☆聖書箇所 ヨハネ21:17〜22
17イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」 19イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 20ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」とイエスに言った者である。 21ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。 22イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
☆戸塚伝道師の説教 ペテロのいる風景L 神の栄光を現す死に方
早速みことばに心を留めたいと思います。 今日は《ペテロのいる風景》の第13回目になりました。「神の栄光を現す死に方」と題して、ヨハネの福音書21章の17節〜22節のみことば、3つの視点で共に恵みを分かち合いたいと思います。先ず一つ目――
1)ペテロの神の栄光を現す死に方
ペテロはイエスさまから大変なことを聞いてしまいました。 「あなたはわたしを愛しますか」というその問答の後に、(ヨハネ)21章の18節をご覧いただきますと、このように書いてあります。 <ヨハネ21:18> 18まことに、まことに、あなたに言います。あなたが若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。
ペテロは年をとると、望まないところに連れて行かれる。 ペテロの今後の生涯の預言めいたイエスさまの言葉です。 「年をとると、こうなりますよ、ペテロ・・・・・・」
ペテロは、「わたしの羊を飼いなさい」というイエスさまのお言葉の通りに、恐らく初代教会に於いては、エルサレム教会の羊を牧会されていたことでしょう。 そしてイエスさまから与えられた任命を全うしたと思うんです。
しかし年をとると、どうなるか?――両手を伸ばし――こう(※横に両手を開いて見せて)伸ばすのか、こう(※前に突き出して見せて)伸ばすのか。 こう(※横に)伸ばすと十字架ですよね。こう(※前に)伸ばすと、他人に引っ張られて連行されるんですよ。 ま、とにかく両手を伸ばし(***もしかしたら十字架につけられる態勢かも知れません)ほかの人が(***ローマ兵でしょうかね)帯をして(***束縛して、捕まえられて、ということでしょう)、望まないところに連れて行かれますよ(***処刑場でしょうか)。
でもこの時のペテロには、このイエスさまのお言葉が何のことなのか、全く分からなかったと思います。 イエスさまの言われる「自分の望まないところに連れて行かれる」って、いったいどこなんだろう? ペテロはあれこれ考える間もなく、イエスさまのお言葉が続くわけですね。19節ご覧ください。 <ヨハネ21:19> 19イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
こう話してからペテロに言われた「わたしに従いなさい」 何が何だか分からない状況の中で、イエスさまはペテロに「わたしに従いなさい」と仰った。 このイエスさまの言葉に対して、ペテロは「はい」とは返事していません。 なんか、いかにも返事して一件落着のような筋書きですけれども、返事してません。 「はい」とは言ってない。
「あなたはわたしを命がけで愛していますか?」 「いいえ、私が命がけであなたを愛することなどできないことは、あなたがご存知です。 友としてなら愛しています」と先程申し上げたばかりの、時間ですね。
ペテロは「はい」とは言えなかった。ヨハネが一言付け足していますね。 「ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」(18)の後に、 「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われた」(19)とあります。
ヨハネは書いています。 このヨハネの福音書が書かれているのは、紀元85年〜90年頃だと言われています。 そうすると、ペテロは命がけでイエスさまを愛するような存在になったことを、ヨハネは知っていました。 「わたしに従いなさい」とイエスさまが仰った言葉に「はい」と返事をして、その通りに生きたことをヨハネは知っていました。 だから「ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのです」という一言をここに付け足したのですね。
