☆聖書箇所 使徒の働き2:36〜42
36ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。 38そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」 40ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。 41彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。 42彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景N 説教篇T 人間をとる漁師になった朝 皆さん、おはようございます(※前を向いて、深くお辞儀をする)。高津教会の礼拝によくおいでくださいました。それから(※カメラを向いて)オンラインで参加の方々も共に礼拝を捧げることができる恵みを心から感謝したいと思います。
早速みことばに心を留めていきたいと思います。 今日の説教題は、「ペテロのいる風景」の第15回目の説教篇の1となっています。 「ペテロのいる風景」のシリーズは昨年の5月から始めました。 前回で終わるつもりでした。ちょうどいいところで終わるつもりでしたけれども、 使徒の働きを読みますとペテロが説教している場面が何か所か出ています。 「ペテロのいる風景」という名前がつく以上は、説教も取り上げたいなと思いまして、あと何回かは「ペテロのいる風景」を続けることにしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。 先ずはペンテコステの日にかかったペテロの初めての説教から、3つの視点で思い巡らしをしていきたいと思います。
1)ペテロの説教に込められた神さまのメッセージ
ペンテコステの朝、その日はこの1シーンから始まります。 使徒の働きの2章の1節をご覧いただきたいと思います。
<使徒の働き2:1〜4> 1五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。 2すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。 3また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。 4すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
***このシーンを想像すると、ものすごい光景ですね。ものすごい光景です。その後、5節を見ますと――
5さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、 6この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。・・・(※飛ばして7節に) 7彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。 8それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
***ガリラヤの人たちが、それぞれの外国語で神さまのみわざを語っているのを聞きました。 ペンテコステの一番最初の、天から火の舌が現れるような現象は、大勢の人たちは見ていなかった。 でもその物音で、聞いたのがそれぞれ外国の人たちが神さまのみわざを語っている、そういう状況でした。
12人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。 13だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
***あっけに取られて、驚いて、当惑して、嘲る人々を前に、この後ペテロは口を開きます。 それが14節からですね。14節―― ペテロは十一人と共に立って――ですから、十二人弟子全員、その内一人はユダの代わりのマッティアという人でしたけれども――その十二人が全員共に立っていました。そして、声を張り上げて人々に語りかけたのが、このメッセージでした。
その後、ず〜っと書かれています。ペテロの説教が続きます。 読みますと、ちゃんと3つのポイントの説教をされている、ペテロ。 1つ目――聖霊。2つ目――イエス・キリスト、3つ目――罪。 ちゃんとその順序に従って、ペテロは人々にお話しをしています。
@ペテロの説教のポイント――聖霊 聖霊降臨の現象へのコメントが綴られているのが、(使徒)2章の15節〜21節です。 ここには、「私たちは酒に酔っているのではありません。神さまが約束されたことが今成就するのです」と言って、ペテロはヨエル書、旧約聖書のヨエル書のお言葉を引用して語っています。
Aペテロの説教――イエスさま それが(使徒2章)22節から書かれています。
22イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それはあなたがたがご承知のことです。
