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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/22 へブル(21)世々の終わりに へブル9:15〜28
☆聖書箇所 へブル9:15〜28
 15キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。
16遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
17遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。
18ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。
19モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、
20「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。
21また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。
22律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
 23ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。
24キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。
25それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。
26もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。
27そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

☆説教 へブル(21)世々の終わりに

連続してヘブル人への手紙に目を留めています。
今日は9章の後半からなんですけれども、(※タブレットを操作しながらものをいう藤本牧師)聖書をちょっと見ることができないので、このiPadを止めさせてください。一回Oさん見てくんないかなあ?(※と自分で笑い出す)すいません(※とタブレットを外して渡す)お話はできますのでよろしくお願いします。

先週は9章の前半部分からお話しをいたしました。
へブル人への手紙の中心メッセージとも言える箇所なんです。(※タブレットが戻って来るのを受けてスタンドに取り付けながら語る)、
なかなか私たちは、そういう意識でこの箇所を読んでないと思いますが、
《先週と今週のメッセージを抱き合わせて、へブル人への手紙のメインのメッセージだ》という風に受け取っていただけると感謝であります。

ここで記者は古い契約――モーセの仲介によって為された旧約――とキリストの仲介によってなされた新約をずっとこう比較しています。
手紙の記者は、先週お話ししましたように、新しい契約において私たちの良心をきよめることができる。「礼拝する人の良心を完全にすることができる」(へブル9:9)礼拝である、という話をもって、私は説教の最後で「良心を完全にする」ことでルターを引用いたしました。

彼が修道士であった頃、中世のカトリック教会の教えに従って、自分の罪を告白し、
しかし(司祭に)赦しを宣言されただけでは納得できない人々は、
ひたすら贖宥状(以前は免罪符と呼びましたけれども)を買い、罪は赦された。
しかしその罪の償いをして、二度と同じ罪を犯すことのないように、また許された感謝として免罪符を買う。
でも《何度買っても自分の良心はきよめられることはない。買えば買うほど、両親の呵責が増えていく》というルターにはそれが問題でありました。

彼は《キリストの贖いは、once and for all 一度にして完全で、圧倒的に偉大で、私たちの良心を強く立たせることができる》(と宣言しました)。

つまり、先週お話ししました枢要点は、古い契約と新しい契約の比較というのは、
古い契約に生きる人々と、新しい契約に生きる私たちの、《信仰者としての質の比較ではない》んです。
勿論それは当然のことです。でもそれ以前に、その契約にあずかる私たちの(信仰の)質の比較以前に、
契約の大本である《贖いのみわざの比較》なんです。
旧約聖書の大祭司を基にして、動物のいけにえを献げ、しかも年に一回至聖所に入るのは大祭司のみという、
で、延々と祭りの度に、事ある毎に、いけにえの動物を献げている、その贖いと、
イエス・キリストが人の子となり、この地上に降りて来られ、そしてご自身を十字架の上で磔とされ、そしてonce and for all 一度にしてすべての贖いを成就されたということの比較なんです。

私たちは自分の足をどこに置いているかというのはすごく大切なことだということは、この教会では強調して来たと思います。
往々にして、私たちは旧約聖書の教えに、この足を立たせてしまう。
それは《聖書はすべて神の言葉である》という信仰なんですけれども、
しかし本当に軸足というのはいつもキリストの十字架の上に置いていませんと、
私たちはついつい、ま、旧約聖書の方が圧倒的に分厚いですし、
キリストの福音を忘れ、非常に旧約的なキリスト者になり得るという課題はあります。

で、今日はその(へブル9章)後半部分を見ていただきたいと思うのですが、
(御言葉を見ていく)順番を変えます。

1)契約の血

新しい契約というのは一体どういうものであるのか?(へブル9章)18節から見て行きますね。
【画面:へブル9章18節「初めの契約も、血を抜きに成立」、21節「幕屋と、」以下全文、22節「ほとんどすべてのものは〜ありません」に黄緑のハイライト。22節「血を流すことがなければ〜ありません」に黒ペンの傍線】

<へブル9:18〜22>――説明しながら読んで行く。
18ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。

