☆聖書箇所 Tサムエル15:10〜31
10【主】のことばがサムエルに臨んだ。 11「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼は私に背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し【主】に向かって叫んだ。 12翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。 13サムエルはサウルのところに来た。サウルは彼に言った。「あなたが【主】に祝福されますように。私は【主】のことばを守りました。」 14サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」 15サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、【主】に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」 16サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、【主】が私に言われたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」 17 サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。【主】があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。 18【主】はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを聖絶させるまで戦え。』 19なぜ、あなたは【主】の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、【主】の目に悪であることを行ったのですか。」 20サウルはサムエルに答えた。「私は、【主】の御声に聞き従い、【主】が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。 21兵たちは、ギルガルであなたの神、【主】にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」 22 サムエルは言った。 「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、 【主】の御声に聞き従うことほどに 喜ばれるだろうか。 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 23 従わないことは占いの罪、 高慢は偶像礼拝の悪。 あなたが【主】のことばを退けたので、 主もあなたを王位から退けた。」 24サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、【主】の命令と、あなたのことばに背いたからです。 25どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」 26サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」 27サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルが彼の上着の裾をつかんだので、上着は裂けた。 28サムエルは彼に言った。「【主】は、今日、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれた隣人に与えられました。 29実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」 30サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、【主】を礼拝します。」 31サムエルはサウルについて帰り、サウルは【主】を礼拝した。
☆説教 サムエル(9)トラにしてネズミの心
今日の聖書の箇所は、前回の続きです。 前回の続き、本当は一つでお話ししたかったんですけれども、あまりにも長いので二回に分けました。 私(藤本牧師)は実は前回の、そして今回の聖書の箇所は、旧約聖書で一番面白い聖書の箇所だと思っています。 固有名詞があり出来事があり、あ、出来事は戦いに関係するなということも理解していただいたと思います。
一番面白い箇所と言うのは、ここに出て来る《サウルというイスラエルの第一代目の王さまが絶対に自分だ》と皆さんは思われると思います。 皆さんの中で、自分はダビデだと思う人は大きな錯覚です(笑)。 それはいくら何でもないと思います。 小さな頃にゴリアテを倒したようなトロフィーを獲得していない限り、ダビデであるはずがない。 私たちはみんなサウルです。