でもこの時のペテロは、そんなこと全然分からなかった。 ペテロは何だか不安に駆られて、そして21章の20節ご覧ください。 「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。・・・」 目の前にいるもう一人の弟子、そしてこの弟子に(ついて)こう質問しました。21節―― <ヨハネ21:21> 21ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
「この人は、年とったらどうなっちゃうんですか? この人は、あなたに従うんですか?」 そう質問しているわけですね。でもイエスさまは 「この人の人生は、あなたの人生ではない。 この人のこれからのことは、あなたとは関係ないよ、ペテロ。 この人に言っているのではないよ。わたしはあなたに言ってますよ。」 「あなたは、わたしに従いなさい」――22節の最後の言葉ですね。 「あなたは、わたしに従いなさい」――「わたしに従いなさい」の二回目がここに書かれている。19節が一回目。22節が二回目。 それでもペテロは「はい」とは言わなかった。この時は、「はい」とは言わなかった。
イエスさまが語られた、ペテロの今後の人生に関する預言の中身は、「望まないところに連れて行かれる」(18)。 そして、ヨハネが付け足したように、「ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、イエスさまはこう言われた」(19)ということは、 この18節と19節のイエスさまのお言葉は、《ペテロの殉教の予告》であったということが分かると思います。
《殉教》という言葉があります。 信仰を守り通すために、迫害の中、神さまにいのちを奉げることを意味します。そのことを《殉教》と言います。 殉教したペテロの死に方――神さまの栄光を現す死に方であった――ヨハネがそのように述べているということは、ペテロの死に方をもしかしたらば、見たのか聞いたのか。 ああ、なるほどペテロは――イエスさまがあの時仰ったように――神さまの栄光を現す死に方をしたんだ、ということを確信したんだと思うんですね。
ペテロの殉教――これは聖書には書かれていません。言い伝えとして残されている情報があります。 この情報は、もしかしたら、当然ヨハネも知っていたでしょう。 初代教会の時代、ペテロは激しい迫害の中、そんな中でも福音を伝える、そのご奉仕にますます専念していました。 当時のローマの皇帝ネロによる迫害は、ますます激しさを増して来た、そういう状況の中で、ペテロは人たちから 「どうか早くローマから逃げるように。ペテロ先生――ま、先生と呼ばれていたかどうか分かりませんけれども(笑)――ペテロさん、どうか早く逃げてください」 そういう風に、人たちからお願いされていました。 ペテロはローマで一生懸命宣教していましたけれども、「早くローマから逃げてください、逃げてください」と人たちが言うものですから、ペテロはローマから離れる決心をしました。
ペテロがローマを出て、南へ行くアッピア街道という、その道を急いでいました。当然歩きだったでしょう。走っていたかも知れません。 その時に、突然光り輝く輪が天から降ったかと思うと、こちらに来られるイエスさまと出会ったそうです。 ペテロはイエスさまと出会った時、びっくりして「イエスさま、あなたはこれからどこへ行かれるのですか?」とイエスさまに尋ねます。 この「イエスさま、あなたはどこへ行かれるのですか」ラテン語では「ドミネ・クォ・ヴァディス」の「クォ・ヴァディス」という言葉が、この言い伝えを基にした小説の題名になりました。 「クォ・ヴァディス」という題名の小説があります。1896年、ポーランドの作家、シェンキェヴィチによって書かれた歴史小説として出版された本ですね。 今でも手に入ると思います。文庫本にもあったと思います。 さらには1951年にアメリカで映画化されたそうです。私(戸塚伝道師)は観たことないんですけれども。
話はさらに続きます。 「ドミネ・クォ・ヴァディス」「主よ、どこへ行かれるのですか?」 このペテロの問いに、イエスさまは答えられました。 「わたしはローマに行きます。ペテロよ。もしあなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架に架かる。」 このイエスさまの言葉を聞いたペテロは悔い改めて、直ちにローマに引き返します。 死を恐れず、ペテロは前にも勝って福音を伝え、ついには十字架につけられます。 でも「イエスさまと同じ十字架刑では申し訳ない」とペテロは嘆願し、自分から願い出て、逆さ十字架につけられた、という言い伝えが残されている。 逆さまに十字架につけられるということは、もう頭に血が上ってものすごい苦しみでしょうね。 想像を絶するような苦しみの中で、ペテロはイエスさまのために、いのちを奉げました。 これがペテロの殉教でした。
