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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/15 伊藤大輔CS教師:先頭に立つイエスについて行く マルコ10:32〜45
☆聖書箇所  マルコ10:32〜45
 32さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついていく人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
33「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
34異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
 35ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
36イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
37彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
38しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
39彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
40しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
41ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
43しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
44あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
45人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

【※伊藤大輔さんはここで自己紹介をされましたので、その部分は教会員のページ・「聖日説教」の方に掲載されています。初めに賛美やお祈り、報告が入りますので、それらの後の方になります。
閲覧希望の方はIDとパスワードでお入りになってお読みください。】

☆説教(※奨励としたい由)はここから
伊藤大輔CS教師:先頭に立つイエスについて行く

前置きが長くなってしまいましたが、これから「奨励」をさせていただきたいと思います。
さて、本日お話しさせていただく箇所は、マルコの10章です。
イエスさまが弟子たちに、受難と復活の予告をするシーンです。
イエスさまが弟子たちに向かって、これから起こる受難と復活に関して予告をする場面です。
他にマタイやルカにも同じ個所が出て来ますけれども、このマルコが一番詳しく書かれているんですね。
そういうことがありまして、今日はマルコの福音書を選ばせていただきました。

私たちが信じているこの《キリスト教の福音は、十字架と復活なしには語れない》と思っています。
そういうこともありまして、今回はこの「福音」ということをテーマにお話ししたいと思いまして、この箇所を選びました。
そしてこれを通して、今日の私たちに聖書が語ろうとしていることは何なのか?ということを、ま、3つの視点からお話をさせていただきたいなぁという風に考えています。

さて、ここで少し皆さんにも考えていただきたいんですけれども、イエスさまが弟子たちに対して予告をしたんですよね。
十二弟子たちは、イエスさまの受難と復活の意味が理解できたと思いますか?
ほとんどの方が、理解するのは難しかったんじゃないかと、今お思いになったのではないかと思います。
なぜできなかったと思いますか?
ルカの並行箇所には、このように書かれています。ルカの18章34節です。
<ルカ18:34>
34弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。

弟子たちが考えている文脈とイエスさまの文脈が、全くずれていた、ということが理由だと思います。
もし聖書の言葉を借りるのであれば、「隠されていたから」ですね。
十字架と復活の奥義を理解するためには、神の視点に立たなければならないと思います。
そうでないと、分かることができないと思います。

先ず、今日お読みした個所を幾つかに区切ってお話ししたいと思っていますけれども、
最初に(マルコ10章)32節〜34節です。
この部分はまさに今日お分かちしたいなぁと思うポイントになったきっかけになります。

1)一つ目のポイントは、「イエスは先に立って行かれた」ということです。

まずは、聖書を読んで「先に立つということはどういうことか」を確認したいと思います。
そしてこの時間の最後に、「イエス様が先頭に立つということは、私たちにとってどういう意味があるのか」ということを話をして、まとめさせていただければと思っています。
では、(マルコ10章)32節です。ご覧ください。
32さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。

「イエスは、弟子たちの先に立って行かれた」――この部分に注目しました。
この先に立って行くという言葉から、イエス様の覚悟であったり責任というものが見えます。
ちょっと私の仕事で例えさせていただきますけれども、教員という仕事はホントに多岐に亘るんですね。
最近、よく教師はブラックと言われていますので、なんとなくご存じの方も多いのではないかなぁと思いますが、
私の場合、中高の英語が専門の教員として雇われていますので、英語を教えるということが主な仕事だと思っています。
しかし、それ以外にも自分の担任するクラスがあります。それ以外に授業を教えている他クラスや他学年、またバトミントン部の顧問をしていますので――自分はできないんですけれどもバドミントン部を持っています。ですので、部員も自分が接する子どもたちの一つです。

このバドミントン部なんですけれども、部活はほんとに拘束時間が長かったりするんですけれども、日曜日に引率に行くこともあります。
来週も実際引率に行きますが、この「引率」という所に少し注目したいのですね。
大体引率して試合会場まで行く時は、その言葉の通りだと思いますけれども、先生が先頭に立ちます。
そして後ろから生徒が二列でついてくるというような感じです。
先生と生徒の間には、大体1mから2m位、距離が空きます。
そりゃそうですよね。先生にくっついて一緒に行きたいっていう人はあまりいないですよね(笑)。
ほとんどいないです。だので、やっぱりちょっと距離を取りたいという風に思うのか、1mか2m位必ず離れながら、会場に向かっていくという感じですよ。

