☆聖書箇所 へブル9:1〜14
1さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。 2すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台と机と臨在のパンがありました。それが聖所と呼ばれる場所です。 3また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、 4そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板がありました。 5また、箱の上で、栄光のケルビムが「宥めの蓋」をおおっていました。しかし、これらについて、今は一つ一つ述べることはできません。 6さて、これらの物が以上のように整えられたうえで、祭司たちはいつも第一の幕屋に入って、礼拝を行います。 7しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。 8聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続している限り、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。 9この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。 10それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられるときまで課せられた、からだに関する規定にすぎません。 11しかしキリストは、既に実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、 12また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。 13雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、 14まして、キリストが傷の無いご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
☆説教 へブル(20)勝ち得て余りある贖い
へブル人へ手紙を元旦から始めて今日で20回目になります。 9章1節〜14節、ちょうど真ん中位で分けておきました。 今日は「勝ち得て余りある贖い」です。 「勝ち得て余りある勝利者」というのが、パウロのローマ(人への手紙)の8(章)のことばですが、 このヘブル人への手紙は、パウロによるものではありませんけれども、語っていることは「勝ち得て余りある贖い」――それが一体どのようなものか? ちょっと最初の部分は、聖書を追っかけるだけで退屈かもしれませんけれども、大切なので見ていただきたいと思います。 ずっと聖書を映していただきます。1節にこうありますよね。で、私、ずっとこれラインを引きましたので、ラインを飛ばして目を留めていただきますので、 旧約聖書のカギとなる礼拝が一体どのようなものであったのか、ということを見ていただきたいと思います。
【画面:へブル9章●茶色のハイライトは―― 2節「第一の幕屋が」「燭台と机と臨在のパンが」「聖所」 3節「第二の垂れ幕」「至聖所」 4節「金の香壇」「契約の箱があり、箱の中にはマナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板が」 5節「箱の上で」「しかし、これらについて、今は一つ一つ述べることはできません」 ●黒ペンの囲みや傍線―― 2節「第一の幕屋が設けられ」傍線 3節「第二の垂れ幕のうしろには」「至聖所」にそれぞれ囲み】
<へブル人への手紙9章1〜5節> 1さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。 2すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台と机と臨在のパンがありました。それが聖所と呼ばれる場所です。 3また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、 4そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板がありました。 5また、箱の上で、栄光のケルビムが「宥めの蓋」をおおっていました。しかし、これらについて、今は一つ一つ述べることはできません。
第一の幕屋というのは、まだ神殿ができる前、出エジプト記の25章に幕屋における礼拝の規定が様々に書いてあります。 そこには「燭台と机と臨在のパン」があった(2)。 「臨在のパン」というのは、マナでしょうね。そしてそのマナが、天からの養いを荒野にあって彼らが実感することができるようにあった。 そこが「聖所と呼ばれて」(2)いたというのは、皆が礼拝できるような場所です。
