名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


162 214 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   fujimoto
Subject   Uサムエル9:1−13(あなたに恵みをほどこしたい)
 
    Uサムエル9:1−13

 シリーズでサムエル記第二から学んでいます。ダビデは、神さまから、多くの祝福を受けてきました。お返しに神殿を建てたいと願っても、到底それがお返しはならないことに気がついたダビデです。神さまは、あなたがた私のために家を建てるのではない、私があなたの家を確立する、そうおっしゃいます。神さまの恵みを前にして、何もお返しする物を持っていない自分、小さく取るに足りない、神の御前に何の価値もない自分を悟ります。その上で、乞食の手のような感謝、ただ遜って恵みを受け取ることしかできない、という感謝の真髄を理解します。
 そして、恵みと憐れみに満ちておられる神の前に座したダビデは、祈る勇気を得たのです。私を祝福してください。祝福をいただく資格も価値もありません。しかし、愛と憐れみに満ちておられるあなたを仰いで、私は勇気を得ました。私を祝福してください。
 今朝見ていただくのは、そのように神さまの恵みと憐れみに満たされたダビデが、メフィボシェテという人物に、憐れみをかけている場面です。神さまも憐れみが圧倒的であったように、ダビデがメフィボシェテにかけた憐れみも圧倒的でした。赦されている者が、赦すことができる。愛されている者が、愛することができる、ということなのでしょう。

  メフィボシェテは、イスラエルの第一代目の王サウルの孫、ヨナタンの子どもです。サウルは戦いで倒れます。同時に息子ヨナタンも命を落とします。サウル死去のニュースが、サウルの王宮に届いた瞬間、王宮はパニックになる。悲報が王宮に入ってきたとき、生まれたばかりのメフィボシェテを抱いていた乳母は、あわてふためいて、彼を床に落とします。実に不運の出来事でした。両足を骨折した男の子。彼には何の責任もないのですが、彼の傷は癒えませんでした。その彼が、ダビデによって捜し出されて、ダビデの、王の食卓で食事をするように招かれるという場面です。

1)ダビデが、メフィボシェテに向けた思いを見てみましょう。
 1節:生き残りは「だれかいないか」。だれか、ということは無条件に:生き残りがいたら、その者に恵みを施したい。助けて、今後の益になりそうな者はいないか、というような質問ではありません。
 そこへ、ツイバという以前のサウル家のしもべが連れてこられた。3節のツイバの答えを、もう少し肉付けして言うと、こうなります。「王様、いるにはいるのですが、果たしてあなたの願いにかなうかどうか。何しろ、足が不自由でして、ちょっとふさわしいとは思えません。」  
  しかし、「足が不自由」というのは、ダビデの耳には入りません。そうか、いたか、いるのなら連れてきてくれ、どうしても、私は彼に恵みを施したい。「恵みを施したい」というダビデの熱意です。一節、三節、七節、と何度も繰り返されています。
 ダビデがこうしてメフィボシェテを見ている目、それが神さまが私たちを見つめているまなざしです。神が私たちを見いだして、私たちを御自身の食卓に招いてくださる理由は?
あなたに恵みを施したい!私たちが立派にやっているから、そのご褒美ではないのです。私たちが恵みにあずかる価値があるからでもない。
 イエスさまはおっしゃいました。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができる」。あらかじめ招待していた客がいたのです。宴会の準備が整ったところで、しもべを遣わして、さあ、食事の用意ができました、と招くのです。ところが、その客たちは「気にもかけなかった」と記されています。
 そのとき、王は言います。
「王通りに行って、出会った者みなを皆宴会に招きなさい」
出会った者をみな――どんな人と出会ったのだろう?どんな人でもいいです。
 背景にあるのは、王の熱意、招いてくださる神の熱意です。そして招いた目的は一つ:祝福を与えるためです。
 