***ここに「ナザレ人イエスによって」とありますけれども、このことを別の訳、新共同訳ではこのように訳されています。 「ナザレ人イエスこそ、神から遣わされたお方です」(新共同訳) 新改訳には、「神から遣わされたお方です」という言葉が入っていません。 でも(新改訳が)言いたかったのは「イエスこそ、神さまから遣わされたお方なんだ。私たちの使者なんだ。メシアなんだ。キリストなんだ。油注がれた者なんだ。そして、やがて王座に着く者なんだ」ということ。 それを「(ナザレ人イエスこそ、)神から遣わされたお方」という表現で新共同訳は書かれています。
「ナザレのイエスこそ、神から遣わされた者、その証明となるものが、3つあります」 と言って、22節――「あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い」とありますが―― <1>その証明となるものが、奇跡でした。不思議なわざとしるし。 <2>その証明となるものが、計画でした。23節をご覧いただきますと――
23神が定めた計画と、神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
***神さまのお定めになった計画のゆえに、私たちの罪を贖うために、ひとり子を身代わりとする計画でした。
<3>その証明となるものが、復活でした。 「神はイエスを復活させられた。それはダビデが預言していますよ」ということで、25節〜28節まで書かれています。そして32節――
32このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
***その後、イエスさまは神さまの右に上げられ、約束された聖霊を注いでくださった。 33節にこうありますね。
33ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
***これが今の状況だ。イエスこそ、神から遣わされた者、メシア、キリストなんだというのが、二つ目の説教のポイントでした。
B罪 どんな罪か?――神さまは、ひとり子を私たちの罪の贖いのために、何らかの方法で引き渡し、身代わりにするつもりでした。 それが(使徒2章)23節に書かれています。
23神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
***36節もご覧いただきたいと思います。今日お読みいただいた最初の所ですけれども――
36ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
***「それがあなたがたの罪です」――ということなんでしょう。 ペテロのこの3つのポイントによる説教、この説教を通して神さまのメッセージが語られたのですね。
2)ペテロの説教を聞いた人々の反応
どんな反応をしたか?37節をご覧ください。
37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
***人々はペテロの説教を聞いて「心を刺され」とあります。 特に「あなたがたはこのお方、イエスを十字架につけて殺してしまったんですよ」という、その言葉でしょうね。(23と26節) その言葉を聞いて、「心を刺された」と。
「心を刺される」という経験、皆さんも大なり小なりあると思います。 自分の犯した罪、悪意を、心から後悔する罪責感に、打ちのめされてしまうようなことですね。 「心を刺される」グサッと来る――あんなことしなければよかった。あんなこと言わなければよかった。 或いは、これをしてあげればよかった。ほんとに申し訳なかった。取り返しのつかないことをしてしまった。迷惑をかけてしまった。 どうすることもできない罪責感。心を刺される経験。
で、その時、人々はどうしたか?37節の続き、読みます。
37(続き)ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
***「どうしたらよいでしょうか」――自分の罪を認める言葉ですね。「私たちはどうしたらよいでしょうか」そこで38節――
38そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
***ここでもペテロは説教しています。人々の反応を見てる。 人々が心を刺されて「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言う姿を見て、 ペテロはもう一説教します。やはり3ポイントですね。
〔1〕悔い改めなさい。罪は赦されますから悔い改めなさい。的外れな生き方からの方向転換。イエスを信じるということ。 〔2〕イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 そうしますと、「悔い改める」ということと「洗礼を受ける」ということが、ここでは一つになっている。セットになっている。 「イエスさまを信じました」ということイコール「洗礼を受けます」ということが分かります。
私(戸塚伝道師)はイエスさまを信じてから洗礼を受けるまでに、1年半延ばしてしまいました。 牧師先生はどんな思いで、その一年半を待ってくださったんでしょうか?