そのサウル性というのは、様々な形で私たちを左右します。 人によって、そのサウル性がどういう風に作用するのか分からないので、ぜひ皆さんの想像力をもちながら、お話しを聞いていただきたいと思います。
前回神さまが初めてイスラエルの王様として、サウルを選んだ。 そのサウルは「イスラエルの中でだれよりも美しかった。だれよりも背が高かった」(***Tサムエル9:2)としか書いてなかった。 彼に業績があり、軍隊を率いた経験があり、豪族の息子でありみたいなことは何もなくて、彼の容貌だけでありました。 それが神さまの彼を選んだ理由で、これが何かのオーディションの履歴ならいいでしょうけれども、王になるというには何の役にも立たないことばかりでありました。
神さまは、ある意味、私は酷なことをされたと思います。 もう少し家柄を考えてくだされば、もう少し大富豪の息子だとか、教育だとか、経験を考えてくだされば、彼も軍隊を率いることができたのかも知れない。 でも彼が王になった時に、イスラエルのある者たちは「あいつにおれたちが救えるのか?」という、そういう言葉が来るほど、彼は若輩者でありました。
話の結論としては、神さまはそういう方を選ばれる、という話をいたしました。 あえてサウルが誇ることがないように。あえて彼が人間的なことを頼みとすることがないように。 学問も職歴も経験も何もない人間を、いきなり神さまは選ばれました。
それは新約聖書の第一コリントの1章26〜29、これはちょっと開きましょうか? あと旧約聖書で開きませんので、新約聖書の第一コリントの1章です。327ページ。 ちょっと読んでいきますね。
<Tコリント1:26〜29> 26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を(※あえて、と加えて読む)選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の(※ここもあえてを加えて読む)弱い者を選ばれました。
***つまり《神は常に、弱い者を、愚かな者を選んでご自身の栄光を現してくださるお方》であると考えますと、私たちもまたサウルなんですね。 で、どうしてそういう選び方をするのか? それはやがてサウルが苦境に立った時に、(遜って、自分には何もないんだと腹をくくって、)自分の力に頼まず、 全面的に神さまに信頼するように、あえて神さまは彼を選んだ。
ところが人間っていうのは、そんなに単純にできていないです。 なぜ私のような者が、というのは、大体コンプレックスになっていきます。 経験も知恵も、知識も教育もない自分がなぜ選ばれたという事実で、 じゃ神さまに信頼しよう、というよりも、 その事実の方が重く圧しかかって、コンプレックスの塊になって行きます。
神さまはきちんとサウルに聖霊を注いで、新しい人としました。 彼は預言をすることもできました。 「聖霊が注がれたら、できることは何でもしなさい」(Tサムエル10:7)と、神さまに言われました。 しかし、彼が預言をしたというのは、一日だけのことで、彼は神さまから戴いた賜物をそのまま用いることをいたしませんでした。
彼が自分を見る目はいつも同じで、今日はそれを考えていただきたいと思います。 私は不適格だ!と、いつも彼はその目でしか見ていないですよね。 9章の21節―― <Tサムエル9:21>(※ここはなぜか新共同訳で) 21サウルは答えて言った。「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか。」
家柄がない、信用がない、人気がないという、その彼の自覚ですね。 神さまが注いでくださった聖霊以上に、新しい人とされたということ以上に、 以前と同じ自分にやっぱり目を留める。
2)そうなりますと、私たちはだれでも人の目が気になるようになります。
サウルは神さまの力づけではなく、自分の足りなさを見つめすぎて、屈折するようになります。
(Tサムエル)15章に戻りますけれども、状況をもう簡単に説明させてください。 イスラエルがアマレクと戦いを交えて来ました。 神さまは戦いに勝つそのときに、アマレクに属するすべての人を滅ぼせ、人も動物も――それが神さまの命令でありました。
ところが8節をちょっと見てください。10節から読みましたけれども、8節に―― <Tサムエル15:8> 8アマレク人の王アガグを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶した。
ちょっと8節映しますね。ここ。【画面:「アガグを生け捕りにし」に緑のハイライト】 アガグを生け捕りにするって、なぜだと思います? 戦いは、町の城壁のはるか彼方でなされているわけです。 その戦いで大勝利を収めたとしても、町に帰って来て、「あ、これはサウル王の手柄だ」って分からないですよね。
ですから古代の戦いの歴史を見ますと、必ず王を生け捕りにして、縄で縛って、ひどい時には目をえぐり出して連れて行くという。 最後イスラエルの王が、バビロンに連れて行かれた時がそういう姿でしたよね。 そうして遠い遠い戦地において、王を生け捕りに、その屈辱のうちに帰って来るという、戦勝パレードが、戦い以上にサウルにとっては大切だった。 その戦勝パレードがあって初めて、 「ああ王がいてよかった。この王は背が高いだけではない。ハンサムだけではない。軍隊を率いる力がある」とみんなは見てくれるじゃないですか。
