☆聖書箇所 Tサムエル8:1〜22
1サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。 2長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。 3しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。 4イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、 5彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」 6彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは【主】に祈った。 7【主】はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。 8わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、 わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。 9今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」 10サムエルは、自分に王を求めるこの民に対して、【主】のすべてのことばを話した。 11彼は言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。 12また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。 13また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。 14あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。 15あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。 16あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。 17あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。 18その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、【主】はあなたがたに答えはしない。」 19しかし民は拒んで、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。 20そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」 21サムエルは、民のすべてのことばを聞いて、それを【主】の耳に入れた。 22【主】はサムエルに言われた。「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」それで、サムエルはイスラエルの人々に「それぞれ自分の町に帰りなさい」と言った。
☆説教 サムエル(7)カリスマか制度か
さて、サムエル記に第7回目。 今日は結構、平坦のようであって、面白い。 ものすごく重要な箇所でありますので、皆さん自身、特に社会にある方にあっては、しっかりと聞いていただきたいと思います。 ちょっとざっと前回の復習をしますね。
前回、神の箱がペリシテに奪われて後、20年。 とうとうイスラエルの民は主を慕い求めた、というところから7章は始まります。 サムエルは民をミツパに集めて、民のために祈りを捧げます。 するとペリシテは、全イスラエルがミツパに集まった、ということを聞いて、「あ、これは戦いを仕掛けに来るんだ」と誤解いたします。 先手必勝で向こうから攻めて来ます。
その時戦いは始まりました。しかしサムエルは民の罪のために、贖いのささげ物を捧げています。 彼は民の指導者でありましたけれども、軍人ではありませんでした。彼はひたすら神に仕える祭司でありました。
私(藤本牧師)は自分という牧師に当てはめて考えてみました。 牧師は様々な場面で、特に重要と思われる場面で、ただ神に仕えて、祈りとりなす人になっているんだろうか?と。 牧師になって40年になりますけれども、果たしてそういう人生を過ごして来たんだろうかという悔い改めを私はいたしました。
神さまは、イスラエルに勝利を与えてくださいました。 そこでサムエルは一つの石を取り、戦場になった場所に、「エベン・エゼル」という塚(石の祈念碑)を建てました。 「ここまで主は私たちを助けてくださった」
これが年会の前。3月の日曜日でございました。 神さまは助けてくださった。皆さんが牧師を助けてくださった。皆さんが教会を助けてくださった。 この恵みは、皆さん一人ひとりにも当てはまると思います。 「これまで」というのは、「これからも助けてくださる」。 人生の様々な場面にあって、試練の中、辛い出来事の中にあっても、主は助けてくださったと、振り返ることができる、というお話をいたしました。
で、今日は8章全部です。 ゆっくり説明する前に、先に説教の中身に入ってしまいます。 中身に入ると、説教の意味が分かりますので、ポイントは2つあり、一つ目がどちらかというと長いです。 士師をやめて王政にしてくれという、王を求める話ですので、少しゆっくり聞いていただきたいと思います。
1)この世界には、基本的に指導するやり方は二つございます。