でもここでは直ぐに、「信じた」イコール「洗礼を受ける」ということがペテロによって語られています。 〔3〕そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 私たちも、信じている私たちも、いま私たち一人一人の心の中に、聖霊が与えられている。 そんなこと、全然意識してないですね(笑)、私たちは。 でも信じた者にしか分からないものが、心の中におられるということですね。 私たちには聖霊が与えられているんですね。これはすごいことですよね。 でも全然意識してないのは、なんかもったいない気がしますが。 意識できません、なかなか、心に(胸に手を当てて)聖霊が住んでくださっているとは。
そして「この約束はだれにも与えられています」(39)――そういう言葉でこの付け足しの説教を締めくくっています。
さらにこの場で色々な言葉で語ったらしい。40節見ますと――
40ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった世から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
***とあります。宣教の使命がいかに重要なものか、緊急を要するものかということが、ここで分かります。 キリストの復活の証人として、ペテロは立てられた、という自覚を持っていたのでしょう。 そしてその後、その勧めに従って、41節――
41彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
***ペテロの言葉、ペテロの説教、神さまからのメッセージを受け入れた人々は、その場で一度に三千人の人が仲間に加えられた。 この「仲間に加えられた」ということは、キリスト教信者になった人たちではないんですね。 なぜか?キリスト教はまだ存在してなかったから。 (使徒やすべての人たちの)罪のために死なれた、キリストの復活の証人になったということです。 「加えられた」ということは、この日以前にも聖霊が降る前から、キリストの復活の証人になっていた人たちがいたということです。 既に復活されたイエスさまと出会った人たちが沢山おられたからでしょう。 「ああ、この方こそ、私たちの救い主だ」ということが、復活されたイエスさまと出会ったことによって分かった。 その方が洗礼を受けていたかどうかは、聖書に書いてないでしょう(笑)ないですけれども、恐らく受けたんでしょうね。 ペテロの説教で三千人ほどの人が救いの恵みを受けた光景――これもなかなか想像できません。 とにかく数えきれない人たちが、ペテロの前で悔い改めて、お祈りをして、そして洗礼を受けていたわけです。 数えきれない人たちが目の前で。
イエスさまは以前ペテロに言われました。 マルコの福音書1章の17節にイエスさまはこう仰っています。 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 ペテロはイエスさまが言われた通り、この日、人間をとる漁師になりました。 「人間をとる」とは、人を救いの恵みに導くことです。
「人間をとる」なんて言い方をすると、なんか人権的に表現的にちょっとまずいのかもしれない。人間をとるなんて(※と頭を振って言う戸塚伝道師)。 でも聖書には、イエスさまがそのことばで表現されています。 人間をとる。そしてイエスさまが天に上げられた今も、聖霊を通して生きておられるその救い主イエスさまとの出会いの経験に導くこと――人間をとる。 さらには、復活の証人の仲間に加えること――人間をとるっていうことです。
「人間をとる漁師」とあります。 漁師ならば当然、大漁を願っています。 イエスさまも網が破れそう、舟が沈みそうなほどの大漁の奇跡を、弟子たちに見せられました。経験させられました。 ルカの福音書の5章の1節〜11節に書かれています。 イエスさまも救われる人の数の多さをイメージされていました。 多くの人たちが自分を救い主として信じ、救われてほしいと願っておられた。
よく「数じゃないよ、質だよ」という言葉がありますね。 でもイエスさま、そんなこと考えておられなかった。 質が本物ならば、数は当然多くなる。 人間を捕る漁師は一匹や二匹じゃ満足しないんですよ。 大漁だ。
とは言え、イエスさまの立ち位置は、数が増えることを目標にはしていなかったでしょう。 少数派の味方です、イエスさまは。 数の大きさに潜む危険を十分ご存知であった。 それでも、沢山の人が救われてほしいことを、イエスさまは願っておられた。
