいます。」
自分の置かれている状況を、自分の思い通りの伝道ではないけれども、「喜んでいます。」

最初にピリピで伝道していた時も、パウロは牢屋の中に入れられました。
その時も「賛美をしていた」と書いてあります(***使徒の働き16:25)。
感謝と喜びを、牢屋に入れられているにもかかわらず、賛美をしているパウロの姿があります。
そのような信仰の土台からスタートしたのが、このピリピの教会でした。
私たちの群れも、この獄屋からスタートした群れです。
そのようなことで、不自由な状態になることが悪で良くない――それだけならば決して喜ぶことはできませんけれども、
そのような状態の中にありながら、福音が伝えられていく――神さまが益にしたもう。
そのような思いでいたのがパウロです。

時々聖(きよ)めのことを考えさせられる時に、パイプを思い出すんです。
パイプってあの雨どいのような、【画面:雨どいの絵が右上に】こういうパイプですね。
で、上に雨が降って、それで水がこうやって流れて来ますけど、真っ直ぐじゃないわけです。
屋根の形によって色んな形になるんですけど、(※左手首を右に左にくねくねと振って見せて)サーサーサーッと流れていく。本当に気持ちよく流れます。
私たちの人生の中で、思い通りではない、というこの角度のある道を、通されることがあります。
その時に、「いや、こんな不純な動機ではいけない」というものが中心となっていると、
「こんなカーブおかしいだろう」と言って、曲がらない、曲がれない、進まない、というところを通ることがあります。

にもかかわらず、パウロは自分の思い通りではないけれども、「けれども、喜んでいます」という柔らかさ。
それはイエス・キリストとその十字架にも見られるものです。
「この杯を去らせてください。しかし、私の願うようにではなく、父の御心がなるように」と。(***マタイ26:39,42)
そこには曲がっている自分の思いじゃないけれども、【画面:父の御心ならという、柔らかさ】――十字架による聖めというものは、私たちの固まりやすい、硬くなりやすいものを、柔らかくする力があります。
もし、私たちが、「あれ、180度でちょっと曲がるとしたら、160度のカーブが曲がり切らないなぁ、なんか身体のあちこちがぶつかるなぁ」ということがありましたら、
【画面下方:主の聖潔(きよき)の恵みを求めさせていただけたらと思います。】

コロナの中、「もう我慢できない、こんな思い通りじゃないなんて、なぜこんなことが続くんだ、それがもう耐えられない、受け入れられない」ということがありましたら、
聖潔き(きよき)の恵みをもう一度知らせていただけたら、【画面下方:主は益にしたもう】――そのように証しすることができます。

もう一つ益になるということを捉えるために、必要なのは――
3)13節に「私がキリストのゆえに投獄」

――投獄っていうものは、【画面下方帯状に出る:一人となる:一人とさせられる】そのような状態に置かれる。

コロナの時期の戦いの一つは、交わりが制限されたということです。
食事も、今日はZoomでしたので、いくら食事しても問題なかったと思います。会話しても問題なかったと思います。
けれど、なかなか、今はどこの教会でも、食事をして礼拝後に、っていうのはまだちょっと難しい。
そして礼拝を配信などで家で守らなきゃいけない――そういう時期も多々ありました。
そのような交わりが制限される中で、まことに「一人になる」ということは、大切なコロナ禍における学びの一つではないかと思います。

コロナになりましてから、特に緊急事態になりましてから、牧師にとって訪問もなかなか許されない時期がありました。
「先生、あの、いくら心配でも、あんまり訪問しないでください」(笑)という言葉もありました。

でも、少し落ち着いて来ましたから、特にご高齢の方、百歳を超えた方が数名おられます。
で、ある時に、一人の姉妹のところに訪問に行きました。
失敗したなぁと思ったのは、私(※大兼久先生)の言葉です。本当にもう失敗しやすい者で、どんな失敗をしたかと言いますと、
「姉妹、ご家族の方はいま礼拝に行くことができているけれども、この前の週も一人で留守番をしなければいけなくて残念でしたね。」
励ましているのか、励ましてないのか、逆みたいなことが、・・・
その時にこう言われました。
「先生、いつも主と二人ですから」
参りました。
「一人ですね。一人で留守番ですね」(※頭を振りながら)【画面下方:「主と二人でした。」】

イエスさまも何度か、いや多く、イエスご自身は寂しいところに退いて、祈っておられた。
ヨハネの6章の15節にも、「イエスは再びただ一人で山に退かれた」――イエスさまは孤独を愛するとか、一人になりたい、弟子たちとたまには離れていたい――そういう理由ではないです。
《御父と二人になる。本当の意味で、「一人になる」ということを知っている人は、強いです。》
そして、その一人というのは、ただの孤独というような一人ではなく、大切なお方と二人であるということを知ることができるのが、この、退いて寂しいところに行かれた主の姿です。

パウロも投獄され、自由を奪われ、そして人との交わりも制限される。
コロナで私たちも色々なことを制限される。人との交わりもなかなか。
《大切な方と二人になる――そのことを知ることができ、味わうことができた時に、主は益としていてくださる。喜ぶことができる。》
そのような歩みと主はしてくださいます。
まだしばらく、そのような戦いが続く、そのような時ですけれども、
けれどもその中にあっても、私たちが大切なことを知らせていただける時期と、主は変えてくださるお方です。
そのような学びを重ねながら歩み、今年の後半も歩ませていただきたく願います。

☆お祈りをいたします――大兼久芳規先生

「しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。
そうです。これからも喜ぶでしょう。」(ピリピ1:18)
「キリスト・イエスの僕であるパウロ。」(ピリピ1:1)

恵みの深いいつも恵みで取り囲んでいてくださる父なる神さま、こうして午後の聖会の時を、愛する方々と共に守らせていただけていることのゆえに、御名を崇めて感謝いたします。

私たちは色々なことに囲まれ、そして悪しきことが起こった、このような戦いがあった――そのようなことに、心がどうしても行きやすいことです。けれども、パウロが捕らえられているにもかかわらず、プラス、別な動機から、パウロを苦しめようとして伝道している人たちの姿もありました。けれどもパウロは「喜んでいます」と、彼は主に贖われた、そして生きて聖きの恵みを歩んでいる僕でした。御名を崇めて感謝いたします。

私たちも色々なことを、聖霊なる神さま、あなたは示してくださり、ここのところが固くなっている、ここのところが柔らかくなれるように、あなたの血潮は私たちをそのようにしてくださいますから、御名を崇めて感謝をいたします。

どうぞ日々造られて、日々起こって来る出来事の中にあっても、柔らかさを保ちながら、あなたは今日も益としてくださった、今日も善き力をもって、私を囲んでいてくださる――そのように、第一声が証しすることのできるような信仰生涯であったら、こんなに幸いなことはありません。私もその一人としてください。主イエスさまのお名前によって、御前にお祈りをお捧げいたします。アーメン。

☆司会、戸塚伝道師のご挨拶

感謝いたします。林間聖会の恵みを受けて、神さまに献金をささげるご意志のあられる方は、それぞれの各教会に献金をささげていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

林間聖会委員会のご労によって、今年もこのような林間聖会を開くことができたことを心から感謝いたします。本当にありがとうございました。お疲れさまでした。

また格別にこの聖会のために、大兼久芳規(おおかねく・よしのり)先生、ありがとうございました。神さまの恵み豊かなメッセージを語っていただいたことを、心から感謝しております。

ありがとうございました。以上をもちまして、今年の林間聖会を終わります。(※カメラに向かって一礼する戸塚伝道師)




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