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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/22 聖書はそう言っているのか?(3)多様な者たちが招かれている。マタイ19:3〜12
☆聖書箇所 マタイ19:3〜12
 3パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
4イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から、『男と女に彼らを創造され』ました。
5そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
6ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
7彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
8イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
9あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
 10弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
11しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。
12母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」

☆説教 聖書はそう言っているのか?(3)多様な者たちが招かれている。

2020年、「2020東京オリンピック」の掲げたビジョンは多様性と調和でありました。
オリンピックとパラリンピックという多様性の調和。
それから男性と女性のジェンダーの平等。
開会式では、国旗は男性選手が一人で1本、女性選手が1本持つというやり方をいたしました。
大会の運営も森さんから橋本さんに交代いたしました。
勿論昔から問題になっているのは、人種的な平等です。聖火ランナーの最後は大阪なおみさんが務められました。

そして今回、オリンピック史上初めて、LGBTQのアンケートを取りました。
LGBTQを表明したオリンピアンは186名。そしてパラリンピアンは36名。
これは前回のリオのオリンピックの痛い経験がございました。
女子で800メートル金メダルを獲った女性が、男性ではないか?という疑惑がかけられました。
本人の意識は女性。親も女性として生まれたこの女性を女性として育ててきた。
様々な調査がなされました。結果マスコミで裸にされるような屈辱を受けました。
結果は医学的に『性分化疾患』であるということが判りました。
それはお母さんのお腹の中で、人間は男の子女の子に身体の構造が分かれて行きますが、きちっと分かれない場合がままあります。
今日はその話をいたしますけれども、その選手の場合は女性ではあるけれども、男性的な要素が混ざっているということが判りました。

2020東京オリンピックで、そのアンケートに自分がLGBTQであると表明した日本選手は一人もいません。
無記名のアンケートですから表明することはできるんですけれども、いませんでした。
日本にはいないのか?勿論そうではないですね。
もし自分がそういうアンケートに答えて、根掘り葉掘り色々されたら、自分の選手人生は終わる、ということは、ま、分かっているわけですよね。
公表するということは、どんな国にあっても、どんな時代にあっても、大変な労苦とエネルギーを伴って来ました。

早川かなさんは、公表をある時決められたんですね。
そこに至るまでの多大なエネルギー、苦悩というのは、私たち測り知ることはできない。
なぜなら、マジョリティーには分からないからですよ。
私には少なくとも分からない。
で、そこから始めて、今日は聖書を見ていただきたいと思います。
ポイントは2つあります。

1)マイノリティーを受け入れるイエス

今日読んでいただきましたのは、マタイにしかないイエスさまの言葉で、これは有名な聖書の箇所です。
ちょっと映しますので、見ていただきたいと思います。
マタイの福音書の19章12節ですね。12節ちょっと読んでいきますね。

【画面:マタイ19章12節「母の胎から独身者と」「人から独身者にさせられた人」「自分から独身者になった人」に黒ペンで囲み。「それを受け入れる〜受け入れなさい」にピンクの傍線】

12母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」

ちょっとしばらく聖書を見ていただきます。いいですか。
@「母の胎から独身者として生まれた人たちがいます」ということは、
    まるでイエスさまが、現代の概念である『性分化疾患』ということを、知 っておられたように、
   《生まれた時に既に男性の性を持っていないで生まれて来た人》がいますと。

A「人から独身者にさせられた人たちもいます」
    これは宦官(かんがん)ですね。
    王に仕えるか、王妃に仕えるか、これは去勢されてしまう人たちです。
    非常に知的な人たちが多かったと言われていますが、
    幼い頃から――ま、訳は「独身者」ですけれども、もう少し丁寧に訳すと――《去勢された者》です。

《生まれた時から去勢されている》のか、《人から社会的な役割のために去勢させられた》のか(※と@とAをまとめて、)それから3番目に――

B「天の御国のために、自分から(***この場合は独身でいいでしょう、と説明)独身者になった人たちもいます」と。

この3つは、「また」で繋がっていることが分かるように、
この3つは実は並列なんです。並列。
私たちにしてみると、「天の御国のために、自分から独身者になった人たち」が一番偉いかのように思いますけれども、イエスさまはそういう話をしているわけではない。