2)恵みに招かているメフィボシェテを見てみましょう。
 それは、招かれている私たちの姿です。メフィボシェテは、「ロ・デバル」という地に住んでいました。4節「ロ・デバル」:不毛の地・・・寂れた、荒野の村という意味です。サウルの王家の者たちは、根だやしにされる恐れがあります。メフィボシェテは、陰を潜めて、寂れた村で生き延びていた。
  見つけられたくない、隠れていたい・・・荒れ果てた地に、隠れるように生きていたメフィボシェテ。その彼は、自分のことを指して言います。八節「この死んだ犬のような私」。死んだ犬――あまり目にしなくなりました。子どもの頃に野良犬が良く、道路で引かれていました。気持ち悪い、かわいそうと思いますが、道路でひかれたままです。死んだ犬を顧みる人など、いるのだろうか?かわいそうに思うでしょう。哀れには感じるでしょう。しかし、それを顧みる人はいるのだろうか?
 どうして、メフィボシェテは、自分をそのようにたとえたのでしょう?――考えさせられます。サウル王家の生き残りですから、いのちがねらわれると考えていたのでしょう。ひっそり隠れて、だれの目にも留まらず生きてきました。加えて、彼が自分を「死んだ犬のようなもの」と呼んでいるのには、自分を見る目があるのではないでしょうか。自己評価の低さです。だれも信頼できずに、逃げて、隠れて終わる一生です。いったい自分の人生に何の意味があるのだろう。
 昨年の年末感謝会のフェローシップで、クリスマスに長岡教会で洗礼を受けた山田君が、クリスチャンになった証しをしてくださいました。 感動的でした。毎週座間から礼拝に来ていました。いつも二階に座って、無口で、さっと帰って行きます。感謝会の午後も、証しに緊張して、ご飯ものどを通らず、緊張して原稿を見ていました。しかし、それは勇気にあふれた証しでした。家庭環境はあまり恵まれず、中学高校と、育ってきた環境を理由にあらゆる挑戦から逃げてきた人生だった。逃げて隠れて、だれも信頼できない、どこにも向かっていくことができない、そんな思いだったのでしょう。
 イエスさまは、そんな自分を愛し、祝福し、挑戦する勇気を与えてくださった。1年かけて長岡で受験の準備をし、大学に挑戦する、という証しでした。自分が自分をどう見ようと、神さまは自分のことを、「死んだ犬」とは見ていなかった、ということでしょう。
 メフィボシェテが受ける祝福は、独特に表現されています。
7節「あなたは、いつも私の食卓で食事をして良い」
王の家族として、迎えられました。食事だけはないのです。王の息子として迎えられているのです。
 13節「メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王 の食卓で食事をした。彼は両足がともになえていた」
この節と前半と後半は対象を描いています。前半は彼が受けた特権、そして後半は彼がその特権を受けるにふさわしくないものであったこと。
 本来ふさわしくないものが、神の都エルサレムに住み、いつも、いつも王の王であるイエス・キリストの食卓につくことを許されているのです。主イエス様を中心とする、神の国の食卓を想像したら、私たちはどの人物に当てはまりますか。そこにはアブラハムもいる、パウロもいる、モーセもいる。そこには、教会の歴史に名を残した多くの聖徒たちがいる。しかし、それに混じって私たちもこの食卓に連なることができるのです。信仰が一向に成長しない私も、時に自己卑下に陥る私も、いつまでたっても一人前になれないと思う私も、いつも、王の息子の一人のように、神の国の食卓につくのです。

3)なにゆえ、でしょうか。
 1節「私は、ヨナタンのために、そのものに恵みを施したい」。
 ヨナタンのゆえです。かつて、ダビデがサウルにいのちをねらわれてたとき、息子ヨナタンはダビデを愛し、ダビデもヨナタンを愛し、二人は約束をしました。
Tサムエル20:14ー16「もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。
  ダビデの人間味、王としての資質、彼の魅力、それはこういうところに現れているのです。彼は神のあわれみを受けて、憐れみ深い人となった。確かにそうです。しかし、それ以上に彼は約束に真実な人でした。自分が立てた誓い、自分が関わった契約に真実な人でした。 
 旧約聖書で、神には往々にして恵みと真実という二つの形容詞でたとえられています。私のようなものに、死んだ犬のような者にも憐れみを施して、祝福してくださるのが、恵みです。そして、そうするとおっしゃった契約を、どんなことがあっても貫いてくださるのが、神さまの真実です。
 神さまは、どんなことがあっても、私を見放さず、本来 神の家族に相応しくない私を、祝福のテーブルに招いてくださいます。ダビデにとってはヨナタンのゆえでした。父なる神さまにとっては、イエス・キリストの十字架の故です。その真実は変わりません。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2007.07.07 - 23:26
LAST UPDATE: 2007.07.07 - 23:28

221.114.25.26 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)

Name   E-Mail   Password

 前文 Uサムエル11:1−15(ダビデの罪と罪...
 次文 Uサムエル7:18−29(祈る勇気を得た...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書く検索目録を見る。... *^^*

チェックされた全文書を見る
150Simple view *^^*Uサムエル11:1−15(ダビデの罪と罪... [1] fujimoto 2007.07.07 4279
149現在参照中の文章です...Uサムエル9:1−13(あなたに恵みをほ... fujimoto 2007.07.07 5849
148Simple view *^^*Uサムエル7:18−29(祈る勇気を得た... [1] fujimoto 2007.07.07 9865
147Simple view *^^*Uサムエル7:1−17 はかりしれない... fujimoto 2007.05.14 6371
146Simple view *^^*畏れを欠いた信仰 [5] fujimoto 2007.04.26 1156
145Simple view *^^*教会(2)キリストの身体の建て上げ [692] fujimoto 2007.01.26 18920
144Simple view *^^* 教会(1) わたしはまことのぶどうの木 [389] fujimoto 2007.01.26 3288
143Simple view *^^*07元旦  まさかあなたがたも…… [1] fujimoto 2007.01.22 7176
142Simple view *^^* 十戒(9)盗んではならない  [4] fujimoto 2006.11.11 15102
141Simple view *^^*十戒(8)姦淫してはならない [4] fujimoto 2006.11.11 20175
140Simple view *^^*十戒(7)殺してはならない [21] fujimoto 2006.09.29 7421
139Simple view *^^*十戒(6)「父と母を敬え」 fujimoto 2006.09.29 6151
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*