《神さまの栄光を現すペテロの死に方》って、これかも知れません。 すさまじい死に方です。イエスさまのために、いのちをかけて、死んでいきました。
でも、でも、ヨハネの福音書21章18節と19節の時のペテロには、このような死に方が待っているとは、全く知らされていませんでした。 ましてや、《神の栄光を現す死に方》を目指そうなどとそんな計画は、どこにも、ペテロの頭の片隅にもなかったことでしょう。 この時のペテロと言えば―― 「あなたはわたしを愛していますか?命がけで愛していますか?」「いいえ」 「あなたは、わたしに従いなさい。」「う〜ん、無理です。」 「望まないところに連れて行かれます。」「嫌です。」 そんなペテロでした。
そうであったとしても、今の私たちは知っています。 ペテロは結果的にイエスさまに従いました。命がけでイエスさまを愛しました。 確かにイエスさまの言われた通り、ペテロは、ヨハネによる預言の通りに、《神さまの栄光を現す死に方》に導かれました。
他人ごとではありません。2つ目のポイント、視点――
2)私たちにとって、《神の栄光を現す死に方》って、いったいどんな死に方なんでしょうか。
年をとると、望まないところに連れて行かれる。 環境の変化、老化現象――確かに望まないですよ。 ほかの人が連れて行きます――他の人、誰でしょう?ヘルパーさん?家族?手を引かれて、 ほかの人が、車いすですか? 自らの意思ではないんですよ。自らの意思ではない。 年をとると、こういう十字架――他の人が連れて行きます。自分の思い通りにならない、自分を捨てるような生活。
そうしますとね、マルコの福音書8章34節でイエスさまが仰ったことの通りになるわけです。 「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」 こう言われたイエスさまのお言葉が、わが身に成就するわけですよ。
(※大声の調子で)自分では決められない。自分の死に方も決められない。だからいいんですよ。 「イエスさまに従っていく」っていう言葉は、ある意味ではすごく抽象的な言葉だと思います。 「自分を捨て、自分の十字架を負う」って、これもすごく抽象的な言葉だと思います。
でも年をとる、老化現象、環境の変化、そしてほかの人が連れて行く、自分の意思ではどうにもならない、自分の意思では決められない。 そういう中でこそ、イエスさまに委ねる生き方に導かれて行く。イエスさまに従うってことはこうだっていうことが、分からせられていく――そんな感じがいたします。
「イエスさまに従う」っていうことは、自らの意思でという、そういう面もあるんでしょうけれども、むしろ自らの意思よりも、《神さまの方から与えられる恵み》ではないかと思います。 自分が頑張って「従います、従います」なんて言わなくても、《いつの間にか、そういう生き方に導かれている》――そんな恵みを神さまは備えてくださっている。
今日も皆さん礼拝に出席されています。オンラインの方々も。 「ああ、日曜日、神さまに従わなくてはいけない。この時間を聖別して、礼拝を守らなければならない。神さま、従います」 なんて言って、礼拝に参加された方、いらっしゃらないと思うんです(笑)。 「ああ、またこの時間、教会に行こうかな、礼拝しようかな」――軽い気持ちって言ったら、神さま、申し訳ないですけれども――でも恵みを待ち望んで、またあの人にも会えるかもしれないし、なんかそんな気持ちで、 「ああ、日曜日が来たから、じゃ教会行こうかな」「今日オンラインの時間が来たから、じゃオンラインで共に礼拝奉げようかな」――そんな感じですよね。 それは意思ではなくて、恵みなんですね。神さまから一方的に来る恵みなんです。
「自分が神の栄光を現す死に方をするかどうか」も同じです。 これもペテロと同じく、自分であれこれ考える必要は全くない。 神さまの方で全〜部準備されている。 現にキリスト者の方の葬儀の時に思い巡らすのは、召された方々のマイナス面の印象ではない。 あの方はあのような信仰を持っておられたんだ――その信仰の佇まい、それが心に響いて来る。 あの方はこれまで過ごして来た人生で、様々な事があったけれども、ああ、神さまの恵みは確かだったんだ。 そして残るのは何でしょうか? あ、今は天国で憩われているんだなぁ。神さまの恵みの中に置かれているんだなぁ。神さまの栄光を現すような召され方をされたんだなぁ――そういう思いですよね。 それは私たちが知らない方でも同じだと思います。
