☆聖書箇所 ルカ22:54〜62
54彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。 55人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした 56すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」 57しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。 58しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。 59それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」 60しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。 61主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。 62そして、外に出て行って、激しく泣いた。
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景J ゆるしのまなざし
《ペテロのいる風景》の今日は第11回目になりますけれども、「ゆるしのまなざし」と題しまして、お読みいただきましたルカの福音書の第22章54節〜62節、ここから恵みを共に分かち合いたいと思います。
前回の続きのような場面なんですけれども、3つの視点から共にみことばを丁寧に読んで行きたいと思いますが――
1)ペテロの《三度の知らない発言》
事の初めは(ルカ22章)54節です。お読みいたします。
54彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。
ここに「ペテロは遠く離れてついて行った」ということばがあります。 イエスさまのすぐ側を、イエスさまのすぐ隣りをついて行くのでなくて、遠く離れてついて行かざるを得ないペテロの心境―― イエスさまの弟子だということが分からないように、またイエスさまに見つからないように――そのような思いで、遠く離れてついて行ったペテロの姿。 そしてこの後、《三度の知らない発言》が続くわけですね。 もう一度お読みしたいと思います。56節――
56すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。(***じっと見つめて、こう言ったんですね、と説明)「この人も、イエスと一緒にいました。」 57しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。
これが第一回目です。 「いや、私はその人を知らない」――記憶にございません、ですね。 2000年前から「記憶にございません」が通用する――そういう世界だった。
58しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。
これで二回目です。 「しばらくして、」ということは、立て続けでなかったらしいです。 59節には、「それから1時間ほどたつと、」とありますが――
59それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」
「ガリラヤ人」というのには方言があったらしいですね。ガリラヤ弁をしゃべっていたらしい。 ですからガリラヤ弁を喋っているペテロは、同じくガリラヤ弁を喋っていたんでしょうか、イエスさまは。 同じ仲間同士で。そのガリラヤ弁仲間がいる、その言葉で、「あ、こいつもあのイエスという男の仲間に違いない」とこの人は判断して、「ガリラヤ人だから」とこう言ったわけですね。
60しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。・・・
《三度知らないという発言》ですけれども、表現が違いますね。 「知らない」と言ったのは一回目で、二回目は「いや、違う」と言って、三回目は「あなたの言っていることは分からない」。 でも三回否定したことは事実です。
この最後、三回目ですね、マタイとマルコの福音書は共通してこういう言葉がついています。 「ペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、」(***マタイ26:74、マルコ14:71共通の言葉) 「そんな人は知らない」と言った――これはマタイ(***26:74)です。 「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った――これはマルコ(***14:71)です。
「ペテロは、《嘘ならのろわれてもよい》と誓い始め」ながら、「知らない」と言った。 このようにペテロは三回知らないと言いました。イエスさまから遠く離れた状態で。
で、ペテロは《知らない発言》を終わろうとしたときに――
2)激しく泣き崩れるペテロ
(ルカ22章)60節の続きです。
60・・・するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。
「するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた」――つまり最後の「あなたの言っていることは分からない」と言い終わらないうちに鶏が鳴いた。61節から――
61主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。 62そして、外に出て行って、激しく泣いた。
ペテロはなぜここで激しく泣き崩れたのでしょうか? マルコでは「泣き崩れた」という表現で書いてありますけれども(***マルコ14:72)、なぜ泣き崩れたのか? 激しく泣き崩れた。それは主のことばを思い出したからです。 その思い出すきっかけとなったのは、鶏が鳴いた《鶏の鳴き声》と、もう一つ「イエスは振り向いてペテロを見つめられた《イエスさまの眼差し》でした。 鶏の鳴き声:聴覚と、イエスさまの眼差し:視覚によって、ペテロはイエスさまの言葉を思い出すわけですよね。 そのお言葉はどういうお言葉か? 「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」というみことばを思い出したのです。
じゃあ、このみことばはいつ語られたみことばだったのでしょうか? それは(ルカ)22章の31節〜34節をお読みしますと、分かると思います。 ちょっとお読みいたします。
<ルカ22:31〜34> 31シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。 32しかし、私はあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 33シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 34しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
このお言葉をペテロが思い出した時に、ペテロは激しく泣き崩れたんですね。 激しく泣き崩れるって一体、ただ感動の涙、悔いの涙で、はらはら涙を流したんじゃなくて、激しく恐らく大声で、大声を出して泣き崩れた。 崩れるということはもう跪くような感じでしょうね、そして、わんわん泣いているわけですよ。 なんでこれ程までに?このお言葉を思い出したからです。
ペテロはこういう思いだったかもしれません。 ああ、あの時、私自身でさえ知らない私のことを、三度イエスさまのことを知らないと言ってしまう私のことを、イエスさまは既に知っていてくださったんだ。 このことを自分に言われた時、知らないと三度も言ってしまう私のことを、この時点で、予め赦しておられたんだ、ということにペテロは気づいたんです。 振り向いて自分を見つめる《イエスさまのゆるしのまなざし》が、すべてを物語っていました。
イエスさまのペテロをじっと見るまなざしは、《ゆるしのまなざし》でした。 決してさばきの眼差しではなかった。悲しみの眼差しでもなかった。 ゆるしのまなざしをペテロに注ぎ続けておられたイエスさまでした。
ああ、それなのに、それなのに、私を予めゆるされたイエスさまは、これから裁判にかけられ、十字架に付けられて死のうとしている。 激しく泣き崩れるペテロ。 このイエスさまの姿に圧倒されるわけです。 イエスさまのゆるしのまなざしに耐えられずに、圧倒されているペテロです。
既に、ペテロでさえ知らなかったペテロの姿を、イエスさまは予めご存じで、「三度知らない」とあなたは言いますよ、とペテロに告げられたイエスさま。 予めペテロのことをゆるしておられたイエスさま。 誤解を恐れずに申し上げるなら――(※声の調子を上げて語る戸塚伝道師)―― 悔い改める前にゆるしの恵みの中に初めから置かれていたペテロでした。 悔い改めが、ゆるしの条件になっていないんですね。 イエスさまの側では、もう既にゆるしが先にある。
ヨナもそうでしたね。 以前「ヨナ書に自分を問う」というシリーズで、ヨナ書をず〜っと読んで来たことがありますけれども、ヨナもそうでした。 主の御顔を避けたヨナに、タルシシュ行きの船を用意されていたのは神さまだった。 初めからヨナのことをゆるすつもりで、ヨナを泳がせておられた神さまだった。 魚の腹の中で悔い改めたかのように見えたけれど、でも最後まで神さまに怒り、拗ねて、全然神さまの言うことを聞かなかったような弟子である(笑)。 その後どうなったかは書いていない。途中で尻切れトンボのようにヨナ書は終わっています。 でもヨナに対する徹底的なゆるし、それが先にあった。
イエスさまの側では、ゆるしが先にある。 だからこそ、ペテロは後に本当の悔い改めに導かれたのです。 さらにペテロは、イエスさまの語られたこのお言葉も思い出したかもしれません。 先程お読みしましたルカの福音書22章の31節〜32節。
<ルカ22:31〜32> 31シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。 32しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
