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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/5 へブル(22)新しい契約に立つ へブル10:1〜18
☆聖書箇所 へブル10:1〜18

1律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。
2それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。
3ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。
4雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。
 5ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。
  「あなたは、いけにえやささげ物を
  お求めにならないで、
  わたしに、からだを備えてくださいました。
6  全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を
  あなたは、お喜びにはなりませんでした。
7  そのとき、わたしは申しました。
  『今、わたしはここに来ております。
  巻物の書にわたしのことが書いてあります。
  神よ、あなたのみこころを行うために。』」
8以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、
9それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。
10このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
 11さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、
12キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
13あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
14なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。
 15聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、
16 「これらの日の後に、わたしが
  彼らと結ぶ契約はこうである。
  ――主のことば――
  わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、
  彼らの思いにこれを書き記す」
と言った後で、
17 「わたしは、もはや
  彼らの罪と不法を思い起こさない」
と言われるからです。
18罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

☆説教 へブル(22)新しい契約に立つ 

(※タブレットを触りながら)え〜、かなり聖書を開きます。そして戸塚先生が読んでくださっただけでは分からない程、難しい章です。
でありながら、実はへブル人への手紙の10章は、へブル人への手紙で一番大切な章で、恐らく今まで学んで来たことの総括が記されていると言っても過言ではありません。
ですから(※前方遠くの時計を見上げて)今11時5分ですけれども、できたら25分で、この(10章の)前半部分を共に学ぶことができたら幸いだな、という風に思っています。

では、今日はちょっと聖書を多めに映していただきますのでよろしくお願いいたします。
1節にこういう風に始まりますね。
【画面:へブル10章1節「年ごとに」に黒ペンで囲み、「完全にすることができません」に黒ペンの傍線】

1律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに(***大祭司が年に一回至聖所に入る、と説明)絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。

旧約聖書のいけにえは、年毎に毎年一度、大祭司が至聖所に入ることによって、ま、一番大きな特別ないけにえが献げられるんですけれども、それでさえ人々を完全にすることができない。

「完全にすることができない」というのは、(へブル)9章の26節を見ていただくと分かるように、それは「完全に罪を取り除く」ことができない、という意味ですね。
9章の26節の後半を読んでいただいたら、或いは9章の9節を見ていただきますと、「それらは、礼拝する人の良心を完全にすることができません」ということは、これは二重の問題です。
客観的な問題としては、贖いが不完全である。大祭司も1人の人間であり、献げられる物は動物であって、客観的に贖いが不完全である。
主観的な問題としては、したがって完全に赦されたという実感がない。その実感に立てない。

今日の説教のタイトルは「新しい契約に立つ」なんです。
その「立つ」ということの意味を、最終的に今日お話しいたしますので、少し付き合っていただきたいと思います。

前々回の説教のタイトルを思い出してくださると、それは(9章の前半からの話で)「勝ち得て余りある贖い」でありました。
神の御子がこの世界に来られ、ご自身のいのちを犠牲として差し出す。
大祭司キリストは、この世の人となられたので、私たちの弱さに同情できない方ではない。
そのキリストが大祭司となって、今も、ご自身の血を携え上り、そして天の至聖所(神の御前)に立っておられる。
ですから、その至聖所へと、大胆に折りにかなった助けを得るために、私たちは神の御前に近づくことができる。
それは、私たちの完全さの故ではない。キリストが勝ち得て余りある贖いを達成されたからだと。
このヘブル書の論理を、もう繰り返し繰り返し、皆さんと学んでまいりました。
 
10章はその総括なんですけれども、どういう風に総括をしているのかを見ていただきたいと思うんですね。

1)まず強調されるのは、キリストが完全な犠牲となったという事実です。

聖書を映していただきますが、10章の5節にこうありますね。
【画面:へブル10章5節「キリストは」にオレンジのハイライトと黒ペンの囲み。「からだを備えてくださいました」に黄緑のハイライト】
 5ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。
  「あなたは、・・・

