☆聖書箇所 へブル8:7〜13
7もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。 8神は人々の欠けを責めて、こう言われました。 「見よ、その時代が来る。 ――主のことば―― そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。 9 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようではない。 彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった。 ――主のことば―― 10 これらの日の後に、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこうである。 ――主のことば―― わたしは、 わたしの律法を彼らの思いの中に置き、 彼らの心にこれを書き記す。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 11 彼らはもはや、それぞれ仲間に、 あるいはそれぞれ兄弟に、 『主を知れ』と言って教えることはない。 彼らがみな、小さい者から大きい者まで、 わたしを知るようになるからだ。 12 わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、 もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」 13神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。
☆説教 聖餐式・へブル(19)新しい契約の仲介者
今朝はへブル人への手紙の8章を読んでいただきました。 私(藤本牧師)月曜日に、声帯のちょっとした手術をしていますので、声が――いつも変なのですけれども――格別に今日はちょっと変だと思います。以前したのが2020年の5月でありましたので、ま、3年間良くもったなぁと思いますが、来週位から徐々に声が落ち着いて来ますので、ご勘弁いただきたいと思います。
8章の7節から見ていただきますと、割と今日は聖書を見ていただきます。 【画面:へブル8章8節「見よ、その時代が来る」「新しい契約を実現させる」に緑のハイライト。 9節「わたしが彼らの先祖の〜、彼らと結んだ契約のようではない」「契約にとどまらなかったので」に緑のハイライト。 10節「わたしの律法を〜彼らの心にこれを書き記す」に緑のハイライト。】
<へブル8:7> 7もしあの初めの契約が(***旧約聖書の契約です)欠けのないものであったなら(***ということは欠けがあったということです)、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。(***第二の契約は、キリストの贖いによる新しい契約です)
そのことを述べるために、このヘブル書の記者は長〜く(へブル8章)8節〜12節まで、エレミヤの31:31〜34を引用しています。 エレミヤは今は開かなくて結構です。 でも軽く、この部分に今日のメッセージがありますから、見ていただきたいと思います。
(へブル8章)8節の最初に「見よ、その時代が来る」というのは、《新しい契約を実現する時が来る》です。 エレミヤは預言して言っているんです。 でもへブル人への手紙の記者は、「それは実現した」という感覚で、勿論この言葉を記しています。 新しい契約を実現させるということは、《既にキリストという大祭司による新しい契約は実現している》です。
(へブル8章)13節を先に見ていただきたいと思います。 【画面:へブル8章13節「初めの契約を〜消えて行くのです」に水色の傍線】
<へブル8:13> 13神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。
古い契約は古いものであって、それは直ぐに消えていく――というのは、少し問題になりました。 以前、へブル人への手紙は、4世紀の初め、キリスト教が正典を決める時に、正典聖書というものを決める時に、議論になって、最後の方に新約聖書の正典に入ることができた、ということを申し上げました。 その時に問題になったのは、6章の6節の厳しいものの言い方でありました。
【画面:へブル6章6節「そういう人たちを〜できません」に緑のハイライト】 <へブル6:6> 6堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。・・・・・・
正典が設定される時期と、キリスト教が迫害を後にして、ローマ帝国の国教になる時期が重なります。 国教になりますと、迫害のゆえにキリスト教を捨ててしまった人たちが、もう一度キリスト教に戻って来ます。 すると迫害に耐えた教会は、彼らを受け入れるのかどうか、という議論になります。 結果的に彼らを受け入れるわけですけれども、 その時にへブル人への手紙は既にもうず〜っと長く読まれて来ました。 へブル人への手紙の中に、「一度堕落した者は悔い改めることができない」と書いてあるではないかと。 だからローマ帝国迫害の時期に教会を去っていた者は、戻ることができない――そういう論議があったがゆえに、へブル書はなかなか正典入りすることができないという話をしました。