話は、19章のこの聖書を見たままで、ごめんなさい。
19章の4節から、結婚の話が出て来るんですね。
【画面:マタイ19章4節「創造者ははじめの時から」にピンクの囲み。「創造者は〜『男と女に彼らを創造され』に黒ペンで傍線。5節「男は父と母を離れ〜ふたりは一体となるのである」に黒ペンで傍線。「ふたりは一体」にピンクの囲み」】

4イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
5そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。

という男女の結婚の話から始まっているんですね。
そしてモーセの離縁状の話が出て来ます。
イエスさまは離縁状をなにか拒否しているかのようですけれども、実はそうではないです。
これはまた後に一緒に学んでみたいと思いますが、イエスさまはこの結婚というこの世界の現実の難しさをよく分かっておられます。

その後で独身者が出て来ます。
独身者はこの場合、ちょっと特殊な独身者が書かれていますけれども、
そりゃ勿論結婚という選択を選ばずに、一人で行こうと思った方々もいらっしゃるわけですから、普通の独身の方もいらっしゃいます。
でも特殊な独身者のケースがあるということで、イエスさまは《生まれつきそうだと、男性の性を持っていない人》。
それから《社会の役割を果たすために、無理やり強制的に男性の性を抜き取られた人》がいる。そして3番目に
《神の国のために》――これは独身と訳してもいいのだと思いますけれども――
古代の文献を見ますと、キリスト教で神に仕えるために、無理やり自分自身で去勢した人がいます。
オリゲネスがそうであったと言われています。

というようにイエスさまは、3種類の独身者を、ま、普通の独身者とはちょっと違う3種類の独身者を並列して並べた上で、これを見てください。
ここ、(マタイ19:12)最後――「それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」とありますよね。
「それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」
そういう自分の境遇、自分の成り立ち、自分の生き方――それを受け入れなさい。
というのは、《場所を作りなさい》という意味なんです。
自分の心の中で、自分自身がどういう風な成り立ちで、自分がどういう育ち方をし、色々問題があるのかもしれないけれども、一旦それを受け入れなさい、と。

勿論「受け入れなさい」と言った時に、イエスさまは「わたしは、受け入れています」ですよね。
イエスさま自身、独身でいらっしゃいましたもの。イエスさま自身、神の国のために独身を貫かれた。
どうして結婚しないのか?というような質問があったかもしれないけれども、
「わたしは独身のままでいます」という決断をなさったのですよね。
使徒ヨハネもそうでしょう。あるいは使徒パウロもそうでしょう。みんな神の国のために独身を貫かれたのですよね。
「それを受け入れなさい」というのは、《そういう場所を作りなさい、自分の心の中に。わたしは作りました。》
そして、みんなに言っているんですよね。みんなに。
《あなたがたも、そういう方々のために、場所を作りなさい》と。

話は、多様性ではなく、「創造のはじめから、神は、人を男と女に造り」から始まっているんですよ。
そして、「その二人が結婚し一体となって」という、そのマジョリティーの論から始まっている。
ところが世界は、そのマジョリティーの論だけではいかない。
元々結婚しない人もいる。結婚してもうまくいかずに離縁した人もいる。
その他に、特殊な去勢された者たちという方々もいる、当時は。今でもいるかもしれないですね。
それは「そのような賜物が与えられたのであれば、それを受け入れ、わたしは受け入れています。あなたがたも受け入れなさい」という、
非常に特殊な(教えで)、福音書の中ではマタイの福音書しかこれを載せていません。

そういう意味で、宦官(かんがん)のことを英語で、ユーヌクスと言いますけれども、ギリシャ語でもユーヌクスですね。(※音節eu・nuch 発音記号・読み方/júːnək/)
宦官というのは職業の話。
独身というのは社会的に現れた立場の話。
そして物理的に言うと、去勢されたという意味。
ユーヌクスは3つの使い方がありますけれども、明らかに最初の二つは男性の性を持っていないという人。
3番目は持っているかもしれないけれども、あえてそれを使わないと決めた人。
しかし《そのどれも、受け入れる余地を作り、自分を受け入れ、そしてわたしについて来なさい》というのが19章ですね。

19章の後半部分では、富める青年が「どうしたら救われるのでしょうか?」と。
イエスさまは教えますよね。「あなたの富める財産を捨てて、貧しい人に施し、その上で、わたしについて来なさい」と、これは
「わたしについて来る」という「神の国に招く」というのが、大変大切なテーマです。
じゃ、誰が招かれているのか?