***旧約聖書に「いのちは血の中にあります」とあります。
ですから、初めの契約も、血を抜きには成立しないと。

19モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ,
(※20節は飛んで21節へ)
20「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。
21また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。

***という風に、《いのちを振りかける》ということがどれほど大切であったのか。

22律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

***と、これは皆さんがもし出エジプト記の24章6節〜8節を見ていただく(※へブル9:20の説明として)、或いはレビ記の8章14〜15節(※へブル9:21の説明として)を見ていただきますと、詳しく記されています。

(※語られませんでしたが、以下に書き出しておきます)
<出エジプト24:6〜8>
6モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
7そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
8モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」

<レビ記8:14〜15>【***礼拝の場も祭司もきよめられる必要があると】
 14それから彼は罪のきよめのささげ物の雄牛を近寄らせた。そこで、アロンとその子らは、その罪のきよめのささげ物である雄牛の頭に手を置いた。
15それが屠られると、モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の四隅の角に塗り、こうして祭壇から罪を除き、その残りの血を祭壇の土台に注いだ。このようにして祭壇のために宥めを行い、これを聖別した。

<へブル9章22節>
22律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

***《血の中にいのちがある》と考えたからです。それは、レビ記の17章11節です。

<レビ17:11>――(※参考までに)
11実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。

主イエスは仰いました。
<マタイ16:26>
26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

***ということは買い戻せないということです。
私たちのいのちは、何をしても、私たちでは買い戻すことができない。

<詩篇49:8>
8たましいの贖いの代価は高く 永久にあきらめなくてはならない。

***(たましいの)贖いの代価は非常に高価で、永久にあきらめなければいけない
それをイエスはご自身のいのちを十字架で注ぎ出してくださり、
――それが《十字架の血潮》になるわけですけれども――
私たちを神のみもとへと連れ戻し、神の子どもとしてくださった。

ということが、この(ヘブル書)9章の後半に書かれている、ということを、頭にまず入れてください。

それから、もう一回9章の15節からの部分に――

2)この契約がいつから始まったのか、というのが今日の一つのポイントです。

【画面:へブル9章15節「新しい契約の仲介者」「契約の」16節「遺言」「死亡証明」に黒ペンの囲み。16節「遺言」と「遺言者の死亡証明が必要」18節「初めの契約も血を抜きに成立した」に黄緑のハイライト】

ここに(15節)「キリストは新しい契約の仲介者です」とあり、16節を見ていただきたいんです。

16遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。

という、この「遺言」に*がついていますでしょう。
これ「遺言」という言葉なんですが、実はここにある(※15節を押さえて)「契約」という言葉と同じ言葉です。
つまり契約が執行されるには、遺言者の死亡証明(が必要)。
つまり契約がいつから始まるのか?キリストの死亡証明が出された時から始まるというのは、現代においても同じですよね。
私たちが遺言を書いておいて、自分が生きている内に遺言書が開けられたら、それは有効とはなりませんよね。
それは遺言を開封する人が決められていて、親族全員が揃っている所で、或いはそれが弁護士であったり、裁判所であったり、代理人であったりしますけれども、それで初めてその時に遺言が有効になる訳ですよ。

すると、新しい契約の遺言がいつ有効になるのか、というのは聖書のものの言い方ですと、死亡証明が必要ですということは、《キリストが息を引取られたということが必要》ですと。
つまり《そこからは新しい契約が始まっている》わけです。

すると、もう今日の説教の三番目のポイントに移ります(笑)。
この三番目のポイントが長いので、ここを「もう終わりか」と思うのではなくて、「ここからが話だ」と思って、3番めのポイントを聞いてください。

3)へブル人への手紙に何度も出て来ます、そして私(藤本牧師)が何度も強調している「ただ一度だけ」に新しい意味が加わります。

これまで唯一度だけは、once and for all 回数の問題ではない。これは完成、成就の意味があるとお伝えしてきました。
これは、「契約の実行はいつから?」という問いに、「ただ一度だけ」という表現が答えています。
ちょっと聖書を見ますね。10節は何度も見ていただきました。
(※ということで11節から読み始める)

