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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   Uサムエル7:1−17 はかりしれない神の恵み
Uサムエル7:1−17 はかりしれない神の恵み

 サムエル記を礼拝で学び始めて3回目になります。6章から始めました。ダビデが、王となり、都を定め、敵を制圧し、次に願ったことは、神の臨在の象徴である契約の箱を、生活の真ん中に呼び戻すことでした。人生の祝福は、神によることをダビデは知っていました。神の臨在の現れである契約の箱を迎えることこそ、国家にとっても民にとっても自分にとっても第一にすべきことだ、という信仰がありました。
 先週の6章の後半で、ダビデは麻の生地でできたエポデという、祭司の、神を礼拝する装束を着て、契約の箱を運び上りました。イエスラエルの人々みんなにおみやげを持たせて、その喜びを共に喜ぶことを願ったのがダビデでした。
 今日は7章です。王となり、国が平安にまとまっていったときダビデはその神さまへの感謝を形にしようと思います。
2節「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」
 5:11に、この王宮を建てたのは、ツロの王さまヒラムであったことがわかります。ツロの名産の杉材を使った立派な王宮に住んでいました。ダビデは今、神さまが与えてくださった数々の祝福に感謝して、運び上った神の箱のために、神殿を建てようと願っているのです。それを預言者ナタンに話しました。ナタンはほとんど何も考えず、それが正統な当然なすばらしいアイディアだと思ったのです。ところが、神さまは「ノー」とおっしゃるのです。

1)当然、「イエス」とおっしゃるだろうことに、神さまの「ノー」もある、ということです。
 この出来事から、私たちは、祈りの中で主の御心の深さを探る努力をしなければならないということを、あらためて考えさせられます。神の人ナタンに相談しても、「大賛成です」と即答えが返ってくるような願いです。にもかかわらず、その晩、神さまの答えは「ノー」でした。神さまの御心探るのに、慎重であり、かつ祈り深くなければいけない、と思います。
 表面的に常識的に信仰的に、どんなに理にかなった話しでも、神さまが「ノー」とおっしゃることはあるのです。だとしたら、私たちの行動は慎重であり、ゆっくりであり、いつも主の御心を尋ね、探り、祈り深くならなければならないでしょう。同時に、神の「ノー」に備えているべきです。

2)では、なぜ神さまは「ノー」とおっしゃったのでしょうか。
 T歴代二八・三には次のようにあります。「あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あ なたは戦士であって、血を流してきたからである」。しかし、理由をこの物語から、より深く読み取ることができるのではないでしょうか。
  ダビデは、神さまに感謝したかったのです。そして、私たちは通常、感謝をどのように理解しているでしょうか?ちょっと考えてみましょう。常識からすれば、誰かから何かの恵みを受けた者は、それに感謝を表し、自分も相手のために何かをしようとするのが当然です。何らかのお返しは当然です。しかし、これは時に複雑です。
 私たち夫婦は、高津教会で牧会をして21年目です。振り返ってみて、私たちの心を刺し、反省させられ、考えさせられる出来事がありました。それは、娘が中学二年で心臓の手術をしたときです。手術の可能性は、小学生から言われていました。しかも愛香は元気です。しかし、先天的な疾患で、今しかない、と決意して高橋正義兄姉の紹介で東京女子医大に入院して、
 みなさんに手術の報告をいたしました。皆さんは祈ってくださり、そして、多くのお見舞いをくださいました。中には、手術の費用のためにと、多くのお見舞い金をくださった方もいらっしゃいます。自分の子どものことのように心配してくださる皆さんの愛に、どんなに感謝してもしきれない、現実でした。手術は、かなり国や県の助成金がありました。
 無事終えて、私たちは大変悩みました。特にたくさんいただいた方には、どのようにお返ししたらいいのだろうか、と。最終的に、私たちが取った決断は、日本の良識にしたがった、お返しでした。お返しを受け取った方は、みな一様に、とまどっておられました。そんなことは無用だ、そんな意味でお渡ししたのではない、と。
 私たちは、後になって、あのときの良識的という考え方が、間違っていたのではないかと思うようになりました。私たちはこれだけのものをいただいた、だからこれだけのものを感謝としてお返ししなければ、という発想は、教会では無用だったのではないかと。いや、それ以上に信仰理解において間違っていたのかもしれないと思うようになりました。与えてもらったから、お返しする、というは恵みの世界では、やはり傲慢です。
 ダビデが神の箱のために神殿を建てたいと申し出たのに、そのような「お返し」的な発想があったのではないでしょうか。