本当の悔い改めに導かれた。だからイエスさまは、「立ち直ったら」という言葉を預言されています。 「立ち直ったら」――イエスさまはペテロがサタンに狙われ、信仰を失うことをお見通しでした。 でも必ず立ち直ることができる。 そして立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいよ。 ゆるされた恵みで、他の人をゆるし、励ます存在になるように。 このことをもうここで、イエスさまはペテロに期待されているわけです。
3)イエスさまのゆるしの広がり
イエスさまはペテロだけを特別にゆるしたのではありません。 同じくイエスさまを見捨てて逃げてしまった他の弟子たち、その弟子たちをも、ゆるしの恵みの中に置かれました。 イエスさまが復活された後、何事もなかったかのように、弟子たちに現れてくださった。何事もなかったかのように。 弟子たちは、「ああ、俺たちはもうイエスさまのことを見捨ててしまったぁ。逃げてしまったぁ」と悔いながら、部屋の中でびくびくしながら、でも何事もなかったかのようにイエスさまが。
私たちも天国に行ったら、神さまが何事もなかったかのように接してくださるのでしょうね。 「すいません、神さま、あの時あんな大きな罪を犯してしまいました。」 「すいません、私の人生はこうでした。ああでした。」 でも神さまは、何事もなかったかのように、「何のことですか?」って仰るかもしれない。 イエスさまのゆるしは、時空を超えて、どんどん広がって行く。 そしてあれから二千年経った今、私たちにもゆるしは、同じようなゆるしは届けられているわけです。
私はどうでしょう?他人ごとではありません。 ペテロがイエスさまのことを否定したのも、他の弟子たちがイエスさまのことを見捨ててしまったのも、もし自分がそこにいたらどうなっていたか分からない。 そして今でも、同じような罪深さ、弱さ、狡さ、傲慢さ、それは私にもある。 「いやあ、信仰があれば大丈夫ですよ」(笑)――簡単に言いますけれども、そんな甘いもんじゃないですよね、罪は(笑)。 私たちの抱えている弱さは、悩みは、そんな甘いもんじゃない(笑)。 「できればと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです」(***マルコ9:23)というイエスさまのみことばを紙に書いて握りしめて、お守りのようにして生活していたこともありました。 確かにそうですよ。確かにそうです。信じればどんなことでできる。でも、できないことが沢山あるというのが現実なんですね。現実です。
「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(***ピリピ4:13)とパウロは宣言しました。 すごいですね、パウロ先生は。 「本当ですか?」って言いたくなっちゃう(笑)。 特別な賜物がパウロに与えられたんでしょうね。 どんなことでもできる? 「その子イエスさまの血潮はすべての罪から私たちをきよめます」(***Tヨハネ1:7)とヨハネは書きました。 「すべての罪から私たちをきよめる」――イエスさまの十字架の血潮の力です。 なのに、なんで自らの罪深さをいつも感じるんでしょう? すべての罪から私たちをきよめてくださるお方、でも罪深さをいつも感じる私。 でもイエスさまは「主の祈り」でこう教えてくださいました。 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」 毎日祈りなさい。毎時間祈りなさい(笑)。今日も祈りましたね。 「そんなに頑張らなくていいことですよ。」――イエスさまは仰る。 「霊は燃えていても肉は弱いのです。」(***マルコ14:38)
これらのことを予め十分見越して、神さまが十字架のゆえに、私たち一人一人を既にゆるしの恵みの中に置かれています。 私たちはイエスさまの十字架のもとで、みんな同じような罪人です。罪人横一列です。みんな同じような罪人。 イエスさまのゆるしは普遍的なんです。 キリスト者だからと言って、人間のエリートになったわけではない。 ペテロも、ユダも、マザーテレサも、あの有名人も、あの容疑者も、あの身分の高い人も、あの感じの悪い人も、そして私も、 イエスさまの十字架の下では、罪人横一列。そしてゆるしの恵みの中に置かれている。一人一人横一列です。 キリスト者はゆるされた罪人――このことに気づかされた者がキリスト者なんだと思います。
詩篇の130篇の3〜4節にこうあります。 3【主】よ あなたがもし 不義に目を留められるなら 主よ だれが御前に立てるでしょう。 4 しかし あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます。
4節「あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます」 赦してくださる神さまがおられる。あなたが赦してくださるゆえに、あなたは人に恐れられる。人から礼拝される。 ゆるし主でいましたもう神さまを私たちは礼拝する。イエスさまの十字架によって。 十字架に架かり、復活されて、聖霊を通して共におられるイエスさまが、今も私たち一人一人を赦しの恵みの中に置かれている。 そして《ゆるしのまなざし》を常に注がれ、私たちのことを見つめておられるお方です。
