☆聖書箇所 使徒の働き4章1〜14節
1ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。 2彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、 3二人に手をかけて捕らえた。そして、翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。 4しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。 5翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。 6大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。 7彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。 8そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。 9私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、 10皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。 11『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった」というのは、この方のことです。 12この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 13彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。 14そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。
☆説教 戸塚伝道師:
皆さん、おはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました。会堂にはもう60名位でしょうか、(※上の方までずっと見渡して)60名を超える位の方がいらしてくださっていますが、(※今度はカメラ目線で)オンラインで参加されている方々もおはようございます。 オンラインで参加されている方々、この倍以上なんですね。120名位はいるんじゃないでしょうか。家族を含めますと、もう200名近い方々がオンライン礼拝、この瞬間共に礼拝を捧げておられるということで、高津教会は会堂で礼拝をされている方々よりも、オンラインで参加されている方々の方が倍以上多い教会である、そういう教会なんですね。 オンラインでも、ここでも聖霊の臨在は同じです。(※右腕をカメラの先へ向かって伸ばして)その場所も神さまが共におられて、礼拝の場になっています。辛い中寝ながらベッドの中で、或いは寝間着姿で参加されている方々もおられるかも知れませんが、(※また伸ばした腕を下ろして)その場が礼拝の場所です。共に礼拝を捧げることができることをこの朝も感謝したいと思います。
早速みことばに心を留めていきたいと思います。 「ペテロのいる風景」の今日は第18回目。そしてペテロの説教篇の第4回目になります。 美しの門に置かれていた歩けない人が、この人に対するペテロの超ミニ説教で、この人は癒やされ救われました。 それを目撃していた人たちはものすごく驚いた。 その驚いた群集に対して、ペテロはまた説教するわけですね。それが前回でした。
前回は、「イエスによって与えられる信仰」ということばに心を留めました。 この人が歩けるようになったことから始まる一連の出来事は、使徒の働き3章の1節〜4章の31節まで途切れずにず〜っと続いています。 その一部分が、先程読んでいただきました聖書箇所です。 使徒の働きの4章の1節〜4節を先ずお読みいたします。 <使徒4:1〜4> 1ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。 2彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、 3二人に手をかけて捕らえた。そして、翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。 4しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。
とあります。 ペテロとヨハネは第三回目の説教をしていた後、捕らえられてしまいますね。 でもペテロの説教を聞いた人々のうちの大勢が、男性だけでも五千人ですから、恐らく一万人を超える人たちが、この時、イエスさまを救い主だと信じたのではないかと思います。 ペンテコステの時は三千人でした。そしてさらに一万人以上の人たち。
そしてその翌日の出来事が5節から書かれています。 5節からお読みします。 <使徒4:5〜7> 5翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。 6大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。 7彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。