3)さらなる祝福
 神殿を建てるというダビデの願いを、神さまは拒絶されました。神さまは、ダビデの感謝の奥にある危険性を指摘されます。しかし、神さまはダビデの感謝の心を否定されたわけではありません。あなたは神殿を建てなくても良い。わたしに恩返しするという立場に、あなたはいない。わたしの恵みはそんなちっぽけな物ではない。それがあなたにわかるように、わたしはあなたを祝福で圧倒する、そうおっしゃいました。
 ダビデが、「あなたのために家を」と願ったのに対して、神さまは、「いや、わたしの方があなたのために家を造る」とおっしゃいました(11節の最後です)。神さまがおっしゃった家とは、建物ではありません。それは、ダビデの家を王家とする、というのです。16節「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」
 これまでにも大きな恵みを与えてくださった神さまが、ダビデの小さな、未熟な感謝に、さらに大きな恵みを与えて下さのです。ダビデの願いに「ノー」と言われます。しかし、その上でさらに大きな恵みを与えると言われるのです。
 ある若い女性が、宣教会に出席して、宣教師たちの証しを聞きながら、自分も将来は宣教師なりたいという大きな志を得たという話を聞いたことがあります。彼女は祈って、その思いを育て、大学で聖書を学び、そしてとうとう宣教師になりました。宣教師として、アジアの国に派遣される、わずか2週間前に、なんとお姉さんとそのご主人を交通事故で失います。気がついてみたら、そこにはお姉さんの二人の小さな子どもたちが残されました。
 両親はいません。姉の子どもたちをホームに入れることはできませんでした。彼女は、宣教地に行くことを断念して、二人の小さな子どもを引き取り、仕事を見つけてきて、働き始めます。そして、宣教師になる道を断念します。それは、神さまの「ノー」だったのかもしれません。自分は働き、子どもたちを学校に行かせ、教会でも奉仕をし、宣教師たちを背後にあって支え、母国にとどまりました。複雑な思いでした。でも、それ以外に道がなかったのです。
  しかし、彼女の人生は最後に大きな祝福を得ます。姉夫婦の変わりに、親となって育てた二人の子どもたちが、宣教師になっていくからです。
 人の願いは小さな者です。時に、何を願っているかもわからないような、ちっぽけな者たちです。しかし、神さまの恵みはいつも大きい。神さまの祝福は、乏しいことがありません。私たちの小さな願いが、「ノー」と拒まれたとしても、神さまは私たちを拒んでいるのではありません。さらに大きな祝福を備えておられることを、私たちは信じます。

4)感謝の中の感謝
 さて、そのことに気がついたダビデは、感謝の中の感謝、感謝の真髄に到達します。
 7:18 ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。
 7:19 神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。
  彼は、圧倒的な恵みを前に、感謝の中の感謝に到達します。それは、何をもって主に報いることができよう、ではありませんでした。何をもってしても応えることができないほど、自分は乏しい、小さい、弱い、ということを自覚したのです。少年時代にゴリアテを倒して人気者になり、人々にもてはやされます。サウルにいのちをつけねらわれて、荒野を逃亡したときでさえ、彼は人気者でした。最終的に4百人の部下を連れて、荒野を逃げおおせます。今ではイスラエルの王です。そこには彼の天性の賜物がありました。性格も能力も秀でていたのです。その彼が、都を定め、王宮を建ててもらい、敵を制圧し、そこそこの働きをしているのです。その彼が、ひとかどの人物に成長した彼が、主のために何かをお報いしたい、というのではありません。
 ダビデはここで、感謝の原点に帰ります。私が、いったい何者だからというので、私の家が何であるからというので、いや、何者でもない、何でもない、ほんとうに乏しい、ほんとうに貧しい、何の力もない私です、と、彼は感謝の原点に帰ります。
 そして、そんな自分を圧倒する、神の恵みをあるがままに受け止めるのです。「神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足らない者でしたのに、あなたは……」。ダビデは、言います。「神、主よ。これが人の定めなのでしょうか?」あなたに選ばれたとしか、いいようがない。それほど、あなたは私を大事にしてくださいました。何者でない私を顧みてくださいました。乞食の手のような感謝です。見返りに差し出すものは、何一つなし。ただただ、あなたに感謝し、あなたについてまいります。
 別の言い方をすれば、神様の恵みに対して、「アーメン」と言うことです。「本当にその通りです」「アーメン」といって、主についていく、それ以外に道はありません。ダビデにとっても私たちにとっても。

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DATE: 2007.05.14 - 11:24

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