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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   07元旦  まさかあなたがたも……
07元旦  まさかあなたがたも……   2007.1.1
    ヨハネ6:66−68

 昨年、私は牧師となって20年を迎え、あるキリスト教の雑誌のインタビューを受けたときに、こんなことを尋ねられました。「人生、何が一番の喜びですか?」「人生、何が一番の悲しみですか?」
 答えに迷いはありませんでした。一番の喜びは、人がイエスさまのもとに救いを求めてやって来るために、お助けをすること。一番の悲しみは、人がイエスさまのもとから去っていくこと。そう考えると、あらためて牧師職の苦しさというものを感じました。それは、この職業の中に、人生一番の喜びと、人生一番の悲しみが同居しているからです。人びとがイエスさまの所に来るのに喜び、人びとがイエスさまの元を去っていくのに悲しむ。いや、それは牧師に限ったことではなくて、クリスチャンならだれもがそういうのかもしれません。
 イエスさまの思いがどれほどであったのかを感じます。ヨハネの福音書6:2は、「大勢の人の群れがイエスに付き従っていた」と始まります。そうして、6章の前半には5千人の給食の出来事がはじまります。男だけで5千人ということは、総勢1万人を越えた人びとがイエスさまのところに集まってきたわけです。イエスさまの働きの中で、もしかしたら一番多くの人を集めていた時期ではないでしょうか。ガリラヤ伝道の最盛期です。
 しかし、それらの人びとが去っていくのです。去っていったのは、群衆だけではありませんでした。66節「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って」。去っていたのは、弟子たちの中にもいた。しかもたくさんいました。「もはや、イエスと共に歩かなかった」とは、残念で、悲しげな表現です。多くの人びとが、失望を口にして、批判のことばを吐いて、一人、また一人と去っていく。去っていくのです。イエスさまは、それを悲しみながら見ておられます。
 朝比奈先生が、若い頃、イギリス人のホーア宣教師のもとで教会学校の教師をしていたときのことを振り返って、こう記しています。
 「ホーア先生は、実に活動的な先生で、教会学校を20校開設しました。しかし、昭和12年頃から、富みに日英関係が悪化し、日本が中国に侵入していったのと歩調を合わせるかのごとくでした。ホーア先生の奉仕にもその陰は、だんだんこく現れるようになりました。右翼の言動に簡単に動かされる人びとの多かった時代ですから、人びとの英国婦人宣教師に対する態度もまた変化するのも当然でした。
 それは教会活動に対する冷たい反応として現れ、ホーア先生が子どもたちを訪ねていくと、子どもが逃げるようになりました。道であっても、彼らは顔を背けるのです。
 あんなに喜んできていたのに、あんなに親しく語り合ったのに。子どもたちは、教会学校にこなくなりました。ある時のこと、小学校の教師たちが引率する百人近い生徒が、ホーア先生宅の前を通ってどこかへ行ったことがありました。その中には、かつて教会学校に通っていた生徒が十数人いました。ところが、これらの生徒が口をそろえて、ホーア先生の悪口を叫びながら、家の前を通るのです。ホーア先生は、何も言わずに静かに彼らを窓から見送っていました。」

 先生は悲しげだった。悔しかっただろう。でもそれ以上に、悲しかったでしょう。それは言うまでもなく、それを見ていた朝比奈先生も悲しかった、それを読んだ私も悲しかった、それを聞く皆さんも悲しい、しかしそれ以上に、イエスさまには悲しいのです。
 その時、イエスさまはおもわず、一二弟子におっしゃいます。67節「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょうね。」弟子の中心です。寝泊まりもいっしょにしてきました。イエスさまといったいでした。重荷をいっしょに背負い、喜びもいっしょに味わってきました。まさか、あなたも……主のこの声を、私たちも聞いているのです。高津教会は主の元に集まり、主に養われ、主に導かれ、育てられてきた羊の群れです。多くの人びとが来て、去っていくでしょう。それは主の悲しみです。
 しかし、それらの多くの群衆を越えて、「まさか、あなたもまた、あなたは大丈夫でしょうね。あなたは最後まで留まってくれるよね、どんなことがあってもあなたを信じているよ」――というのは、あの一二弟子に尋ねられた、特別な愛の質問です。
 その時、ペテロは告白することができました。ヨハネの福音書における、ペテロの信仰告白です。68節「主よ、私たちがだれのところに行きましょう」。イエスさま、私たちは離れません。いつまでもあなたと共に歩きます。いっしょです。私たちはつまずいていません。
  それが、今年の私たちの信仰告白です。「主よ、私たちがだれのところに行くというのです。あなた以外に、私たちが信頼を傾けるお方はいません」あなた以外には。
  