ちょっとまた今度は(Tサムエル15章)11節12節見ますね。 【画面:「サウルを王に任じたことを悔やむ」に肌色のハイライト】 <Tサムエル15:11〜12> 11「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し【主】に向かって叫んだ。 12翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。
普通でしたら、戦いに勝ったのであれば、神さまに感謝する祭壇を建てるでしょう。 だけど彼は自分の名前を刻んだ、自分の勝利記念のための記念碑を立てます。 まだサムエルが到着する前に、誰かのアドバイスをいただく前に、彼はもう最初っから決めていたんでしょうね。 戦いを交えて勝利をしたら、王を生け捕りにして戦勝パレードに加える。 そしてまず、だれが見ても分かるように、この場で自分が勝利したことを記念する記念碑を立てる。 人の目に映る自分の評価を上げておきたい。
私たち時々思うじゃないですか。 隠れて一生懸命頑張って何か為し遂げて、その隠れた自分の奉仕のゆえに、多くの人が助けられ、でもそれは隠れたままであった。 ま、自分にご褒美を上げて、「よくやったよ」って自分をも労う。これ大切ですよね。 神さまはその百倍をも労ってくださる。だけど、自分で労うという行為をしない限り、労ったことにならないですから、まず自分を労う。 だけどみんなの前に、「いや、これは実は私の段取りでこうなりました。評価されるべきは私です」なんてことは、言わない、言えないでしょう。 でも心の中で、自分の陰の働き、自分の陰の存在っていうのを、非常に悔しく思うじゃないですか。
サウルは、いよいよ人に認められてもらえる勝利の場面がやって来た。 ですから、評価を上げておきたいわけですよ。 彼はそれほどまでに周囲の反応を気にし過ぎます。
ここから見ていただきますけれども、 サムエルはこんなサウルに呆れて失望するんですね。 聖書を見ますね。 割とこの聖書の箇所は神の命令、聖絶の命令に従うか従わなかったか、というテーマで読んでしまうんです。 それも大切なんですよね。だけど、その背後にあることがもっと大切です。 なぜ従わなかったのか? なぜ従えなかったのか? それは彼が自分のプライドを優先したからですね。
18節からちょっと読んで行きますね。 <Tサムエル15:18〜21> 18【主】はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを聖絶させるまで戦え。』 19なぜ、あなたは【主】の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、【主】の目に悪であることを行ったのですか。」 20サウルはサムエルに答えた。「私は、【主】の御声に聞き従い、【主】が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。 21兵たちは、ギルガルであなたの神、【主】にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
聖絶しなかったのは、いけにえを献げるためであって、それは兵士の提案であったというように、責任転嫁を兵士に持って行きます。 もしかしたら、兵士がそう言ったのかも知れない。 だけど、彼は神が仰ったことをそのまんまするよりも、その場の雰囲気、或いは人が自分をどのように見るかの方が、はるかに大切であった、ということがよく分かりますね。
気にし過ぎる。24節、ちょっと見てください。 【画面:「私は罪を〜聞き従い」「背いたからです」に緑のハイライト】 <Tサムエル15:24> 24サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。(***ようやく罪が分かるんですが、と説明)兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、【主】の命令とあなたのことばに背いたからです。
【主】の命令に背く理由は沢山あります。 自分のエゴであったり、自分の欲であったり。 ただ往々にして、人の目を気にし過ぎて、主の命に従わないってことは多い。 で、それを遡ってみるのは、周囲の人からの承認欲求を得るために、自分の立場を少しでもうまく動かすために、人の声に聞き従うという場面は割と多いですね。
25節から、しっかりと聖書を見ていただきたいんですが―― 【画面:27節「サウルが彼の上着の裾を〜裂けた」に緑のハイライト】 <Tサムエル15:25〜27> 25どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」 26サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」 27サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルが彼の上着の裾をつかんだので、上着は裂けた。