ペテロはそのまなざしを感じました。 振り向いて自分のことを見たイエスさまのまなざし。 「ほらね、ペテロ、分かったよね。そうだったよね。」 これから十字架につかれるイエスさまです。 泣き崩れました、当然です。 そのイエスさまの温かな眼差しを、私たちもいつも感じていたい。 私たちもイエスさまの十字架のゆえに赦されている喜びを、いつも感じていたいと思います。
今日の礼拝の説教の後に歌う讃美歌は、「福219 ああ主のひとみ」です。 この219番の下のところに、小さな字で3人のお名前が出ています。 井置利男(いおき・としお)1926〜、梅田信治1922〜1978、そして高田早穂見(たかだ・さほみ)1926〜 左側が(※お二人)作詞者で、右側が作曲者です。
井置利男っていう人は、牧師先生でした。 青年時代は元日本海軍のパイロットをされていて、でも敗戦となって、生きる目的を失いました。 でもそのような中で、救い主イエスさまと出会いました。 牧師への召命を受けて、関西聖書学校に入学されました。 でも勉強すればする程、自分はキリスト者としての資格がない。もしかしたら救われていないのではないだろうか、と自己嫌悪に陥ってしまっていた自分。 でもその時、聖霊の働きなんでしょうね、自分に注がれているイエスさまの愛とゆるしに気づかされました。
ペテロのように滔々と流れる涙にむせびながら、教会の祈祷室で書き綴ったのが2節の歌詞でした。 その後、1節と3節は全体の体裁を整えるために、書き加えたそうです。 同じように、同じ神学校で学んでいた先輩の梅田信治先生、梅田神学生ですよね、当時。 梅田神学生にこの歌詞を見せて、推敲してもらって、 「じゃ、これを讃美歌の作成の募集に提出しよう」。 新作の讃美歌の歌詞を募集していたのですね、当時。 その募集に申し込もうと言って、これを申し込んだらば、採用されたんです。
で、その後、4節がつけ足されたんですが、讃美歌作詞者の第一人者由木康(ゆうき・こう)先生(1896〜1985)が、この4節を、締めくくりとなる歌詞を考えてくださいました。 由木康先生の作詞された讃美歌は、「まぶねの中に」とか、「この世のつとめ」とか、これ全部由木康先生が作詞された讃美歌ですけれども、その由木康先生がこの4節を付け足されました。
作曲者は高田早穂見先生。 キリスト者として自分も罪意識に苦しんで絶望感に襲われた時に、この讃美歌の歌詞に出会ったんです。 まだ曲はついていなかった。きっとこういう歌詞がこれからの讃美歌にありますよ、ということで、作曲者を募集していたのかもしれません。 その時、高田先生は「あ、これは私のための歌詞だ」と深く感動して作曲しました。 1952年のことでした。讃美歌作成懸賞に応募して、選ばれて、ついに日本基督教団の讃美歌243番に納められたのが最初でした。
日本基督教団の讃美歌、いまだにロングセラーです。 もう沢山の版を重ねて、いまだにロングセラーですね。もう60年位ず〜っと続いていますけれど。 その「243番 ああ主のひとみ」。 高田先生は、東京学芸大学付属世田谷小学校の音楽の先生をされていました。 私(戸塚伝道師)が大学三年生の教育実習の時に、なんか貫禄のある、柔和なおじいさんがいたんです。 あ、これが音楽の先生。私はてっきり今までのイメージですと、女性の先生かなと思ったんですけれども、あ、男性の音楽の先生がいる。 まさかこの方が、「ああ主のひとみ」の作曲者だとは全然分からなかったです。 もしその時知っていれば、色々お話伺えたのに、と思いましたけれども、後から分かりました。 この三人の合作がこの「ああ主のひとみ」。
井置先生が涙と共に書かれた2節の歌詞。こうです。 「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を いなみたる よわきペテロを かえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。」 ペテロに注がれたイエスさまのゆるしのまなざしは、今この瞬間も、全世界のすべての人に、そしてここにいる私たち一人一人に注がれ続けています。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、あなたはペテロをゆるしの恵みの中に置かれたまま、十字架に架かって行かれました。あなたの十字架の下では、すべての人がゆるされた罪人横一列です。イエスさま、あなたの十字架の贖いを感謝いたします。 私たち一人一人に注がれているあなたの温かいまなざしを、受け止めることができますように。そしてあなたに常にゆるされている喜びを味わわせてくださいますようにお願いいたします。 今週も、職場でも学校でも、家庭でも教会でも、様々な人との関わりの中で、ゆるされている罪人同士がお互いをゆるし合えるような、そんな思いを私たちにもどうか与えてくださるようにお願いいたします。礼拝の締めくくりを祝してくださいますように。救い主イエス・キリストのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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