【画面:へブル9章10節「新しい秩序が〜規定に過ぎません」、新しい秩序」に重ねて緑のハイライト、11節「すでに実現した」「もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り」に茶色のハイライト】

<へブル9:10〜11>
10それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられるときまで課せられるもので、からだに関する規定に過ぎません。
 11しかしキリストは、既に実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、

ここに、後でもう一回注目しますが、(※10節を指差して)「新しい秩序」ってありますよね。
「新しい秩序」(10)――つまり世界が変わるということですね。
キリストが十字架で息絶えた時点から、世界は変わるんだと。
で、今日の私たちのテーマは、「そんなに世界は変わったの?」ということなんです。

いいですか。それで新しい秩序が始まる時に、こういう言葉が出て来ますよね。
9章の26節から読んで行きますね。

【画面:へブル9章25節全文に黒ペンの傍線、「何度も献げる」に囲み。「キリストはご自分を〜なさいません」に緑のハイライト。
26節「しかし今〜くださいました」に緑のハイライト「ただ一度だけ」と「世々の終わりに」に黒ペンの囲み】

<へブル9:25〜 26>
25それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。
26もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」
えっ、もう世々の終わりなんだ!――これが今日の課題です。

私たちは「世々の終わり」と言った時に、「新しい秩序」って考えた時に、キリストが再臨されて、本当に今のこの世界が終わる時を考えますよね。
しかし、へブル人への(手紙の)記者は、
すべての土台が私たちでなく、贖いであるならば、
旧約聖書の贖いはモーセの時に始まり、モーセの時以来延々と続き、
しかし新しい秩序は、キリストが十字架の上で血を流され、息絶えた時に、「世々の終わり」で「新しい秩序」が既に始まっている、という理解なんですよ。

私たちは「新しい秩序」とか「世々の終わり」という時に再臨を考える。
或いは地上を去って、天国に行く時が新しいいのちの始まりである、と私たちは普通に考えますね。
でもキリストが再び来られる時とか、私たちが天国に上げられる時とか、その時が新しい秩序の始りではないと。
或いはその時が、いよいよ「世々の終わり」がやって来たという時ではない。

私たちが「世々の終わり」をずっと後ろに持って行ってしまうのには、理由があって、
それは私たちが今生きているこの世界というのは、ローマ帝国がギリシャ帝国が、何〜をひっくり返し、侵入し、植民地化し、というのが今も全く同じような出来事が続くではないですか。
ロシアの恐怖があり、或いは中国の恐怖があり、という風に。
で、地震もその災害も病も、それは旧約聖書の時代にあったように、今の時代でも、人生の混沌とした有り様というのは、半端ではないわけですね。

でも、へブル人への手紙の記者が目を留めているのは、《旧約と新約の境目はキリストの再臨ではない。》(笑)
旧約と新約の境目は《キリストの十字架》。そこで「新しい秩序」が始まり、「世の終わり」が到来した。
難しく言えば、《終末論》と言いますけれども、旧約聖書の人々が待ち望んでいる終わりの日というのは、一日ではないということです。
それはもう2000年も続いているわけですけれども、《私たちは既に始まって、それが完成している「終わりの日」を今も生きている。》
という自覚に、果たして立てるんだろうか?

それで今日の説教題は「世々の終わりに」という風に話をしました。
さっきウクライナの教会が出て来ましたよね。(HMさんの賛美の動画の背景として)
ああいう自然の中で、ああいう教会が建ったらいいなぁと私(藤本牧師)は正直(笑)思ってしまいました。
しかし、この住宅地にいきなりあんな形の教会ができたら、それはそれはニュースになるような異様な光景だろうという風に思いますが、

皆さん、あの教会堂に入った時に、いいですか、何に注目するか?勿論建物でしょう。
だけど、足を踏み入れた時に注目するのは、祭壇です。
古い教会であればあるほど、ゴシック様式の教会であればあるほど、祭壇が非常に華美にできています。
それで中世でシトー会という修道院が、「いや華美の中に美しさがあるのではない。
美しさはシンプルの中にある」と言う。
ものすごくシンプルな教会堂、ゴシックのように飾りがもう至る所で、像が至る所で、何もない静寂の中に神の臨在を覚えるというものを造るんですよね。