この尋問に対して、ペテロは答えるかのように、説明と言うより説教をしている場面が8節から続くわけですね。 8節〜12節までが、その説教部分です。 やはりこのペテロの説教も3ポイント説教で、一つ目が4章の10節―― 「この方が治ったのは、イエス・キリストの名によるのです。」 2つ目のポイントが4章の11節―― 「この方は捨てられた石が、要の石になったような存在です。」 そして3つ目のポイントが4章の12節―― 「この方以外には救いはありません。」
今朝はこのペテロの説教の3つ目のポイント――「この方以外には救いはありません」――この短い言葉に徹底的にこだわって行きたいと思います。 もう一度4章の12節に心を留めて行きたいと思います。お読みいたします。 <使徒4:12> 12この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
とペテロはこの説教で、第四回目の説教を締めくくっています。 3つの視点で恵みを分かち合いたいと思いますが――
1)このように主張するキリスト教という宗教について考えてみたいと思います。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。」 神さまなんていない、というそういう環境が当たり前だった、そういう環境で育った私(戸塚伝道師)にとって、宗教を考える時に、この言葉はすごく抵抗を感じさせられる言葉です。 クリスチャン二代目と三代目とか、クリスチャン家庭に育った方にとってはあまりピンと来ないかも知れません。当たり前のように。 でも「この方以外に救いはない」。 でもそんな私が不思議なようにキリスト者に導かれました。 そこに至るまでのことが色々と思い出されます。
以前お話ししましたけれども、《前もっての恵み》《先行的恵み》というのがありますが、 先行的恵みによって、私は不思議なようにキリスト教に触れる機会が与えられました。 最初、キリスト教に対するイメージは良かったんですね。 恐らく心の奥底で霊的なものを求めるという、そういう飢え渇きみたいなものが、もしかしたらあったのかも知れません。 近所の教会、当時は中野区の上鷺宮(かみさぎのみや)に住んでいました。練馬区との境ですけれども。 インマヌエル富士見台教会の礼拝、親には内緒で行きました。「図書館に行って来るね」と言って。 様々な疑問を、牧師先生にぶつけ続けたわけですね。最後に行き着いた問いは―― 「なぜキリスト教なのか?キリスト教の神以外に、救いは本当にないのか?」 ここに行き着くわけですよ。
牧師先生は「聖書に書かれているから」と言って、色んな聖書箇所を開いてくれました。 例えばイザヤ書44章の6節―― 「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。」 或いはイザヤ書45章の5節 「わたしが【主】である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。」 或いはイザヤ書45章の22節―― 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」 さらに、ヨハネの福音書14章の6節―― 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」 というイエスさまの言葉。 そして最後に開いてくださったのが、使徒の働きの4章の12節、ペテロの語ったこの言葉だったわけです。 「この方以外には、だれによっても救いはありません。」
ほかの宗教の神さまや仏さまは存在しないということですね。 ほかの宗教には救いはない。こうペテロは、さらに言うならば、みことばは宣言しているわけです。 ということは、ほかの宗教の信者は救われていない、ということです。 私はその聖書を読みながら、或いはその先生のお話を聞きながら、「なんという排他的独善的なもの言いだろうか」 牧師先生の説明を聞いて、私は思いました。 「恐らくほかの宗教を信じている人たちも同じようなことを言うのだろう。 そもそも宗教なんて、どれも胡散臭い。神や仏などは人間の思考の産物。 宗教を信じることは、集団妄想的な気休めに過ぎない」と私は思っていました。
自分の信じる宗教以外には救いはない、ということは、ウチこそ唯一の真理だと主張し合い、そしてそれが争いや戦争にまで発展した歴史的事実がある。 さらにはマインドコントロールされて、宗教的権威や組織の言い成りになって、反社会的な集団になって行く怖さを感じました。 キリスト教を信じてしまったならば、その宗教に縛られてしまう。キリスト教という特定の宗教的価値観に縛られていいのだろうか? 私がキリスト教を信じることに今一つ踏み込めないのは、そこが一つのネックになっていたからです。
日本人の国民性として、日本人は農耕民族で、村社会という共同体で、お互いが気持ちよく生活していくことをとても大事にする。 基本的には争いを好まない、それが日本人だと思います。 相手と上手くやって行きたい。そこで本音と建前を上〜手に使えるようになって行くんですよ。 そして根回しが上〜手になって行きます。 そして相手に対する感情のケア――これらはかなり重要な要素、日本の社会でうまくやって行くためには。