しかしこの「第二の垂れ幕のうしろには」(3)とあるように、幕屋はもう一つ奥の部屋がありました。そこが「至聖所」(3)と呼ばれています。英語ではholy of holiesと呼びますけれども、聖なる場所の中で最も聖なる場所という意味で「至聖所」(3)ですね。
そこには「金の香壇」(4)と、全面を金でおおわれた「契約の箱があり、契約の箱の中には、マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖」(4)、そして十戒が刻まれた「契約の板」(4)がありました。 この「契約の箱」はやがてダビデがエルサレムの神殿を造る時に、運び込まれますけれども、バビロン捕囚で神殿がやられた時に、「契約の箱」はもう存在しません。奪われてしまいました。 ですからそれ以降、第二の神殿が建てられますけれども、この契約の箱は至聖所にはありませんでした。
「箱の上で」(5)栄光のケルビムが「宥め(なだめ)の蓋」――これが贖罪蓋(しょくざいがい)という風に昔は訳されていましたけれども、ここにいけにえの血を注いで――これがよく言われる恵みの座、贖いの座。
【画面:聖書は下の段に移って、●へブル9章の茶色のハイライト―― 7節「大祭司だけが入ります。」 9節「礼拝する人の良心を完全にすることができません。」 10節「新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定に過ぎません。」 11節「すでに実現した」「もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、」 12節「ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」
●9章7節〜の黒ペンの傍線と囲み―― 7節「第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります」に傍線 12節「ただ一度だけ」に囲み】
<へブル9:7> 7しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。
ここに「大祭司だけが年に一度だけ入る」(7)と書いてありますよね。 本当の至聖所で、普通の祭司は入ることができない。 しかも、大祭司はそこに入る時に、「自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。」(7) 必ず自分のため、そして日常の罪ではない、民全体で、自分が知らずに犯した罪のためにいけにえを献げた。
こういう礼拝形式ですが、ここにこうありますよね。【※画面は上の段に戻って】 「しかし、これらについて、今は一つ一つ述べることはできません。」(5) というのは、述べるだけの紙面がないとか、出エジプト記25章の前後を見れば自分で分かるとか、そういう意味もあるのかもしれませんけれども、 しかし、へブル人への手紙の記者の最も集中したいところは、ここですよね。前回やりました。(※8章13節を指差して読む) 【画面:へブル8章13節「初めの契約を〜すぐに消えて行く」に水色のハイライト】 <へブル8:13> 13神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。
ですから旧約学者の中には、ここを(※へブル9章の1〜5を指で囲むようにして)詳しくいったいこれが何を意味していたのか、詳細に説明をしている書物もあります。 それはそれで大切なんですけれども――私(藤本牧師)前回申し上げましたよね。 「旧約聖書の意味というのは、 キリストの福音に照らして初めて、その意味を悟るのがキリスト者、 新約聖書を持たずに旧約聖書をひたすら読むのは、ユダヤ教。 私たちはユダヤ教徒ではない。 すべてを福音の光から見通していく、ということをしなければ、私たちは旧約聖書を読むことができないです。」
私は牧師になり立ての頃に、もう天に召されましたけれども、ずっと名古屋教会を牧会された竿代信和先生と夜中話していた時に、先生が私に 「インマヌエルはおかしくないですか?」という話をされたんです。 私は別にインマヌエルだけではないと思いますけれども、 「聖会メッセージ、圧倒的に旧約聖書が多いよね」と(竿代先生は仰いました)。
私も自分の記録を見て見ますと、旧約聖書は確かに多いんです。 それはページ数が旧約聖書が多い(笑)。 それから私は年毎に新約と旧約、新約と旧約とやって行くんですけれども、 ま、モーセやアブラハム、ダビデやヨセフとやってますと、旧約聖書がどうしても多くなってしまうんですよね。 だけれども、信和先生が仰っていたことは、 「それをあんまりやると、これは非常にユダヤ教的になってしまう」と、そして、 「新約の福音理解がなかなか進まないというのは、あんまり良くないよね」と。