どうして、そんな風に教会を建てていくのか?
それはこのヘブル人への記者が言っているように、《贖いが祭壇の中でなされるとしたら、教会の中で一番大切なのは祭壇》なのです。

以前、ここで棺を置いて、花を置いて葬儀をしていた時に、葬儀屋さんが準備をして来られるわけですよね。
葬儀屋さんもきちっと心得ておられますから、そこでスリッパを脱いで、私に訊くんですね。
「ここの上に上がっていいんでしょうか」と。
「あ、どうぞ、どうぞ」と。
「あ、そうですか。カトリック教会では一歩もダメですよね?」
ダメなんですよ。祭壇っていうのは、至聖所ですから。
ですから、信徒の方々はそこに行くことも不可能。
ですから、カトリック教会の葬儀では、祭壇はそこに置かれ、遺影はここに立てるのではなく、遺影は棺の脇に立てますね。
全部祭壇から外します。

祭壇を華美にするというのは、一体どういうことか?
それはある意味とっても大切でした。
それは、「新しい秩序」と「世々の終わり」はその祭壇に象徴されているからです。
その祭壇において、キリストが献げられたことによって、すべてが完了し、私たちは今神の国に生きている、ということを普通の人が実感するとしたら、教会の祭壇だったわけです。

ところが、祭壇を華美にして、毎回そこでミサを行えば行うほど、しかもそのミサにあずかるのが祭司たち、つまり司祭たちであればある程、
礼拝に来る人たちは、礼拝のミサのパーフォーマンスを見に来るのですね。
しかもそれが繰り返し献げられる。ミサがある度に、聖餐がある度に、繰り返し献げられるということに、ルターは抵抗を覚えたんです。

キリストの贖いの十字架はただの一度きりだと。
そしてキリストは聖日だけではない、日々天上の祭壇において、大祭司として天に携え戻った贖いの血潮を、今も私たちのために献げていてくださる。
ですからルターの時から、教会の中心は祭壇ではなく、講壇になったんです。

祭壇を華美にすればするほど、ただの一度だけで既に贖いは完了していて、終わりは始まっていて、私たちはその終わりを今生きている。
確かにキリストの再臨を私たちは待ち焦がれますよ、パウロも。

「終わりを生きる」っていうのは、じゃどういうことなのか?という風に、また話を飛ばしますので、いいですか?
ルターは説教台をわりと立派にしました。そして説教を礼拝の中心に据えました。
でもそれから先、教会がやはり礼拝の中心になり、そして説教が中心になり、なんですよ。

でもウェスレーは、その中心である説教を野外に持ち出しました。
そしてウェスレーは、聖餐も野外に持ち出しました。
つまり教会に入ることができる人々というのは、ごく僅かで、しかも当時で言えばかなり上流の人々です。
そしてブリストルの炭鉱夫何千人というのは、産業革命で地方から都市へと集中的に移り住んで来た。
彼らを受け止める教会なんかどこにもないんですね。
ですから、全部それを教会の外へ出し、そして信仰復興運動が語って行くのは、
「キリストの贖いを表現し、生きるのは、祭壇ではない。説教でもない。私たちだ。」

ですから、ま、それはルターも言っていることなんですけれども、皆さんがどのような職業についていたとしても――ルターは死刑執行人まで入れますよ――どのような職業についていたとしても、
《神が創られたこの世界を、善きことのために神の手足となって仕えるなら、》
赤ちゃんを抱えているお母さんであっても、学校の先生であっても、どのような職業であっても、神の贖いがもうすでに完成され、《いま私たちは終わりを生きている》ということの表現となる。
大きな教会堂、華美な祭壇、立派な説教壇、立派な説教者ではなく、
《日々の私たちが、キリストの贖いの完成を生きる者となる》ということです。