その一つはカリスマ指導、もう一つは制度による指導です。 サムエル記の前は士師記でありました。 イスラエルの十二部族は割り当ての地に住んでいますけれども、統率はありません。 全体を指導する者がいない。各地で様々な戦いが起る度に士師と呼ばれる――英語ではジャッジ(Judges)ですけれども――さばきつかさですね。そういう人物が現れます。
たとえば、戦争の最中で嘆いていて、自分の仕事であるぶどうを踏んでワインを造るという仕事をしていたギデオンが(***士師記6:11)、ギデオンの戦士を率いて勝利を得るという、あのギデオン。士師の一人ですよね。 (***士師記6〜8章) あるいは、妻ではない女性の息子で、家でははみ出し者、社会でははぐれ者、やがて暴力団を作るエフタ。エフタも敵が攻めて来たときに、指導的な働きをします。 (***士師記10〜12章) 女性にはめっぽう弱い。しかし腕力では誰一人この人に敵う人はいないというサムソン。 (***士師記13〜16章)
みんな一匹狼でしょう。そしてみんな教育があるわけではない。実績があるわけでもない。豪族の出身でもない。 しかし、独特なカリスマをもって、民の信頼を引き受けるのです。 そうしてイスラエルが統率されて行くっていうのは、これ、カリスマ政治です。 士師記が終わり、ここに出て来るサムエルというのは、最後の士師です。
次に出て来るのは王さまで、サウルという王さまです。 カリスマ政治には大きな弱点がありました。それはカリスマというものは、次の世代に引き継げないということです。 サムエルは自分が仕えたエリの二人の息子たち、ホフニとピネハスが惨憺たる生活をしていたということを目の当たりにしていましたけれども、自分の子育てがうまくいったわけではない。
8章をちょっと読んで行きますね。8章の1節から映しますね。 【画面:Tサムエル8章1節「息子たちを〜任命した」と3節「利得を追い求め〜さばきを曲げていた」に黄色のハイライト。3節「この息子たちは父の道に歩まず」に黄土色のハイライト。】 <Tサムエル8:1〜3> 1サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。 2長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。 3しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。
長老たちは、父の所、サムエルのところにやって来て(4)、「もう勘弁してください。あなたの息子さんたちでは、この国の裁きを、指導をして行くことはできません」という風に言うわけですよね。 するとエリの息子たちもダメ、サムエルの息子たちもダメ。これが連続している内に、民は気がつくんですね。 ああ、カリスマというのは親から子どもに継がれることはないんだ、ということは、 皆さん、会社の世界を見ても、政治の世界を見ても、牧師の世界を見ても(笑)大体納得が行くではないですか。
私(藤本牧師)はね、喘息があんまりにも酷いので、母は大学三年生の時に、「喘息が出ない国を捜して、そこに留学しなさい」と。 で、アメリカの宣教師がいまして、「一回アメリカに来ないか」ということで、全く喘息が出ませんでした。 それで、私はアメリカに7年留学したんですね。
帰って来たら、途端に喘息で、救急車に3回も乗りました。 最後の方はいつも中央病院ですから、お医者さんにステロイド何ミリ、それからホクナリン何ミリという風に、こっちから量を指定する位(笑)ですね。 ところがお医者さんの方は患者に量を指定されたくないので、「いや、物事には順番がある」と。 すると家内が「これだけで足りません」という位、もう慣れっこになってしまっていました。
私は結果良かったと思っています。つまり7年不在であった、ということが良かった。 「私が向こうで勉強して来たということで、皆さんがメリットを得た」とは私は思っていないです。 実際、当時の説教の原稿を振り返りますと、どうしてこんなに難しいんだろうと思う位(笑)、説教は長いし、難しいし、やたらその情報が多いですね。 でも私たちは親元から7年離れることによって、別人格として帰って来て、そして皆さんはそのように私たちを見てくださった。 つまりそのまんま住んでいて、何らかのカリスマを引きずるということは、これはもう不可能に近いです。
父は福岡で開拓伝道をして、わずか一週間位で信徒がどんどん救われて、わずか数カ月でアメリカのかまぼこ兵舎をいただいて教会堂を建ててしまったような人間です。 父は大学も出ていません。神学校だけです。高校から神学校。 しかし父はそういう風にして教会堂を建てるという実績がありました。 それは一つのカリスマだったんだろうと思います。
しかし私には、そういうものはない。 私が学んで来たことは、もしかしたら教会ではあまり役に立たないものだったのかも知れません。 しかし7年全然違う所で過ごして来ますと、やっぱり人間も変わりますし、7年の貧しい苦労というのもあります。 それを皆さんは、むしろ受け取ってくださったんだろうなと思いますよね。
カリスマを持っている人物っていうのは、士師記を見る限りにおいては教育がない。実績もない。豪族の出身でもない。 でも何らかのカリスマによって、それが非常に辛い体験を通ったというカリスマもあります。 ものすごい試練の中を通った、というカリスマもあります。 でもそれをもって、人々を惹きつけることができたということですよね。
次に出て来るのは王で、サウルという王様ですが、カリスマ政治には、申し上げましたように弱点がある。 これは次の世代に引き継げないということですが、 王は制度で立てられますので、それが大統領制であれ、共和政治であれ、それが預言者によって任命される王であれ、制度は制度なんですよ。 社長は社長なんです。だから二代目の人物が社長になりますと、カリスマはなくても、制度によって支えられて、社長は社長なんですね。