改革派系の教会では――私はそういうことはしませんけれども――1回説教をすれば、一番最後にイエス・キリストの十字架に話を付けないと、そこに話を持って行かないと説教にはならない、と。 改革派の先生の説教を聞きますと、たとえ旧約聖書であっても、話の最後は新約聖書に行くようになっています。 あんまり旧約聖書を軽んずることは、勿論私たちはしません。 しかし、その今日ある「勝ち得てあまりある贖い」というところに、きちっと目を据えてませんと、両方を等分に見てはいけない。
【画面:<へブル9:9〜12> 9この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。 10それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられるときまで課せられた、からだに関する規定にすぎません。 11しかしキリストは、既に実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、 12また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。】
で、へブル人への手紙の記者は、第一の幕屋は――9節にありますよね――「礼拝する人の良心を完全にすることができない」と。 そしてそれが何のためにあったのか? 「新しい秩序が立てられる時までに課せられた、からだに関する規定にすぎない」(10)。 この「からだ」という言葉は、9節の「良心」と対照的に描かれています。 外なるものを整えても、人の内側まで旧約聖書の戒めはなかなか届かない。 その教えをきちっと守っていたとしても、私たちの心が神の前に歪んでいるかもしれない、ということなんですね。
そして(へブル9章)11節に今日のメインの話を持っていかなければいけないんですけれども、 今ありましたように、「良心」という言葉、良心をきよめることができない。 この「良心をきよめる」(9)というのは、実は一番最後に読んでいただいた14節でも出て来るんですね。
<へブル9:14> 14まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
この言葉、「良心」というのは二回出て来ます。 「良心」という時に、勿論それは神さまが私たちに備えてくださったものですけれども、 私たちの育ちもあるでしょう。 私たちの信仰もあるんでしょう、私たちの聖書の読み方もあるんでしょうけれども、人によって様々で、それほど確固たるものではないですね。
以前私がとっても仲良くしていた牧師先生、今も仲いいんですけれども、「横断歩道しか渡れない」という、大変真面目な先生でございました。 信号が変わりそうになりますとね、横断歩道の手前から斜めに渡らないと、渡り切れないんですよね。 でガードレールのこちらから斜めに入るんですけれども、その先生は横断歩道を直角に渡らないと(笑)渡れないんですよ。 だから黄色になった段階で、その先生はもう渡ることを諦めるので、私たちは渡るんですけれども、あちら側でその先生はまだ待っているんですね。
「先生、まだ渡れないの?」って先日聞きましたら、 「いやもう今は渡っています」って仰いましたんで、 「ああ、人は変わるんだなぁと」。 そういう風にそれを「良心」と呼んでいいのか、分かりません。
「良心」というのは、神の前の善悪を判断する機能を持ち、そして罪を離れ、神に仕える者とする、人の内側の最も大切な部分なのでありましょう。 しかしそれほど立派な良心を、私たちは持っているわけではないですね。
私たちが今使っている新改訳聖書ですけれども、第一版は1970年に発行されました。 その時新約の翻訳にすごく関わられた村瀬俊夫先生(※1929〜2020)、数年前に天に召されました。 教派は長老派なんですけれども、非常に親しく晩年おつき合いしていましたので、クリスチャン新聞から追憶を書くように言われ、コロナ禍だったと思います。 2015年に私が出しました「聖書信仰」という書物を、村瀬先生は大変高く評価してくださり、その前後からお手紙のやりとりに始まって、おつき合いが始まりました。
先生から伺ったことがあるんですよね。 その時旧約の主任をしていた、主任というか旧約の翻訳者のメインであった先生に、名尾耕作(なお・こうさく)先生という学者がいらっしゃいます。 この先生は、「この『良心』という言葉に大変なつまずきを覚えた。他に訳語はないのか、ものすごく探した」と言うんですね。 名尾先生が仰るには、「人間に良い心なんかない。むしろあるのは、悪い心の方が多い。 ですから『良心、良心』と訳しながら、人間の心の80%位はどちらかというと歪んだ方向を向いている」と。 ただそれ以外に日本語はないわけですから、英語はconscienceですけれども、名尾先生が仰っていることは確かに一理あると思います。 神の御前の善悪を判断する基準と言っておきながら、私たちは自分の先入観や自分の偏見を良心の中に読み込んで行きますよね。 勿論それは育った環境に拠るんでしょうけれども、或いは良心がこう語っているのに、それを実行に移す勇気がないという場合もありますよね。 良心の力が非常に弱い時もあれば、信仰を持つようになってからも、私たちは必ずしも善悪の判断がしっかりしているわけではないです。