では3つ目の視点、さらに具体的に――
3)自分が死ぬとき
縁起でもないですねぇ(笑)。こんな説教して、私(戸塚伝道師)今晩召されたらどうでしょうねぇ?自分が死ぬとき・・・ でも、キリスト者は「縁起でもない」なんて考えません。 でも、「神さまの栄光を現す私の死に方」を考える以前に、私は「本気で自分が死ぬんだということを考えているか?」ということを問われました。 ほんとに今晩自分が死ぬと思っている?(笑)。いや、思ってない。
私たちは全員、致死率100%なんですよ。 人生最大の関心事であるべきことなんですよ、死というのは。 それなのに、自分の死というのは、あんまり考えていない。 なんと非現実的なことか。こんな確実なことなのに、あまりにも非現実的なことと捉えている。 なぜでしょうか?健康が支えられているから。そうかも知れない。
でも、私はあれも失い、これも失いと、幾つかもう失っているものがあります。 歯も二つ、二本失っていますし、体力も気力も、人には言えない色々のことがいっぱいありますよ。 でもまだこうして立っていられます。お話しできます。 だから、死はまだ現実的なことではないのかも知れない。 或いは考えても仕方がないことなのだろう、だから現実的ではないのかも知れない。 現実的ではないから、「死ね」という言葉を平気で言う人たちもいますね。 「死ね」――子どもたちも言っていますよ。むかついた時、「死ねよ」とか「死ね」とか言っています。「死んでいいからね」とか。
或いは「死にたい」という人も少なくない現実がありますね。 でも「死にたい」と仰る方でも、「死」は非現実的、あまりにも遠い出来事だと考えておられる方々がほとんどではないかと思う。 死にゆく肉体のイメージは、そこにはないように思います。 死後の世界はもっと遠い。あまりにも遠過ぎて、死も死後の世界も存在しないようにさえ感じてしまう。
自分の肉体の死を想像することは難しいのかもしれません。 でもキリスト者の作家の三浦綾子さんは、数々の病を抱え、そして死を目前にするときに、こう仰いましたよ。 「私には、死ぬという大きな仕事がまだ残されています」と。 目の前の死を真正面から見据えた人の言葉だと思います。 「死ぬという大きな仕事が私には残されている」――ああ、三浦綾子さんは、死を極めて現実的なものと捉えておられたんだなぁ、と改めて思わされました。 病の中で、そのように感じておられる方もおられるかも知れない。
でも自分がいつ何が原因で死ぬかが、今の時点で分かっていないことは、神さまの憐れみです。 その時、神さまの栄光を現せるかどうかということも分からない。それでいい。 なぜか?それは自分がすることではないからです。 神さまの栄光を現すことは、神さまがされることだからです。
ペテロもそうです。 あの時、殉教の予告をイエスさまから聞きましたけれども、ペテロは自分のこととは考えていなかった。何のことだか分からなかった。 (※力を込めて)だから良かった。
でも、私たちが死ぬとき、確信できることがたった一つだけあります。 それは、イエスさまが私の手を握り、共におられることです。 二つのみことばを読みます。 <旧約聖書イザヤ書41章の10節、13節> 10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 13 わたしがあなたの神、【主】であり、 あなたの右の手を固く握り、 『恐れるな。わたしがあなたを助ける』 と言う者だからである。
私が死ぬとき、イエスさまが私の手を握ってこう仰る。
もう一か所、詩篇の23篇4節。ダビデもこのように告白しています。 <詩篇23:4> 4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。
「あなたがともにおられますから」―― 私が召される時、認知機能が確かであったとするならば、この二つのみことばを握りしめて召されて行きたいと思います。 たとえ自分が分からない状態であったとしても、意識がない、そんな状況だったとしても、イエスさまが共におられる、手を握りしめてくださる。 そして、イエスさまと一緒に《死を過ぎ越す》のです。