その時に先生がどんなことを考えているかというと、ま、日曜日出勤なのに、とそういうことはありますけれども、登録費用をこれから払わなくてはいけないとか、時間通りに間に合うだろうかとか、生徒が万が一でも迷子になったら大変だとか、そんなことを思いながら先頭を歩いて行くんですね。
で、目的地に本当に時間通りに着かなかったら大変なことになるとか、その時何かトラブル起こらないでほしいな――そんなことをいつも考えています。
ま、様々な責任と、ある程度の覚悟をもって、引率しています。

イエスさまと比較するのは、本当に申し訳ないんですけれども、イエスさまも並々ならぬ覚悟と責任だったと思います。
私(伊藤大輔さん)も引率する時にそうなので、イエスさまはもっとそうだろうと思います。
ましてはエルサレムに上る途中ですよね。エルサレムに上るというのは十字架に向かっていく途中ですね。
十字架に向かっていく途中で、私たちにはもう想像できない程、緊張感や孤独、そういうものに溢れていたと思います。
「弟子たちは驚き、恐れを覚えた」と書いてあります。
様々な不安や恐れがあって、多分互いに吐露し合っていたんだと思います。
「ほんとにエルサレムに行って大丈夫なのか?」
「あえて危険な所にイエスさまをお連れしていいんだろうか?」
「イエスさまにここ止めた方がいい、ってアドバイスした方がいいんじゃないか?」
とか、もしかしたら話していたかもしれません。
もしかしたら自分の思いで、「遠いところには行きたくないなぁ」とか、「また今日もどれ位歩かなきゃいけないのかなぁ」とか、そんな話をしていたんじゃないのかなぁと思います。
そんな状態でもイエスさまは、私たちの先頭に立って、自ら希望を示してくださるお方です。

ちなみに引率の時に、神経を尖らしているからか、後ろの生徒が話している内容って、ほとんど聞こえるんですね。
これほんとに顕著なのは、修学旅行などでバスに乗って、自分の担任する生徒たちを引き連れていく場合、恐ろしいぐらい自分のクラスの様子が分かります。
担任が前に座りまして、後ろに生徒が座っている、そういう場面をイメージしていただきたいんですけれども、
生徒はこそこそ話して、先生には聞こえていないと思っているわけですが、全部聞こえるんですね。
こそこそ話しているつもりなんですけども、バスの色んな騒音で、多分大きい声になっちゃうんですね。
こっちは神経とがらしていますので、生徒が話している内容全部聞こえちゃうんです。
授業のことや、担任のこと、先生たちのこと、普段の生活、あとは友だち関係のこと、あの子ってこうだよね、というようなこと、友だち同士でこそこそ話しているつもりが、実は全部聞こえます。
だからイエスさまは、全部分かっておられたんじゃないかなと思います。

他の先生も一緒に引率している時は、さらに冷や冷やします。
実際に、「先生のクラス、本当に大丈夫?」と言われたこともあります(笑)。
そりゃそうですよね。私もそのときは、本当にそう思いました(笑)。
そこで、クラスに向かって、バスのマイクを手に取って、「いいか、バスを降りたら、みんな集合な、ちょっと話するからな」となって、担任として彼らに必要だと思うことを話す、ということを今までもやったことがあります。

聖書に戻ります。(マルコ10章)32節
 32・・・すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。

やっぱりこういう展開になりますよね(笑)。
私も自分がそうなので、多分そうだろうな、とほんとに思います。
ま、十二弟子の中にはペテロもいたでしょうから、きっと色んなことが気がかりになり、みんなでああでもない、こうでもないと言ってたのでしょう。

さて、ここからなんですけれども、この箇所は私たちにとって、見過ごせない箇所です。
私たちにすると知っていることなので、す〜っと流してしまいがちですが、少しここをゆっくり見てみたいなあと思っています。
イエスがどのように自分の復活と受難を弟子たちに伝えたのか?それを、私たちも今日、自分が弟子だと思って聞いてみたいと思うのです。