で、「私たちの国に王さまが欲しい。近隣のように王制を立ててくれ」(5)と言った時に、ちょっと聖書を見てください。 神さまはこう仰いますね。ま、4節から見ていきましょう。 【画面:Tサムエル8章6節「さばく王を私たちに与えてください」に黄土色のハイライト】
<Tサムエル8:4〜5> 4イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、 5彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
ところがですね、カリスマ政治の限界があるように、王政にも限界があるんですね。 で、神さまはサムエルに向かって、「彼らはああ言うけど、王政の限界を彼らはよく分かっているのか?彼らに話してやれ」と (※下の壇、と言って11節を指で押さえながら読む)
【画面:Tサムエル8章9節「今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める」に黄土色のハイライト。「王の権利をはっきりと宣言せよ」に黄色のハイライト】
<1サムエル8:9> 9「今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」
【画面:Tサムエル8章の次の個所に黄土色のハイライト 11節「息子たちを取り〜戦車の前を走らせる」 12節「自分の耕地を耕させ」 13節「娘たちを取り」「パンを焼く者とする」 15節「あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り」 17節「十分の一を取り」】
<Tサムエル8:11〜17> (※王政の要点のみ聖書箇所を押さえながら語られる) 11節――あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。 12節――あなたがたの息子たちを取り、自分の耕地を耕させる 13節――あなたがたの娘を取り、飯炊き女にする。 15節17節――王はあなたがたの畑に羊の群れに、税金をかける。年貢を治めさせ、そして羊の群れを治めさせる。
それが王なんだけれども、それでいいのか?と。 「サムエル、民に、王政には王政の問題があるということを、十分に分かってもらいなさい」と神さまは仰るんですね。
人物で行くのか、制度で行くのか、これは会社もよく考えさせられますよね。 分かり易く、ものすごく分かり易く(笑)、説明しますね。 以前、教区の牧師会で、お昼に数台の車に分かれてランチに行ったんですね。 私(藤本牧師)は矢木先生の車に乗せていただいて、そして矢木先生が「あ、掴まるかも」。 そして80m先位で、車を留められて、スピード違反。
私は後部座席に乗っていたんですけれども、前の白バイの運転手さんに、 「ちょっとおかしくないですか?ここ三車線ですよね。三車線+歩道がついているじゃないですか。それでいて制限速度50kmというのはおかしいですよね。普通60kmですよ。混んでないし。すると、この標識を立てた意味合いというのは、わざわざその罰金を稼ぐために立てたとしか思えない」(笑)と。
矢木先生は「まあ、まあ、まあ、まあ」って(笑)言うんですけれども、私は一回免停を食らってますので(笑)、免停を食らって以来、ほとんど完璧に守っています。 でもその免停を食らうまで7点あるんですけれども、その1点1点削って行ったんですが、文句の言いどおしでありました。
酷かった時は、圭子(夫人)を乗せて、第三京浜(※高速道路)に上がる時に、一旦停止、一時停止があるんですよ。それが止まらなくてもいいような所にあるんですよね。 それを見ていて、高速道路の料金所の手前で、「ちょっといらっしゃい」になるんですけれども、私はその時、流石に文句を言いました。 それは「私は止まったつもりです」。でも向こうは「止まらなかった」と。 「どういう風に止まらなかったんですか?」って言うと、「完全に止まらなかった」と言うんです。 「いや、私は0.1秒、完全に止まりました」(笑)。 そうすると、向こうが「勘弁してくださいよ。私も仕事なんですから」と。 すると、こっちは「いや、勘弁できない」と。 「今日は天気がいいから、署長さんにあそこの第三京浜のあそこに行けば、必ず魚が釣れる、と(笑)その魚を釣って来い」と。 「ここは交通安全には、何ら関係がない。だけどあそこへ行けば魚が釣れるんだから釣って来い」と。
ま、どんなに抵抗しても無駄なんですよね。だって、あちらはお仕事ですもん。 いや、それ以前に、どんなに抵抗しても無駄なんです。なぜならそれが制度だからですよ。
私が白バイの運転手さんに、お休みの日に 「ここを完全に止まります? 5秒間」とか。恐らく止まらないでしょうね。 「この三車線道路を、50qでバイク走らせます?」恐らく走らせないと思いますよ。 普通に60qで行くのが三車線道路ですので、わざわざ50で走らないと思います。
でも彼が一旦制服を着たら、彼が言っていることが正しいんです。 それが制度なんですよね。
私たちは司法もあり、行政もあり、そして勿論、警察関係もあり、そういう制度の中で私たちは税金を払い、皆さん、どっかのお店に行って、今消費税10%じゃないですか。 「この10%おかしいですよね?」って言って払わないわけにはいかないでしょう。 それが制度ですから。
