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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   十戒(9)盗んではならない 
十戒(9)盗んではならない      
    使徒の働き5:1−11

 十戒の8番目「盗んではならない」です。物を盗んではならい、名誉を盗んではならない、権利を盗んではならない、様々なに適用されるこの十戒の戒めですが、今朝は、あえて、霊的な盗みについてお話をいたします。
 聖書の中に、神様が私たちに向かって、あなたがたは私から盗んでいる、盗みをはたらいていると、記されている興味深い箇所があります。そんなことがあり得るのでしょうか。人が神の物を盗むなどと言うことが。いうまでもなく、それはマラキ3:8、9節です。
3:8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。
3:9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
 人が神の物を盗む、というのは献金に関わることなのです。キリスト教会には什一献金という表現があります。英語では、titheです。得るところの十分の一を神にささげる。なんとアブラハムも、ヤコブもこれを実践しています。やがてそれが旧約聖書の律法となりました。それは、このマラキに記されているように祝福への道です。神は感謝して献げる人を、すべてのものを備えておられる神に信頼する人を、存分に祝してくださる、という神様の側の約束なのです。
 しかし、ここで、その献金を怠ったことを、「わたしから盗んだ」と神様ご自身が言われていることには、考えてみなければなりません。なぜ、そのような言い回しをなさったのでしょう?それは、旧約の民にとってもクリスチャンにとっても、生活の神から与えられた贈り物です。いや、私たちが稼いだ、と言うかもしれません。確かに日々努力しているのは私たちです、しかしそのいのちを支え、十分な恵みを与えている神を神とする、それがこの献金の独特な恵みです。
 献げることは独特な恵みなのです。そして、私たちは誰にも強制されることなく、自由な感謝と信頼をもって献金します。しかし同時に、神を恐れることもなく献げるとき、なにか献金を所詮自分に関係のない、一種の会費であるかのように献げるとき、「盗んだ」と言われる神の言葉を恐れる思いも持たなければならないと思うのです。神様は、あえて厳しい物の言い方をなさいました。

 それを、使徒の働きで見てみましょう。私たちは、このアナニヤとサッピラという二人の出来事を読んで身の引き締まる思いがします。同時に、私たちの中の理性的な部分が、「ちょっと厳しすぎるのでは?」と疑問の声をあげます。特に真実を突きつけるペテロの姿です。福音書のペテロは、何度もつまずきながらも、最後はイエスさまを否んで、それでもイエスさまに赦されて、牧者となったではありませんか。あのペテロはどこにいってしまったのでしょう。もちろん、彼の叱責が二人のいのちを奪ったわけではありません。おそらく、アナニヤの死、そしてサッピラの死に一番驚いたのはペテロかもしれません。

事の次第を見てみようではありませんか。

1)まず、アナニヤとサッピラの罪をもう少し丁寧に考えてみましょう。第一にアナニヤとサッピラの行動の背後にある動機が問題です。4章の終わりにキリストを信じた者たちは、愛の共同体を建て上げていったことが記されています。持てる者は持たない者に分け与え、「ひとりも貧しい者はいなかった」と。わけてもバルナバは、持っていた畑を売り払って、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置きます。互いに財を融通する以上の「売り払う」という大胆な行動で、しかも「使徒たちの足もとに置いた」とあるように、人目を引く、話題性にあふれた行動でした。バルナバは自発的にそうしたのであって、彼には何のおごりも高ぶりもありませんでした。
 しかし、5章の1節は「ところが、アナニヤという人は……」とはじまります。あきらかに、アナニヤとサッピラは、バルナバを意識していました。彼らの献げ物は、周囲の賞賛を求める自己中心な思いに支配されていました。
 まず、このことに注意しなければなりません。私たちが献げるとき、仕えるとき、主は私たちの心の中を見ておられます。重ねて、二人は欺きました。彼らは土地を売った代金の一部を自分たちのものにして、残りを神に献げ、しかし表向きは全部献げたと宣言しました。「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」。
 確かに高ぶりから、競争心から、皆の前で賞賛を得たいがために取った行動です。しかし、それは人に対する欺きではなく、神に対する欺きとなるのです。ペテロが指摘するのは、「神への欺き」「聖霊を欺く」「主 の御霊を試みた」と、この献げ物の出来事が、神に対する 盗みであることを強調します。
 アナニヤもサッピラも、なにも神を欺き、聖霊を試みるつもりはなかったに違いありません。最初から、それほど大それたことは考えたいませんでした。しかし、献げ物はすべて神に対してするのですから、それをごまかすことは、神を欺くことになるとは、至極当然のことではないでしょうか。私たちは、この箇所を読む度に身の引き締まる思いがします。
 