2)ここからは二つ目のポイントになりますが、(マルコ10章)33節34節を見てください。⇒《十字架と復活は必ずセットである》

この箇所を英語で読んで見ると、未来形の動詞が8つ出て来ます。
33節の「エルサレムに上って行きます」――これは未来形じゃないんですね。
それ以降の動詞の前には、willという助動詞が全部付きます。
最近では、未来形のこのwillは中学一年生で学ぶんですけれども、訳す時に、「〜するだろう」と訳されることが多いです。
ですが、willを「〜するだろう」と日本語に訳すと、なんかしっくり来ないんですね。
本当のこのwillってどういう意味があるかって言うと、「必ず〜する」っていう意味なんですね。強い意志が込められています。
例えば結婚のプロポーズをする時に、英語であればWill you marry me?と言いますよね。
「結婚してください」って言うんですけれども、その「結婚してください」って言葉にwill が使われますが、これをもし「〜するだろう」みたいな曖昧な言葉だとしたら、プロポーズとしては何とも弱々しいとか、頼りないなぁと思ってしまいませんか?
このwill というのは、ほんとに強い思いが込められています。その述べている人の強い思いが入っているんですね。
ですから「〜だろう」ではなくて、「必ず〜します」という強い決意です。

もう少し専門的に話しますと、同じ未来形のbe going toよりも大分強い言葉なのですね。なので、そういう意味でも、この未来形がwill が使われているというのは、ほんとに注目に値すると思っています。
willには自分の意志が多分に含まれており、イエスさまが「必ず〜やりますよ」ということなのです。
そう思ってこの箇所を読むと、イエスさまのものすごい強い決意が見えて来ますね。
私たちは、十字架と復活を知っている前提でこの箇所を読んでいますけれども、イエス様を始め、弟子たちは、その事実を経験していないわけです。
そう考えると、イエスは十字架刑がどのような流れなのか、その後に復活があるということを明確に詳細に知っていて、それに確信を持っていたということがこのwillという 助動詞から分かります。

33節から、一緒に未来形を含む動詞を探していきましょう。
もしよろしければ、動詞に(線)とか引いていただくと、見易いんじゃないかなぁと思います。
1つ目、「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。」
「引き渡される」という動詞ですね。ユダヤ議会に引き渡されるわけです。
2つ目「彼らは人の子を死刑に定め」つまり、ユダヤ人たちが死刑に定めるわけですね。
3つ目「異邦人に引き渡します。」異邦人っていうのは、ローマです。
ユダヤ人たちは死刑を執行する権威を持っていなかったので、ローマに引き渡したということが分かります。それも聖書通りですよね。
4つ目は、「異邦人は人の子を嘲(あざけ)り」ローマ人があざけるのですね。
5つ目「唾をかけ」、6つ目「むちで打ち」、7つ目「殺します」。

3つ目から7つ目までは、十字架刑のことを指しています。ほんとに詳細ですね。
そして、8つ目は、「しかし、人の子は三日後によみがえります。」
「よみがえる」ということです。
感謝なことに、この予告は、《十字架と復活はセットである》ということです。
これを二つ目のポイントとさせていただきます。
《十字架と復活は必ずセットである》ということです。

つまり、弟子たちを含めた私たちは、将来の希望が保証されているということなのです。
イエス様は、弟子たちを失望させるために語っているのではなく、エルサレムが怖いとかそういうことではなく、実際に直視なければならないことを語り、そして、その後に希望があると教えてくれているわけです。

私たちはどうでしょうか。十字架と復活をセットとして捉えているでしょうか。
私たちの罪のためにイエス様が十字架にかかり・・・私たちのために死んでくださった。そこだけにフォーカスしていないでしょうか。勿論すごく大事なことですけれども。
イエスは死んだままではないでしょうか。イエスさまは今も生きておられて、今を生きる私たちを救うことができるお方だということを覚えていただきたいなぁと思います。
暗闇で先が見えないことが人生には沢山あるかもしれません。しかし、34節「三日後によみがえります」ということです。
希望を持って歩みたいものです。
 