神さまは仰る。これから制度で行くのなら覚悟しなさい。融通はきかない。 これがカリスマ政治と、それから制度による政治の大きな転換点だったわけですね。 イスラエルの国は、この時点から、国となる方向を選んで行きます。
聖書を読みますと、サムエルは嘆くんですね。(***Tサムエル8:6〜7) 「民は王が欲しいという。私は拒まれた」と。 で、神さまはサムエルに言います。 「民はあなたを拒んだのではない。わたしを拒んだ」と。 だからこれまで神政政治であったものが、これからは王政になったという風に、皆さん解釈されますけれども、実は私はそういう風には考えていません。 神政政治では国は成り立たないですよね。 やっぱりきちっとした制度を作って、それぞれの管轄部署の責任者を立てない限り、単なる豪族が色んな所を治めていたでは、国として成り立たないです。 まして中近東で島国ではないですから、いつでも色んな所から攻められる時に、それに応戦できる体制を作っておかなければいけない。
もうちょっと話を落としますと、この箇所は教会を考える時にすごく当てはまります。 プロテスタント教会というのは、牧師のカリスマにかなり依存いたします。 先生がどういう説教をするか、どういう牧会をするか、どういう人柄なのか。 偉大なカリスマで、教会のあり方を次から次に考えられるような先生だったら、きっと教会は成長するんだろうと思いますが、しかし同じですよ。 その先生が天に召されたら、誰がなるのか。カリスマで成長した教会は、皆その先生が――皆と言うと語弊がありますけれども――往々にしてその先生が天に召されると、次の牧師先生が大変な苦労をいたします。
ところが、カトリック教会を考えてご覧なさい。 大体三年二年に一回、司祭が変わります。聖公会は五年に1回変わります。 そんなに頻繁に変わって大丈夫なのか?大丈夫ですね。 礼拝は典礼化されています。そして教会には、きちっとした制度があります。 司祭様の人間味は違いますが、典礼文を読むという点では全く同じです。
どっちが安定しているんだろうか?社会学的に言えば―― カリスマで教会を持たしているプロテスタント教会なのか、それとも制度で教会を維持しているカトリック教会が、どっちが安定しているのか? 社会学的に言うと、制度の教会の方が安定しているんです。 そうそうカリスマ的な人物は現れませんし、カリスマ的な人物は却って面倒臭いことになることが多々ある。 決まった制度で安定して運営してくれた方がいいんですね。
やがて、私はサウルを共に学びます。ダビデを共に学びます。 サウルは職は持っていたけど、カリスマは持っていなかった人物です。 イスラエルの民は非常に苦労します。 ダビデはその両方を持っていた人物です。 大きな罪を犯しましたけれども、彼はカリスマ豊かで、しかも彼はしっかりとした制度を立てることができた人物です。
今日の説教のポイントは、もうあと二分ですけれども――
2)神の願い
サムエルは民の要求を受け入れることができませんでした。 「彼らは私を拒んだ」という風にサムエルは理解しました。 7節を見ますと、神さまはサムエルに「そんな風に考えるな」と。 「拒んだのはあなたではなく、わたしが拒まれた。 わたしではなく、近隣の国のようにしてほしい、という民の主張というのは、ま、独特な政治形態を持っていたイスラエルを拒んだ、ということになる」。
でも私(藤本牧師)はね、神さまはどちらでもよかったんだろうと思います。 いや、むしろ歴史的に考えれば、神さまは社会学ということを分かっておられたならば、 「そろそろ王政に移行しなければいけないな」と考えていたのは、私は神さまだっただろうと思います。思いますよ。 士師のやり方では国は成り立ちませんもの。
神さまが願っていたというのは別のことであって、 カリスマ的指導者であれ、王という指導者であれ、上に立つ者はいつでも 「お話しください。しもべは聞いています」(***Tサムエル3:9、10) という所を全うしていてくれれば、民はその信仰を失わずについて来る。 カリスマがあろうがなかろうが、制度がしっかりしていようがいまいが、 少しでも上に立つ者――会社で言えば上司ですね――その上司が遜って、 「お話しください、しもべは聞いています」(***Tサムエル同) という姿勢を、自分の部下に対して持っていたら、 そしてもっと言うならば、神に対して持っていたならば、 神はその世界を祝福してくださる。社会にあっても祝福してくださる。
自分の思いで組織を動かすのでなく、いつでも、 「お話しください。私は聞いています」(***Tサムエル3:9、10) という姿勢を持つならば、 神さまは王でもよい。士師でもよい。祝福してくださる。 そういう思いで、私たちは今年一年間、 「主よ、お話しください。しもべは聞いています」(***Tサムエル同)と 自分が前に出るような立場にあればある程、私たちは遜って主のみ声を聞く、 そして自分の周りの人々の声を聞く、という人間に変えられて行かなければいけないと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、イスラエルにとっては歴史の転換点でありました。しかし神さまにとっては、それほど大きな転換点ではありませんでした。あなたはいつでも、ご自身の傍に置く者が、傲慢にならず遜ってあなたの言葉を聞く者であれば、あなたはその世界を祝福するお方であります。 制度におごることがありませんように。自分のカリスマにおごり高ぶることがありませんように。いつでも遜って、あなたのみ思いを第一にし、あなたに信頼を傾ける者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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