2)さて罪の結末――それはなんと最も厳しい結末、すなわち死でした。しかも即座の出来事です。
 5節「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた」。
 10節「彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた」。
 ここで私たちは、ヨシュア記の7章のアカンの出来事を思い出さざるを得ません。ヨシュアの指揮のもと、イスラエルの民はエリコを攻め落とし、カナンの町を次々に征服する矢先の出来事でした。攻め落とせるはずのアイの町の攻略に失敗しました。原因は、神様から処分せよ、といわれた町の財産をアカンがこっそり家に持って帰ってきたことにありました。その罪が発覚した時、アカンは死を免れることができませんでした。
 この二つの記事が似ているというのは、こういうことです。神さまの働きが、まっすぐに進んでいこうとしている大切な時期、いや時期の問題ではないと思います、そのような働きの中で、神を侮る行動は、民全体にとって大きなブレーキとなり、それを排除することが求められました。アナニヤとサッピラの場合もそうです。ペンテコステと共に教会が非常な勢いで成長して行こうとするとき、またすべてが顕著な神の働きであり、その背後に、私財をなげうって互いを支えようとする純粋な、聖なる共同体が立ち上がろうとする中で、神はアナニヤとサッピラを取り除かれました。
 何も死ぬことはなかったのに――確かにそうです。しかし、アカンの場合も、アナニヤとサッピラの場合も、人びとがそうしたというよりも、神がそうなさったのです。ご自身の働きから、つまずきとなる者を排除されたのです。神の物を盗むという、神に対する侮りを、神がどんなに嫌われるか、よくわかります。

3)これをもって、11節「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに非常な恐れが生じました」。私は、これが最も重要なことではないかと思うのです。教会に恐れが広まったというのは、安易な世的な恐れではなかったでしょう。つまり、神様を侮ったらバチがあたるとか、不誠実な行動を神は即座に裁かれるとか、そういうレベルではないと思うのです。
 教会全体と周囲の人びとが、教会の誕生・宣教の働き・教会の成長といったペンテコステ以来の一連の出来事が、まさに神の働きである、ということを再認識したのではないでしょうか。まさに教会の働きは、神の働きであると、みんながうなずいたのだろうと思うのです。人の働きの中では、ごまかし、欺き、私利私欲、偽善、それはみな互いの不和の原因となり、共同体のつまずきとなることでしょう。しかしそれが、死に至るようなことではありません。もちろん程度の差によって、深刻さも違うでしょう。
 世間一般では、アナニヤとサッピラのような行動は、普通に見られることです。こうした出来事の中を、私たちは世にあって平気で踏み歩いているのです。しかし、これが神の働きであるなら、純粋に百パーセント神の働きであるなら、神を欺くような行動を神が見逃すはずはありません。そして、神が教会の成長を願っておられればおられるほど、そのような罪を排除しようと、神はお考えになります。
 私はこのことを一番厳粛に受け止めたのが、ペテロではないかと思います。そして教会全体が、今自分たちがただ中にいる働きは、純粋に百パーセント神の働きであるという自覚に立って、「非常な恐れ」に包まれたのです。それは、神を恐れ、神の働きに関わる自分たちを厳粛に受け止めて、恐れたのです。
 ちなみに、使徒の働きで「教会」という言葉がはじめて出てくるのが、この11節です。教会は愛と慰めの共同体です。神が愛の神であり、神からいただいた愛が教会を包んでいました。教会は神の働きです。その働きの中で、アナニヤとサッピラの献げ物の額は決して小さくなかったと思います。それが用いられたら、多くの人が助けられたでしょう。
 しかし、献げた二人は聖なる神を意識することはありませんでした。教会がキリストの身体であり、教会が何よりも神を恐れ尊ぶ群れであるという自覚が、全く欠けていました。それでは、献げ物にならないのです。全く。額が多くても少なくても、献げ物に最も大切なのは、主よ、私のもてるすべてはあなたの祝福です。私は、あなたのものを盗みません、という厳粛な思いです。

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DATE: 2006.11.11 - 22:29

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田代 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 124.103.118.27
神様を侮っていなかったか?主をあがめます。
2007.01.16 - 17:41 
田代 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 124.103.118.27
心を探っていただき感謝いたします。
2007.01.16 - 17:44 
田代 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 124.103.118.27
神様の御業の前進を拒みませんように、祈ります。
2007.01.16 - 17:50 
dillWrilliops 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.150.142.210
Nice blog )
http://wmshkuctv.com my blog
2013.09.18 - 15:27 
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