ペテロも後に書いていますね。 ペテロの手紙第二の3章の9節にペテロはこう書いています。 <Uペテロ3:9> 9・・・・・・主は、だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
***「すべての人が悔い改めに進んでほしいと、神さまは願っておられる。 数の多さ、沢山の人、大量の人をイエスさまのもとにお連れした、この日のペテロですね。 悔い改めて洗礼を受けた人、約三千人。 そしてこの三千人、今まですでに(信仰を)告白していた人たちを含め、この日に教会は誕生しました。 ペンテコステは聖霊降臨記念日と共に、教会の誕生日と言われています。
それにしても、私(戸塚伝道師)思うんですね。 一度に三千人の洗礼式ってどうやったんだろうか?って。どうやったんだろう? どのような段取りで実施したのか? これも想像することができません。 この日から二千年程経った今、人間を捕る漁師たちの宣教の働きは時空を超えて、2023年の今にまで及んでいます。
全世界の人口73億人の中で、キリスト教徒が24億4799万人、32.9%。 宗教の枠組みで捉えますと、キリスト教徒が世界一の人数というわけです。 これは2022年のデータですから、新しいデータです。 全世界の人口の三分の一。三人に一人がイエスをキリストだと告白しているということです。
ちなみにイスラム教徒が17億5200万人、23.6% 続きましてヒンズー教徒が10億1942万人、13.7% 仏教徒は5億2149万人、7.0% 無宗教の人は13.1 億人、10.1% その中で、日本人は7200万人だと言われています。無宗教が。 でもなんであんなに沢山の人が初詣に行くんでしょう?(笑)
キリスト教の三大宗派、東方正教会は2.8億人、プロテスタントが5.5億人、カトリックが12.4億人ですから、 キリスト教徒の半分はカトリックであるということが分かります。 ちなみに日本のキリスト者はおよそ95万人。
宗教の自由がある国の中で、世界最強の宣教困難国と言われています。 世界最強の宣教困難国、日本。 でも、それでもかつては路傍伝道で、教会に人が沢山集まって来ました。 チラシを配れば、集会にやって来ました。 教会学校も、学校の門の前で、土曜日の帰りに子どもたちにチラシを配ると、次の日、教会にもう入りきれない程の子どもたちがやって来る――そういう時代がありました。 大衆伝道でも招きをしますと、沢山の人が悔い改めるために前に出て来る光景を私(戸塚伝道師)も見たことがあります。
それでも今、全体的に、世界的な宗教離れの時代です。 その中でイスラム教は増えつつある。 それでも今は、24億人の信者を持つキリスト教が世界最大の宗教になっているということですね。 その出発点がペンテコステの日の、ペテロのこの初めての説教から始まったわけです。
3)この時初めて説教をするペテロの佇まいについて
ペテロの説教で三千人の救い、教会の誕生という、そういう結果、そういうペテロの姿を、今この使徒の働きから見ましたけれども、 何か違和感を感じませんか?(笑) 私(戸塚伝道師)感じるんですね。確かに違和感を感じるんです。
この説教をしているペテロって、あのペテロなの? 無学な漁師上がりだったペテロが、無学な人が、なんであんな旧約聖書を引用できるの? 好奇心旺盛で人懐っこい。喜怒哀楽が激しい、思ったことをすぐ口にして、十二弟子の中で誰が一番偉いかを、ペテロも競い合うような、そんなペテロ。 そしてイエスさまを裏切る。三度も否定。 剣を抜いて、切りかかることもありました。大祭司の耳を切ってしまった。 もう復活のイエスさまに会わせる顔がない。そんなペテロ。 そして自分のことを棚に上げて、ユダの代わりの弟子を強引に決めたペテロ。 あのペテロなの?でもあのペテロが土の器のまま、このペテロに変えられたわけですよ。 無学な漁師が、一日にして名説教者に変えられた。
で、私(戸塚伝道師)は、この説教するペテロの佇まいを見ますと、大胆さを感じます。 御言葉を大胆に語るペテロ――それは復活と聖霊の力ですね。復活と聖霊の力。 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてわたしの証人となります」(使徒1:8)と、 イエスさまが地上で最後に言い残した言葉――それがペテロにも成就しました。 力が、聖霊の力が、こんなにペテロを変えた。