「キリストは、この世界に来て」と――この言葉はもう一度8節に――

8以上のとおり、キリストは、「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、

「以上のとおり、キリストは」とありますよね、つまりこの部分が、客観的な贖いの完成です。
キリストは一体どういうお方だったのか、ということを、彼は、へブル人への手紙の記者は、先ず詩篇の40篇を引用いたします。
ちょっと詩篇の40篇を皆さんのために映しますが、もしよかったら見ていただきたいと思います。
ダビデの詩篇40篇の6節にこうあります。
【画面:詩篇40篇6節「あなたは私の耳を開いてくださいました」に黒ペンの囲み】
<詩篇40:6>
6 あなたは いけにえや穀物のささげ物を
 お喜びにはなりませんでした。
 あなたは私の耳を開いてくださいました。
 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を
 あなたは お求めになりませんでした。

「耳を開いてくださいました」というのは、これはみ教えに従うこと。
神さまが喜ばれるのは、穀物のささげ物やいけにえではない。
み教えに従うことを喜ばれるという箇所を引用した時に、へブル人への手紙では、
――へブル人への手紙をちょっと見ていただきたいんですが――こういう風に引用されているんですね。
「耳を開く」という言葉が、これをご覧ください。(※へブル書10章5節に戻る)

<へブル10:5>
 5・・・・・・
     「あなたは、いけにえやささげ物を
     お求めにならないで、
     わたしに、からだを備えてくださいました。

「耳を開いてくださいました」ではなくて、「からだを備えてくださいました」になっている。
これは必然的にこうなっているんですよ。
それはへブル人への手紙の記者が、詩篇40篇を引用した時に、詩篇40篇のへブル語からギリシャ語に自分で翻訳しなかった。
代わりに紀元前3世紀に、エジプトのアレキサンドリアで生まれた70人訳聖書――つまりヘブル語で書かれた旧約聖書をギリシャ語に翻訳した――70人訳聖書から、詩篇の40篇を引用しているんです。
どういうわけか、「耳を開く」というヘブル語を、70人訳聖書は「からだを備えた」と訳してある。

これは不思議な摂理としか言いようがないんですね。
つまりダビデにしてみれば、耳が開かれて、そして神のみこころに従うことができた。
ところが、キリストにおいては、「従う」ということよりも先ず、「からだが備えられて人となる」ということが先です。
ですから御子イエス・キリストが「からだが備えられて」、私たちと同じ人間となり、
<この方がご自身のからだを全焼のささげ物、罪のきよめのささげ物とされた>ということなんですね。
で、(※聖書下の段)8節を見ますと、こういう風に出て来ますでしょう。

8以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、
9それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。」と言われました。・・・

***キリストは死に至るまで忠実に神のみこころを行われたんですね。そして10節――

【画面:へブル10章10節「このみこころにしたがって」にオレンジのハイライト。「ただ一度だけ」に黒ペンで囲み】

10このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

ってことは、「勝ち得て余りあるキリストのからだの献げもの」によって、<贖いは完成された>ということを、記しているわけです。

ちょっと難しいかも知れませんけれども、後でもう一回聖書を読んでいただければ、なんとなく分かるんじゃないかなぁという風に思っています。

2)(へブル10章)11節からの所を見ていただきたいんですが、

【画面:へブル10章11節全文にオレンジの傍線、「毎日立って」に黒ペンの囲み、「それらは決して罪を除き去ることができませんが」に黄緑のハイライト】

   11さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、
(***これは大祭司ではなく、普通の祭司が毎日献げるささげ物なんです。ですから、二重の話をしているんですね。年に一度という献げ物、それから毎日の献げ物、と説明)
同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、

でもキリストは、ここにありますよね、(※と12節を指差す)
【画面:へブル10章12節「永遠の神の右の座に着き」に黄緑のハイライト。「座に着き」に黒ペンの囲み】

12キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、

「永遠の神の右の座に着き」というのは、私たちが使徒信条で告白しているように、ここに「座」という言葉がある――これは「神の王座」です。
私たちは御子イエス・キリストが、死から復活されて天に昇り、神の右に着座されました、と使徒信条で告白しますよね。
「座」という言葉は「椅子」という意味なんです。