で、短く2つのポイントで話していきますけれども、第一番目に――
1)へブル人への手紙の記者が強調しているように、《新約に生きる私たちは、人間として、旧約に生きる民よりもはるかに優れている、ということではない》。
勿論、聖霊の力があり、勿論、彼らが持っていなかった新約があり、勿論イエス・キリストによって新しく生まれ変わりますけれども、 私たちが人間として、旧約の民よりもそれほど優れているというわけではない。
聖書のポイントは、「私たちが」ではなく、「私たちに提供されている世界、私たちが招き入れられた世界が」すばらしいのです。 つまり私たちが、より優れた者になったわけではなく、私たちが信頼を傾け、私たちが姿を変えられていく、その目標であるイエス・キリストがすばらしいわけでしょう。 ですからイエス・キリストと距離を取り始めると、私たちは聖書に従う民と言っても、何ら旧約の民とあまり変わりがないような世界に生きている場合もある。 もっと狭めて言うと、へブル人への手紙の記者によれば、《私たちではなく、キリストの十字架の贖いがすばらしい》のですよ。 旧約聖書の大祭司ではなく、キリストという永遠の大祭司が確かなお方なんです。
ですから、聖書を今度は映しますね。改めて見ますけれども、その第一の話とは違い、 【画面:へブル9章11節「既に実現した」「もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、」12節「ただ一度だけ〜成し遂げられました」に茶色のハイライト。「ただ一度だけ」に黒ペンで囲み】
<へブル9:11〜12> 11しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、 12また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
これ見たら分かるように、古いものと新しいものと比較されているのは、私たち人間じゃないんです。 比較されているのは、古い幕屋と新しい幕屋、古い大祭司とキリストという大祭司が比較され、したがって以前の贖いと今の贖いが比較されているのです。 そして、今の贖いを言うならば、ここにありますように、「ただの一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」(12)。
「ただ一度だけ」というのは、前回も学びました。英語では《once and for all》です。 onceというのは一度です。for allというのはすべてのために。 すべてのためにただ一度ですから、一度によってすべてが完結された、という意味がonce and for allです。
旧約の幕屋、神殿では、年に一回だけ大祭司が至聖所に入り、でもそれが毎年毎年、入り・・・ですよね。 繰り返し献げられても、私たちの良心、或いは私たちの罪の呵責すべてをきよめることはできない。 でも《キリストの贖いがただ一度ですべてを成就した》(12)がゆえに、 《私たちがキリストの十字架の前に立つ時に、私たちの罪がすべて許される》という自覚に立たないと、 旧約の民のように、いつも毎回罪の呵責を引きずっているようなクリスチャンになる訳ですよね。
罪の呵責を引きずるか、罪の呵責を引きずらないかは、実は私(藤本牧師)は信仰の問題ではないと思っています。 つまり信仰が足りないから、罪の呵責を引きずっている、信仰があるから罪の呵責を引きずってない、すべてきよめられたと思っている。 私は申し上げませんけれども、むしろ性格の問題だろうと思っています。
それは以前話しました、スコット・ペックという、アメリカでもっとも有名な精神科医が言うように、「人は二つのタイプに分かれる」と。 一つのタイプは負わなくてもいい責任、負わなくてもいい罪の呵責をず〜っと引きずるタイプ。 もう一つは、負わなければいけない責任、負わなければいけない罪の呵責を全く背負おうとしないタイプ。 この二つのタイプは、私たちに言えば、共通して言えるんですが、 精神的に、精神科・心療内科に訪れる人は、いつも呵責を背負っている人は、神経症のタイプ。 そしてほとんど罪の呵責を負わないタイプは、人格障害のタイプ。 なるほどなぁと思いますね。それは人間のタイプが違う。
でもスコット・ペックが言うには、実はそういうことではなくて、人間は様々にこれが入り組むと。 つまりこちらの人は、あることに関しては、負わなくてもいい責任も呵責も背負う。でもあることに関しては、全くそれを負おうとしない。 こちらの人は、あることに関しては責任を感じるのに、こういう側面に関しては、たとえば父親としては、全く呵責を負わないというように、 人間はタイプが分かれるのみならず、それぞれのタイプの中で、また微妙に責任の背負い方・感じ方が分かれていく。