旧約聖書を見ますと、申命記の23章の1節に、「そのように去勢された人は神の国の礼拝に出ることはできない」と書いてあります。
ま、神の国というよりも、「集会に出ることができない」と。
男性みんなが集まって集会をしているわけですね。
古代の話ですから、女性に集会に入る権利はないです。男性だけです。
だけど、そこに、「去勢された者は共に集会を守ることができない」という規律が、もうびっしりある中、イエスさまはスポーンとそれが抜けるんですよ。それが抜けてしまう。
生まれつきであろうが、強制的であろうが、神の国のためであろうが、それを受け入れる力を神は与えてくださる。
「それで、わたしについて来なさい、神の国に」という表現になっているということを、心に留めていただきたいと思うんですね。

結婚それ自体、結婚していない人には時にプレッシャーがかかりますよね?「まだしないのか?」とか。
結婚した後に、なかなかお子さんがおできにならなければ、「まだできないのか」みたいなプレッシャーが、おじいちゃん、おばあちゃんから来たりしますよね。
だけどこの世界というのは、神さまの摂理によって様々な立場、そしてその様々な立場を自分自身が受け入れ、
そしてもっと大切なことは、社会が受け入れてくれなければ、自分で受け入れられないですよ。
社会が「君はその生き方でいいんだよ」と言ってくれて初めて、「ああ、そうか」と自分でも受け止めることができる中、
社会がいつまでたっても、「それではダメだ」っていうメッセージを発し続けている現状というのは、少し考えてみた方がいいんじゃないかというのが、私(藤本牧師)の気持ちですね。

イエスさまはマタイの福音書で、創造の原理から始まったんですけれども、
しかし男女の結婚が尊いことを認めながらも、そこに当てはまらない人、それらの方々も同じように神の国へと招かれている、という話をしておられます。

二番目にこれで終わりですが――
2)マジョリティーの罪深さ

これは私たちなかなか分からないと思いますけれども、旧約聖書の民を考えると、すぐに分かると思います。マジョリティーの罪深さ。
いいですか。イスラエルの民は男性なら生まれて8日目にみんな割礼を受けます。
割礼を受けていない男子はいないんですよ。
そして、聖書の律法に、何を食べるか、何を食べないのか、どのように調理するのか、
食材に至るまで、料理の仕方に至るまで、食べ方に至るまで、詳しく記されています。
いつどのような礼拝をささげるのか、どのような祭りをするのか、
実は礼拝から道徳に至るまで、安息日から日常に至るまで、
周辺民族と区別するために、これ言い方を変えると、それが「聖なる民となる」という意識なんですよ。

神さまも、そういう意味で律法をお与えになったと思います。
色んな民族がぐしゃぐしゃで、しかも偶像礼拝と汚れに染まっている中、
「ご自身の民は聖くさせたい」ということで、そういう規定をお作りになったんだと思いますけれども、
しかしそういう規定の中に生きている内に、やがて彼らは「私たちと彼らは違うんだ」という意識に立ってしまいますよね。
自分たちこそが聖なる民で、彼らは汚れた民だと。
実はイスラエル民族っていうのは、ものすごく小さな少数民族なのです。
少数民族であるのに、「私たちはみんな一つの使命で、一つの生き方で、神の民だ」という意識は当然おごり高ぶりになり、
自分ファーストのマジョリティーの罪深さというものが出て来てしまうんですよ。
その中にいる限り、自分が罪深いとは思ってない。他者を裁くことに関して、罪深いとも何とも思っていない。
なぜなら、「みんな、そうだから、違う彼らがいけないんだ」という発想になってしまうわけですよね。