もう一つのペテロの説教する佇まいは、謙遜さです。 結果に対しても、なんか淡々としているペテロの様子。 もしあのペテロだったらば、本当だったらばこうなるんじゃないかと、私は思うんですね。 「イエスさまが言ってたよなぁ。俺を人間を捕る漁師にするって。あ、それがこのことかぁ、俺の説教で、大量の洗礼を受ける者たちが起こされた。俺は今まさに人間を捕る漁師になったぁ」(※両手を握ってガッツポーズのように上げて) という感じだった。あのペテロだったら、そう言ったでしょうね。
でも、ペテロはそんなことを思ってはいない。 そんなこと全然思ってもいない。 聖書を読んでも、ペテロの自負心は全然伝わって来ない。 これは案外、大事なことなのかもしれません。 人の評価に全く縛られていないペテロの姿をここから見ます。 自分がしたことの結果に左右されなかったペテロ。 「人から評価されたい」という承認欲求を恐らく感じていなかったでしょう。 「実績を残すことができた」という自己満足も持っていなかったと思います。 初めから「三千人救ってやる」なんて言う思いもなかったし、 三千人の救いに対しても驚いた様子もないし、 しかも三千人という人数を数えたのは、誰でしょう。ペテロではなかった。 淡々と、その目で見たイエスさまの復活を証ししている。 「人間を捕る漁師」という表現も使徒の働きにはないし、 「人間を捕る漁師になった」という自覚も、証しも、聖書には書いてないし、 自分でも学んだこともない御言葉を引用して、与えられたメッセージを語っている。 しかも生き生きと語っている。 そのペテロの姿に、謙遜さを見ます。
私はこの謙遜さというのは、本当に大事だなぁと思います。 あの大谷翔平選手も、藤井聡太八冠もなんと謙遜なんでしょうか(笑)。 常に自分を客観視して、与えられた目の前のことに集中して、 「自分はまだまだこれからの人間です」というあの言い方。 神さまは、まだ信じてない人にもひいきされる方なんだなぁと思いました(笑)。 特別な恵みをあの二人に与えておられる神さま。救われてほしいです(笑)。 でも神さまは、目を付けていらっしゃるわけですよね。
説教するペテロの佇まいは、大胆に謙遜にです。大胆に謙遜に。 ペテロ自身でさえ、そんなことを意識していないかのように。 イエスさまは、取り返しのつかない失敗をして、一度挫折したペテロを、用いられるお方です。 イエスさまは、そんなペテロを手離したくなかった。 ご自分がこの地上から去られた後も、ペテロをず〜っと聖霊を通して用いられた。 ペテロの最初の説教、それはかなり重要な説教だった、 でも大胆に、謙遜に。
余談ですが、この使徒の働きの2章の14節〜40節まで説教時間はどれ位だったのでしょうか? 私(戸塚伝道師)なかなか30分切れないんです。もうすぐ終わります(笑)。 なかなか30分切れない(笑)。何回ここに立っても、なかなか30分切れない。 でもそんなことも考えていなかったでしょう。 私たちも自然体でシンプルな信仰を持ちたいと思います。 野心も下心もない者になりたい。 人からの評価、悪口にもお世辞にも、動揺しない者になりたい。 口先だけじゃなくて、本当に大胆で謙遜な者と変えていただきたい。 そして聖霊の力に満たされて、神さまの恵みそのものを、様々な方法で、どなたかに、あの方にお届けする者とされたいと思います。
今週も神さまにただで受けた恵みに感謝しながら、与えられた使命を丁寧に淡々とこなしていきたいと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、あなたがペテロに約束されたことは、どこまでも真実でした。「わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしてあげよう」――その通りに、ペンテコステの朝、聖霊に満たされたペテロは、神さまからのメッセージを語りました。そして三千人ほどの人々が救いに導かれ、教会が誕生しました。
あれから二千年、同じ贖いの恵みに生かされている人たちは世界中に広がっています。そしてここにいる私たちにも、その恵みが届けられています。イエスさまの十字架と復活のゆえです。ひとり子をお与えになったほどの神さまの愛を、心から感謝いたします。
どうか今週も日々の生活を通し、仕事や学びを通し、色々な方々と関わる中に、あなたからいただいた救いの恵みを、私の存在を通してさりげなく表す機会を備えてくださるよう、よろしくお願いいたします。あなたのお名前、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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