「頼むから」ってことですよね。 「頼むから今、私とここで礼拝捧げてくださらなかったら、 直接に神との関係を持っているあなたが共にいて、私のためにも祈ってくださらなければ、勝った意味がないじゃないですか。 だから、どうしてもあなたが共にいて、礼拝をしてほしいんです。」
そのことが30節で、もう一回出て来ますね。 【画面:余白に緑のハイライトペンで星形が書いてある。「私は罪を犯しました」「前で私を立ててください。どうか」に緑のハイライト】 <Tサムエル15:30> 30サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、(***今でいいです。後のことはまた先に考えます、と説明)私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。(***以前の訳では「私の面目を立ててください」でありました、と説明)。どうか一緒に帰ってください。・・・・・・」
私たちは、人と一緒にいますので、私は教会の牧師で、信徒の皆さんに支えられていますよね。 「神さまが私を立てた」と私が言ったとしても、それはほとんど意味がないです。 皆さんが、「私(藤本牧師)が神によって立てられている」と皆さんの方から私を承認してくださらない限り、 「神さまが私に『高津教会に仕えよ』と仰ったので、高津教会に来ました」と言っても、それが一体何の意味があります? ですから、時々私たちのような監督制の教会では、「監督が派遣したからです」と言いますよね。 誰が派遣しようと、皆さんが承認してくださらない限り、牧師はその教会の牧師にはなれないんですよ。
そう思いますと、私でさえ、サウルの気持ちはよく分かりますよね。 でもサムエルは、こんな弱々しいサウルに呆れます。失望します。がっかりします。 兵士の目を見る。自分の戦勝の記念碑を立てる。私は罪を犯した。今だけでもいいから、私と礼拝してほしい。 そのコンプレックスというものは、自分は民の中に信用がない。人気がない。何もできない。弱い。
そのコンプレックスが、今ここでようやく覆る瞬間が来るんですよ。 でもなんとサムエルは、もう相手にしないです。 コンプレックスで悩んでいるような王は、王になれない。 勿論聖書の中では、「あなたは神の声に聞き従わなかったから、王になれない」という風に書いてあります。 でも聞き従わなかった理由は、単純に彼が失念していたとか、あえて逆らったとか、彼のやっていることはそんな悪いことではないじゃないですか。 理由をつければ、もしかしたら神さまを説得することができるかも知れないと思って、 「生け捕りにした動物の中で一番いいものを、あなたのためのいけにえとして取って置きました」というのは、正当な理由ですよね。 だけど神さまは、そんなことは相手にしないですね。
で、神さまがサムエルの口を通して仰ったことばが、(Tサムエル)15章の17節。 これが一番大切な言葉ですね。 サウルの人生を一言で言うと、こういうことです。 【画面:「あなたは、自分の目には小さい者であっても」に緑のハイライト】 <Tサムエル15:17> 17サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。・・・・・・
ものすごく大切ですね――自分の立場にふさわしい行動をするとか、自分の責任をきちっと意識して担うとか。 「自分はまだ新米です」「戦いに出たことはありません」とか、それは確かに、経験も様々な意味で小さい、弱い、できない、分からない。 「でもあなたは、イスラエルの諸部族のかしらではないか」 そういう意識が、あなたにあるのか?というのが、サムエルの問いかけですよね。
例えば私が高津教会の牧師であるとしますね。 いま会堂の話があって、最初の委員会で67の提言が出たということで、加藤(隆弘)さんがきれいに纏めてくださいました。 で、私はあれを見て、委員会を作るよりも、そういう懇談会を重ねた方が不特定多数の方々の様々な意見が交じり合うんじゃないかなと。 十名の七名の委員会で意見交換したところで、それは所詮皆さんに納得していただくというよりは、いいんじゃないかなと。
私はもうとんでもない案をいくつも(笑)考えてしまいまして、「いや、その時は面談で出られなかったんですけれど、うち、もう10位あるんですよ」って言ったら、「次の委員会に出してください」って(笑)、加藤さんにあっさり言われましたけれども。 みんなあるんだと思うんですよね。こうしてみたいとかね。