椅子に着くという。私何回も話していますよね。
この世界には特別な椅子がある。
「その椅子に座ったら、その人物は普通の人ではなくなる」という椅子がある。
それは、「王座」とそれから「裁判官の座」。
裁判所に行きましたら、裁判官は立たないです。座っています。
そして立って話をするのは、検事と弁護士です。ま、被告人が立つ場合もありますけれども、基本的に座る・立つの構成は、傍聴人は全員座り、そして判決を下す裁判官は3人座って前に座り、そして右側の弁護、左側の検事がどちらかが立って話をすると。

そうすると、キリストは弁護人ですから立つんですよね。
ところがここに書いてあるように、この方は「座に座っている」ということは、
私たちを弁護してくださるキリストは、権威の座に座っておられる。
つまり《勝ち得て余りある贖い》ですよね、プラス、《勝ち得て余りある大祭司》を私たちは持っているということなんです。

キリストはからだが備えられて、ご自身のからだを神のみこころを全うするため、死に至るまで忠実に、そして十字架でご自身をお献げになりました。
ご自身のからだをお献げになりました。贖いは完了いたしました。

しかしそれだけでなく、旧約聖書では毎日祭司がささげものを献げることによって、とりなしの祈りを神にささげるように、
イエス・キリストはご自身の血を携えて、私たちのために、毎日折にかなって、私たちが神の御前に出る度に、私たちのためにとりなしをしてくださる。
しかもそのとりなしをしてくださる方は、私たちの弁護人だけでなく、実は権威の座に座っておられる、という意味なんですね。

すると、《勝ち得て余りある贖い》と、《勝ち得て余りあるとりなし手、大祭司》が私たちに与えられている。

3)三番目に注目したいのが、ここから始まる一文なんですよ。

またゆっくり皆さんご覧にならないと、なかなか難しいかもしれません。ここですね。
(※15節を指差して)
【画面:へブル10章15節「聖霊もまた」に黄緑のハイライト。】

 15聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、

で、エレミヤの31:31を引用します。(※ページをめくって、16節を指差して)ここからですね。
【画面:へブル10章の16節「これらの日の後に〜こうである」に薄いオレンジのハイライト。「彼らと結ぶ契約は」に黄緑のハイライト。「わたしは〜書き記す」に薄いオレンジの傍線、「書き記す」に黄緑のハイライト】

16 「これらの日の後に、わたしが
  彼らと結ぶ契約はこうである。

というのは、エレミヤ31:31からの引用です。
ちょっとエレミヤの31:31を開いたら分かると思います。こうなっていますね。

【画面:エレミヤ31章31節「見よ、その時代が来る」に緑のハイライト。「新しい契約を結ぶ」に黄緑のハイライト】
<エレミヤ31:31>
   31見よ、その時代が来る――【主】の言葉――。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

ずっと新しい契約の説明が書いてあります。(※聖書の下の段に移って)
【画面:エレミヤ31章33節全部を水色のペンで囲む。数字の上の余白にゼカリヤ13:9との手書き、「契約はこうである」に黄緑のハイライト、「わたしは〜書き記す」「彼らはわたしの民となる」に緑のハイライト】
で、この33節に――(※【主】のことば――。から読む)

33これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。――【主】のことば――。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そして、(※エレミヤ31:34の)一番最後の方に――
【画面:「わたしが彼らの不義を赦し〜思い起こさないからだ」に黄緑のハイライト】

34・・・・・・わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

という、新しい契約の全貌が書いてあるわけです。
いいですか。私たちは旧約聖書、新約聖書と言いますよね。
それは「古い契約」と「新しい契約」なんですが、実はこの「新しい契約」という概念はエレミヤ書の預言から来ているわけです。
エレミヤ書の預言のこの31章というのは、新約聖書でどこにも引用されていません。
へブル人への手紙の記者だけが、エレミヤの31:31〜34までを引用するんです。

その時に、全部引用せずに、やっぱりへブル人への手紙を見ますと、飛ばさざるを得ないでしょうね。
で、ちょっと見ていただきたいと思います。どういう風に飛ばしているのか?