もう一つ理由があります。それが先程言いました8章の13節です。これは映しません。
13神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。
とこう書いてあります。 【実際、キリスト教の正典に旧約聖書は含まれるのです。 捨てるどころか、それもまた正典です。 ところが、ヘブル人への手紙には、明確に「古いものは消えて行くのです」と断言されています。 もちろんそれは旧約聖書全体ではないのですが、この明確さです。】
勿論、へブル書の記者は古い祭司というシステム、人間による司祭のシステムが消えていく、という意味で書いているんですけれども、 しかし契約という言葉は旧約聖書の全体を包括しますよね。 すると、旧約聖書そのものが消えていくのか?と、それはもう古びたものとして不要なのか?という議論になってしまいます。 で、最終的にキリスト教会は新約聖書だけでなく、旧約聖書39巻も正典として入れます。 で「この言葉があるにもかかわらず、どうして入れるのか?」と意見をした人もいましたので、同じように、へブル人への手紙は正典入りする最後の方になりました。
さて、今日注目していただきたいのは、この新しい契約にある2つのことです。 2点、お話をいたします。
1)ちょっと10節を見てください。10節は映しますね。
【画面:へブル8章10節「わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」に緑のハイライト】 <へブル8:10> 10 これらの日の後に、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこうである。 ――主のことば―― わたしは、 わたしの律法を彼らの思いの中に置き、 彼らの心にこれを書き記す。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。
「わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」(10) 古い契約というのは、モーセがシナイ山で神の指による石板を受け取りました。 十戒ですね。 その神の戒めを、新しい契約においては、「私たちの心に刻む」という「心に書き記す」。 もちろん、「心に書き記す」というのには、様々な複層的な意味があるでしょうね。 第一番目に、《心に書き記すということは、自発的に》と言いますか、 戒めは外から強制されるものではなく、自分の一部となって、進んでそれを行うという意味があるんだろうと思います。
その主要なテーマで、少し話をしていきます。 古い契約を旧約の民は破りました。何百年と生きていきました。 そしてその罪深さのゆえに、最後は国を失い、多くは周辺諸国に散らされ、 残った人々はバビロン捕囚という悲惨な体験をしました。
その悲惨な出来事を目の当たりにしていたのが、エレミヤなんですよ。 そのエレミヤは悲嘆と絶望の中にある民に、 「やがて時代が来る。 神が新しい契約を結んでくださる。 その時、《神はその戒めを石の板ではなく、あなたの心の中に書き記す》」(10)と言う。
そしてこの契約の仲介者は、イエス・キリストとなる。 この方は前回学びましたね、once and for all ただ一度だけ、ご自身を捧げて、贖いを全うされ、その十字架を見上げて礼拝をします。 「その十字架を見上げて礼拝をします」というのは、私たちが毎週していることですけれども、しかし、聖餐式にあずかる時、 私たちは格別に、(イエスさまが)「わたしを覚えてこれを行え」(***Tコリント11:24〜25)と仰ったように、キリストの十字架を覚えて聖餐式を行います。
黒人霊歌にWere you there? あなたもそこにいたのか、という讃美歌がありますよね。 私たちが良く知っているのは、聖歌を編集しインマヌエルの讃美歌も編集された中田羽後(なかた・うご)先生の訳です。
1節「君もそこにいたのか。主が十字架につく時、ああ、なんだか心が震える、震える、震える、君もそこにいたのか」
声帯を新しくしたので、(歌うことに)挑戦したくなりますね。(※と言ってから歌い出す) 横溝恭一さんが大変お好きで、聖歌隊でも何回か歌いましたよね。
2節「君も聞いていたのか、釘を打ち込む音を、ああ、なんだか心が震える、震える、震える、君も聞いていたのか」
3節「君も眺めていたのか、血潮が流れるのを、ああ、なんだか心が震える、震える、震える、君も眺めていたのか」