さて、次の箇所に進みます。弟子たちが理解できなかった、とルカが言って来た理由がここで分かります。(マルコ10章)35節――

 35ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」

となります。
この後の箇所を読むとイエス様が栄光を受けるときに、つまり天に上げられた後に、ヤコブとヨハネが右と左につけるようにしてください、というお願いが続くわけです。
福音の中心である、十字架と復活の予告に対する弟子たちの応答は、「神の国で特別な地位がほしい」というものでした。
ほんとにチンプンカンプンだと思いませんか。文脈がずれているというのはそういうことですね。

実は、これマタイの福音書で読むと面白いことが分かります。マタイの福音書20章20節はこう書いています。
<マタイ20:20>
 20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。

お母さんがお願いに行っちゃっているわけですね。
自分たちが言っているのでなく、お母さんが来て、「お願いがあるんですけれども〜」という風に言っています。
これ、他の聖書の箇所と照らし合わせると、ヤコブとヨハネはイエスのいとこで、その母はイエス様からしたら、母であるマリアの兄弟ということになり、おばさんですね。
まあ、ちょっとそこは置いておいて、お母さんが
「イエス様が天国に行かれたときに、息子ふたりをあなたの左右においてください。お願いします」と頼んでいるわけです。
すごい依頼だと思いませんか?今風に言うと、モンスターペアレンツですかね。

学校で働いていると、よく聞かれる言葉です。
ちょっと言葉を選んで話さなければなりませんが、自分の息子のためなら、何でもできるのが、両親です。
学校で勤めていると、教員側からするとそれはとんでもないなぁと思うような依頼が来ることがあります。
この出来事をあえて例えるならば、「予選をやったかもしれないけれども、うちの子を発表会でクラスの代表にしてください」というようなことですね。
もっとレベル高いかもしれませんね。
いや、それは学校が決めることですよ、とできる限り優しく、学校の仕組みやルールを説明するわけです。
内心、やあ、できるわけがないでしょう・・・と思いながらも、そこは教員として心落ち着けながら説明するわけですね。

でも、私(伊藤大輔さん)も子どもが二人生まれて、どちらも可愛くてたまらないです。ほんと、たまらないですね(笑)。気持ち分かるようになってきました。モンスターペアレンツの(笑)。
自分だったら、もし息子や娘が頑張ってやってきたことが学校で評価されないようなことがあると、私は教師という立場を捨てて、モンスターペアレンツになるかもしれないです。
気持ちがわかるようになってしまいました。(いや、やらないようにしますけどね。笑)

イエス様も言葉を選びながら、説明していきます。
ちなみに、これも興味深いですが、最終的に十字架上で、イエスの右と左についたのは、強盗でしたよね。
神様の御心は、私たちが考えていることを大きく超えるなぁと思わされます。
(マルコ10章)40節に――

40しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」

とあります。私たちが理解できなくて当たり前ですね。
タイトルにもしましたが、私たちは、「先頭のイエス様を信じてついて行くこと」――それがある意味――神を信じる、信頼する、信仰を持つということです。
弟子たちの最大の誤解は、十字架と復活がセットではないということです。
もしかしたら、復活も分かっていないかもしれません。

(マルコ10章の)37節には、「イエス様が栄光をお受けになるとき」という風に書かれており、イエスが神の国に上ることを想定していることがわかります。
しかし、そこには十字架――受難ですね、そして復活という隠された奥義は分かっていなかったのではないかと思います。
天に上げられた後の自分の地位を最も大切なことと思っていた、それも一つの証拠ではないかと思います。
十字架があって初めて復活があるということを、私たちは再確認したいなぁと思います。

3)さて、最後に3つ目のポイントに進みます。3つ目のポイントは価値観についてです。⇒《地上の価値観から神の国の価値観にスウィッチする》

私たちがこの地上で持っている価値観を神の国の価値観にスウィッチするということ――これを3つ目のポイントとして考えていきたいと思います。

弟子たちは、十字架と復活をセットとして考えることができていませんでした。
そんな私たちにイエス様が語ったことは、(マルコ10章)44節です――

44あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

弟子たちの発想とは真逆ですよね。
ヤコブとヨセフ――いや他の10人の弟子たちもそうだったと思います。
41節を見ると、ヤコブとヨセフのお母さんがイエス様に無茶なお願いをしているのを聞いて、「腹を立てた」と書いていますので――きっと弟子たちみんな同じだったと思います。
しもべにはなりたくない。むしろ、イエス様の右、左に就きたい。地位がほしい――二人だけでなく、全員がそんな風に思ったのではないかなぁと思います。