これが純粋な民族のあり方だと言えば、もしかしたら教会も同じような傾向性がある、
危険性をはらんでいる、と言っても過言ではないかもしれない。
例えて言うなら、神さまの祝福でさえも、一つの基準で考えられます。
旧約聖書で言うなら、結婚をし、沢山の子どもに恵まれ、健康で長生きし、信仰は敬虔で、富に恵まれ、社会的に評価されることが神の祝福ですよ。そうですよね。
ヨブ記を読むとよく分かります。まさにヨブ記の最初でヨブはそういう人だった。
7人の子どもがいて、そしていつも神にいけにえを捧げ、彼らの罪のために神を礼拝し、そして地域の評判も良く、大富豪であったと書いてあるじゃないですか。
それが神によって、祝福された人なんですよね。
でもヨブは、一瞬にしてその全部を取り去られます。全部を。
全部を取り去られた後に、ヨブはさらに祝福された人に変わるんです。
人の痛みが分かり、ヨブの所に来て「私のために祈ってください」とヨブを見るようになる。

私たちは神さまの祝福を、下手すると一元的に考えてしまう。
全部成功して、健康で、長生きして、世の評判も良くと、神さまの祝福って、そういうものではないでしょう、ということを旧約聖書でも語られ、新約聖書ですともっと語られます。
「聖さっていうのは、何を食べるか、食べないかではない。あなたの心だ」と。
神の国にどういう人が入って来るのか?いや、マジョリティーは入って来ないだろうと。
「むしろ病んでいて、悪霊につかれていて、貧しくて小さく価値のない者たちがわたしの弟子であり、神の国に招かれている」という風に考えるではないですか。

使徒の働きの8章(***27節)にエチオピアの女王カンダケの財産を管理していた宦官の話が出て来ます。
使徒の働き――イエスさまが天に召された後ですね。
主の使いはピリポという人物をこの宦官のところに遣わし、福音を説くように教えます。
エジプトの宦官というだけで、二重のマイノリティ―ですよね。
エチオピア。エチオピア人というのは完全な異邦人です。ですから礼拝はできない。神殿にも入れない。
しかも宦官ですよね。すると二重のマイノリティーを持っている人物に、主の使いはピリポに「あなたは彼のところに行って伝道しなさい」って言うんですね。

ピリポはこの宦官の馬車に乗り込んで、そして聖書の話をしていました。
すると、馬車が水辺のそばに行きます。宦官はピリポに言います。
「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか?」(36)
何の妨げもない。ピリポは宦官に洗礼を授けます。

高津教会に何か妨げがあるんでしょうか?って言われたら、
「何にもありません。あなたが真実にイエス・キリストを信じているなら、洗礼を授けます」とストレートに言えるような教会になりたい。
それが、私たちのあるべき姿であると思います。
かつて私たちは、精神障害の方を受け入れたこともあります。障害の方を受け入れたこともあります。
特別に配慮はいたしましたけれども、それらの方々が、私たちがそれらの方々の妨げになってはいけないという意味で、私たちは手を尽くしていますよね。
いつでもそうだと思います。
初めての人であろうが、どういう境遇の人であろうが、主の前に礼拝に来るんなら、私たちは諸手を挙げて共に礼拝をしたい。
信仰が同じであるならば、共にイエスさまの祝福にあずかりたいと願っているではありませんか。

最後に二分ぐらい、教会に販売のために置いてある「LGBTとキリスト教――20人のストーリー」それを読んだ方から、昨日お手紙をいただきました。
それを一部お読みしますね。

――読みはじめる――
神さまは色々な人を造られました。たまたまそれが多数派と少数派になっただけで、そのことで自分が多数派の中にいる、という安心感で差別することは、すごく傲慢なことだと思いました。性的なこと、身体的なこと、精神的、知能的、それらが他の人と違っていても、その方々も神さまは造られたのです。以前の私だったら、それが何か悪いことかのように思っていたかもしれません。でも今は、驚きましたが、そういう感情は私の内側にありません。神さまは一人一人を慈しんで造られたことが分かりました。イエスさまはすべての人のために十字架に架かってくださった、ということを改めて思いました。
――読み終わり――

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、宦官がピリポに向かって、「私が洗礼を受けるのに、何か妨げがあるのでしょうか?」と聞いた時に、「何にもない」と、エチオピア人であり、去勢された者でありながらも、神の国に招かれ、その同じ祝福にあずかっているピリポの姿を見ました。

どうか私たちが妨げになることがありませんように。自分がマジョリティーであるなんていう意識に立つことはありませんけれども、しかしどうか私たちを導いて、一人一人の個性、多様性を尊重する教会でありますように、どうか憐れんで助けてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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