宗教に関しても、日本人はどの宗教も拘りなく、いいところは表面的に受け入れ、深入りはせず、信じないけれども存在を認めている。 ですからクリスマスには教会、大みそかには除夜の鐘を聞きにお寺に行く、そして元日には神社へ初詣――何の違和感もない。 そのような宗教間の争い、宗教がらみの犯罪、そういうものもとても警戒するような民族で、仲良くやって行く、みんなを受け入れていく――このような日本人の宗教的寛容さは世界に類を見ないわけです。 ペテロの語った「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません」のメッセージは、日本人の国民性には初めから合わないのかも知れません。 人権や教育や福祉や医療や看護や芸術など、キリスト教の良い影響は否定できないのに、日本はいまだに世界最強の宣教困難国で、世界最大の宗教・キリスト教を日本人の99%が信じていない現実があります。
2)私たちを含め、宗教当事者からのペテロの言葉を考えていきたいと思います。
私たちは、では、どの宗教でもいいのか?どの宗教でもよかったのか?という問いに向き合って行きたいと思います。
毎年、鎌倉のカトリック雪の下教会で行われている行事、「鎌倉の祈り3.11追悼・復興祈願祭」というのがあるそうです。 東日本大震災の犠牲者を悼み、宗教の垣根を越えて復興を祈願するものです。 震災発生の一か月後に初めて開かれ、今年でもう14回目だそうですけれども、 神道、仏教、キリスト教の三宗教による祈願祭。 神道は鶴岡八幡宮や鎌倉宮など5つの神社。仏教は光明寺や建長寺など17のお寺。そしてキリスト教は日本基督教団大船教会など6つの教会。 それぞれの宗教者が参列して、震災が起きた午後2時46分に合わせて黙祷。 その後に神道は大祓詞(おおはらえのことば)というその言葉を斉唱し、仏教はお経を読み、キリスト教は聖書の朗読をし、それぞれのやり方で祈りを奉げる。 一般市民を含め、250名程の人が参列されたそうです。 会場となったカトリック雪の下教会の司祭は語りました。 「東日本大震災だけではなく、能登半島地震や、戦争・紛争で苦しんでいる人たちに、寄り添う気持ちが世の中に広がって、支援や関心を持ち続けるための一助になれば、と思ってこのような集まりを持っています」という風に仰っていました。 震災福興を祈るというその目的で、宗教の垣根を超えることができる一つの例なのかも知れません。
そうすると、そのニュースを観た人たちは思うんでしょうね。 「ああ、どの宗教を信じていても、大切にしている価値観は同じなんだなぁ」と。 「どの宗教でも、人間をはるかに超えた存在にお祈りする行為は共通しているんだなぁ。」 「どの宗教もいいことを言っているなぁ。」 「どの宗教を信じても、あまり違わないなぁ。」
次元は異なりますけれども、ラーメンを食べる時に、醤油ラーメンか、塩ラーメンか、味噌ラーメンか、どれを食べてもお腹がいっぱいになる(笑)。 キリスト教であろうが、仏教であろうが、神道であろうが、何とか教であろうが、どれを信じても幸せになれる。 しかしここで、いみじくもカトリック教会の司祭が語ったように、「宗教の垣根を超える」という言葉、 この「宗教の垣根を超えることができる」というのは、お互いがお互いの宗教の存在を認め合っていることが前提なのです。 お互いがそれぞれの宗教の独自性に確信を持っているからこそ、宗教の垣根は存在しているんですよ。 「宗教の垣根の存在」っていうのは、考えて見れば、《どの宗教も排他的要素を持つ、排他性を持つということの表れ》ではないかと思うんですよ。 排他性が無かったら、特定の宗教というものは存在しないわけです。
一般の人から見れば、私たちはキリスト教という特定の宗教を信じることを選んだ人たちだと見られているかも知れません。 キリスト教信者、信じたがゆえに洗礼を受けている。だからクリスチャンと呼ばれている。 では私たちはどの宗教でもよかったのか? ま、生まれた時からもうキリスト教の環境であるって方は、そんなこと考えもしなかったと思いますが、 途中からまるで交通事故に遭ったかのように、神さまと出会った者にとって、どの宗教でもよかったんだろうか? 宗教という枠組みで捉えるならば、ま、成り行き上、たまたまキリスト教だったという感覚かも知れません。 でも私たちは仏教のことをあまりよく知らないのに、仏教を信じようと思わなかったのは、いったいなぜなんだろうか? ま、答えはないかも知れません。人それぞれかも知れません。言葉で説明できないかも知れません。 でもただ一つ理由として言えることは何か?それがあるとするならば。 《救い主イエスさまは私に出会ってくださった》ということなんですね。 この一点に行き着くのです。
3)救い主イエスさまの出会いという経験です。
これは私たちの経験なんです。言葉ではうまく説明できないかも知れないけれども、経験なんです。 この後、ペテロとヨハネも語っています。 先程お読みした聖書箇所のず〜っと先にありますけれども、使徒の働き4章の20節に心を留めていきたいと思います。 詳しいいきさつは全部飛ばしますが、ペテロとヨハネはこのように語っています。 <使徒4:20> 20私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」