【画面:へブル10章の16節「これらの日の後に〜こうである」に薄いオレンジのハイライト。「彼らと結ぶ契約は」と「書き記す」に黄緑のハイライト。「わたしは〜書き記す」に薄いオレンジのハイライト。
17節「彼らの罪と不法を思い起こさない」を< >で囲む。
18節「罪と不法が赦されるところ」に薄いオレンジのハイライト、もう罪のきよめのささげ物はいりません」に黄緑のハイライト】

<へブル10:16〜18>
16 「これらの日の後に、わたしが
  彼らと結ぶ契約はこうである。
  ――主のことば――
  わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、
  彼らの思いにこれを書き記す」
と言った後で、
(***契約のメインですね、と説明)
17 「わたしは、もはや
  彼らの罪と不法を思い起こさない」
と言われるからです。
18罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

いいですか。
新約聖書の教え、福音、或いは「新しい契約」のメインは、やっぱりここに来るんですよね。
(※<彼らの罪と不法を思い起こさない>を指差して)

17 「わたしは、もはや
  彼らの罪と不法を思い起こさない」
【同じ引用は、へブル8:10〜13にも。13節で、これを神は「新しい契約」と呼ぶ】

それが「新しい契約」の中心にやはり来るんですよ。
エレミヤが預言したとおりに。

そうしますと、今日皆さんにお伝えしたかった3点はこういうことになりますよね。
@勝ち得て余りある(キリストの)贖い
A勝ち得て余りある私たちのとりなし手・大祭司キリスト
Bそれゆえに、神は私たちの不義・罪をもはや思い起こさない。
この三段論法がへブル人への手紙の、基本中の基本。すべてと言ってもいいと思います。

そして彼はここで、旧約聖書から重要な所を上手に引用しながら、
なぜキリストが人となられたのか?
なぜこの方が十字架に架かり、最後まで神のみこころに従われたのか?
なぜこの方が大祭司となって、今神の右の座に着座されているのか?
と、それは全部贖いの完成を、今日今の瞬間に至るまで、キリストは私たちのためにとりなしをしていてくださる、というこの大胆な福音の恵みを語りたいわけなんですね。

さて、これで@.A.Bと揃った。もう一回言いますよ。
@勝ち得て余りあるキリストの贖い。
A裁判官である方が弁護してくださる大祭司キリスト
Bそして、私たちの罪が赦された

いいですか。「私たちの罪が赦された」というのは、へブル人への手紙の記者の表現では、「良心が洗いきよめられる」んですよ。(***へブル9:9良心を完全にする)
罪許されたから、「罪責感から解放される」ということなんです。
で、ここが今日のお話の一番の中心になりますので、あと7分ありますから、少しじっくり聞いていただきたいと思います。

いいですか。
私たちの罪責感がきよめられる。良心が洗われる――というのは、「新しい契約」の中心にある。

それをたとえばパウロは、どういう風に表現するのか?これは開いていただきたいと思います。
●ローマ人への手紙8章34節です。
パウロはその贖いが全うされて、キリストが今もとりなしてくださり、私たちの罪が赦されているよということを、パウロはどういう風に表現するのか?

【画面:ローマ8章34節「死んでくださった方〜くださるのです」に緑のハイライト「とりなしていて」に黒ペンの囲み。35節全文に黄緑のハイライト】

<ローマ8:34〜35>
34だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

***これへブル人への手紙と同じような表現ですよね。
そして続く言葉が、(※次の35節を読む)

35だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

(※ローマ8章39節に飛んで読む)
【画面:ローマ8章39節「高いところにあるものも、深いところにあるものも」にオレンジのハイライト、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを」に黄緑のハイライト「引き離すことはできません」にオレンジのハイライト】
<ロマ8:39>
39・・・・・・そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

そうすると、パウロの表現では、@勝ち得て余りある贖い、A勝ち得て余りあるとりなし手、《それゆえに神の愛は、あなたから離れない》という「神の愛」へと表現は行くんですね。