聖餐にあずかるとき、私たちは十字架の下にいます。そしてなんだか心が震えるんです。それは自分の罪深さがよく分かるからです。 自分の足りなさ、自分の愚かさ、神の御前に立つことができない程の弱い自分を感じて、 その弱さ、罪深さを背負ってくださったキリストの愛に感動して、心が震える。 その罪の暗さに感動して、心打たれて、心が震える。 しかしそれを背負ってくださったキリストの愛の深さを感じて、心が震えるわけです。 釘を打ち込む音、血潮が流れるその姿。そして主は仰いました。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(***ルカ23:34) 主は最後の方で再び仰いました。 「わたしは完了した」(***ヨハネ19:30)。――贖いの働きを完了したと。
心震わせて、そこに立ち尽くすのが私たちで、しばらくしたら、他の人々と一言も発せずに帰って行くんですね。 黒人霊歌の先程の「君もそこにいたのか」の最後の節は、中田先生の訳では、 「君も墓に行ったのか、主をば葬るために。ああ、なんだか心が、震える、震える、震える、君も墓に行ったのか」 そして当然のことながら、私たちは再び墓に行くんです。空っぽの墓を見るために。 君も墓を見たのか。主は復活され、空っぽの墓を、君は心を震わせて見たのか」ということばが、私たちの心の中にあるわけですね。
十字架の下に立つために、聖餐の恵みにあずかるために、 私たちは心に記された律法が、語りかける。 それは「神を愛しなさい」という律法ではない。 ちょっと聖書を開いて戴きたいんですが、先程のエレミヤの引用なんですが、 エレミヤ書の31章をちょっと開いていただきたいと思います。 エレミヤ書というのは、真ん中の詩篇のすぐ後に出て来ますね。
で、へブル書の記者がずっと引用しているのは、まさにこのエレミヤの31章の31節〜なんですが、31章は実はこの言葉で有名ですよね。 エレミヤの31章というのは、31〜34節のへブル書の記者が引用した言葉よりも、この言葉が有名です。 ちょっと映していただいて、31章の3節です。 【画面:エレミヤ31章3節「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」に緑のハイライト】 <エレミヤ31:3> 3 【主】は遠くから私(***エレミヤ)に現れた。 「永遠の愛をもって、 わたしはあなたを愛した。
これが有名ですよ。 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」 だからしばらくの間、あなたは捕囚に取られ、散らされて行くが、 わたしは今度は新しい契約を再び結び、その契約において、わたしの戒めはあなたの心の中に記される。 その時、わたしの戒めは、〜せよ、〜するな、ではない。 その戒めの一番最初に来る言葉は、「どれほどわたしがあなたを愛しているか、あなたの心をわたしの愛で満たしてほしい」。
十字架を眺め、聖餐にあずかる時に、確かに私たちは自分の罪を悔い改め、主イエス・キリストがその罪を背負ってくださったということを、心に刻みます。 しかし、より深く心に刻むのは、そのような私たちを、永遠の愛をもって愛してくださる、キリストの姿を心に刻んでほしい。 この十字架も、復活も、あなたのためにある、ということを刻んでほしい。
そういう意味でへブル人への手紙はエレミヤ書の31章を要約してくださったということは、とっても嬉しいですね。 10節をもう一回見ますね。 【へブル8章10節「わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」に緑のハイライト】 <へブル8:10〜11>(※4行目わたしは、から読み始める) 10 これらの日の後に、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこうである。 ――主のことば―― わたしは、 わたしの律法を彼らの思いの中に置き、 彼らの心にこれを書き記す。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 11 彼らはもはや、それぞれの仲間に、 あるいはそれぞれ兄弟に、 「主を知れ」と言って教えることはない。
主の愛も、主のみこころも、聖霊によってみことばを思い起こさせ、私たちの心に既に書き記し、書き記されてないことは聖霊が思い起こさせ、私たちを真理に導き、この聖書を39巻(と)27巻、66巻に含まれることのできない現代の複雑な問題に至るまで、神の導きと言うものを、私たちの心に与えてくださる。
このインターネット礼拝というものが存在しているように、旧約聖書も新約聖書も、インターネットで神殿に入らずに神を礼拝するなんてことはある。祈りを通して。 でも犠牲にあずかろうと思ったならば、あ、それは過越しの祭りに来なければいけない。 そしてそこでいけにえを買って、それが奉げられるのを確認して、罪の赦しを得なければいけない。