この感覚というのは、19世紀位まではまだ成り立ったんだろうと思います。
でも職業があまりにも多岐に亘り、そしてこの世界の統一性ももうなくなり、
しかもグローバル化ということで、何と言うんですかね、職業もありとあらゆるものが生じますよね。
そして私たちが生きている世界も、教会の側にいる世界から教会から遠〜く離れた世界に至るまで、ありとあらゆる方向に散らばって行くじゃないですか。
そして私たちもオンラインの方々もそうですけれども、礼拝の場としてこの時間を聖別し、しかしここから派遣された時に、もう既に「キリストの終わりの日を生きる」という目的からは遥か遠い所を私たちは行かなければいけない。

そこには権力闘争があり、そこには直にこの世の中のごたごたした問題があり、パウロが言うように、
「大自然は今も呻き、神の子どもとされている私たちも、今に至るまで呻き」(ローマ8章)
しかしパウロは
「終わりが来る前に、呻きつつも私たちは変えられ、そして圧倒的な勝利者として生きていくことができる」(ローマ8:37)と先週やりました。
《圧倒的な贖いの上に足を置いているのであれば、神の愛はあなたから離れず、圧倒的な勝利者として私たちは今のこの日を生きていく》というのが《終わりの時代を生きる私たちの心構え》なんですよね。

でもそう簡単に行くだろうか?というのがあるんですよ。
それは、腰は痛い、背中も痛い、病む、私たちは徐々に老いる。
この社会の、会社の様々な問題に巻き込まれ、とんでもない部署に移されとか、
そうこうしているうちに、土台がずれてしまうんですね。
既に私たちは《キリストの贖いが完成され、ただの一度で成就され、天上で大祭司が私たちのためにとりなしをしてくださる》を忘れて、
私たちは日々のごたごたの中に巻き込まれて行くんです。
巻き込まれて行っちゃうんですね。

そこで今日は、もう一度やっぱりこのみことばに戻って、へブルの4章ですね。14節から読んで終わりにいたします。

【画面:へブル4章14節「神の子〜おられるのですから」に肌色の傍線。「信仰の告白を〜ではありませんか」に緑のハイライト。
15節「弱さに同情でき」「私たちと同じにように試みにあわれた」に緑のハイライト。「私たちの弱さに同情できない」「すべての点において私たちと同じように試みに」に肌色の傍線。
16節「折にかなった〜近づこうではありませんか」にオレンジのハイライト】

<へブル4:14〜16>
14さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

***っていうのは日曜だけではない。元気な時だけではない。貧しい時も苦労している時も信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

***病の苦しみも、からだの痛みも、記憶の衰えも、主は同情できない方ではありません。

罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

***つまり恵みの座は、今日も明日も私たちの前に開いている。
なぜなら贖いは完成され、大祭司は年に一度ではない、
神の傍らに立ち、今日も私たちのためにとりなしをしていてくださる。
ですから、礼拝だけ、或いは祭壇だけ、講壇だけではない、
私たちが派遣されている、ありとあらゆる場所において、
《私たちは折にかなった助けを得、終わりの日をキリストと共に生きる者でありたい》と願います。
《あなたがたは(私たちは)あらゆることにあって、圧倒的な贖いによる圧倒的な勝利者なのです》と聖書にはとんでもないメッセージが書かれているものです。
それはどういう意味でとんでもないかと言うと、
《こんな私たちに力を注ぎ、こんな私たちがこの人生を生き抜く信仰を与えてくれる、とんでもない恵みが込められている》という意味でとんでもないんです。

☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、何ら旧約聖書の人々と変わらないじゃないか、と思える程の信仰の上下動の激しい私たちでもありますし、また日常があまりにも複雑で、時にコロナ禍にあって、またその後の感染症が増えると、ありとあらゆることが困難を感じる世界情勢の中に私たちの家族もいますし、色んなことが降りかかっていく中で、どうしたら圧倒的な勝利者として生き抜いていくことができるのか?

それはあなたの足を圧倒的な贖いの上に立たせなさいと、主よ、どうか私たちを憐れんでください。そして恵みの助けは折にかなって与えられると、折にかなって与えられるのですから、折にかなって大胆に恵みの座に近づく私たちとさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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