●では、ヨハネを見てみません?第一ヨハネの手紙の4章10節です。へブル人への手紙の後になりますね。
ちょっと時間があれですので、スクリーンを見てくださって結構なんですが、また改めて第一ヨハネの手紙の4章の10節です。
ここではこういう表現になりますね。

【画面:Tヨハネ4章10節全文に黄色のハイライト】
<Tヨハネ4:10〜11>
10 私たちが神を愛したのではなく、
  神が私たちを愛し、
  私たちの罪のために、
  宥めのささげ物としての御子を遣わされました。(***贖いが完成されたということですね、と説明)
  ここに愛があるのです。
11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

この言葉というのは、ヨハネの最も尊い教えで、「新しい契約」における新しい律法とも言える隣人愛のことを指しています。
でもヨハネも同じ論法ですよね。
つまり宥めの備えものとして御子を遣わされ、贖いが全うされた時に、何が残ったのか?
それは《罪の赦し》が残ると同時に、《神の愛があなたの心を満たす》なんですよ。

つまり「新しい契約」っていうのは、いったい何か?
それは、罪赦されるだけではない。最終的に神の愛があなたの心を満たす。
ですから、神の愛はあなたを離れない――それが「新しい契約」なんです。

さて、私たちの課題です。この課題は深刻に受け止めた方がいいです。いいですか。
当時の人々がローマの迫害によってキリスト教からユダヤ教に戻ってしまおうとしたように、
私たちも、キリストを信じる前の泥沼にもう一回はまりに来る、という傾向はあります。
当時の人々がキリストを捨てて、そのユダヤ教の教えにはまりにもう一回戻って行くように、私たちはユダヤ人ではないですからユダヤ教ではない。
でもそれ以前の泥沼に、もう一度自分の身を投げに行くということはある。
その泥沼って一体どういう泥沼か?
それは自責の念です。
へブル人への手紙では、「全き完全に、あなたの良心は完全になりました」と、
「神さまがそのようにしてくださいました」、なんですけれども、
私たちはその後も罪を犯します。

その後も罪を犯し、そしてそれを悔い改めることもせず、そして聖餐式に向かう度に心を痛め、そしてもう一回私たちは自責の念という泥沼にはまりに行くんですよ。
それが良心の呵責であったり、自分の失敗体験であったり、自分の劣等感であったり、自分が子どもの頃から引きずっている所の自分のコンプレックスであったり、それから人生で様々嫌なことが起こったがゆえに、自分の内にこう、根を張っている被害者意識であったり――そこへと結局はまりに行くと。
すると「新しい契約」に立てないですね。

私たちは、このヘブル人への手紙の記者が言うように、贖いが完全であり、キリストというとりなし手が権威をもって私たちのために弁護してくださるのであれば、あえて自分から泥沼にはまりに行かない。
自責の念から、被害者意識という泥沼から、私たちはいい加減に戻るのを止めて出なければいけない、と言う教えがへブル人への手紙から響いて来るんです。

重ねて申し上げましたよね。
旧約聖書の人々と私たちとを比較した時に、私たちの方が必ずしも優れているわけではないと。
すぐれているのは贖いが優れているのです。
いけにえが全然違う。そして大祭司が全く違う。
大祭司は権威の座に着いた上であなたを赦す。
そうした時に、私たちに神の愛が成就して、私に向かって来ているという意識をもって礼拝しない限り、私たちも旧約聖書の民と全く同じですよね。