私が仮に自分の案を持っていて、「自分はこういう教会を建てたい。そしてこの教会でこういう奉仕をして来た。その証しとして、そろそろ40年こういう会堂にしたい」って言って、 「ま、先生がそう言うなら」って、言ってくれるような教会だったら、ダメな教会ですよ。 「先生、自分のご年齢をよく考えてみてください。先生、もうそろそろ引退の時期(笑)ですよ」と。 引退されるような先生の意見ではなく、役員会で出てましたように、 「女性、小さな子ども、青年、そういう方々の意見を良〜く聞いてください」 或いは「他の教会から来た人は、他の教会をよく知っているわけですから、その人の意見を聞いてください」 そっちの方がはるかに尊いですよね。 で、私がそういう風に言われた時に、「あ、自分が否定されたんだ。自分の意見が否定されたんだ。自分は牧師として思われてないんじゃないかな」って――それは自分のコンプレックスです。 皆さんが、「先生、自分の年齢を考えてください」と言われた時に、それは普通の常識であって、私がこの教会で認められていないって全然関係ないんですよ。 だけど私の自覚が薄いと、そのように受け取ってしまう。 すると役員さんが、「先生、そんなに卑屈にならないでください。先生はこの教会の牧師ではありませんか」って言っているのと同じですよね。
4月になって新しい職になったとか、新しい立場に立ったとか、ま、私も毎日のように見る方がいらっしゃるんですけれども、その方、見る度に圭子(夫人)と、「う〜ん、貫録出たね」って言うんですよね(笑)。 日に日になんかこう慣れて、なんか間合いの取り方に貫録が出ているように私は感じるんですね。 それはその職を段々――ま、最初はふさわしくないと思っていらっしゃると思うんですよね、初めてだったら――でもそれを身につけて、その職に合うような発言をして、嫌なことがあっても、その職に合うように忍耐をしているからでしょう? その忍耐や、あるいは自分の中に呑み込む力っていうのは、ものすごく大変で、サウルにはそれができていないんですよ。
自分を立てるために、周囲の力を借りなきゃいけない。 ですから30節に、「民の長老の手前、イスラエルの手前、どうか私を立ててください」ですよ。 「長老の手前、イスラエルの手前、どうか私を立ててください」です。
前、話しました。インドの面白い話がありますね。 ある所にネズミが一匹いて、そのネズミが猫をすごい怖がった。 魔法使いに出会って、魔法使いに「何か一つ願いを叶えてあげよう」と言った時に、彼は思わず、「猫にしてください」って言うんですね。 猫にしてください。もう猫を怖がらなくてもいいように。で、猫にしてもらいました。
ところが猫になって、彼は犬と出会う。そして犬を怖がるんですよね。 たまたま、また魔法使いに出会う。 「何か一つ、あるのか?」って聞かれたら、「犬にしてください」と。 人間って、そうやって上がって行くんだろうと思うんですよね。
で、犬になって、彼は今度はトラに出会ってしまい、また震え上がってしまい、そりゃ、トラですからね、 「最後の最後のお願いです。私をトラにしてください。 ネズミが猫に。猫が犬にっていうのは間違っていました。 最初っからネズミがトラになっていれば良かったんです。 私は愚か者です。どうか、トラにしてください。」 魔法使いは、彼をトラにするわけですよ。
すると、勇壮と野原を歩いていると、彼に鉄砲を向けている人間に出会うんですね。 彼は一発外されて、その野原を逃げ回りながら、 「あの鉄砲の音、鉄砲の力、自分はあれでダメになるかも知れない」 という恐怖感に打たれて、魔法使いに次出会った時に、 「私を人間にしてください」と言うんですよね。 流石に、魔法使いは彼の願いを却下します。
それが今日の説教題で、「私はおまえに勇壮なトラのからだを与えた。 しかしおまえの心はちっぽけなネズミのままだ」と。 人間に変えたところで、あなたの心は臆病なネズミのままだ」と。 《トラにしてネズミの心》です。
サムエルはサウルに言いますね。「彼は王の心を持つべきだった」。
3)その王の心ってどういう心なのか?
それは人目に自分がどう映るか、考えない。 神はあなたと誰かを比較しない。 だから人の目に映る自分を考えず、わたしの目に映るあなたを考えなさい。 十字架に映し出されたあなたを見てみなさい。 罪深さでコンプレックスを持つなら、むしろ十字架に映し出された「どれ程神さまがあなたを愛しているのか」そのことに心を留めてご覧なさい。 人との比較ではない。あなたという尊い存在を神さまは愛していてくださる。
☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたの声はサウルには明確でありました。「人を見るな。人の声に左右されるな。わたしがあなたを選んだ。家柄も教育も実績もないあなたを、わたしが選んだ。それを学んでほしい。神であるわたしを信頼し、わたしの目を見て、わたしの心の中を歩んでほしい。それがあなたの人生だ」と。 どうか様々なコンプレックスにいつも悩んでいる私たちでありますが、あなたに王にしていただいたのなら、王としてふるまう心がけを私たちにお与えください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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