そこでスコット・ペックが言うには、「人には誰にもカウンセラーが必要です」と。 「自分で自分の心の状態は分からない。 だから周りの人の言う意見に耳を傾け、時には周りの人にカウンセラーになってもらい、そして負わなくてもいい重荷を降ろし、負わなければならない責任をしっかり負いなさい」と。 それ程までに人間の良心というのは弱いわけですね。
しかしながら、へブル人への手紙の記者が言いたいことは、 そのような弱い旧約の民とあまり変わりのない私たちではありますけれども、 しかしながら、私たちがこの足を乗せているキリストの贖いは、根本的に本質的に、旧約聖書とは違う。 圧倒的な力を持っているわけですよね。それを知ってほしいと。
2)勝ち得て余りある贖い
(へブル9章)14節もう一回見てみたいと思いますね。 この贖いが完全に成就しているなら、 14まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
見たら分かるように、動詞は(※きよめて、離れさせて、仕える者にする) ――キリストの血が(※主語で)、私たちの良心、私たち自身というのは目的語ですよね。 ――つまり、キリストが私たちを、そうさせてくださる。 私たちがそうなるのではない。 私たちがみことばに自分の心を照らし、みことばから光を受け、聖霊の声に耳を傾け、聖霊から様々に教えられ、キリストの教会に身を置き、そして様々に私たちがキリストに聞くに従い、 キリストの血が私たちの良心をきよめ、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者としてくださるのです。 大切なのは、《キリストの贖いが成就している、完成している》ということで、成就・完成しているという言葉の重きを、へブル書の記者は《once and for all》 ですね。
ローマ人への手紙の8章をちょっと開いていただけませんか? これも映しますけれども、ロ―マ人への手紙の8章の37節ですね。 【画面:ローマ8章37節「これらすべてにおいても」に黒ペンで囲み、「圧倒的な勝利者」に緑のハイライト】 <ローマ8:37> 37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
「これらすべてにおいても」というのは、ここにある「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」(35)ですね。 これが昔の訳ですと、「勝ち得て、なお余りあり」と書いてあるわけです。 ギリシャ語では、これは英語ではmore than conquerors ですよね。 征服する以上の、勝利者です。
それと同じように、ギリシャ語では、ヒュッペル・ニカオーです。 ニカオーというのは、私たちが良く履いているスニーカーでもスポーツシューズでも、ナイキってあるじゃないですか。 ギリシャ語で、ナイキっていうのは勝利の女神です。 ニカオーというのは、勝利するという動詞です。 すると、ヒュッペルというのは、〜をはるかに超えるという接頭語ですから、勝利者をはるかに超えている。
勝利するだけではない。それをはるかに超えた存在に、私たちは導き入れられていく。 キリストの恵みの源には、そういう力がある、ということですよね。 私たちはまだまだ足りない者です。 しかし私たちが招き入れられた恵みの世界では、年に一度大祭司が贖いの血をもって、大祭司だけが贖い(神、至聖所?)に近づくような世界ではないです。 (へブル)4章(16節)にありますように、「折にかなった助けを得るために大胆に、神の恵みの御座に近づくことができる」世界。 そして大胆に恵みの座に近づくことができるのは、そこに、「罪は犯されませんでしたけれども、すべての点において、私たちと同じ弱さを味わい、私たちに心から同情できる大祭司イエス・キリスト」(※へブル4:15)がおられるから。 贖いが完了しただけではない。その贖いへと導いてくださるイエス・キリストが、私たちの弱さ・足りなさに、心から同情してくださるので、私たちのこの拙い良心を何度でもきよめてくださる。 ですから、私たちは「勝ち得て余りある者」「勝ち得て余りある贖いにあずかる者」になるわけです。
7章の25節をちょっと開きますね。ごめんなさい。へブル書に戻っていただいて7章の25節、24節から読みましょう。 【画面:へブル7章24節全文と25節「いつも生きていて〜おできになります。」に緑のハイライト】 <へブル7:24〜25> 24イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。 25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためとりなしをしておられるので、 (***毎朝、私たちが祈るときに、折にかなって助けを得るために祈るときに、私たちのためにいつもとりなしをしておられるので) ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