それがゆえに、世界各地から巡礼の旅に、人々がエルサレムに集まって来た時に、 イエス・キリストは、「もはやこの神殿というものは存在しない」と仰る。 「わたしは神殿を壊し、新しい神殿を建てる。それはわたし自身だ」と。 「あなたがたがわたしを礼拝する時に、あなたがたは神の神殿に入る。 あなたがたがわたしの聖餐にあずかる時に、あなたがたは既に神殿の中でいけにえを奉げている。 ただ一度だけ、すべて犠牲は、贖いは完了し、あなたはその恵みにあずかることができる。」
で、二番目のポイント、(その恵みに)あずかった時に、エレミヤが強調していますこの言葉ですね。12節見てください。 【画面:へブル8章12節全文に緑のハイライト、「彼らの罪を思い起こさないからだ」にさらに水色の傍線】 <へブル8:12> 12 わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、 もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
2)12節「もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
一番目のポイントは、「新しい契約」においては、神の戒めは私たちの心の内側に記される。 そして、その戒めは〜するな、〜すべし、それに無理やり自分を当てはめていくようなことではなく、心に刻まれているがゆえに自発的にその方向に向かおうとする。 しかし私たちの心のうちには、それに反する思いがあるかも知れない。
でも聖餐を受ける度に、とこしえの愛をもって私たちを愛してくださるイエス・キリストに触れる時に、 私たちは主が私たちに命じてくださったことが、最終的に私たちのためになる、喜んでそれを為させていただく力を聖霊によって与えられ、 自分ではできないことであるかもしれない。旧約聖書の人々はそうでありました。 しかし聖霊の力によって、私たちは敵を赦し、平和のために祈ることができる。 それを誇ることが世界聖餐聖日ですね。
到底、今の世界事情、分断されていて、それがもう一つ、一つになろうとするなんてことは、大よそあり得ないだろうと思う程分断されている。 「しかし、それは人にはできないことでも、神にはそうではありません。神にはどんなことでもできるのです」(***マルコ10:27)と心に刻むのが、聖餐の礼拝の意味合いですね。 で、神さまは仰る。 「永遠の愛をもって、わたしはあなたがたを愛する」(エレミヤ31:3)と。
そして二番目が、「もはや、彼らの罪は思い出さない」と。 ですから今朝オンラインにおいて、また会堂において聖餐にあずかる時に、 「もはや彼らの罪を思い起こさない」(12)と言われる主の赦し、それが贖いの完了という意味です。 贖いが完了しているがゆえに、主は私たちの罪を思い起こさないわけですね。
【こんな話があります。】 ある町に新しい牧師がやって来ました。 その町には少し頭のおかしい人がいて、みんな知っているんですね。 その人は歩きながら独り言を言い、時に、自分はイエスさまと話をしたと。 そしてイエスさまと話をしているかのように、独り言をぶつぶつぶつぶつ言っているんですよね。 新しい先生は、この頭のおかしい女性のことを耳にし、町ですれ違った時に話しかけてみました。 「イエスさまとお話しされるんですって?すばらしいことですね。」
女性は 「そうですよ。毎日何時間もイエスさまと話をしています。」 そうすると、牧師の心の中になんかいたずら心が出て来て、 「へぇ〜そうですか。じゃあ、ちょっとお願いしてもいいですか? イエスさまにちょっと尋ねてみてください。 私が最後にイエスさまに謝った罪は何であったのか、イエスさまに尋ねてみてください」 そう言って二人は別れるわけですね。 勿論、半ば、牧師はからかったわけです。
「おやすいご用です」と女性は言って、またぶつぶつ言いながら過ぎて行きます。 一週間後位に、この二人がまた町で会うことができました。 「どうでした?訊いてくださいました?イエスさまに、私が告白した最後の罪は何だったか?」 「もちろん訊きましたよ」ニコッと笑って、その方は仰いました。 「イエスさまは、仰ってましたよ。 『わたしは、彼が告白した罪を覚えていない。』 『わたしは、彼が告白したすべての咎を踏みつけ、海の深みに投げ入れた。』」(ミカ7:19)
「わたしは彼が告白したすべての咎を踏みつけ、海の深みに投げ入れた。だから覚えていない。」 牧師はショックを受けました。 そしてこの人が、頭のおかしいと思っていたこの人が、本当にイエスさまと話をしておられるんだ、ということを彼は感じ取りました。 そうだ御言葉の通り、主は私たちが告白するすべての罪を踏みつけ、海の中に投げ入れてくださる。だから思い起こされない。 牧師はイエスさまの愛の大きさ、深さを新たに実感し、
そして私たちは今朝、自分たちが心に示されている罪を主に告白する。 これが最後、告白した罪になる。 主はそれを海の深みに投げ入れてくださることを、改めて心に留めていただきたいと思います(アーメン)。
※この後の聖餐式は、「聖日説教」で読めます。
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