私が(藤本牧師)が高校生、大学生の頃によく見ていた番組で「野生の王国」というTBSのシリーズがありました。
昨日ちょっと気になったので調べて見ましたら、1963年〜75年、1050回の放送であったと。
皆さんも「野生の王国」って、言っただけで何となく覚えていらっしゃると思うんですけれどもね。
私が大学生の頃に見た記憶がちょっと不鮮明なんですけれども、その一か所だけものすごく覚えているものがあるんですよね。
その日の特集は、アフリカのサバンナに住むサイだったんです。
サイというものは群れを成している。
地上ではジープが複数のカメラで、このサイを追いかけるんですけれども、空からヘリコプターがサイの群れを見るんですよね。
で、やっぱり話はこういう風になったと思うんですよね。
じっとしているサイなんか見ていても面白くもない。だからヘリコプターで追いかけてサイを走らせろ(笑)、ということに多分なったと思うんですよ、ディレクターの指示で。
で、かなり低空に降りてって、そして最後まで追いかけますと、あのサイが全速力で逃げるんですよ。群れで。
で、その内一匹が、アフリカのサバンナのどっかにある、何気に草が生えていて分からない、いわゆる底なし沼にはまるんですよね。
直ぐヘリコプターから地上のジープに連絡が行って、なんとかあのサイを引き上げないと番組にならないですよね。
それでジープが駆けつけて来て、ロープを投げるわけですよ。
で、そのロープは二重三重に投げて、二台位のジープで引き上げていくんですよね。
上手にかかった。ところが、あの底なし沼って――皆さん「底なし沼」でYouTubeでも何でもご覧になるといいと思いますが――もがけばもがくほど沈むんですよ。
じっとしていたら、その位置なんです。でももがけばもがくほど沈んでいく。

そして最後、ロープがかけられ、一生懸命かけられればかけられるほど、サイはもがく。
それが愛の助けのロープだと思ってないんです。だからもがく。
そして最後、そのサイの鼻の頭だけが底なし沼の上から、角と一緒に突き出て、ぐ〜っと沈んで行って、「残念ながら、サイのいのちは終わりました」というような番組の閉じでありました。

私(藤本牧師)はね、神の愛のロープっていうのはこういうもんだと思うんですね。
神さまは私たちを新しい契約の上に立たせるために、様々なロープを私たちの上にかけてくださる。
しかしかけられると、聖餐において自分の罪が示され、キリストの贖いを仰ぎ見る代わりに自分の罪深さを残念に思い、ますます嘆いて残念に思い、自分は足りないということだけを見つめて、私たちはもがく。
もがくとどうなるのか?もがくと沈むように自責の念と被害者意識はできていて、底なし沼に全身はまって行くんですね。

ですから、私たちはキリストを仰ぎ見、そしてキリストの言葉に心を寄せ、自分をそこから離さない。自分を「新しい契約」に立てる。

今年の元旦で学びましたように、へブル人の手紙の2章6節で
「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは」
というこの人は、キリストであり、また私たちなんです。
私たちに心を留めておられるキリスト、神。
その方は限りなく愛の眼差しをもって、私たちを引き上げようとしておられる。
私たちを立たせようとしておられる。
にも関わらず、私たちは何か好むかのように自責の泥沼に自分の身を投げに行くとしたらば、それはやはり愚かですよね。

それはユダヤ教に戻って行くようなユダヤ人と同じです。
辛いことは沢山あります。試練も沢山あります。
でもパウロが言ったように、「死であっても、試練も、裸も、迫害も、神の愛からあなたを引き離すことはありません」(ローマ8:35)
というみことばを、どれだけ真実に見つめ続けるかによって、
私たちの足は「新しい契約」の上に立つか、それとも泥沼に立つかに決まってしまう、
ということを心して、みことばをしっかりと捉えていきたいと思います。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、あなたがどれほど完璧であったとしても、あなたが私たちにくださる恵みがどれほどすばらしいものであったとしても、この呻き多き人生において、私たちに責任あることも、私たちに失敗であることも、よそから降りかかって来た被害、周囲の人から傷つけられたことも沢山ありますが、この事実を全部認めたとしても、神の愛があなたから離れることはない。
「だからあなたの足を、キリスト・イエスにおける新しい契約の上にしっかりと載せていなさい」というお勧めを、遜って受け止めることができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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738Simple view *^^*10/22 へブル(21)世々の終わりに へブル9:... T・Y 2023.10.22 84
737Simple view *^^*10/15 へブル(20)勝ち得て余りある贖い へ... T・Y 2023.10.15 88
736Simple view *^^*10/8 戸塚伝道師:ペテロのいる風景M 土の器に... T・Y 2023.10.08 71
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