なぜ、「しもべになりなさい」なのでしょうか。
その理由は、(マルコ10章)45節です――

45人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

イエス様がそれを行ったからです。
なぜしもべにならなきゃいけないか?それはイエス様がそうしたからです。
イエス様が十字架にかかり、命を捨てて、復活して、皆のしもべになったから、なんですね。
これは本当に革命的な教えだと思います。奴隷やしもべは見下されるものですよね。
この地上の偉大さに囚われていては、神の視点に立たない限り、絶対に分からな価値観だと思います。

この世の中にも変革を語るリーダーって沢山いますよね。
そのリーダーたちは自分の変革ではなく、周りが変わらなければいけないと、色んな政策を出して、一生懸命考えて説く者がほとんどです。
日本のリバイバルについて私たちが祈るという時も、同じかもしれません。
日本がこう変わらなきゃいけないんだ。いやいや、まず自分が変わらなきゃいけないんじゃないか?
自分はこのままでいい。でも日本は変わってほしい。自分はこのままで、でも組織は変わってほしいって思うことが世の常だと思います。
でもそうではいけません。まず自分から変わらなければいけないわけです。
まず、私たちが神の視点に立たなければ、十字架や復活は本当の意味で分かることが出来ません。
 
最後に、へブル人への手紙を見たいと思います。1月1日の説教にも出て来ましたけれども、12章の2節です。
まさに今日の箇所のまとめとも言える所だと思います。ぜひお開きいただければと思います。有名な箇所です。
もうマルコには戻りませんので、何か挟んだりする必要はありません。
<へブル12:2>
2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

「目を離さないでいなさい」つまり、イエス様は私たちの前にいるということですね。
目は前にありますから、私たちの前、すなわち先頭にイエス様がいるのです。
この状態を作るということが、まずすごく大事だと思わされます。
ぴったりくっついて行くことはできないかもしれません。1mや2m位離れているかもしれません。
その2mや1mの間に、私たちには考えられないような苦難や苦労や色んなものがあるかもしれません。
しかし、《イエス様が先頭にいるということは、イエス様もその道を歩んで行かれた》ということですよね。。
先頭にイエス様がいるという安心、希望が私たちには常にあります。
イエス様は、十字架と復活がセットだと分かっていました。
私たちも今日、それを未来形の動詞を見ながら確認したところです。

(へブル)12:2の続きを読みますね。
ご自分の前に置かれた喜びのために、(***すなわち、復活のことです、と説明)辱めをものともせず、十字架を忍び、(***まだ弟子たちが分かっていなかった復活する前の受難です、と説明)神の御座の右に着座されたのです。

最高の見本であるイエス・キリストが今も生きて、私たちの前に、先頭にいてくださいます。
十字架で死なれて、そのままではないのです。
まずは、私たちが霊的に変わる、その価値観を変えるということが求められているのではないでしょうか?
地上の価値観ではなく、神の国の価値観にスウィッチできるようにと祈りたいと思います。
先頭を歩んでくださるイエス様は、皆のしもべになられました。
そんなイエス様が先立ってエルサレムに上ってくださいました。十字架にかかりました。
それは、そんなものをものともしない程の希望、つまり、復活です。
私たちからしたら、復活は勿論ですけれども、先頭にイエスさまがいるということ、それがもう他のものをものともしない希望ではないかと思います。
罪人の私たちの先頭には、十字架のイエス様、復活のイエス様が常におられます。安心してついて行こうではありませんか。

☆一言お祈りをします――伊藤大輔CS教師
天にいらっしゃいます父なる神さま、あなたが私たちをいつも思っていてくださって、先頭に立ってくださって私たちを率いてくださることを本当にありがとうございます。私たちがなかなかこの地上の価値観から解放されることができず、神の価値観を得ることができません。どうぞ神さま、憐れんでください。そして十字架・復活の本当の意味が理解できるようにどうぞ私たちを導いてくださいますようよろしくお願いいたします。この祈りを主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

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