 さて、いかなる確信に基づいて、ペテロはこの告白ができたのか、それを2点、心に刻みたいと思います。

1)あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。第一に、主よ、あなたがだけが、永遠のいのちを持っておられます。永遠のいのち、これが弟子たちの関心事でした。振り返って、人びとがイエスさまにつまずいて、去っていった理由は何だったのでしょうか。34節「そこで彼らはイエスに言った。主よ。いつもそのパンを私たちに与えてください。」彼らの関心はパンです。
 おなかを満たしてもらうために、イエスさまの御業を奇蹟を見たいがたために、主の所に集まりました。確かに、地上の生活でパンはなくてはならないものです。それは生活の必要であり、日常の祝福であり、私たちが一年を通して必要としているパンです、お金です、健康です。
 人びとはそれに群がりました。そうして群がってきた人びとに対して、主は35節でこうおっしゃいます。「わたしがいのちのパンです。あなたが本当に必要としているのは、わたしなんだ」とおっしゃったのです。
 イエスさまは、少々ショッキングな、象徴的な表現を使われます。56節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」。この時点で、弟子たちさえも、この言葉の意味することはわからなかったでしょう。やがて十字架の上でさかれる主の身体、流される血潮、その十字架の恵みを受ける聖餐の意味がわかって、はじめて、この56節の言葉が理解できるのです。
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」――そんな、人の肉を食べ、人の血を飲むなんて、そんなあり得ないことを、この方はなぜ言うのだろうか?それを理由に人びとは去っていったのでしょうか。いや、彼らは文字通りに受け取ったわけではないでしょう。
 人びとがつまずいたのは、「わたしがいのちのパンです」というイエスさまのことばです。みなの関心は、もっと肉的なこと、この世のことにありました。この世の幸せ、健康、仕事の成功というパンに、みなの心はあったのです。
 みなは、イエスさまが与えてくださる数々の奇蹟に心を向けますが、その霊的な存在には無関心でした。ですから、「わたしがいのちのパンです。わたしがあなたに永遠のいのちを与える」と言われると、まったく意味が通じないのです。

 世界で何が見てみたいか、といわれたら、エジプトのピラミッドです。何しろ、アブラハムも見ていたのですから、見てみたい。4千年たった後でも、解明できない、緻密な計算と計画を持って立てられたピラミッドです。一説によれば、1万人が工事に携わって40年はかかるそうです。
 不思議ではありませんか。古代エジプト文明で、現代に残っているのはピラミッドにかかわるものだけですよ。当時の王は、どうしてそれほどの労力をかけて自分の墓を作ったのか。そんな財力があったのなら、どうして、人生を他の形で楽しまなかったのか。王宮や別邸や、宝石や、ソロモンは、自分の墓には関心がありませんでしたが、自分の家と事業と生活に人生をつぎ込みます。
  そんなソロモンと私たちに対して、エジプトの王がメッセージを持っているとしたら、こうだろうと思います。「なぜ、私がそれほど墓にこだわるか、わかるか?人生、死のこちら側より、死のあちら側の方が、はるかに長いんだぞ。こちら側は一時、あちら側は永遠だ」。この世のパンを血眼になって求めるあなたは、どうして永遠のいのちにつながる、たましいのパンをないがしろにする?
 肉のパンを求めて、イエスさまの元を去っていく人びとに言いました。63a「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」本当に大切なのは、まことのいのちを与えるのは、日常のパンではない、わたしの御霊だ。そして、63b「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。パンではない、わたしのことばが、霊の糧となってあなたにまことのいのちを与える」。

2)絶対に、あなたのもとを離れません。どこにも行きません。なぜなら、あなたは永遠のいのちの「ことば」を持っているからです。
 主は、永遠のいのちを持っておられ、それを言葉として私たちに差し出されます。そして主のみことばは、私たちを導き、救い、祝福し、永遠のいのちを与えます。みことばは、純粋です。剣のように鋭く私たちのたましいを突き、密のように甘くて私たちを励まし力を与えます。
 そのみことばを、礼拝でいただくだけでなく、もし毎日の生活の中でいただくことができるなら、いのちのパンを日々の糧として食することができるなら、私たちの人生は、どんなに複雑でも、永遠に滅びることのない神の言葉の上に建てられていきます。
 人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる一つ一つのことばによって生きる。その一つ一つのことばは霊のことばです。霊の力を持ち、霊の糧となって、私たちを神の国を相続する者として育ているのです。永遠のいのちのことば、これを求めて、私たちは主の元を離れません。

 数年前、私は礼拝で、ラビ・ゼカライアスという説教者のコメントを紹介しました。彼はインド人で、実に雄弁な、私が最もひかれる説教者です。彼はある日、オハイオ州立大学の講演に招かれ、空港から会場へと車にのって移動しているとき、キャンパスの中にある有名な、ウェクスナー・アート・センターという建物が目の前に広がった。大学が誇る、芸術的な建造物です。大きな柱は、何かを支えているわけではなく、階段はどこかに行き着くわけでもなく。建物の構造は、外から見ると規則性がないのです。何かを目指すわけでもなく、どこかに行き着くわけでもなく、秩序を失ったこの世界を象徴するような建物だというのです。
 私は、インターネットで確認しましたが、まさに行き先のわからない、規則性がない現代社会を象徴するような建造物です。ゼカライアス先生は、運転をしてくださっている大学の方に尋ねたそうです。「あの建物は、土台の部分もあんな感じなんですか?」そうしたら、その方は、笑って答えたそうです。「そんなわけないじゃないですか。土台はいたって古典的ですよ」。
 それを聞いて、ゼカライアス先生は、なるほどと思ったというのです。私たちの人生という建物は複雑です。時にあらぬ方向に発展して、階段を上がったつもりがどこにも行き着かず……。私たちは誰一人として、整然と秩序だった人生を送ってはいません。迷うこともあり、傷つくこともあり、病むこともあり、行き詰まることもあります。人が見たら、奇妙な建物だと思えるほど、私の家は、信仰生涯は混乱しているかもしれません。
 しかしそんな私たちですが、私たちの人生の土台は、いたって古典的です。主が与えてくださる言葉を人生の糧として、真理の剣として、永遠のいのちに至るわが足の灯火として、私たちはみことばを最も尊びます。一見、私たちは目に見える建物に必死です。仕事に家庭に奔走し、過去を振り切ろうと、将来を保証しようと、賢明です。しかし主よ、いつの時代も、どの文化にあっても、クリスチャンがいつもそうであったように、私たちはみことばを土台として生きていきます。あなたが与えてくださる永遠のいのちの言葉、それを求めて、あなたのところにやって来ます。


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DATE: 2007.01.22 - 21:56

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イエス様の笑顔がいつも見えますように、命のみ言葉をいつもいただけますように。
2007.01.27 - 11:29 
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