というのが、先程の「(キリストの血は)完全に良心をきよめることができる」(へブル9:14)という言葉の意味です。 私たちはダビデとヨセフとダニエルとアブラハムとヤコブに比べて、はるかに劣る者かもしれない。 しかし、彼らが味わうことのなかったイエス・キリストを、私たちは味わうことができる。 この方に信頼する時に、私たちは良心ばかりではない。その良心をもって、罪を離れ、神に仕える勇気を得ることができるんですね。
「良心」という言葉がキリスト教の舞台に乗っかったのは、16世紀の宗教改革でありました。 宗教改革を率いたマルチン・ルターから始まります。 彼は「キリストを信じることによってのみ、人は神の前に義とされる」(と宣言しました)。 贖宥状(※免罪符)を購入したり、自分の贖宥行為を延々として、自分の良心をなだめる必要はない。 周囲の人々は当時、良心の呵責をおさめるために、贖宥状を買うことに必死でありました。
私たちはグーテンベルグの印刷機によって、ルターがドイツ語に訳したローマ人への手紙が大量に印刷され、ヨーロッパ中に運ばれた、と思っています。 それは事実です。だけどそれ以前に、グーテンベルグの印刷機というのは、この贖宥状の印刷にものすごい力を発揮したんですよ。 ものすごい力を発揮した。ヨーロッパ中で何千万枚、何億枚という贖宥状が売られ、それを一体何枚買うかによって、あなたの良心の呵責をなだめることができる(※としたカトリック教会)。 罪を赦していただいたとしても、つまり司祭に告白し、「あなたの罪は赦されました」と言われても、良心の呵責って残るんですね。 「あんなことしなければよかった」という後悔が残るんです。 そして二度としないようにという意味も込めて、そして司祭は人々に様々な行いを課すんですよね。 たとえば、今で言うならば教会の掃除をしなさいとか、或いは絵画を寄贈しなさいとか、立派な人であれば、教会堂を新しく建てたらいいと。 そういう行いをすることによって、あなたの罪が宥められ、つまり罪は赦されているんですけれども、(罪の)呵責が宥められ、そして少しでも神に仕える者となり、二度と同じ罪を犯すことがないように、神は助けてくださる――それが贖宥状だったんです。
ルターは「そんなことをする必要はない。キリストの十字架がすべてを成し遂げておられ、私たちは単純に信じることがいい」(※ということを宣言する。) ルターは「それは異端だ」と言われ、ローマ教会から審問を受けます。 そして最終的に、彼は審問場になかなか足を運ばないものですから、神聖ローマ帝国の帝国会議がドイツのヴォルムスという所で開かれた時に、 彼はそこに出廷し自分の主張を撤回するように求められます。 その時ルターが言った言葉―― 「私は、既に述べたように、聖書に信服し、私の良心は神のみことばに捕らわれているのですから、私は取り消すことができないし、また取り消そうとも思いません。」
ここでいきなり、ローマ法王の判断よりも、教会の判断よりも、人一人の良心がこれほど世界を変えるのかと思うほど、前に出たんです。 それからというもの、世界の歴史で歴史を変えるために、ま、それまでもあったわけですけれども、人々は自分たちの良心を前に出すということに努力を計って来た。
しかし、良心というものはそんなにきちっとしたものではない。そんなに強くもない。 でもその良心を勝ち得て余りある贖いに乗せれば、その贖いが私たちの罪の呵責を拭い去ってくださり、そして私たちは罪から離れ、神に仕える者とされるように、背中を押してくれる。 私たちはだれでも背中を押してくれる人が必要ですよ。 それが家族であるのか、みことばであるのか。 それが友人の祈りであるのか、背中を押してもらうってものすごく必要で、 聖霊はあなたの背中を押し、悪から離れ、神に仕える者と近づけてくださいます。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、自分の良心を振り返ってみますと、なるほど80%位鈍感だなぁと思うことが多いですが、それでも御言葉も聖霊も間断なく私たちに語りかけを与えてくださいます。どうか私たちの背中を押してください。 そして、より深くキリストの贖いがすべてを成し遂げたがゆえに、私たちが罪の呵責に苛まれるということ自体があまり意味がない人生の努力なんだ、ということを教えてください。 それよりもキリストの贖いに信頼し、あなたに背中を押していただいて、御心を歩むことができるように力づけてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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