《過ぎ越す》という言葉を使いました。 旧約聖書で、イスラエルの民が出エジプトをした。 あの時、紅海を過ぎ越しました。 そこには神さまの臨在、火の柱、雲の柱が伴われていた。 そして共に紅海を過ぎ越すことができた。 そしてエジプトからカナンの地に移ることができた。
私たちも一緒に、《イエスさまと一緒に、死を過ぎ越す》のです。 イエスさまは天国で私のことを待っておられるお方、そういう面もあるでしょう。 でもはるか彼方、天国におられるイエスさまではなくて、今も共に生きておられる、受肉されたイエスさまが聖霊を通して、共に歩んでくださっている。 そのイエスさまが私の手を固く握り、死を過ぎ越してくださるお方なのです。 「さあ、これから行きますよ〜。しっかり手を握ってあげますからね、大丈夫ですよ〜、せ〜の!」 って、イエスさまと一緒に死を過ぎ越す、そうすると、そこのステージ、次のステージ、 「ほ〜ら大丈夫だったでしょう。ここが天国ですよ〜」 ってことなんでしょうね。 《イエスさまと過ぎ越す》――これはすばらしい恵みですね。
この間のZoom の祈祷会で藤本満先生がこう仰っていました。 「信仰は意思ではない。イメージだ。イメージすることが大事なのだ。 どうしても信仰を抽象的に捉え、きれいごとに捕らえ、そして曖昧に捉えがちですけれども、そうじゃない。イメージすることが大切です」と。
そうすると、イエスさまが私の右の手を握っているイメージ。 そして共に歩んでくださっているイメージ。 そして時が来たらば、共に死を過ぎ越してくださるイメージ。 私の右の手にイエスさまのしっかりとした手が、その感触が伝わって来る。温かいイエスさまの手のひらが。イメージ。
こうイメージしますとね――イエスさまと一緒に過ぎ越すのは「死」だけではないんです。 今週一週間、何が待ってますか?あれが待っている。これが待っている。あんな面倒なことも待っている。 また明日から、あんな面倒臭い人間関係の中に放り込まれる。 試練がある。病がある。でもイエスさまと一緒に過ぎ越す。イエスさまと一緒に過ぎ越す。
試練を過ぎ越す。病を過ぎ越す。 過ぎ越した先、癒されないかもしれない。死を過ぎ越すことになるかもしれない。でもイエスさまと一緒ですよ。
難しい人間関係を過ぎ越す。ある方にとっては受験を過ぎ越す。 受験生おられますね、大変ですね、今ね。でもイエスさま、共に過ぎ越してくださる。 受験を過ぎ越す。抱えている様々な課題を過ぎ越す。 過ぎ越した先、望まないところかもしれません(笑)。望まないところに過ぎ越しちゃったぁ(笑)。 大丈夫です。イエスさまがしっかりと右の手を握ってくださっている。
どこに連れて行かれようが、あんなに怯えていたペテロだって命がけになるぐらいに変えられました。 「大丈夫だよ。わたしが一緒にいるから。わたしがずっとあなたの手を離さないから。大丈夫だよ!」 《イエスさまと一緒に死を過ぎ越す》――これこそが、《神の栄光を現す死に方》、そのものだと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われた。 (ヨハネ21:19) 「あなたは年をとると、ほかの人が(あなたを)望まないところに連れて行きます。」 (ヨハネ21:18を短くして) 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」(イザヤ41:10)
イエスさま、あなたにつかぬことを伺いますが、自分はいつ死ぬのでしょうか?どのような原因で死ぬのでしょうか?一瞬でしょうか、徐々にでしょうか、どこででしょうか?意識が分からなくなっているんでしょうか?神さまの栄光が現わされるのでしょうか?全く分かりません。不安と恐れの中に置かれているかも知れません。
でもイエスさま、あなたは言われます。「今から考えてもどうしようもないことを、考えなくてもいい」そう言われるでしょう。いま分かっていることは、イエスさま、あなたが私と共におられ、私の手を握り、声を掛けられ、死の陰の谷を一緒に過ぎ越してくださることを感謝いたします。その日を迎える心の準備は、あなたがしてくださることを信じます。
どうか今週もあなたにしっかりと手を握られながら、先ずは現在抱えている様々な課題を、イエスさまと一緒に過ぎ越す経験をさせてくださるように、どうぞよろしくお願いいたします。愛するあなたのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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