民の指導者や長老たちに向かって、ペテロとヨハネは「私たちは、自分たちが見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきません」(と言った。) 《見たこと、聞いたこと――つまり経験したこと》ですね。 それはいったい何なのか? それは――《救い主イエスさまと私たちは確かに出会った。この方こそ救い主だということが分かった》――その確信です。 単なる気休めや妄想や思い込みではない、見たこと、聞いたことなんです。
では《イエスさまとの出会いの経験》とはいったい何なのか? それは《救い主イエスさまとの心の通い合う生きた関係に導かれている》ということです。 だからキリスト者、クリスチャン、私たちはそう呼ばれている。 クリスチャン――キリストに属する者――そう呼ばれている。 キリスト者は理屈も理由もよく分からないかも知れませんけれども、救い主イエスさまに確かに出会ったという経験――見たこと聞いたこと――を持っている者です。 自らの罪深さと弱さに気づかされながら、そのために十字架に架かり復活されたお方を、イエス・キリストを信じるように導かれた者です。 私たちはこのイエスさまと人生の悩み、辛さ、喜び、疑問、不安、現実的な様々な課題を、このイエスさまと語り合いながら、共に人生の旅路を歩んでいる者たちです。 その旅路の先はパラダイスであり、やがて辿り着く場所は神の国。
それでも私たちキリスト者は、一般の方々から見れば、特定の宗教に凝り固まった人たちと見られているかも知れません。 それでも何と言われようと、何と思われようと、何と誤解されようと、(※大きな声で)否定することのできない確信、思い、感覚、感触が私たちの心の中にある。 私たちの神さまは、救い主イエスさまなんだ。だれによっても救いはないんだ。 この方に出会い、心の通い合う生きた関係に置かれているんだ。 こういう意味で、「この方以外には、救いはないのです」と私たちは告白せざるを得ないのです。
ほかの宗教を否定することではありません。 でもイエスさまと出会ったという経験は、紛れもないたましいの事実です。 ペテロが、「だれによっても救いはありません」「だれによっても救いはありません」「ほかのどんなものによっても救いはありません」そのように告白している。(使徒4:12) この「だれによっても」の「だれ」っていうのは、人間ですね。「だれ」っていう言葉は。 でもこれは、神さまを表してはいない。 「この方以外に、だれによっても救いはない」――この答えは、ペテロの心からの確信、つまり宗教ではないわけですよ。 「仏教によっても救いはない」とか「何とか教によっても救いはない」とかいう意味ではなくて、 「イエス・キリストこそが、救われるべき名」(同4:12)であり、イエス・キリストだけが私の救い主であり、私の神さまはほかにはいない。 「だれによっても救いはない」(同4:12)。私たちはイエス・キリストに属する者とさせていただきました。 そういう認識があったから、洗礼を受けたし、でもただそれだけですよ。すべては恵みです。 もうこれ以上表現しようがないです。 だから、今私たちはこうして(※上の方を仰いで、右手を少し挙げながら) イエス・キリストに、イエスさまに礼拝を捧げているんだ。
この恵みは宗教の垣根を超えています。 既に説教篇でお話しして来たように、この恵みはすべての人に必要な普遍的な恵みです。 どんな宗教を信じていたとしても、或いは信じていなかったとしても、 (※大声で)《すべての人に必要な普遍的な恵み》が、 《私たちの救い主イエスさまが、すべての人にこの恵みを注がれている》んです。 だから私たちは2000年前の大胆に説教したペテロと一つになって、いま心から告白いたします。 「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12) 「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(同4:20)
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、救い主であられるあなたは、このような者にも出会ってくださいました。こうして、あなたを礼拝している事実は、私たちが見たこと聞いたことの結果です。それは一方的な恵みです。心から感謝いたします。
イエスさま、あなたの恵みは、キリスト教という宗教の垣根を超えて、あの人にもこの人にもすべての人に注がれていることを信じます。そしてあなただけがすべての人を救うことがおできになるお方ですから、ありがとうございます。どうか私たちの家族も親族も、友だちも隣人も、救い主であられるあなたとの出会いに導いてください。
大型連休までもう一走りの今週の日々の歩みにおいて、人生の旅路を共に歩んでくださっているイエスさまの気配を感じ取る、心のゆとりを持つことができますように。すべての人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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